ふと、隣に並ぶ恵へと目を向ける。すると、彼女は子犬のように弱々しく笑って、ソーマに「ごめんなさい」と謝罪した。
おそらく、恵はこの事を知っていたのだろう。いや、この新聞が発行された時期からして、ソーマ以外の遠月学園の生徒達は全員知っていたと考えていい。だとすると、こうして小西の下へ訪ねるまでこの事を一切教えてくれなかった極星寮の面々には水臭さを覚えざるを得ない。だが、それもきっとソーマを気遣ったが末の行動なのだろう。ソーマが帰ってきたと知って、急いで口裏を合わせる極星寮のメンバー達を想像すると、責める気持ちにはなれなかった。
ソーマは小西へと向き直り、もう一度記事に視線を注ぐ。文字に目を走らせ、浮かんだ疑問を口にする。
「こんな記事が出たんだ、食戟の結果は無効になるもんなんじゃないのか?」
「ああ、本当ならそうなるところなんだが……証拠が出なかったんだ。こんなもんは所詮、ただの文字と写真だからな。捏造しようと思えば幾らでもできる――確たる証拠を見つけ出せなかった遠月は、そう結論付けたよ」
証拠が出なかった。
オウム返しが如く、ソーマは小西の言葉を繰り返す。
ここに記してある事実。この事実が、真実だという証拠が掴めなかったという事なのだろうが、ソーマは直感で確信した。
この記事の内容は紛う事無き真実だ。そして、幸平創真派閥の生徒達が全員食戟に敗北した理由も、きっとここにある。
「この記事を書いた奴と、リークした奴の名前は分かるのか?」
「え、ああ、記者の名前なら多分記事の末尾に――」
小西が言い終わる前に、ソーマは再び新聞紙へと視線を戻した。
『レシピの裏取引発覚!?』などというB級大見出しの記事、その最後尾の文にまで急いで視線を走らせる。そうして、ようやく見つけた記者の名を目にして、ピタリと眼球運動は停止した。
「佐々木――コイツがこの記事を書いた張本人か。そんで、
「ま、下手に名前を出したら薙切えりな派閥の連中に何されるか分かったもんじゃないからな。記者の名前だって、苗字しか載ってないだろ?」
椅子に背を預け、肩を竦める小西の表情はお硬いものだった。大方、本当に派閥連中から何らかの形で酷い目に遭わされた生徒も居たのだろう。ご愁傷様と言いたいが、こればかりはご愁傷様だなんて言葉で終わらせていい問題でもあるまい。
「それで、幸平。どうする気だよ?」
「……この佐々木って記者と、佐々木に情報を提供した奴の二人――この二人なら、学園側が掴めなかった証拠を持ってるかもしれねぇ」
「いや、まぁそりゃそうだろうけどよ……」
言い淀む小西の言いたい事は分かる。匿名の情報提供者の方はともかくとして、この佐々木という人物には既に学園側が接触を図っているはずだ。苗字と、そして所属している部活が分かっている以上、学園側が生徒を特定する事は容易い。だが、それでも証拠を掴めなかったのだから、確証は薄いと言いたいのだろう。
しかし、
「やってみなきゃ分かんないだろ。佐々木が持ってる情報全部教えたとは分かんない訳だしよ」
「……お前なら、そう言うんだろうとは思ってたけどよ」
快活に笑うソーマに、小西は根負けしたように眉端を下げ、口角を上げた。
佐々木から話を聞き、あわよくば匿名の情報提供者を特定し、証拠を聞き出す。それを学園側に提出できれば、薙切えりな派閥の不正行為を証明できる、かもしれない。あくまで希望的観測だが、これで退学処分となった約30人の生徒達を遠月に戻せる可能性が見えてきた。
色々とショッキングなニュースではあったが、同時に新たな希望を呼び込んでくれたニュースだった。喜色に表情を綻ばせるソーマに、小西が気を引き締めるような声をかける。
