職員室から教室までは、高さは一階層分、廊下はほぼ端から端までの距離。放課後で歩く生徒さんが碌にいないことをいいことに、全力で走り抜けます。
ハンナさんが一緒であれば『廊下は走んな、ですわよ!』だとか『ちょ――っとシェリーさん、手を引いて走り出さないでくださいまし!』だとか聞こえてくるのでしょうが、そのハンナさんを教室でお待たせている以上、急がないという選択肢はありませんでした。
「すみません、ハンナさん! 先生に捕まってしまいましてお待たせしてしまい――」
そして、教室に飛び込んだ私の目に映ったのは。
「ハンナ、さん……?」
机に突っ伏す、ハンナさんの姿でした。
ちょうど教室の真ん中の、前から四列目。綺麗な金色の髪の毛が、机を経由して下の方に垂れているのが見えます。そしてその金色は、窓から入ってくる風で、静かに
――寝ている、のでしょうか……?
静かにハンナさんの元に近づくと、すぅ、すぅ、と静かな寝息を立てているのが聞こえました。
どうしてかは分かりませんが、ほっとするのと同時、ざぁっと外から強い風の音が聞こえ、カーテンが大きくはためく音がしました。
「――――」
その音をきっかけに、外からの音も聞こえるようになりました。部活動に勤しむ人の声と、何やらボールを打つ音、何かの管楽器の音。そして、風がそよぐ音。
ハンナさんの正面――私の椅子に逆向きになって座って、背もたれの部分に腕を乗せます。私が座っても、じぃっと眺めても、風が吹いても、外から音が聞こえても、ハンナさんが起きる気配はありません。すぅ、すぅ、と腕を枕にして、寝息を立てるだけ。
静かな、安らかな寝顔はとても可愛らしくて、ずっと見ていたくなって――。私は、ハンナさんの寝顔を眺めることにしました。
さらさらと、風が吹く音がして、その度にハンナさんの金色の髪が静かに揺れます。
金色の綺麗な髪の毛が、夕陽のオレンジ色に染まって、より、きらきらと輝いて見えました。
「……綺麗、ですね…………」
気づけば私は、その髪の毛を掌に載せていました。金色は私の手の上でも、変わらず、きらきらと輝いています。ハンナさん自身と同じように、きらきら、きらきら。
髪の毛の一本一本が、輝いて見えて、眩しく見えて。そして、愛おしく思えました。
――シェリーさんの髪の毛は、本当に綺麗ですわよね。
ふと、ハンナさんの声が聞こえた気がしました。
顔を上げるも、ハンナさんは机に突っ伏したまま。起き上がる気配はなく、すぅ、すぅ、と静かに背中が上下しているのが見えます。――どうやらハンナさんは、本格的にお疲れのようです。
そもそも、ハンナさんがここで待ってくれているのは、私が日直のお仕事をすっかり忘れていたから。ハンナさんが教えてくれなければ、完全にすっぽかすところでした。ハンナさんのおかげで、先生からお小言を頂くくらいで済みましたが。
ここでカバンから文庫本――中身はもちろん推理小説です――を取り出してもいいのですが、ふと、私の頭に浮かんだことを、実行してみたくなりました。
ハンナさんの二本に結んだ髪の毛をうちの一房を、自分の方へと持ってきて。そしてそれを、三等分に手の中で分けて。そしてそれぞれが交互に組み合わさるように、結っていきます。
ハンナさんが私の髪の毛を結う時には、手の動きに迷いがまったくなく、すいすいと結っていたものなので、事前に編み方を調べたことがある私ならできるでしょう、ハンナさんの髪は長いですし――と思ったのが、甘すぎました。
髪の毛を結うこと自体は、できます。けれど、寝ているハンナさんに気づかれないように、というのが難しい。ちょっとでも髪の毛を引っぱってしまって、ハンナさんの頭を動かしてしまえば、きっとハンナさんは起きてしまいます。せっかく気持ちよさそうに寝ているのに、私がそれを邪魔することになってしまう。それはダメです。
だから、ゆっくりと、丁寧に、結っていくしかなくて――。
地道な作業です。ひとつひとつ、丁寧に、結っていきます。窓から聞こえる、ぷあー、一音ずつ高くなる吹奏楽部のロングトーン一つが終わる度に、一房が結われる。そんな速度。ハンナさんと一緒に歩くくらいの速度で、ゆっくりと、ゆっくりと、ひとつずつ、結っていきます。
「…………ん」
ハンナさんの髪を編み込んでいく中、外からの土や風の匂いに混じって、ハンナさんの髪の優しい匂いが、微かに漂ってきます。静かに、静かに、ゆっくりと、ひとつずつ。ふわり、ふわり、ハンナさんの香り。思わず、口元が緩みます。
ハンナさんの髪の毛の感触は、ふわふわで、さらさら。手に感じる度に、胸が温かくなる感じがあります。胸がどきどきとする感じがあります。
これが、私の中でのどういった感覚なのかは、分かりません。
――こっそりとハンナさんの髪を弄っているという、イタズラ心?
