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「……フルート?」
何時もの場所───北館と南館の間の休憩スペース───でいつも通り自主練習に励んでいた悠月は水で喉を潤したときのこと。頭上から降ってくるフルートの音に気がついた。
その音を聞いて、悠月は頭上を見上げながら小さく首を傾げる。はて。うちの部のフルートでこのような音を奏でる奏者はいただろうか。技量は申し分ない。フルートパートと比べても基礎ができている。もしかしたら技量はフルートパートの誰よりもうまいのではないだろうか。
ただ、聞き慣れない、というか初めて聞く音に一体誰なのだろう、と悠月は疑問を持った。しかも、吹いている曲はA.ボロディン作曲の「歌劇『イーゴリ公』より、ダッタン人の踊り」。コンクールメンバーならば関西大会が近い中吹くことはまずないだろうし、B編成の部員たちが吹くとも聞いた覚えはない。単純に考えれば部外の人間なのだろうが、とそこまで考えて悠月はトランペットを手に校舎へと足を進め始める。
「まあ、行ってみるか」
興味本位というやつだ。そう好奇心に流されるがままに階段を登っている最中、ふとそういえば一昨年自由曲でこの曲南中が吹いてたな、なんてことを思い出した。そして、その記憶に引っ張られてこのフルートの音に対して抱いていた既視感に気づいた。
(……あ、これ南中のフルートか。上手いわけだ。あそこフルートは自前で揃えさせるらしいし、買わせるだけあってフルートの指導には長けてたし毎年ちゃんと顔になるもんな)
改めて、中学の頃、西中にフルートの実力者が元副部長と現部長の姉妹が揃って在籍していたのはウチにとって僥倖だったな、と思う。もし西中に入学していたら立場は間違いなく変わっていただろう。中学最後の年、西中の顔はトランペットと界隈からは評価されていたが悠月から見て最も総合力が秀でていたのはフルートだった。それだけ彼女ら姉妹の影響は大きかった。
そんなことより、と悠月がそんな脇に逸れた思考を本筋に戻した時だった。
(…………ん?もしかして)
脳というのは不思議なもので、一つ思い出せば連鎖するように関連する記憶が芋づる式に水面から浮かび上がってくる。いくつかのキーワードに悠月は何か引っかかった。そして、それはすぐに弾き出された。
(……低音に直談判しに行ってたのって今吹いてる人だったりするのかな)
部に所属しているわけではないのにこれだけの実力を維持できているのは、それだけフルートに対して思い入れや熱意があるか地域の吹奏楽団に所属していてただ何となく続けているかだろう。
とはいえそんなこと考えていても意味がないと、階段を軽やかに上がっていきもう少しで連絡橋のある階へと着こうかといったところのことだ。癖のある茶色の髪が視界に入り込んだ。そして、上の次に見せた顔に悠月はおや、と思う。
(……黄前さんか)
何やら中途半端な場所で立ち止まって困っているような表情を浮かべる黄前の姿が目に留まり、次いで彼女の声が聞こえてきた。
どこか焦ったように話しかけている姿を見るに傍に誰かいるらしい。そしてその誰かは具合がどうも優れないようだ。とりあえず上がってみようと階段を登ったものの黄前は焦りからかこちらに気付いていない様子だった。黄前の視線の先を見てみると、そこにいたのは毎朝音楽室で出会う人物だった。
悠月は、まずは状況を把握しようと黄前の名を呼んで問いかける。
「黄前さん」
「えっ!?……なんだ。明瀬君か」
なんだってなんだろう。別の誰かの方がよかっただろうか。具体的にはトロンボーン吹いてる幼馴染的な人とか。というか、黄前はなんだか問題に発展し得る火種に関わっていることが多いな、と思う。オーディションの件然り、今回の件然り。関係ないとは思うが不思議な同級生だな、という印象を悠月は抱いた。
それはさておき、踊り場に上がると同時に見えたもう一人の存在に視線を移す。そこには、北宇治でただ一人のオーボエ奏者の姿があった。名前は、鎧塚みぞれ。2年の先輩だ。
日焼けを知らず血の気のない白く透き通ったその肌は、酷く青ざめていて、彼女のほっそりとした手に空色のハンカチを持ち口元を覆っている。明らかに体調が優れないのだろうということは一目瞭然だった。