「話はまだ終わってねぇぞ。お前が本当に訊きたかったのは、ここからだろ?」
話の本題――そうだった。そうであった。
そもそも、ソーマが駆け足でこの丼物研究会を訪ねた第一の理由は、音信不通の友人について状況を聞き出したいからだった。
――水戸郁魅について。知りたいからであった。
「……アレ? 俺小西先輩に用件言ったっけ?」
「言ってないよ? その前に先輩が萎れてて、その訳を聞いてたんだから」
「用件伝える前に萎れてごめんね!?」
恵の言葉に急な罪悪感を覚えたのか、いきなり叫ぶように謝罪の言葉を吐いて、小西は椅子から立ち上がった。
別に小西が頼りない事は知っているので、萎れていた事を今更謝罪される必要は無い。どうせなら、思い切り頼って欲しいくらいだ。
とはいえ、先輩という立場からも後輩に助けを請うというのは躊躇する心があったのだろう。ならば、ソーマの側から歩み寄ってやるしかないではないか。
庶民上がりのソーマにとって、この先輩は何というか。そう、同類のようでいて、料理人としての情熱を持ち合わせた、味方なのだから。
「お前らがここに来た理由なんて、それくらいしかないだろ。丼研の様子見に来たってだけなら、俺らの新作を振舞ってやったんだが……えらく深刻な表情だったからな。俺にだって、それくらいは分かるさ」
その新作の丼とやらは気になるので、それはそれとしてぜひ振舞ってもらいたい。
などと、ソーマは言いかけた。
立ち上がった小西は、そのまま別の場所に置いてあった新聞紙を持って帰ってきた。
また新聞か。正直、この数分で新聞への印象が駄々下がりしているところなのだが。というのも、どうせまた派閥争い絡みの事が好き勝手に書き殴られているに決まっているからだ。傍目からすれば暇潰しの娯楽程度の内容になっているのかもしれないが、当人からすると何というか、内容からは殆ど悪意と見間違うような、他人の事情をコンテンツ扱いしている他意が見受けられるので、不快感が拭えない。
「ほれ。水戸の事なら、大体これ読めば分かる」
「ってことは、悪いニュースだな」
「新聞が悪いトピックばかり取り扱ってると思うなよ? まぁ、今回に限っては当たりなんだが」
ほれみろ。と、ソーマは渋々と、受け取った新聞紙へと目を移した。
佐々木という新聞部員が担当した記事、その記事が載っていた新聞が発行されてから、間もない頃に出来上がった新聞の様だ。
大半の記事の内容は、派閥争いに関するものばかりだ。丁度、薙切えりな派閥が暴走を始め、レシピの裏取引が発覚したばかりだからか、騒ぎ立てるような内容が多い。読んでいて不愉快になる記事ばかりだが、この中に水戸郁魅に繋がるものがあるというのなら、なんとか探し出さなければ――。
「……スパイ疑惑。これか!」
あろうことか、ソーマが発見した如何にもマスコミっぽい見出しの記事は、例の佐々木という新聞部員が書いたものだった。
記事の内容を端的に説明するなら、『レシピの裏取引を主導した人間は水戸郁魅なのではないか?』というテーマで色々な憶測を語る、という感じか。
内容としては実に不愉快だが、質の悪い事に辻褄が合っている。
レシピの裏取引。なるほど、確かに派閥内部にスパイでも居なければ不可能な芸当だろう。食戟相手を徹底的に調べ上げ、相手のレシピを模倣し、更にそのレシピにアレンジを加えて相手を一歩だけ上回る、という褒められはしないが独特の戦法を取る知り合いに心当たりがあるソーマだったが、その知り合いから伺うに敵という立場から相手を調査するにはかなりの時間と手間を要するようだ。
つまり、味方という立場からのアプローチでなければ、30数人もの学生からレシピを聞き出す事など不可能だろう、という推測がこの記事にはしたためられている。