――ハンナさんの寝ている姿を私しか見ていないという、独占欲?
――ハンナさんの髪に触れて、ハンナさんを感じているという、嬉しさ?
どれなのでしょうか、正確な答えは、やっぱり、出てきません。
それでも、一つだけ。
ハンナさんが愛おしいという気持ちだけは、確かだと思えました。
だって、私の口元は、どうしようもなく、緩んでるのですから。
ハンナさんが毎朝私の髪の毛を結っているとき――姿見に映るハンナさんと時々目が合います。その時のハンナさんはいつも、いつもいつも、優しい顔を浮かべています。
――私の髪を結うときのハンナさんも、こんな感覚なんでしょうか。
――私のことを、愛おしいと思ってくれているのでしょうか。
ふと、聞きたくなりました。ちょうど、ハンナさんの右側の髪の毛を結い終わった所なので。
ここから私とお揃いの髪型にするもよし。左側の髪の毛を同じように結うもよし。
さて次はハンナさんの髪をどうしましょうか、と思いは、しましたが。
「…………ハンナさん」
私の口は、考えるよりも先に、動いていました。
その後に、私の思考がたどり着いてきました。
――私は、ハンナさんとお話したい。ハンナさんと一緒に手を繋いで帰りたい。起きているハンナさんに触れていたい。
そう、思ってしまいました。……今日の私は、わがままかもしれません。
ハンナさんが起きるまで待とうと思ったのに、起きてるハンナさんに会いたくなったから――だなんて、起こされた理由を聞いたら、呆れられちゃうでしょう。
……でも、そう思ってしまったのも、少し、寂しいと思ってしまったのも、どちらもどうしようもない事実、なので。
「ハンナさん、起きてくださーい」
いつもの、何も考えずに出る声ではなく、囁くような声なのは――ハンナさんを驚かせないように、という思考が働いたからでしょうか。ハンナさんの髪に長く長く触れていたという嬉しさで、頭がふわふわとしている自覚があります。
「…………起きないと、…………ちゅー、しちゃいますよー」
――ハンナさんが寝てるのをいいことに言いたい放題ですね、私。頭の中で、冷静な私が指摘しますが、無視です。無視。
囁いても、反応は、なし。
「ハンナさーん」
最後に、もう一言。
起きる気配は、なし。
念のため周りを見る。誰もいない。放課後なので当然ですけど。
ハンナさんの前髪を、静かに上げて。
「…………んー、」
――そういえば。
お姫様の眠りを覚ますキスってのがありましたね、と思いました。
ハンナさんは、気高くてどんなときも自分を強く持てる、心優しいお姫様。
ならば、キスをする私は――どうなんでしょうね。聞いてみたら、どんな反応をしてくれるのでしょう。
……きっと、ジト目で言われるんでしょうね。
『まーた変なこと言い出しやがりましたわよ、コイツ……』
そう言って、ため息を吐きながらも、笑顔になるのでしょう。
答えを返してくれてもいいですし、はぐらかされてもいいと思っています。私はただ、ハンナさんと一緒にいられれば、それで充分なんですから。
――これも言ったら、照れられるんでしょうか。
だなんて、ハンナさんのことを考えていたら、やっぱり、その声が聞きたくなりました。起きているハンナさんに、会いたくなりました。
だから、私は――――――。
◇◇◇
ハンナさんのおでこへ、静かに、口づけを落としました。
「起きてください、
授業が終わった後の放課後。
外から部活動の音が聞こえるオレンジ色の教室って、なんかいいよね。
シェリハンの二人は、時にはこんな静かな時間を過ごしていてもいいと思います。