「鎧塚先輩具合悪いですよね?保健室付き添いましょうか?」
「いい。いらない。気にしないで」
こちらに視線を寄越さずに告げた彼女のか細い声が悠月の耳が拾う。悠月は、もしかして黄前にもこうだったのかと問うように黄前を見れば、こちらの意図が伝わったのかは分からないが首を傾げて肩を竦める。そして、こちらに近づいて悠月にしか聞こえないように小さな声で事情を伝えてくれた。
「さっきからこうなんだよね」
「なるほど」
こう、というのは頑なにこちらの心配からくる申し出を断っていることだろう。悠月は勿論、黄前の様子を見るに彼女もこの程度のことで気を害したりはしないのだが、額に玉のように浮かぶ汗を見れば鎧塚の言葉は到底信用できるものではなかった。
鎧塚が身体をふらつかせながらも立ち上がったのを見て倒れても大丈夫なように身構えていると、悠月がここまで上がってきた本来の目的であるフルートの音が再び聞こえてきた。
暖かみのある華やかなフルートの音色に、黄前も音の源へ視線をやっていた。しかし、この場でただ一人、鎧塚だけは悠月たちとは異なる感想を吐き出した。
「この音、いや……聞きたくない」
そう言って、身体を不安定にゆらしながら足を引きずるように階段を下っていく姿に、悠月は本当に大丈夫かという心配が心中を占めた。あの状態を鑑みれば万が一があった時のために誰かついていた方がいいだろう、と悠月は黄前に一言告げた。
「鎧塚先輩の様子見ておくよ。万が一があったらまずいし」
「へ?あ、うん。分かった」
黄前が頷いたのを確認した悠月は、鎧塚の跡を追うために階段を下り始め初めの踊り場に着いたときに上から明るく快活さが伝わる声が聞こえてきた。だが、黄前の知り合いだろうと推察し悠月は足を止めることはなかった。
少し足早に階段を駆け下りていく悠月は鎧塚の姿に若干の安堵と共にほっと息を吐くとそれに気づいたのか青白くなっている顔をこちらに向け、普段よりも無機質な瞳がこちらを捉えると来ていたのかと言った様子で眉を上げた。
「来なくて良かったのに……」
「後輩からのお節介程度に受け取ってくださると助かります。僕としては、あそこで見過ごして鎧塚先輩に何かあったら目覚めが悪いですから。自己満足ですよ。あと、僕の練習場所一階なのでどのみち降りてますし」
全て本音だ。悠月の言葉に反応するでもなく、無表情のまま鎧塚は緩慢な動作で再び歩き始めた。反応が希薄であることは毎朝の挨拶から知っている。せめて、階段を降り切るまでは様子を見ることを許してほしい、と悠月は思った。
鎧塚の後ろ姿を視界に捉えながら彼女に合わせるようにまったりと歩いていた悠月は、上の階で彼女が口にした言葉にそういえば、と今更ながら疑問を覚えた。
(そういえば、鎧塚先輩がさっき言ってたのってどういうことだ?)
その言葉とは、『この音、いや……聞きたくない』というもの。単純に考えればあの場で聞こえた音は環境音を除けばあの連絡橋で吹いていたフルートの音だ。ただ、フルートの音そのもの、というよりはあそこで吹いていた人が出すフルートの音と言った方が正しいように悠月は思う。
(フルートの音自体への拒絶なら合奏どころじゃないしな……)
そして、後者の考察があっていたとして、体調に支障を及ぼすほどの拒絶反応が出るのはもはやPTSD───心的外傷後ストレス障害───、言い換えれば、トラウマなのではなかろうか。もし仮にそうだとしたら、今後練習中に再び発症しないように、今日連絡橋で吹いていた人には学校でなるべく吹かないようにしてもらうしかないのだが、まあ、できないだろうな、と悠月は結論付ける。
(こっちの都合でしかないし、納得できないだろうなぁ……ま、考えても仕方ない)
トラウマに近い症状を発症している鎧塚に直接聞くことも酷だろう。とりあえずは様子見しつつ問題が起きなければ放置で良いか、と悠月は思考を放棄するとダブルリードパートが普段練習を行っている教室の前で立ち止まったのを見て悠月も立ち止まる。何考えているか分からない表情を浮かべる鎧塚に悠月は先んじて口を開いた。