「痛い所突きやがって、この新聞記者」
毒づくように言ってやったが、負け惜しみですらあったかもしれない。
少なくとも今、ソーマ達はこの記事の内容を否定するだけの根拠を持ち合わせていないのだから、仕方のない事ではあるのだが。それでも、料理人として自らが認めた者がただの憶測でここまで貶められているというのは、苛立ちが募るというものだった。
「こんな記事出されたら、にくみの奴は……」
「まぁ、なんだ……お前の想像通りだよ。世間からもだが、特に俺ら派閥内から酷いバッシングを喰らって、丼研からは追放せざるを得なかった。あのままじゃ、部として活動する事そのものが継続不可能になりそうな勢いだったからな」
その時、ソーマは先程の軍隊染みた連携で研究室から退室していった丼研の部員達の姿を回想していた。
アレは、そういう事だったのか。ソーマが尋ねた事――水戸郁魅の話題が、丼物研究会では一種の
友達が友達を、いじめている様を見ているかのようだ。
「正直、助かった」
悔やむように、小西が言う。
「その記事が出るまで大体一週間くらいだったが、酷いもんだったよ。派閥内部で、仲間だった筈の奴等を互いに疑い合う様は醜いったらありゃしねぇ。その罪を全部水戸に押し付けられたんだ、感謝したいくらいだよ、チクショウ!」
ダンッと壁を殴りつけ、小西は背中を震わせる。
「水戸がやってねぇ事なんて分かってる! でもアイツに押し付けなけりゃ、派閥は瓦解してた! 元薙切えりな派閥なんて分かりやすい犯行理由があんのも、助かったよ!! 大助かりだよ、馬鹿野郎!!」
今朝、澄んだ湖のような青色で染まっていた空。しかし、研究室の窓から見える空は、いつの間にか雲で覆われていた。
「俺は……っ、クソ。情けねぇ……!」
結局、小西はまた萎れてしまった。
◇
派閥争いなど、やはり褒められたものではない。料理人が、料理以外の要素で評価され、料理以外の要素で批判されてしまう。
そんな事が、あろうことか遠月学園で巻き起こっているのだ。ソーマは自然と、未来を憂う面持ちを浮かべてしまう。
否、そんな資格は自分にはない。なぜなら、こんな派閥争いの起因となっているのは、他ならない幸平創真だからだ。皆、幸平創真の為に闘い、その結果として約30人と、そして新天地にて藻掻いていた料理人が一人、追い詰められてしまったのだから、その責任はソーマにある。
「――よしっ! なんとかすっか!」
小西に礼を言い、丼物研究会の研究室を跡にした矢先。
軽快に、そして簡単に、そんな事を口走ったソーマに、おずおずと恵が尋ねる。
「か、軽いね……?」
「軽くねぇって。それなりに重く考えてる」
自分の始めた派閥争いのせいで、水戸郁魅は遠月を追われた。小西から話を聞いた際は勝手な記事を書く新聞部に怒りを覚えたが、結局のところ、それもソーマが色々としでかして注目を集めていたことが原因だ――と言えなくもない。
決して全部が全部自分のせいだとは思っちゃいないが、それでも現状を創り上げた要因の4割くらいは自分のせいかもしれないな、とソーマは力なく口元を歪めた。
「けどまぁ、ぶっちゃけあんま関係ねぇよな。派閥とかなんとか」
「え?」
「だって、料理ってそんなもんで左右されるもんじゃねぇもん」
ふと、ソーマは隣を歩く恵から目を逸らし、春にしては冷たい廊下の窓へと視線を移した。
「どんだけ気持ちが沈んでても、どんだけ状況が絶望的でも」
廊下の窓から見えた空は、未だに曇ったままだ。
しかし、
「美味いもん食ったら、なんとなく上を向く気分になるもんだろ」
――雨は、降っていなかった。