「…………いき、てる……」
聞こえたシェリーさんの声に、眠りのまどろみから急に意識が浮かび上がっていく気がした。
感じるのは、手に触れられる感覚。掌や、指じゃなく、手首。
手首の内側に触れられて、しばらく経ってから静かに嘆息するのが聞こえる。
その手つきはどこかぎこちなくて、おどおどとしていて。いつもの、わたくしの手を引っ張って行くときの雑さと勢いは、どこにもない。
思い出してみると、聞こえて来た声も、静かな――というか、弱々しい声で。
――一体、何を見たんでしょうね、
今ここで目を開けることも簡単だし、すぐに問い詰めることだってできる。……でも、シェリーさんがわたくしの手を大事そうに大事そうに優しく両手で包み込むものだから、なんだかそれを邪魔するのもどうかと思ってしまって。
胸の中にドキドキが浮かんでくるのを抑えて、わたくしはなされるがままにするのを決めた。
シェリーさんは、わたくしの手を包んで、撫でたり、擦ったり、添えたり。いつかに興味津々にわたくしの手を弄んだときとはうってかわって、繊細な手つきだった。そしてシェリーさんは触れるだけで、それで遊んだりは、しない。
もし手にキスしてきたりしようものなら、きっと反応してしまうのだろうけれど――。
「…………、」
キスされることが思い浮かんだせいで、手が動いてしまった。ほんの微かな動きだったのだろうけれど、シェリーさんの手の動きが止まるのが分かった。
もう寝たふりはできませんわね……、と覚悟を決めて、目を開く。
シェリーさんは私の手をまじまじと見つめていた。その目はまるで――ダンボールに入れられて、飼い主に置いていかれた仔犬のようで。声をかけないという選択肢は、わたくしにはなかった。
「なーにしやがってんですの」
ただの声かけだったら、シェリーさんを驚かせてしまうから。元通りのシェリーさんに戻すために、あえてケンカを売る。
ハッとしてわたくしの方を見るシェリーさんは、それまでの仔犬の顔から、笑顔を装った顔になる。――それで隠してると思ってるんなら、舐められたもんですわね。
「…………、ハンナさんの手を触りたくなっちゃいまして」
そう言いながら、きっと無意識なのでしょう、シェリーさんの手がわたくしの手をぎゅっと握ってくる。手に力が入っているのが丸わかり。痛くはない、けれど、さっきまでの愛おしそうに撫でているものとは別の感覚で――この形での握られ方はされたくないですわね、と思った。
「変なことしちゃいねーですわよね?」
まずはシェリーさんに元に戻ってもらうことにする。きっとシェリーさんなら面白がって冗談を言うか、もしくは、本当にしてくるだろうから。
シェリーさんにキスされることは嫌じゃない。むしろして欲しいときもあるから。
――世はこれを誘い受けと呼ぶらしいけれど、それはそれ。今はわたくしの方が主導権を握っているのだから。
「手にキスとか、ですか?」
「したんですの?」
カマをかけてみる。『……いきてる』以前のことは分からないから、もしかしたら既にされてるかもしれないのだけれど、手や頬に濡れている感覚はないから、まだされてないのだろうと思う。
「してませんが」
正直に言ってきた。わたくしをからかうときのような、にんまりとした顔で。
シェリーさんの方こそ、わたくしに『だったら言うな!』と言って欲しいのだろうと思う。きっとそれを面白がってるんだと思う。
でも今日のシェリーさんは、やっぱり違和感。どこかぎこちないように思える。
まるで顔に貼り付けたような、硬い笑顔。そして目は不思議なほどにまっすぐに、わたくしの目の一点を向いている。いつもはわたくしの顔や身体の変化を
――何かを、見たんでしょうね。
そう、確信を持った。そしてその影響は、今も続いている、と。
シェリーさんがこうなるのは珍しいと思う。わたくし自身、わたくしでないわたくしが、結果として友だちを含め二人を殺めてしまった夢を、時々見る。その時は目が覚めてからも変な汗が出るし、どうにも落ち着かなくなってしまう。