「じゃあ、無理なさらず。ちゃんと休めるときは休んでくださいね。先輩、いつも朝早くから練習されてるんですし。では、僕はここで」
「……あなたは」
「?、どうかしました?」
体を反転させてしまっていたため顔だけを鎧塚へ向けて問い返す。話す内容が定まっていなかったからか黙っている鎧塚を急かすこともせずただ見ていると、視線から逃げるようにさっと顔を逸らして一言告げた。
「……ありがとう」
その感謝に悠月は多少驚いて、すぐに笑みを浮かべて答えた。
「どういたしまして」
悠月が返事を言うが早いか、鎧塚は教室へと姿を消した。教室へと入る瞬間に見えた彼女の表情にわずかながら血の気が戻っているのを見て、悠月はもう一度、安堵の息を吐いた。
(とりあえず報告はするか。滝先生と部長、でいいか……)
この日の練習は、普段よりも早く終わった。どのくらい早いかと言えば、まだ日が見えているくらい早い。なんで今日の練習が早いのかと言えば。
「香織せんぱーい。花火大会一緒に行きましょ!」
「ごめんね、優子ちゃん。晴香とあすかで行く予定なんだ」
「えぇ~~?!」
「振られてんじゃん」
「うっさい!」
というわけだ。トランペットパートではお馴染みの光景に加えて、今日は低音のユーフォニアム担当の2年生の先輩である中川夏紀だ。こちらも、最初こそ新鮮であったもののいまでは恒例のやり取りとなっていた。
彼女らのやり取りをBGMに、悠月は音楽室を後にしようとしたとき、後ろから軽い衝撃と共に肩に腕を回される。吹奏楽部において、これほど近しい距離にいる相手は一人しかおらず、悠月は仄かに笑みを浮かべて振り返りながら口を開いた。
「なに?秀一」
「ちかおと花火大会行くんだけど悠月も一緒にどうよ」
「ごめん、先約ある」
「え、まじ?」
「まじ」
唖然として顔で問いかけてくる秀一に悠月はオウム返しで答える。すると、秀一はがばっと悠月の正面へと回り込み、悠月の両肩を掴んで至って真剣な顔で聞いてきた。
「悠月お前、一緒に遊びに行くような友達いたのか」
「おい失礼だな。いるよ」
一瞬思考が停止し、次いで、こいつデリカシーって言葉をどこに置いてきたのかと問うてみたくなった。そんなだから好意に気づいてもらえないんだよ、とは言わない。秀一の恋路は素直に応援しているからだ。悠月は、ジトっとした目を秀一に向けると秀一は慌てて取り繕うように言う。
「ごめんて。でもさー、悠月が誰かと遊んでるところなんて聞かないんだよな。毎回その手の誘い断ってるだろ?」
「まあ、うん。ノリが悪いのは自覚してる。ごめん、誘ってくれたのに」
「いや、謝ることじゃないだろ。無理に付き合わせるつもりないから気にするなよ」
「ごめん。ありがとう」
「おう!」
悠月は申し訳なさを抱きつつ感謝を口にすれば、秀一は爽やかな笑顔を浮かべて返事をした。その笑顔を見て悠月はこう思った。こんな優良物件がどうして現状フリーなのだろうか、と。顔良し、器量よし、性格良し運動もできて勉強も平均より上。
「また埋め合わせするから」
「お、いいね。じゃあ、夏休みの宿題手伝ってくれよ」
「分かった」
埋め合わせの約束を秀一と交わし、どうせだからこのまま途中まで一緒に帰るかという話になり見慣れた道を歩いていると、不意に秀一が質問を口にした。
「そういえば、悠月って部活以外に何かやってんの?」
「何を?」
「習い事とかその手のやつ。見てて気づいたんだけど悠月って最終下校ギリギリまで練習することってあんまりないだろ?」
「だから何か習い事でもしてるのかねって思ってさ」という秀一に、悠月は別に隠していたいわけでもないし、秀一相手なら話してもいいか、と悠月は考えて口を開いた。
「バイトだよ。飲食の」
うん。嘘は言ってない。
「ば、バイトぉ?!」
「声でか」
耳に近い場所で叫ぶ秀一に悠月は反射的に耳を塞ぐ。秀一は半ば叫ぶような声量で話した。
「なんだよ。今どきバイトしてる高校生なんて珍しくないでしょ」
「いや、いや……!悠月は一回自分のしてることのヤバさを自覚した方がいいぞ」
「えぇ……?」
「だってさぁ。勉強は全国トップレベルだし、部活では実力は高坂に競り勝ってソロ任されてるし、その上で一年のまとめ役と指導役まで買って出てんじゃん。その上アルバイトて……全部できるやつが何処にいるんだよ」
