『俺達に明日はいらない』(偽原題:Bomber and Cradle)   作:ばばばばば

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10.ボマーとクレイドル(中篇)

 ――自分は一体何をしてるのだろう? 

 

 水着から着替え、目的地の当てもなく怒りに任せて歩きながら、レゼは自身の行動の非効率さに困惑していた。

 

 彼女の目的は彼と平穏な暮らしをすること、あのように感情をあらわにすることではなかった。

 

 自分の感情をコントロールできずに爆発させるなど工作員失格どころの話ではない。

 

 レゼはそう思いながら、しかし湧き上がる怒りを抑えきれない。

 

 

「……でも他所の女の言葉を使う……!? あのタイミングで……!?」

 

 

 冷静な部分のレゼはデンジとの関係修復を図るべきと考えるが、デンジの顔を思い出すたびにそれが上手く出来ない。

 

 

 怒りから肩で風を切るレゼはとにかく冷静になろうと、人気のない場所を探すため、歩き続ける。

 

 

 その時、後ろから突然、彼女は大声で話しかけられた。

 

 

「おうおう! やっと見つけたぞ泥棒猫!!」

 

 

 振り返ればアメリカンドックを片手に仁王立ちする女の姿。

 

 何事かと驚いて固まると、その女は勢いよく食べかけのアメリカンドックの棒でこちらに指し示す。

 

 

「早くチョンマゲを元に戻せ! ついでにデンジも返さんか盗人め!!」

 

 

 意味の分からないことを喚く女の頭には人間にはないはずの2本の角、レゼは目の前の女と直接の面識はなかったが、情報として彼女を知っていた。

 

 

「たしか血の魔人……、名前はパワーちゃんだっけ?」

 

「ククク……、すっぱい顔した貴様もワシを知っているようじゃのぉ……、いかにも! ワシがデンジの飼い主であり最強の魔人であるパワーじゃ!!」

 

「そう、ごめんねパワーちゃん、今私用事があってね、話はまた今度でいいかな?」

 

 

 突然現れたパワーは手を広げて大仰に名乗るが、それに構っている余裕は今のレゼにはない。

 

 早々に会話打ち切ろうとするレゼは振り返って別の道へ行こうとするが、パワーはそんな都合を一切無視して行く手を遮った。

 

 

「デンジはワシのモノじゃ! 貴様のような露出狂風情に渡すか! エロ女!」

 

「露出狂って……、そもそもデンジ君はデンジ君、人をモノみたいに扱うのは良くないよ」

 

 

 相手にしないように平易な顔を装うレゼであったが、失礼極まりないパワーの言葉は続く。

 

 

「どうせあのエロデンジのことじゃ、女の裸を見て鼻の下伸ばしてキサマについていっただけじゃろうがな!!」

 

「そんなわけ……」

 

 

 ――まぁ確かにそうかも

 

 一瞬否定しようとするレゼであるが、実際自分はそうしてデンジを篭絡させたわけであるので否定はしきれない。

 

 

「まぁ、所詮あやつはサルよ、ワシの悩殺ダイナマイトボデーで簡単に戻ってくるわい!」

 

「別に体型は私と大して変わらないんじゃ――」

 

「なんせデンジはワシの胸を揉む為に命がけで戦うほどワシが好きじゃからのぉ! ワシの胸を揉んだ時など感動で言葉を失い打ち震えておったわ!」

 

「――は?」

 

 

 適当としか言えないセクシーポーズをするパワーを初めは呆れながら見ていたレゼであったが、その次の言葉で彼女の頬はヒクつきだす。

 

 

「……一応私、デンジ君の彼女なんだけど? 貴女ってデンジ君のただの同居人でしょ?」

 

「はぁ? デンジはワシの彼女だが? お主は盗人なのか?」

 

「……いや、それはおかしいでしょ、色々と」

 

 

 レゼはデンジから愚痴のように聞いたパワーの話を思い出す。

 

 彼の言葉によればパワーは偶にしか真実を話さない重度の虚言癖、いや、ごくたまに正直癖を発揮する虚言の塊がパワーという生き物だという。

 

 

「馬鹿らしい……、悪いけど貴方と話してる気分じゃ……」

 

 

 回り込んで道を塞ぐパワーとは別の方へ去ろうとレゼは振り返る。

 

 するともう一人、ラフな姿をした男が道の奥から現れたことにレゼは気づいた。

 

 

「パワーやめろ、どうしてお前はそう人様に迷惑ばかりを……」

 

「ちょうどいい時に来たな! おい女! はやく腑抜けてしまったチョンマゲを元に戻さんか!」

 

 

 レゼにはその男の顔に見覚えがあった。

 

 チェンソーマンの心臓をかけて戦い合った中で、妙に勘のいい動きをする公安のデビルハンター。

 

 戦いの時は気にも留めなかったが、後々になって彼がデンジの近しい人間だと彼女は知った。

 

 

「……会うつもりはなかったんだがな」

 

 

 早川アキは疲れたようにため息をついてレゼを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぜこうなっているのだろう、壁に背を預けるレゼが疑問を浮かべた時。

 

 

「なんでこうなってやがんだまったく……」

 

 

 時を同じくしてレゼの目の前、タバコ屋の小さな喫煙所のベンチに座る男は項垂れながら呟いた。

 