シェリーさんはそんなわたくしを察知してか、抱きしめてきたり、一緒にそのまま自堕落に二度寝するように言ってきたりしたものだけれど。
――なら、今回はわたくしの番ですわね。
そう、決意する。
「ハンナさん、やっぱり、キスしていいですか?」
そしてシェリーさんは、わたくしに、キスをせがんできた。寝てる間にしてないから、意識がある内にしたい――シェリーさんの論法はそうだけれど、その裏側には、わたくしに甘えたい、だとか今の感情をごまかしたい、とか、そういった感情が見て取れた。
シェリーさんは分かりにくいようで、きちんと素直だということは、一緒に生活していくなかで薄々と分かってきた。もちろん、全部が分かっているわけではないのだけれど――少しくらいは、類推できるようには、なった。
「なんなんですの、貴女。寝惚けてます?」
確認の意味が一割。シェリーさんの反応を見るのが九割。それとキスする勇気を身体に溜める時間を作るのがほんのりひとつまみ。
わたくしの問いに、シェリーさんは一切の
「いいえ? いつものハンナさんの恋人のシェリーちゃんですよ?」
確信。
いつものシェリーさんなら、わたくしの訝しげな顔を見て、嬉しそうににっこりと笑うのに。即答することそのものが、そして言葉がどこか棒読みなのが、その答えだった。
わたくしが恋人、というのを棒読みで言ったのは、なんかムカっときたのは一度意識の外へ追いやることにする。ねちねちと言うのは今じゃない。後で。
まっすぐに固定したままのシェリーさんの目が、微かに揺れるのが分かった。
だから、わたくしは――。
「まったく、しゃーねーですわねー」
ベッドの上に正座。座るだけならシェリーさんと顔の高さが変わってしまうから、正座をして少しでも高くして、視線を合わせる。
わたくしがキスされる準備ができたと判断したのか、シェリーさんはわたくしに向けて、いつものように右手で顎下に手を添えようとしてくる。
――けれど今回は、わたくしの番。
シェリーさんよりも先に、シェリーさんの頬を手で挟む。
「…………む?」
シェリーさんの目が、驚きに見開かれるのが見えた。
――わたくしが何も分かってないように思えたんなら、心外ですわ。わたくしがどれだけ貴女が好きで、わたくしがどれだけ貴女を思っていて、わたくしがどれだけ――今のシェリーさんが心配か、分かってますの? ねぇ? 貴女にそんな顔をしてほしくなくて。わたくしはいつもの貴女が見たくて。どれだけ勇気を今振り絞ってるか、分かってますの?
そう意志を込めて、シェリーさんをまっすぐに見る。顔は逸らさせない。目線はどうしようもないけど、こっちからは絶対に、視線を逸らさない。
「シェリーさんが、夢で何を見たのかだとか、何を思いだしたりしたのかは、まったくもって知らねーですけどね」
脳内のわたくしに倣って、煽ってやる。きっと最初にぶちかますのは、こっちの方がいいから。
――分かってんですのよ。貴女が今、乱れてるということは。いつもの貴女じゃないということは。
目で、はっきりと言う。言葉で言うのは、きっと違うから。
いつもと違うのは嫌ってほど伝わってる。だからと言って、貴女をそのままにしておくのは、わたくしが嫌だから。わたくしが見たいのは、いつもの、貴女の、無駄に元気な姿だから。
――わたくしを、頼ってくださいまし。
――恋人、なんですから。
――貴女を、大事に、思ってるんですから。
頬を挟む手に、力を入れて。そして、瞳を揺らすシェリーさんを安心させるように、笑ってみせる。
「わたくしは、ここにいますわ。貴女の隣に、ずっと」
貴女を、置いてけぼりになんて、一生、させませんから。
貴女が、わたくしを、一人にさせないと言ったんでしょう? 置いてけぼりにさせないと言ったんでしょう?