「…………うん。まあ、いるかもしれないじゃん?」
そう言われると、実例が思いつかない。だが、探せばいるだろう。具体的に例えるなら、一人暮らしで学費と生活費を賄いながら東大文一志望から理転して東大理三現役合格し、その10年後くらいに科学革新をしてみせた超人女子高生のような人物。現実味がない。
「つか、なんでアルバイトしてるんだ?北宇治ってアルバイトって申請して許可降りないとだろ?」
「あ〜……」
尤もな疑問に、悠月は返答に困るように詰まらせた。同情は誘いたくない。関係性が変わるのは嫌だし、今のままが心地よいから。
「ま、社会経験は早い内にしといたほうがいいでしょ」
「……ふぅん?そんなもんか」
「そんなもんそんなもん」
「まいいや。無理すんなよ?うちのエースなんだから」
「はは。ほどほどに頑張るよ」
秀一の心配の言葉に、悠月は毎度の如く口だけの返事をする。結局のところ、こういった心配の声に対して頼ることはあっても今の生活を止めることはないのだろうと思う。
◇◆◇
街ゆく喧騒の中、不快さを感じさせる温い風が浴衣の袖を揺らしているのを感じながら、悠月は久しく感じることのなかった暇を感じていた。
「…………」
恐らく、何も考えずぼうっとしていられるのは今だけだろう。お盆休み中も予定は詰まっているし、それが明ければ合宿で、合宿が終われば関西大会までは1週間しかない。
「悠月せーんぱい」
「ん……奏。お疲れ様」
「お疲れ様です……疲れてます?ぼうっとしているように感じましたけれど」
秀一と話していた時に言った先約というのは彼女、奏のことだった。疲れているように見えただろうか。それなら申し訳ないな、と悠月は首を振って心配そうにこちらを見上げる奏に笑みを向ける。
「いや?平気だよ」
「そうですか。なら良かったです。ところで、どうですか?」
「どうって……あぁ」
浴衣の袖をちょいと摘んで軽く持ち上げながら、こちらに体を向ける奏に悠月はふっと表情を緩ませた。
「似合ってる。縣祭りの時は綺麗って印象だったけど、今回は可愛いって印象だ」
「ありがとうございますっ。悠月先輩も着てくださったんですね。ウチのものですか?」
「そ。折角頂いたものだしね。それに、合わせたかったからさ」
不思議だ。奏の前でなら、気を緩めていられる。素の自分を出していられる。もしかしたら、自分でも気づかないくらいこの後輩に絆されているのかもしれない。それでもいいと思えてしまうあたり、手遅れなのだろうが。
「お似合いです。格好いいです」
「それはありがとう。選んでくれた人のセンスだね」
「ちなみにそれを選んだのは私です」
「本当?流石奏」
ふふん、と胸を張る奏に苦笑を零す。普段、、とはいっても去年の話にはなるが、基本的に上級生に対しては折り目正しく、見る人には好印象を与えるような礼儀正しい振る舞いをする奏が幾分か素の一面を見せてくれているというのは先輩みょうりに尽きるというものだ。
「そろそろ行こうか」
「はい」
さて、そろそろ動き始めた方がいいだろうと悠月は奏に手を差し出す。奏もこちらの意図が分かったのか手が重ねられた。
喧騒の波に身をゆだねながら歩調を合わせつつ奏の隣を歩く悠月に、奏は顔を見上げつつ問いかけた。
「悠月先輩はお盆休みはどうされるので?」
「そうだなぁ……初日にお墓参りに行って、二日目は部活の友達の宿題片付けるの手伝う予定があるかな」
「そうですか。帰省はしないのですか?」
「あ~……帰省」
「……すみません」
悠月が少し考えるように間をとったことから何かを察したのか謝罪を口にする奏に「気にしないでいいよ」と悠月は返す。奏は聡い。しかしながら、察しが良すぎるのも考えものだなと苦笑を漏らしつつ目下に迫っていた憂鬱の陰に思考を注いだ。
本当は顔くらいは見せておいた方がいいのだろうが、あいにくそのような気にはなるわけがなく。それはそのはずで、今面倒を見てくれている叔父を覗いて他の親族は遺産目当てだ。経験上、顔を合わせても金の無心をされるだけだからだ。