 

 あれから喚きだすパワーに二人は連れられ、とりあえずの日差しから逃れられる場所へとたどり着いたが二人の間に会話はない。

 

 

「チョンマゲを元に戻さんか!」

 

「戻すって言われても何の話か……」

 

「ここに来てから変なのじゃ! 日がな一日本を読んだり、散歩をしたり!! 死にかけのボケたジジイみたいに毎日ウロウロ……! 早く直さんかエロ女!!」

 

 

 その言葉に心外そうに顔を顰めるアキではあるが、パワーの言葉を聞いてその理由を察する。

 

 チラリとレゼはアキをみる。

 

 静かな表情、もはや余計な荒波を立てるつもりもないと、まるで余命を受け入れた人間のように彼はどこか穏やかに座って煙草を吸っている。

 

 

「あぁ……、そういう……。まぁのんびりした村だからね、こうなっちゃうのは仕方ないんじゃないかなパワーちゃん」

 

 

 恐らく彼は沈んでしまったのだろう、それが分かったレゼはそれ以上何も言うつもりはなかった。

 

 

「いや、あの悪魔、平穏の悪魔の仕業だろ」

 

 

 その言葉にレゼは一瞬息をのむ、どうやら目の前の男はそれを既に悟っていたのだと彼女は気づいた。

 

 

「し、知ってるなら初めから言わんかこの馬鹿モンがーッ!! 今すぐアヤツを血祭りにあげに行くぞチョンマゲ!」

 

「やめとけパワー、それだとデンジを守ってるこの場所が消えるだろうが、……そういやお前、デンジはどこだ? いつも一緒にいるだろ」

 

「ちょっと、いろいろありまして……」

 

「ふぅん……」

 

 

 勢いよくアキの頭を平手で叩くパワーだがアキはされるがまま、衝撃でその咥えていた煙草の灰が地面に落ちる。

 

 

「攻撃をしないと契約しておいてこれだ。やっぱり悪魔なんざ信用できねぇな」

 

「あなたは……」

 

 

 深くタバコの煙を吸いこむアキは、チラリとレゼを見るがすぐに目を背ける。

 

 

「なにもする気はねぇよ、悪魔との契約でどうせ俺はもうすぐ死ぬ、せめてデンジとパワーの無事を願うことぐらいしかやることもねぇし、余命を過ごすにはちょうどいい場所と思っただけだ」

 

「……だから平穏の悪魔と契約を?」

 

「したつもりはねぇ、厄介な悪魔だ。気づいたらこのザマだ」

 

 

 なんとなくであるが、レゼはこの目の前の青年から滲み出す苦労人の雰囲気に妙な親近感を覚える。

 

 

「じゃなきゃお前を見た時に刀ぐらい抜いてる……、お前は知らずに殺しただろうが俺の仲間達や恩人の仇だぞ、だから会う気もなかったんだがな……」

 

「そう……」

 

「別に今はそんなことしない、する気も起きねぇ……、デンジに免じてな」

 

 

 だが、その気持ちはすぐに霧散する。

 

 レゼのしたことを考えれば、彼が素面で顔を合わせることなどないとレゼは思い出した。

 

 

「……なぁ、お前みたいな女が、本当にあのバカのこと好きなのか? ハニートラップとかいうんじゃねぇだろうな」

 

「……いけない? 私みたいな人間がデンジ君の傍にいちゃ……?」

 

 

 自分みたいな女。

 

 そういわれた瞬間、彼女の体が強張る。

 

 

「……マジかよ」

 

 

 その反応を見たアキは驚いたように眉をあげながら彼女を見る。

 

 

「……悪いな、そういう嫌味で言ったんじゃない、スパイやれるだけの器量を持ったお前が、バカでスケベで下品で幼稚なあのアホを好きになる要素なんてねぇと思ったんだよ」

 

「ギャハハ確かにそうじゃのぉ!!」

 

「お前も似たようなもんだぞパワー」

 

 

 

 その言葉を聞いてレゼの瞳は揺れた。

 

 そのレゼの瞳をアキは掴みかかろうとするパワーを片手で捌きながら真剣に見返す。

 

 

「お前、本当にあいつのことが好きなのか?」

 

「私は……」

 

 

 アキのその目は誤魔化しを許さない眼差し、だからこそレゼはその目を真正面から答えられない。

 

 

「……わからない」

 

 

 初めは任務のため好かれる演技をしていた。

 

 そして今は好かれるために演技をしている。

 

 そこに本当の自分がいて、何を考えているかなど、もうレゼには分からないのだ。

 

 

 レゼはデンジの本音を知りたがりながらも、自分はその本音を彼に見せていないことを自覚した。

 

 

「……初めはただの標的で、殺すチャンスも何度もあった。すこし標的のことを知ろうと思って探っていくうちにデンジ君が私と同じような境遇だって知って……」

 

 

 自分と同じ境遇でありながら、自分に正直な少年。

 

 それは彼女にはあまりにも眩しく見えた。

 

 

「だんだん、彼が自分と重ねて……、でもデンジ君は純粋で……」

 

「純……、粋……? 欲望に忠実と言えばそうだが……、いやわるい、続けてくれ」

 

 

 なぜこんなことを赤裸々に話しているのだろうと、レゼはふと思う。 

 

 それはこの場所に巣食う悪魔の力、それよりも目の前の男の静かでありながらも此方を測ろうとする目の所為に彼女は思えた。

 

 先ほどの様子は平穏の中で牙が抜かれたと思ったが、彼の今の目を見れば、レゼは到底そんなことは思えない。

 

 ――なぜお前はデンジの横にいる?