何回も夢に見たんですから。何回も何回も、貴女が、わたくしを、絶望の淵から、助けてくれたんですから。何回も何回も何回も、貴女と最期を共にする夢を見てしまったんですから。
その度に貴女は、わたくしを、
だから今回は、わたくしの番。貴女の手を、取らせてくださいな――。
「わたくしは、ここにいますわ。貴女が、望む限り。貴女の隣に、ずっと。わたくしが、よぼよぼのおばあちゃんになるまで。――死ぬまで、ずぅっと、一緒ですわ」
言ってて、なんか泣きそうになった。今泣くのは少なくともわたくしじゃない。我慢する。
大きく息を吸って、吐いて。もう一度シェリーさんを見て。
安心させるように、心の底から、笑って見せて。
「わたくしは、何があっても、あなたを置いてけぼりになんてしませんわ。だから、シェリーさん。……そんな、顔すんなー、です、わ……」
まずい、涙が出そう。
シェリーさんの頬に当てた手を引いて、胸に押し当てる。シェリーさんが顔を上げないように、後頭部を手で押さえる。ぎこちなくならないように、ぽんぽんと、後頭部を優しく叩く。
今なら涙が出ても大丈夫。だけど、できるだけ、我慢する。
シェリーさんの方から、大きく大きく、息を吸う音がした。胸が涼しくなる感覚と同時にくすぐったくなる感覚があった。でも、我慢、我慢。
シェリーさんは私の胸に顔を押し当てたまま、もごもごと何かを言うのを聞いた。声ははっきりと聞こえなかったけれど、何を言いたいかは、なんとなく、分かる。
「そんなん、分かりますわ。どんだけ一緒にいると思ってんですの? わたくしを甘く見ないでくださいまし」
――シェリーさんのことを、一番わたくしが見ていたんですから。
言い過ぎたと思った。けれど、シェリーさんへの愛おしさが爆発して、気がつけば、『見ていた』まで口走っていて。
手の力が緩んだ瞬間、シェリーさんが顔を上げる。目が、口が、何かを言いたそうにしているのが見えて、わたくしは――――。
シェリーさんの口を、唇で、塞いだ。
「…………ん、ふ」
シェリーさんの言葉を唇で塞いだのは、初めてじゃない。わたくしが、おろおろとするシェリーさんを落ち着けようとして、しでかしやがったわけだけれど。…………確かに、必要、ですわね……。
わたくしではないわたくしがしたことの正しさを、改めて分かった。
シェリーさんの目が、驚きに見開かれて。そしてしばらくすると、その目はゆっくりと細められる。落ち着いたような顔になって、シェリーさんの方からも、舌を絡めてくる。
「…………ふ、……んっ…………」
いつもであればシェリーさんにされるがままだろうけれど、今日はわたくしの方だから。やりかえす。シェリーさんの表情に変化が見えて、そしてどこか嬉しそうに笑みを浮かべて――。
長い長いキスを終えて、顔を離す。
ほんのりと頬を染めたシェリーさんは、唇に指を添えて、まじまじとわたくしの方を見てくる。そして、謎が解けたときのような、すっきりとした顔をして、表情を柔らかいものにして。
「元に戻りまして? シェリーさん」
わたくしの言葉に、「はい」と、恋人は小さく、頷いて見せて――――。
◇◇◇
――あそこで、綺麗に終わってればよかったのに…………っ!
割と本気で、そう思った。
それでも、それがシェリーさんという人で、わたくしが好きになってしまった人で――。 どこまで行っても、惚れた弱みでしかないわけで――――。
それからのシェリーさんは。元に戻ったは、いいものの。
それはそれは、ものすごい勢いで、甘えてきて。
いえ、甘えてくる、という言葉すらも生やさしいもので。
いつものシェリーさんに戻ってもらおうと、いつもよりも長く、執拗にキスをしたわたくしが悪いと言えば、ほんの
「はー………………」
つやつやとした顔で、額の汗を拭うような仕草をする。汗なんてかいてねーでしょうに貴女!
