短編です。テーマはタイトルの通り

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《消毒》

秋の午後、薄曇りの空の下、佐藤健一はアパートの狭い玄関で手を消毒していた。アルコールスプレーの冷たい霧が指先に触れるたび、彼は無意識に目を細めた。

 

スプレーボトルは100円ショップで買った安物で、ノズルが少し詰まり気味だった。それでも彼は、シュッ、シュッと丁寧に、まるで儀式のように両手を濡らした。消毒液の匂いが鼻をつく。アルコールの鋭い香りは、彼にとって安心と不快の両方を同時に呼び起こした。

 

健一は32歳、独身、都内の小さな不動産会社で働く平凡な男だった。少なくとも、彼自身はそう思っていた。だが最近、彼の心はどこか重かった。説明のつかない、どろりとした感情が胸の奥に溜まっている感覚。まるで古い排水溝に詰まった汚物のように、取り除こうとしても取り除けない何か。彼のアパートはワンルームで、家具は必要最低限だ。シングルベッド、折り畳みの小さなテーブル、プラスチックの収納ボックス。清潔ではあるが、どこか無機質だった。

 

コロナ禍が始まって以来、彼は消毒にこだわるようになった。ドアノブ、スマホ、キーボード、冷蔵庫の取っ手──家に帰るたびに、それらをすべてアルコールで拭き上げる。

会社のデスクも同様だ。誰かが触れた可能性のあるものは、すべて消毒しなければ気が済まなかった。「消毒は大事だよ。菌は見えないからな」と、会社の同僚である山本に言ったことがある。山本は笑って、「佐藤、潔癖症になったんじゃないの? 」と冗談を返したが、健一は笑えなかった。潔癖症ではない。これは、ただの予防だ。そう自分に言い聞かせていた。

 

◆◆◆◆

 

その日、健一は会社から帰宅すると、いつも通り玄関で手を消毒し、靴を脱いでスリッパに履き替えた。

 

鞄を床に置く前に、鞄の底もスプレーで拭いた。習慣とは恐ろしいもので、こうした一連の動作はもはや意識せずに行われるようになっていた。だが、今日は少し違った。鞄を置いた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。まるで、心のどこかに小さな石が転がり込んだような感覚。彼は冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。缶の表面も、もちろん消毒済みだ。プシュッと音を立てて開け、一気に半分ほど飲み干した。

 

テレビをつけると、ニュースキャスターが淡々とコロナの新規感染者数を読み上げていた。数字は減っていたが、健一の心はまだ緩まなかった。ウイルスは消えたわけではない。見えない敵は、いつだってそこにいる。ソファに腰を下ろし、ビールを飲みながら、健一はふと自分の手をじっと見つめた。指は細く、爪は短く切り揃えられている。手の甲には、消毒液の使いすぎでできた小さなひび割れがあった。痛みはないが、見た目は荒れていた。彼はそんな自分の手を、なぜか急に汚らしいと感じた。

 

健一の、この重い感情は、いつから始まったのか。自分でもはっきりとはわからなかった。コロナ禍が始まった2020年頃からか。それとも、もっと前からか。大学時代、恋人の美咲と別れた頃からかもしれない。美咲は明るく、いつも笑顔で、健一の地味な性格を「落ち着いてていいね」と褒めてくれた。

 

だが、ある日突然、彼女は「健一のことがわからない」と言い残して去った。その言葉は、健一の心に小さな傷を残した。わからない、とはどういう意味なのか。彼女が何を求めていたのか、健一には最後まで理解できなかった。それ以来、彼は自分の感情をあまり表に出さなくなった。いや、正確には、感情そのものを深く掘り下げることが怖くなった。感じること、考えること、それ自体がまるでウイルスに感染するような危険を孕んでいる気がした。だから、消毒する。手を、物を、心を。見えない汚れをすべて取り除くことで、健一は自分を守ろうとしていたのかもしれない。

 

翌日、会社でちょっとした事件が起きた。昼休み、健一がいつものようにデスクを消毒していると、同僚の山本が近づいてきた。「佐藤、またやってるの? そんなに拭かなくても、誰もそんな汚くないよ」と笑いながら言う。健一はムッとした。汚いかどうかは関係ない。予防だ、と言おうとしたが、言葉が喉に詰まった。

 