 

 少しでも嘘や間違えを言えば平穏から這い上がり、自分を切り捨てかねない張りつめた空気を目の前の男は纏っているようにレゼは感じた。

 

 

「……彼を殺すと自分を殺しちゃう気がして……、だから理由を付けて任務を先延ばしにして……、私が彼を笑顔にすると、自分が救われる気がして……」

 

 

 レゼはそんな綺麗ごとで飾った言い訳のような言葉を吐いた後、自嘲しながら顔に手を当てる。

 

 

「……でも、それでもやっぱり私はデンジ君を殺せるし、こんなのは結局のところ自己愛でしょう?」

 

 

 これが純粋な好意だとはレゼは思えなかった。

 

 こんな自分でも好きだと言ってくれた少年の好意を利用して平穏を得ているだけ。

 

 

「だから……、多分、私はきっと、本当はデンジ君が好きじゃないんだと思うよ」

 

 

 罪を告解するようにレゼはそう答え、アキはその言葉をただ静かに聞いていた。

 

 

 しばらくして、アキは呆れたようにため息をつく。

 

 

 

「はぁぁぁぁぁぁ……、まじか? マジなのか? この世界を揺るがしてるお前ら二人の逃避行が、マジでただのラブロマンスなのか……!」

 

 

 

 ベンチで深く座っていながら、アキはその身を投げ出し、崩れ落ちそうになっていた。

 

 

「お前らは馬鹿か? ガキの恋愛じゃねぇんだぞ……」

 

「なっ……!」

 

「あぁ畜生……、そういやテメェらガキじゃねぇか……、マジで世の中クソったれだな」

 

 

 驚くレゼであったが、自身の必死に絞り出した言葉をガキの恋愛と見下す男に、ほんの少しだけ敵愾心を向ける。

 

 

「お前、デンジと色々あったって……、まさかそんなどうでも良い事でケンカとかしたんじゃねぇだろうな?」

 

「それは……」

 

「私の事なんてどうでも良いんでしょ、本当に私のことが好きなの、……ってか?」

 

 

 図星をつかれて言葉を詰まらせるレゼの様子を見てアキは天を仰ぐ。

 

 

「おかしいだろ、世界を簡単に敵に回せてなんでそこで躓くんだよ」

 

「……そんな簡単な話じゃない、デンジ君が幸せにならないと私達は……」

 

 

 その続きの言葉を飲み込むレゼに、もはや半笑いの表情を浮かべているアキはそのままの表情で鼻を鳴らす。

 

 

「メシ食って寝れるだけで幸せなあのバカが、嘘でも自分に好きという女の横にいて幸せじゃない訳ねぇだろ、適当にやっときゃお前に一生騙されるアホがあのバカだ」

 

「でも、デンジ君は別に私じゃなくても幸せに……」

 

 

 アキはレゼの言葉にうんざりした様子で吐き捨てる。

 

 

「あんなバカを好きになるバカが世に二人もいる訳ねぇだろ、自動的にお前が最初で最後だ」

 

 

 その言いようにレゼは眉をひそめて反論してしまう。

 

 

「デンジ君は結構モテてもいいと思うけど? 顔かわいいし、素直だし、何があっても笑顔だし……、なんでも美味しく食べてくれるし……!」

 

「ほぉ、親の欲目も冷める色ボケ具合だな、知性を感じない間抜け面、なんも知んねぇからすぐ騙される知性のなさ。危機感皆無でいつもヘラヘラしてるアホ、なんでも美味しく食べて……、まぁこれはアイツの少ない美徳か」

 

「それ、やっぱり貴方だったんでしょ? 私がデンジ君に手料理作って食べさせても “これ知ってるぜ、アキパイに作ってもらって激ウマだった” って何作っても貴方と比較されて迷惑なんですけど」

 

「しらねぇよ、残り物を適当にやって出してただけだ」

 

「適当な料理でコロッケやロールキャベツを家で作る独身男性いるわけないと思うけど?」

 

「チョンマゲはすぐ肉に野菜を混ぜようとするから嫌いじゃ!」

 

「こいつら連れて外食が面倒で、俺が食いたいから作っただけだが?」

 

「はい嘘つき、本当はデンジ君にいろいろ食べさせるのが楽しかったくせに……!」

 

 

 

 ムキになるレゼを見てアキは呆れた表情のまま笑う。 

 

 

「……お前、本気でアイツに惚れてんのか……、そんなザマでよく人を騙そうと思ったな」

 

「やーい、爆弾女のバーカバーカ! ギャハハハハ!」

 

 

 その言葉にレゼは口を開け閉めをして、最後に恨めしそうにアキを睨んだ。

 

 

「はぁ……、なんで俺は仇のしょうもねぇ痴話喧嘩に首突っ込んでるんだか……」

 

「そんな話してないけど」

 

 

 レゼの言葉を無視してアキは立ち上がる。

 

 その背は先ほどより伸び、一本の芯が通ったようにレゼには見えた。

 