「ハンナさんをたっぷり堪能しましたー」
「堪能しましたー、じゃねーですわ!」
朝から、疲れた。すごくすごく、疲れた。ベッドの上にぺたんと座ったまま、当分動けないくらいには、疲れた。今日が休日でよかった。このまま学校なんて行こうもんなら、授業に集中できるわけない。
「だって、ハンナさん、すごく可愛かったんですもん」
「――――――~~~~~~っ! だ・か・ら! そういうとこだって言ってんの! こんのノンデリクソ女!!!」
――雰囲気ぶち壊しですわ……。とか。
――この人は雰囲気ってのを分かって……いや、元々でしたわよね、ええ……。とか。
――人なつこすぎる犬か何かですの、本当…………。とか。
シェリーさんへの悪態は本当にいくらでもつけられる。でも、今のシェリーさんが、不安や何かから解消された反動なのだと分かっているから、言うに言えない。
そしてシェリーさんとベッドの中でいちゃいちゃする事も、もちろん嫌じゃないから。結局わたくしの中にある悪態は、ずっと表に出ないまま。
出た所で、口から出るのは、いつもの『ノンデリクソ女』くらいなもの。
――でも、それで、いいと思う。
シェリーさんは、シェリーさんだから。ノンデリが治ると思ってないし、もしそうだったらむしろ――絶対に違和感だろうから。……こう思うのも、どうかと思うんですけれど――――。
だとか思っていたら、シェリーさんがいつの間にやら忽然と姿を消していた。
息を吸うと、何か香ばしい匂いがするな、と思うのと同時、リビングに通じる扉が開く音。
「ハンナさん。コーヒー飲みますか?」
そしてシェリーさんが手に持っているのは、一緒に水族館で買ったお揃いのマグカップ。
「飲みますか? って言う前からもう持ってきてるじゃないの……」
「てへ。ハンナさん用に砂糖一本とミルク一つも忘れてませんよ」
「てへ、じゃねーですわ。……いただきますわ」
シェリーさんが疑問形で言うことの何割かは確認の意味合い、というのは、何週分もの人生の中でも体験してきた。今回のが正にそれだし、シェリーさんがわたくしに何かを聞いてそれから行動を起こす、というのがむしろ少ない。そっちの方がシェリーさんらしいとは思う。
きっと、わたくしも喉が渇いたと思っているのでしょうと思う。あと『朝はコーヒーですよね! そっちの方が探偵らしいですよね!』と嬉々として言ってるのはシェリーさんの本音だと思うし、ブラックが飲めないわたくしに配慮してくれるのは、嬉しいと思う。
わたくしの返事に笑みの咲かせたシェリーさんは、ローテーブルにコーヒーを置く。
ベッドの上で飲んで、こぼしたりしたら、シーツがよけいに汚れちゃうから。
だから、でしょう。
「ハンナさん」
シェリーさんはわたくしに、手を差し伸べてくる。
笑顔で、まっすぐに、左手を、差し伸べて――――。
「――――、」
ほんの一瞬、何かがよぎりかけて。けれどシェリーさんに触れた手の柔らかさと力強さで、我に返る。
シェリーさんの頭からは何も流れてない。わたくしの手は、黒くもないし、尖ってもいない。轟音も聞こえない。身体に痛みも、感じない。
「…………」
ほんの少し浮かんだ
シェリーさんが淹れてくれたコーヒーは、いつもよりも温かくて、というか、熱くて――そして、いつもよりも、甘く感じられた。
「ああ、そういえば」
シェリーさんが、何かを思いだしたかのように言う。
もしもさっきの感想とか言いだし始めたら、マグカップを置いてちょっと懲らしめてあげなきゃ、と思う。
「おはようございます、ハンナさん!」
違う方だった。
――というか、今更ですの? もうお昼近くなのに?
そう思うけれど、わたくしたちは『おはよう』から始まって、『おやすみ』で終わるのを、ずっとずっと、続けてきたから。シェリーさんには欠かせないのだろうと思う。
わたくしも実際の所。その言葉を聞いて、嬉しいが浮かんでくるのだから。
「ええ、おはようございます、シェリーさん」
挨拶を返す。
シェリーさんから、さっき以上に眩しい笑顔が返ってくる。
お互い、コーヒーが入ったマグカップを持っててよかったと思う。
もしも、どっちも何も持っていなかったら――。
きっと、シェリーさんが抱きついてきただろうから。
シェリーちゃんと一緒に住んでいるハンナちゃんですから、シェリーちゃんのほんの僅かな違いも分かっちゃうんですね。
恋人ですからね。
ハンナちゃんは、そんなシェリーちゃんの直し方も分かっている、のですが――?
悪夢(ゆめ)を見た日の夜は続く。(https://syosetu.org/?mode=write_novel_submit_submit_edit&nid=388335&volume=32)
の別視点の物語です。