繋がりが金しかない以上こちらとしても縁を繋げておくのは精神衛生上よろしくない。現状叔父と悠月を覗く親族が揉めているから言い出せずにいるがこの機会に一切の面倒事から降りることも考慮してもいいかもしれないと、悠月は曖昧にしていた悩みの種に結論を出した。
(挨拶だけはするか)
中学から叔父の元でお手伝いという名目で小遣いを貯め始めて、今では小遣いという額では収まらないほどの桁になってきた。元々、遺産を当てにする、というと言い方が悪いがお金を得るという行為で楽をすることは将来的に自分を駄目にするだろう。根本的に、悠月は己自身をそこまで評価していないのだ。
高校在学中の学費と生活費、あと、大学入試や入学金、その後の生活費含めた諸々の費用も貯まってきている。肝心の大学の学費も国公立大学の医学部で学ぶ為の費用も高校卒業までには充分すぎるほどに貯まるだろう。
「帰省と言っても京都だし、墓参りのついでにさっと済ませるか」
「……大丈夫ですか?」
「大したことじゃないさ」
気にしないでいいとは言ったもののの心配げにこちらを見る奏に気づいていたために悠月はこともなさげにそう奏に聞こえる程度の声量で告げた。そして、自身に向いていた矢印を奏へと向けた。
「奏は?」
「お盆休み一日目は友達と勉強会ですね」
「勉強会?」
「はい。といっても午前中だけですけどね。午後はそのまま遊びに行きますよ。二日目はお店のお手伝いを頼まれてますね」
ふむ、と悠月は相槌を打つ。物の見事に予定が被ってしまっている。まあこればかりは仕方ないか、と無理やり気味に納得して、奏を見て告げた。
「なら、今日は存分に楽しまないとね」
「!、ふふっ。ですね」
お盆の間も恐らくはメールのやり取りはするだろうが顔を合わすことができるのはこの夜が過ぎればまた暫くはない。だから、今日の残りの時間を目一杯楽しんで記憶に残る思い出にしよう。そんな意図で放った言葉をどこまで読んだのかは分からないが目をぱちくりした奏は直ぐにふわっとした笑顔で頷いた。
「…………ん?」
それからものんべんだらりと歩き続けていると、悠月は視界に映っている動き続ける人の流れの中で止まっているものに気がついてそちらに目を向けた。少し歩くペースが変わったことに奏も気づいたのだろう「どうかしましたか?」と問うてきた。悠月はその問いかけにちょいっと指を視線の先に向けた。
「あそこ」
「あそこ?……あ」
奏も気づいたのか悠月と同じ方を見て視線を固定した。「ちょっと行ってくる」と向かう先を変えて人の波に逆らうように横切り道の脇に出て、悠月は街路樹に寄りかかっている老婆の元へ駆け寄った。そして、自身の胸ほどもない背の老婆を見上げるくらいまで屈んで声をかけた。
「お婆ちゃん。どうかしましたか?何処か痛めましたか?」
喧騒に負けないように声量を上げて聞き取りやすいようにゆっくりと目を合わせて問いかける。
「さっき足を挫いてしまってねぇ。歳を取ると足腰が弱ってしまうんだよ」
「それは大変だ。ご自宅はこの辺りですか?」
「ええ。この道を少し行ったところなんだけれど」
「そうですか。歩くのは、しんどいですよね。誰かお迎えとかは?」
「何分独り身なのよ〜。夫に先に立たれてしまって」
「そうなんですか。すみません配慮が足りず」
「気にしないでいいのよ〜。この歳の老いぼれなんてそんなもんさね」
心配の色はそのままに、悠月は老婆の情報を整理していく。荷物はそれほど多くない。よし、と悠月は立ち上がると老婆に背を向けてまた屈んだ。
「ご自宅まで送りますよ。さ、乗ってください」
「あら。いいのかい?そちらの彼女さんとデート中なのでしょう」
「でっ……!?」
何やら老婆の言葉に動揺する奏の声が聞こえてきたが一旦スルーして苦笑も交えて答えた。
「女の子の前では格好つけたいのが男の性ですから。ここは格好つけさせてください」
「ふふ。確かに道理だねぇ。じゃあ、有難く乗らせてもらうわね」
「はい。どうぞ」
それからまもなく、老婆の住んでいる伝統的な日本家屋に着いたあと、一言二言話して帰ろうとした悠月たちを年の功がなせる技なのか話術で丸め込まれた二人は自宅へお邪魔し、縁側に腰掛けて座っている老婆に変わって老婆のお願いをこなしていた。