その時、別の同僚、田中が割り込んできた。田中は新入社員で、いつも少し緊張した面持ちで仕事をしている。「佐藤さん、いつもめっちゃ綺麗にしてますよね。僕も見習おうかな」と、冗談とも本気ともつかない口調で言った。健一は一瞬、田中の笑顔にほっとしたが、すぐに違和感を覚えた。田中の目には、どこか同情のようなものが浮かんでいるように見えた。

 

その夜、健一はいつものようにアパートで手を消毒しながら、田中の視線を思い出した。同情。なぜだ。なぜ自分が同情される必要がある? 彼はビールを手に、ソファに座り、テレビの音を聞きながら考える。

 

だが、考えれば考えるほど、胸の奥の重いものが膨らんでいく。まるで、心の中に黒い霧が広がるようだった。

 

◆◆◆◆

 

週末、健一は久しぶりに実家に帰った。両親は郊外の一軒家に住んでおり、庭には母が育てている小さな菜園があった。

 

母は健一の帰宅を喜び、夕食に彼の好きなカレーを用意してくれた。父はいつものように新聞を読みながら、「最近の若者は大変だな」とぼそっと呟いた。

 

食事を終え、母が皿を洗う音を聞きながら、健一はリビングのソファに座っていた。ふと、テーブルの上に置かれた消毒スプレーが目に入った。母がコロナ禍で買い置きしたものだろう。健一は無意識にそのボトルを手に取り、シュッとスプレーしてみた。アルコールの匂いが漂う。母が台所から振り返り、「健一、なにやってるの?」と笑った。「いや、なんとなく」と答えたが、健一の心はざわついていた。実家でも消毒が必要なのか。いや、必要ないはずだ。ここは安全な場所のはずだ。なのに、なぜこのスプレーを手に持っているのか。なぜ、安心できないのか。

 

その夜、健一は自分の部屋で眠れなかった。実家の部屋は、学生時代とほとんど変わっていない。古いポスター、本棚に並ぶ漫画、机の上の埃っぽい参考書。すべてが懐かしく、同時に遠い過去のもののように感じられた。彼はベッドに横になりながら、胸の重さを意識した。それは、まるで誰かに押し付けられた重い石のようだった。

 

翌朝、健一は庭に出て、母が世話している菜園を眺めた。トマトの苗が小さな実をつけ始めていた。母が水をやりに出てきて、「健一、野菜育ててみる? 癒されるよ」と笑顔で言った。

 

健一は曖昧に頷いたが、心の中では別のことを考えていた。植物は、消毒しなくても育つのだろうか。土には菌がいる。虫もいる。それでも、こんなに鮮やかな赤い実をつける。

 

なぜ、自分はそれができないのだろう。

 

帰りの電車の中で、健一は窓の外をぼんやりと見つめた。車窓に映る自分の顔は、疲れているように見えた。いや、疲れているのは顔ではない。心だ。消毒しても、拭いても、取り除けない何か。美咲の言葉、会社の同僚の視線、母の笑顔、父の呟き。それらがすべて、健一の心に小さな傷を刻んでいた。

 

アパートに戻った夜、健一はいつものように手を消毒しようとして、ふと手を止めた。スプレーボトルを手に持ちながら、彼は鏡を見た。そこには、いつもと同じ、平凡な男の顔があった。だが、その目には何かがあった。涙ではない。怒りでもない。もっと深い、名前のつけられない感情。彼はスプレーボトルを置き、代わりに水道の蛇口をひねった。冷たい水で手を洗う。水はアルコールのような刺激はないが、ゆっくりと指の間を流れていく。健一は目を閉じ、その感触に集中した。消毒しなくても、ただ洗うだけでいいのではないか。そんな考えが、初めて頭をよぎった。

 

翌日、会社で健一はデスクを消毒しなかった。山本がそれに気づき、「お、佐藤、今日はサボり? 」とからかったが、健一は笑って「たまにはね」と答えた。田中がいつものように話しかけてきたが、その視線に同情は感じられなかった。もしかすると、あの同情は健一の思い込みだったのかもしれない。

 

夜、アパートに戻ると、健一は缶ビールを開け、テレビをつけた。ニュースはまだコロナの話題を伝えていたが、彼は音を小さくした。胸の重さはまだ完全には消えていない。だが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

 

彼は窓を開け、秋の夜風を部屋に入れた。消毒液の匂いが薄れ、代わりにどこか遠くの土の香りが漂ってきた。健一は深く息を吸い、目を閉じた。心の奥に溜まった黒い霧は、まだそこにある。だが、いつか、それが風に吹かれて消える日が来るかもしれない。そんな予感が、初めて彼の胸を温かくした。


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