 

「パワー、もう行くぞ、バカンスもそろそろ切り上げる」

 

「……おっ?」

 

「こっちは先行き短いんだから、やれることは今のうちにやっとかなきゃいけないからな」

 

「アキはバカマジメじゃのぉ~、わざわざサボり放題なのに仕事とは、ウヌは馬鹿か?」

 

 

 タバコを灰皿に強く押し付けたアキは立ち上がる。

 

 その去り際、アキは最後にレゼを見た。

 

 

「じゃあな、お前の罪は許されるもんじゃねぇ、だがデンジの幸福くらいは願ってやるよ」

 

「……デンジ君を好きになるバカは世に二人もいないんじゃなかったの?」

 

 

 その言葉にアキは誤魔化すように薄い笑みを漏らす。

 

 

「あんなバカを男として好きになるバカが世に二人もいる訳ねぇが、あー、かぞ――、……仲間としてなら悪く思わねぇ奴は、……まぁ一人や二人ぐらいはいるのかもな」

 

「ワシはデンジの苦しむ顔が好きじゃ! さっさと別れてしまえバーカバーカ!」

 

 

 そういって二人は日で熱された道路の蜃気楼の上を歩きながらレゼの前から去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 砂浜に横たわったままのデンジはレゼが去った後も同じ姿のまま、曇りない青空をただ見ていた。

 

 

「レゼはなんであんな急に怒り出したんだ? なぁポチタ? やっぱあれフラれたってことだと思うか?」

 

 

 デンジは横になってから何度もレゼに言われたことを反芻する。

 

 

「……思えばよ、オレっていっつもレゼにしてもらってばっかりで、なんかしてあげたことってあんま思いつかねぇんだよなぁ……、花束ぐらいじゃね?」

 

 

 かわいい女が横にいればそれでいい。

 

 レゼのことが本気で愛してはいない。

 

 結局自分は全てがどうでも良い人間。

 

 

「そうは言われてもよぉ、レゼがいなくなったらオレぁ間違いなく一生引きずるぜ? そういうこと言ってやればよかったのか?」

 

 

 そこまで考えてデンジはふと考える。

 

 

「あーでもよ? 言われてみれば……、例えば傷心中のオレにすげぇ美女、……例えばマキマさんとかがオレをなぐさめてくれたりしたら分かんねかもなぁ……、えー? でもそれもダメなのか……、こういうこと考えることがレゼ的にはナシ?」

 

 

 自身の胸の奥に手を当てて問いかけるデンジ、しかし帰ってくるのは鼓動の音だけ。

 

 

「オレはオレのこと好きな人が好きだ。だからたぶん美人に好きって言われたらオレぁコロッと騙される」

 

 

 正直な心中を言ってみるデンジ。

 

 

「それがレゼは気に食わねぇんだろうけどよぉ……、わっかんねぇなぁ……、なぁポチタ? なんて言えばよかったんだと思う? このままレゼに会ったらまた怒らせそうで怖ぇーよ……」

 

 

 何が彼女を傷つけたのか、どうすれば自分は良かったのか。

 

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ! 分かんねぇ!!」

 

 

 必死に頭を回すがそれを言語化できないデンジは今日何度目かの脳のオーバフローが訪れた。

 

 

「レゼは……、レゼは何かちげぇよ、オレんこと好きだし、オレも大好きだけど……、あーなんて言ったらいいか分かんねぇ、マジでオレってバカだよな……」

 

 

 自問自答を繰り返すデンジ。

 

 そしてそんな風に悩みながら時が経ち、しばらくして、デンジの耳に砂を踏みしめる音が聞こえた。

 

 

「レゼ?」

 

 

 すぐさま上体を起こし、振り向いた先の視界に映った人物はデンジの望んだものではなかった。

 

 

「あー、悪いね、私だよデンジ君」

 

「なんだ店長かよ……」

 

 

 再度砂浜に倒れ込むデンジに、まぁそういう反応だろうと苦笑いを浮かべる平穏の悪魔。

 

 

「レゼ君と喧嘩しちゃったんだって?」

 

「……そうだよ」

 

 

 投げやりに答えるデンジから少し離れた所に平穏の悪魔は腰を下ろす。

 

 デンジはその様子を見て、少し考えた後に口を開いた。

 

 

「アドバイスなら要らねぇぜ」

 

「へぇ、どうしてそう思ったんだい?」

 

「分かんねぇけど、オレが考えなしだからレゼは怒ったんだ。だからこれはオレが考えねぇといけねぇもんなんだと思う」

 

「素晴らしい……!」

 

 

 平穏の悪魔は目を見開き、拍手をしかねない勢いでデンジに対して感嘆の吐息を漏らした。

 

 

「その通りだよデンジ君、こんなよくある話はね、自分と自分たちを見守る人がいれば事足りる。それに手出ししようとする無粋な奴なんて馬に蹴られてしまえばいいのさ」

 

「あー、だったらわりぃけどしばらく一人で考える時間くれねぇか?」

 

 

 その言葉に悪魔は肩をすくめて困った顔を浮かべた。

 

 

「スポンサーの要望でね、止めておけと言ったのに、ここに私は蹴られに来たんだ」

 

「あー? どういうことだ?」

 

「結局、盤面をひっくり返せる奴の機嫌は取らなきゃいけないってことさ」

 