そして、冷えたお茶と切り分けられた西瓜が並べられた皿を乗せたお盆を手に縁側へと戻ってきていた。
「お婆ちゃん。持ってきましたよ。お茶と西瓜」
「ああ。ありがとうねぇ。別嬪さんで家事も熟せるなんて素敵なお嫁さんになるわね」
「……あ、ありがとうございます」
「貴方もそう思うわよね?」
「ええ。そうですね」
出会ってそれほど時間は経っていないが、この老婆について悠月は少し気づいたことがある。この老婆、悪戯心満載なのだ。お茶目とも言えるが、奏がここまでタジタジになっているのはあまり見たことがない。悠月は話半分で流しているが、奏は最初に崩されてしまったからか老婆のからかいを間に受けてしまっている。
「……悠月センパイ?」
「ごめんて。ほら、機嫌直して」
そして、そんな奏の珍しい姿を見るのが無性に嬉しくて老婆と共に乗った結果むすっとむくれてしまった奏の可愛らしいパンチを背中に受けていた悠月は身体を反転させて奏の頭に手を乗せた。
「あらあら」
微笑ましい光景を見るように穏やかに笑む老婆を視界に捉えながら奏の頭を髪型を崩さないように撫でていると奏の機嫌も落ち着いてきたようだった。それを感じたのか、老婆が「二人とも」と悠月たちを呼んで縁側に座るように促した。従うように縁側に腰掛ける。
丁度その瞬間、夜空に光が走り、そして花が咲いた。
「わあ……綺麗」
同感だった。庭から綺麗に見える花火に見蕩れていると、老婆がお盆を手渡してきた。
「今日のお礼ね。二人で食べて。この歳になると食べきれないのよ」
断りを先に封じるように言う老婆に、二人はお言葉に甘えることにして西瓜を手に再び花火をその瞳に映した。そして、悠月は気取られないようにちらりと横を盗み見て、思った。
───本当に綺麗だ。と。
◇◆◇
胸の内から込み上げる熱が頬を朱く染める。
意外と指先ひんやりしてるんだな、手は大きく綺麗な形なんだな、そんなことを絡めた手から伝わる感触から抱いた。今浮かべているであろうどうしようもなくだらしない顔を夜の帳が隠してくれていることを願いながら、ちらりと隣に立つ大切な人の顔を盗み見た。
普段涼し気な表情を浮かべ、人の好い笑みを浮かべている彼も流石にこの暑さと人混みには堪えるのか注視しなければ分からない程度には不快さを浮かべている。そして、浮かべている笑みにそのまま性格が表れていると言えるほど優しい彼は当たり前のようにこちらに歩幅は合わせ、時折こちらの様子を伺うように目配りをし声をかけてくれる様は私が彼に心惹かれた姿そのままだった。
彼は、自らに寄せられる好意に無頓着だ。気づいていないわけではないのだろう。たまに彼に恋愛相談をする人を見たことがある。そして、そう言った相談に対して返すアドバイスが適切なことからも、そういった色恋に疎いわけではない、と信じたい。単純に興味がないか、それ以上に優先していることがあるかのどちらかなのだろうと思っている。
彼は、年齢に似合わず中身が大人なのかと思うほど精神が成熟しているのか感情表現が大きくなく落ち着いた振る舞いをしていることが目立つが、案外子供っぽいところがある。トランペットを吹いている時はいつも楽し気だし、親しい友人関係にある同期の先輩たちと話している時は喜怒哀楽もはっきり出る。
そんな彼のことを同学年であったならもっとよく見ることができたのに、と思わない日はないが一学年違うからこそこの関係が築けているのだと確信を持って言える。そして、私はこう思うのだ。
私が『久石奏』の人生をどれだけの回数歩み返したとしても、小さな選択大きな選択に違いは生まれるとしても、この場所で生まれ育って、彼と出会い、同じ学び舎で吹奏楽をし、同じ志を持つことは変わらないだろう。
そうなれば。
私は彼の後輩であり続けるし、何より。
私は毎回、彼を好きになる。
えー、前回の投稿日を見て絶句しました。恐らく滅茶苦茶待っていただいた方もいらっしゃることかと思います。一度読む側に回ると中々戻って来れなくてですね。本当に申し訳ない。
どうやら物書き初心者は初めのうちは作家の文体を真似るといいらしいことをつい先日知りました。思いつきで始めた初心者故の無知だなと思うなどしましたね。