 

 疑問の表情を浮かべるデンジに悪魔は面倒そうに上司の命令を思い出す。

 

 

 平穏の悪魔にとってしてみればあまりにもナンセンスな命令。

 

 しかし相手は不干渉の契約を口にしながらも、奥の手がある。

 

 その手段を取られてしまえば平穏の悪魔に抵抗する手段などなかった。

 

 

 悪魔はすこしだけ目を細めながらデンジに落ち着かせるように語り始める。

 

 デンジの動揺を引き出し、その隙間に平穏の熱を沁み込ませるため。

 

 

 

「彼女はね、まぁ詳しいことを省くと。君を幸せにできないと死んじゃう契約を私と結ん――」

 

 

 

 その一言に、デンジはすぐさまブースーターを引き、店長に切りかかった。

 

 

「そう来ると思ったよ」

 

「あ?」

 

 

 振りかぶるチェンソー、しかしデンジの目の前にある光景を見て、その瞳孔が開く。

 

 

「デンジ君……、店長の話を聞いてあげて?」

 

 

 ――そこに立っていたのはレゼの姿であった。

 

 

 姿かたち、声から喋り方、その温度や臭いまで完全に同一の姿。

 

 

 その姿を見てさしものデンジも――

 

 

「おらぁ!!」

 

「あぶなっ! ……普通ノータイムで斬るかい!?」

 

「さっきどっか行ったんだから、ここにレゼがいる訳ねぇだろ」

 

 

 デンジはそのままの勢いで振り切り、平穏の悪魔は腰を抜かしてその一撃を間一髪で回避した。

 

 

 そこに動揺は一切ない、デンジはまやかしに騙されることなく冷徹に判断をしていた。

 

 

「もし本物だったらどうなると、レゼ君がかわいそうだとは思――」

 

「可哀そうだけどよぉ、そんときゃピン抜いて甦った後、土下座だな」

 

 

 合理的な判断。

 

 だが常人ならそれでも躊躇いぐらいは見せると平穏の悪魔は苦々し気にデンジを見た。

 

 

「じゃあな」

 

 

 デンジの目に怯えはなく、いつもの顔のまま腕を振りかぶろうとしている。

 

 それを見た平穏の悪魔は慌てて右腕を突き出して殺される前に声を上げた。

 

 

「私を殺したら結果的にレゼ君は死――」

 

「あぁ? マジ?」

 

 

 その言葉を言い切る前に平穏の悪魔の右手が鮮血を散らしながら宙を舞う。

 

 

「おー、それで、レゼがなんだって?」

 

「グッ……! 私を殺す気かい……?」

 

「殺してねぇじゃん、話なら聞くから言ってくれよ、オレぁアンタに世話になったからな」

 

 

 あれだけ朴訥に暮らしていたデンジはいつもと変わらない表情で平穏の悪魔を見下ろしていた

 

 

 平穏の悪魔は目の前の少年を恐れた。

 

 恐れや感情の変化なく行われる即断。

 

 平穏の悪魔はデンジを全く理解できない、だからこそこの目の前の少年は平穏のことなど欠片も理解していないのだろうと恐怖する。

 

 

「まったく……! だからこんな方法は嫌だったんだ……」

 

 

 悪魔は上着を脱ぐとなくなった腕先をきつく縛り、反対の腕でその断面に手を当てる。

 

 すると流れる血は止まり、その生々しい傷にはつるりとした皮が張っていた。

 

 

「悪魔だって不死身じゃない……、腕を生やすのにどれだけ時間がかかると」

 

「わりぃな店長、妙な動きをしたら次は頭を生やすため頑張ってもらわなきゃいけねぇことになる。……で――」

 

「はぁ……、分かってる。レゼ君のことだろう? だから今言うから話を聞いてくれ」

 

 

 平易な顔をしながら、彼の中で渦巻く怒りを悪魔は確かに感じていた。

 

 余計な隠し事はせず、平穏の悪魔は端的に事実のみを伝えた。

 

 

「彼女はね、君を守る為に私と契約を結んだんだ」

 

「オレのため?」

 

「君の心臓は世界中から狙われているのは知ってるね? そのせいで君は一生世界から狙われ続けることになっている」

 

 

 そんなことは言われなくてもデンジは身をもって知っている。

 

 浅い理解であるが、どうやら自分の心臓であるポチタが思ったよりもすごい悪魔だったと知ったデンジである。

 

 

「知ってるぜ? 最近どうやらポチタはすげぇモテモテって分かってきたからな、でも残念、ポチタと一番仲良しなのはオレなんだなこれが」

 

 

 そんな単純な反応に平穏の悪魔は曖昧な笑みを返す。

 

 

「 “君の夢を見せる代わりにチェンソーマンは君に心臓を渡す” 君とチェンソーマンは大の仲良しみたいだね、だから単純なやり方ではチェンソーマンの心臓は手に入らない」

 

「なんでそれを知ってるのかは知らねぇけど、つまり結局はオレを殺して心臓を奪うんだろ?」

 

 

 そう結論付けようとするデンジに平穏の悪魔は変わらない笑みを浮かべながら言葉を続ける。

 

 

「ちがうよ、代わりの心臓は用意する。こう言い変えた方が良いかな? 君は“もう一度ポチタと会いたくないのかい”?」

 

 

 デンジの回転鋸の勢いが弱まる。

 

 デンジの怒りが萎んでいく様子に悪魔はほっと息をついた。

 

 

「……ポチタに会えんのか?」

 

 

 そしてその言葉を聞いて、平穏の悪魔は人好きしそうな笑みをさらに深めた。

 

 

「あぁ、君が夢を叶え、幸福を受け入れればチェンソーマンとの契約は完了する。だからこそ私はこう考えた。だからその瞬間に心臓を取り換えれば、君とチェンソーマンを分離できるのではないかとね」

 

 

 

 悪魔の言葉は一見デンジにとってなんら損のない話に聞こえた。

 

 だが、デンジはまだ心に引っかかりを覚える。

 

 

「つぅかオレが幸せにならないならレゼが死ぬって言うのはどういうことだよ、断ったら結局オレらを殺す気か? レゼをどうにかするならオレはアンタの話なんてなんも認めねぇ」

 

 

 

 デンジは語気を強めるが、平穏の悪魔は相変わらずゆったりとした動きで口を開いた。

 

 

「私は君達を害するつもりは一切ない、でもね、私はそう思っても、私の上役はそうは思ってないってことさ」

 

 

 平穏の悪魔はデンジの言葉に、空を飛ぶトンビを見上げながら忌々しそうに呟く。

 

 

「実を言うと私はただの雇われでね、僕の上にいる奴の名前は “支配の悪魔” まぁ、とても強くて悪い悪魔さ、……支配の悪魔は自分より程度の低いと思った存在を支配できる。もちろん私は彼女との相性が最悪で、下も下だと思われているね」

 

「また新しいヤツが出てきたなぁ……」

 

 

 突然明かされる新しい悪魔の名前。

 

 平穏の悪魔は一息ついてからデンジの目を見た。

 

 

「分かるかい? レゼ君は“支配”を受け入れている(平穏)を受け入れたんだ。これが何を意味するか……」

 

 

 デンジは目の前の悪魔を見下ろしながらその言葉の続きを待った。

 

 

「つまり私を介して彼女をいつでも支配することが出来る、レゼ君の命は今、支配の悪魔の手のひらの上ということだ」

 

 

 平穏の悪魔の話す言葉にデンジは表情を硬くする。

 

 

「あー? つまりアンタの命令に逆らえねぇレゼは、さらにエラい支配の悪魔の命令に逆らえねぇってことだな?」

 

「そうだね」

 

「うーん、じゃあやっぱ店長を殺すしかねぇなぁ……」

 

「君は揺れないねぇ……」

 

 

 悪魔は瞑目する。

 

 短慮で浅い精神性、しかしそれは太く短い棒の心。

 

 そのように決して折れない強靭な精神のようにも平穏の悪魔は思えた。

 

 

「だから判断が早すぎる……、今ここで私を殺したらそれこそ支配の悪魔や刺客達がここに押し寄せてくる」

 

「……じゃあよ、アンタは結局オレに何して欲しいんだよ?」

 

 

 ようやく話しの本題が言えると平穏の悪魔は安堵から息を漏らした。

 

 

「レゼ君と幸せになればいい、そうすれば君はチェンソーマンとした契約を満了し、その心臓を別の心臓と取り換えて普通の人間として生きることが出来るからね」

 

「オレぁ今幸せだぜ?」

 

「それだ。君はね、この村でレゼ君と過ごしても心の底からその幸せを受け入れていない、だからレゼ君はあんなに焦っていたのさ」

 

 

 幸せでない、そう言われたデンジはうんざりとした顔を平穏の悪魔に向ける。

 

 

「はぁ……、またこの話かよ、だからオレはハッピーだって言ってんのに、なんでどいつもこいつもオレんこと不幸だって決めつけんだ?」

 

「本当にそうかい?」

 

「アンタバカか?自分が幸せかどうかなんて馬鹿なオレでもわかるぜ?」

 

「それを理解できる人間のなんと少ない事か、ここで揺れてくれないのが君の厄介な所だねぇ……」

 

 

 平穏の悪魔は少年の精神の頑強さに感心するが、デンジは訝し気に悪魔を見下ろした。

 

 

「……レゼがその支配の悪魔って奴にいつどうかされるかも知んねぇんだろ? なぁやっぱ店長には悪いけどここで――」

 

「待て待て、私の領域に30年は手出しをさせない契約をしてる。その間君達の安全は保障する。その間君たちはこの村で自由だ。何をしたっていいんだよ?」

 

「うーん、悪くねぇ気もするがなんか話がゴチャゴチャしてきたなぁ……」

 

 

 しかし言葉を弄してもデンジの表情は変わらない。

 

 

 

「なぁ、その支配の悪魔ってヤツぶっ殺せば何とかなんねぇの?」

 

「……彼女を殺すのはおすすめしないかな」

 

 

 悪魔が見せた平穏の形すら何の躊躇もなく切り捨てた目の前のネジが外れた少年は常識では計り知れない。

 

 しかし、その相手が支配の悪魔であれば、勝てる見込みはないと平穏の悪魔は考える。

 

 

「彼女って、支配の悪魔って女なのかよ、……いやヒルみてぇなのだったら別に殺してもいいかぁ」

 

「私みたいに見た目は人間だね、目立つ目鼻をしてるよ、世間じゃ美人って言われてる」

 

「えー、勘弁してくれよ……、オレぇ、美人とか斬りたくねぇんだよなぁ」

 

 

 平穏の悪魔が吐いた今までの言葉より、その一言がもっとも効果的にデンジの気勢を削いでいた。

 

 そのことに悪魔が気づいてしまい、呆れのため息が出てしまう。

 

 

「支配の悪魔の正体はマキマ、公安にいる 内閣官房長官直属のデビルハンター、つまり君の元上司だよ」

 

「……マジ?」

 

「本当さ」

 

 

 その言葉に初めてデンジに動揺らしき表情を浮かべる。

 

 その姿をみて平穏の悪魔は目を細めた。

 

 

「だからレゼあんなにブチギレだったのかよ!? やっべ!? そ、そりゃあん時マキマさんの名前出したらキレるか……!」

 

 

 だがこの動揺は違う、これは表層的なものだと悪魔は気づく。

 

 

「……女の子のデートで他の女の子の名前出しちゃダメだろう」

 

 

 だがその動揺を感じる精神の先にデンジの歪みがあるのではないかと、平穏の悪魔は探りを入れる。

 

 

「君はまだマキマのことが好きなのかい?」

 

「あぁ? 関係ないだろ、マキマさんはオレんこと拾ってくれた恩人なんだよ」

 

「衣食住、親しい友人、好きな人、君に与えた全てが君を絶望させるために用意した物であってもかい?」

 

「あ?何言ってやがる。つーかさっきからなんだ、マキマじゃなくてマキマさんだろ、上司には敬語使え敬語」

 

「はぁ……、まさかまだ気づいていないのかい、彼女の目的はチェンソーマンであって君じゃない」

 

 

 まさか気づいていないのだろうかとも思ったが、平穏の悪魔は心中で否定する。

 

 ここまで勘のいい彼がそのことに気づいていないとも思えなかったからだ。

 

 

「彼女の善意も好意もチェンソーマンが目的さ、あの女が人間に興味を持つと本当に思っているのかい?」

 

 

 デンジの表情が一瞬だけ消える。

 

 普段の調子を変えない彼のほんの少しの空白、それを悪魔はかぎ分ける。

 

 

 

「……今、君、私の言葉の意味を考えるのを止めただろ? いけないよ、だからレゼ君も怒らせちゃうんだ」

 

「うるせぇな……」

 

 

 

 デンジの揺れる目を平穏の悪魔はのぞき込む。

 

 誰よりも人間の心の平穏を知る悪魔は、誰よりも人の心の傷も知っていた。

 

 

「デンジ君、君が彼女と平穏に過ごせば全部丸く収まるんだ。どうして拒むんだい?」

 

「知らねぇよ……!!」

 

「幸福を知らない訳でも、恐れているわけでもない、なのに君は心からの平穏を感じない……、何故かな……?」

 

 

 平穏の悪魔はデンジを観察し続けていた。

 

 何を好み、何を嫌うか、一体デンジの平穏の形は何か?

 

 そしてどう揺さぶればデンジの心が溶け、その剥き出しの中身を晒してくれるのかを――

 

 

 

「無知でいることこそが幸福なのだと無意識に思っている。……だから知ることを恐れている。……うーんこの理由もそれっぽいけどどこかズレてるなぁ……」

 

「なぁいい加減に……」

 

「理解を恐れる……、いや逆なのかもしれない」

 

 

 その言葉を聞いている内に、デンジは無意識に腕のチェンソーを振り上げた。

 

 

「君はもしかして、何かを忘れたいのかな……?」

 

 

 

 平穏の悪魔の言葉にデンジは初めて苦し気な顔をする。

 

 

 

 彼は()()した。

 

 

 平穏の悪魔は人の心の隙間に入り込む、その瞬間を悪魔は見逃さなかった。

 

 

 

「悪いね、デンジ君」

 

「グッ……!?」

 

 

 

 初めにデンジの鼻先を柑橘の匂いがくすぐる。

 

 耳からは自分の名を呼び起こす少女の声、あるいは誰かが言い争う騒がしい食卓の騒ぎ。

 

 肌に感じる抱きしめた小さな古い友人、あるいは手を回わされ抱きしめられた温かい恋人の腕の感触。

 

 

「彼女は君を心の底でなんでもいいと思ってると言ったけど、私はちょっと違うと思っててね」

 

 

 デンジの心を駆け巡る抗いがたい暖かさ。

 

 

「君はもしかしたら、そう思わなければ生きていけなかっただけなんじゃないかな?」

 

 

 

 そして、デンジは苦し気に頭を抱え意識を手放す。

 

 その姿を悪魔は微笑みながら見下ろしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づけばデンジ目の前にはいつもの通りに一枚のドアがあった。 

 

 赤錆びたドアに無数の張り紙、覗き穴があるはずの場所にはこちらをのぞき込むような目玉。

 

 手を見ればその姿は幼い頃の自分。

 

 

 

「……ポチタ?」

 

「デンジ……」

 

「今オレ、ポチタに早く会いたくて……」

 

「デンジ……、早く起きなきゃダメだ……」

 

 

 ドアに手を伸ばすデンジ、しかしポチタは焦ったようにデンジを制止する。

 

 

「なんでだよ、今、オレすげぇ悩んでて……、ポチタに相談したかったのに……」

 

「ダメだ……、ヤツが来る……」

 

 

 その言葉の意味が分からず。ポチタに問いかけようとしたデンジの背後から足音が聞こえる。

 

 

「あぁ、なるほど……、そういうことだったんだね」

 

 

 その人影に輪郭はない、ただあたたかく柔らかい、抗えない安らぎの暴力がそこにいた。

 

 

「あんただれだ?」

 

 

 その顔を見たデンジの膝には力が入らない。

 

 動けないデンジにゆっくりと近づくその悪魔は、デンジの小さな肩に手を置く。

 

 

 それだけでデンジは腰砕けのようにそこに座り込んでしまった。

 

 

 

「そう……、君も皆と同じ、悲しい人なんだね」

 

「あ……」

 

 

 唐突にデンジの目に涙が溢れる。

 

 

「デンジ……!!」

 

「辛かったね、君の所為じゃないんだ……、君は幸せになっていい」

 

 

 ドア越しから滲み出る程に濃厚な殺意が迸る。

 

 それを見て顔のない悪夢はため息をついた。

 

 

「……初めましてチェンソーマン、私は平穏の悪魔です」

 

 

 返事はない、ただ突き刺さる敵意のみが平穏の悪魔の輪郭を揺らした。

 

 

「……出てこれないでしょう、貴方はドアの向こう。そこを守りデンジ君に開けさせないために閉ざしている……」

 

 

 その穏やかな言葉に返されるのはやはり殺意、デンジに触れる面積を増やしていくごとに目の前のドアから空間が歪むほどの害意が溢れ出る。

 

 

「素晴らしい献身だ。チェンソーマン、平穏とは程遠いあなたのことが苦手でしたが少し好感を持ちました」

 

 

 それを感じ取った平穏の悪魔はデンジの頬を撫で、その姿を見せるように手を広げる。

 

 

「ポチタ? 怒ってるのか?」

 

「デンジ……」

 

 

 辛そうに声を出すその声を聞いてポチタの敵意が萎んだ。

 

 

「君達は素晴らしい、親友であり家族でもある。深くつながった存在。私のような他者がここに立ち入ることのなんて無粋なことでしょうか」

 

 

 そう呟いた平穏の悪魔はまるで目を伏せるようにその顔のない頭を俯かせた。

 

 

「ですが分かっているのでしょうチェンソーマン、今デンジ君の夢の邪魔をしているのが誰か……、この扉の先を彼が知らない限り、本当の意味で彼が幸福を受け入れることはないと……」

 

「お、おまえ……、何言って……?」

 

「デンジ、大丈夫だ……、大丈夫だから……」

 

 

 平穏の悪魔はデンジとドアを遮るように、彼の目の前に目を合わせるように立った。

 

 

「いつか君は扉を開ける。そのカギの役目は彼女のはずだったんだけどね……、恨んでくれても構わないよ」

 

「……デンジに触れるな……!!」

 

 

 背中に受ける強烈な殺意、地獄で受けるならそれだけで自死を選ぶ悪魔は多いだろう。

 

 だがここは心の世界。

 

 この世界においてのみ、平穏の悪魔に抗えるものなどいなかった。

 

 

「さぁ、デンジ君、思い出して……」

 

 

 動けないデンジの顔の両頬を包み込むように温かい何かが触れる。

 

 

「君の原初の平穏を……、胸に抱く彼との思い出を……」

 

「あ……」

 

 

 デンジの胸に飛び込む温かい温度、幾日の寒夜の中、心壊れかけた日々の中でさえその腕の中にあった平穏。

 

 

「ダメだ……! デンジ……! 起きるんだ……!」

 

「あ……!」

 

 

 満たされる心の内、幸福の表情を浮かべてしまうその温かさ。

 

 しかしそれは突然失せる。

 

 驚き目を開ければ腕の中はからっぽであった。

 

 

 いつの間にか立ち上がっていた平穏の悪魔はデンジの頭を愛おし気に撫でた。

 

 

「さぁ……、君の大事なポチタを抱きしめに行ってあげよう」

 

 

 平穏は体を横にずらしドアを示すように体を横に広げた。

 

 

「……ポチタ」

 

 

 ふらふらと立ち上がるデンジはドアへ歩き出す。

 

 

「デンジ……、起きて……、ダメだ……」

 

「いま、抱きしめに行くから……」

 

 

 デンジの目は既に霞がかっており、正気ではない。

 

 まるで極寒の地を歩くように身を震わせる幼い少年はドアに手をかけた。

 

 

「デンジ……、開けちゃだめだ……!」

 

 

 デンジはその扉を開く。

 

 

「あ……」

 

 

 ギィギィと、天井が軋む。

 

 

 狭い部屋、小汚く乱雑に置かれたその中で、デンジは目の前で揺れる影を見た。

 

 

「あぁ……」

 

 

 天井から伸びた綱に繋がる、異様なほど不気味に伸びた首。

 

 その顔の陰から顔が映る。

 

 

 影の中から表情がのぞく、デンジはその顔に浮かぶ二つの虚ろと目が合った。

 

 

 

「そっか……、オレのせいだったんだな……」

 

 

 

 

 全てを理解したデンジは膝をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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