カアーカアーとカラスが鳴いている。
いつもなら気にもしないことだけど、僕はその鳴き声がする場所へと足を向けた。
僕と姉が暮らすアパートは目の前で、早く帰らないといけないと分かってる。けど、どうしても放っては置けなかった。
だって、カラスが鳴いていたのは電柱の下でうずくまる、女の人の頭の上だったから。
「……ごめんね?」
僕はカラスに謝ると彼は僕の言葉が分かったように、女の人の頭から飛び立ってくれた。
目を下に向けてじっと動かない女の人。
黒いセーラー服を着ていて、ボサボサの黒髪の人。
顔を隠す髪の間から見えたのは赤い縁のメガネだった。
「あのー……」
「ん、あ……?」
声をかけると、女の人は口を半開きにして僕を見た。
周りをキョロキョロ見て、もう一度僕を見る。
「君は……?」
「僕は黒山国土《くろやまこくと》。小学五年生です」
「あー……、こくとくんか」
こくと、こくと……。
女の人は僕の名前を何度も繰り返す。
「……こくとくん」
「はい」
「すまないが、何か――」
ーーぎゅるるるるるるる。
女の人のお腹からとても大きな音が鳴った。
さっきのカラスの鳴き声よりも大きな音だ。
女の人はお腹をさする。
「食べるものを持ってないだろうか。聞いた通り、私はとてもお腹が空いているんだ。すまない……」
女の人はゆっくりとした動作で頭を下げる。
でも、食べられるもの。
僕はお金を持ってないし、アパートに帰っても冷蔵庫にあるのはお姉ちゃんが買ってくれたものだ。
勝手に使うことなんてできない。
そう思ったところで思い出した。
「あ、そうだ!」
僕はお婆さんからたくさんの果物をもらったのを思い出す。
傍に置いていたビニール袋から一つ、綺麗な桃を取り出して、女の人の手に置いた。
「これでよかったら」
「……ん!? これは桃じゃないか! 桃は私の大好物なんだ!」
女の人はギラリと目を輝かせて、桃に齧り付く。
パクパクと口を動かして、とても美味しそうに。
あげた僕も嬉しくなる。
こうやって女の人を空腹から助けられたのもの、お婆さんのお陰だと感謝した。
「ふぅ……、美味しかった。こくとくん、ありがとう。君は善い人間だね」
「ぼくは人として当然の事をしただけですよ」
「ううん、なかなかいない。人はそこまで純粋ではないんだ」
真っ直ぐとした目で僕にそう言う女の人。
なんだか難しくてよく分からないけど、女の人は元気になったようで、その場に立って大きく伸びをした。
腕もぶんぶん回している。
元気になってくれたみたいだ。
「ふう……、本当にありがとう。君がいなければ私はここで餓死していただろう」
大袈裟だなって思ったけど、女の人の目はすごく真剣で冗談でないというのが、僕でも分かった。
そして、その目で僕を見たまま細く白い手で僕の肩を掴んだ。
「で、だ。お礼に私の助手にしてあげよう」
「助手……?」
「そうだ。この私の助手になれるんなんて、本当に名誉なことなんだぞ?」
この人の助手になる。
それがそんなにすごい事なのだろうか。
僕にはどうしても分からなかったけど、女の人は何度も頷いて、そうしよう、それがいいと言っている。
「まぁ、いきなりで心の準備もできないだろうから後日迎えにくるとしよう。では、さらばだ」
そう言って女の人はぼくに手を振るとその場を去っていった。
とても早足で、さっきまで倒れていた人とは思えない。
「……」
僕はビニール袋の中から一つ、桃を取り出して口に運んだ。
「……美味しい」
甘くて美味しい。
けれど、すぐに元気になるような不思議な力があるようには思えなかった。
――
「ただいまー」
「おかえり、お姉ちゃん」
リビングで宿題をしていると、玄関からお姉ちゃんの声が聞こえた。
僕の鉛筆を置いて、玄関まで迎えに行く。
「お疲れ様」
「うん、疲れたあ……。お腹空いたでしょ? すぐにご飯するからね」
「うん!」
お姉ちゃんはスタスタと歩いていく。そして、手を洗って台所に立った。
「さてと……」
お姉ちゃんはテキパキと動いて、ご飯を作っていく。
本当は僕が作りたいんだけど、これだけは私がやる!と譲ってくれなくて、ご飯だけはお姉ちゃんに任せている。
お姉ちゃんは花嫁修行だと言っていたけど、それが違う理由だって事は僕でも分かった。でも、言わない。
お姉ちゃんが僕のことを思って、そうしてくれていると知っているからだ。
「出来たよー!」
ちょうど宿題を終わらせた時、お姉ちゃんの呼ぶ声が聞こえた。
とてもスパイシーな匂いがする。
この食欲を刺激する匂いは、カレーだ。
「わあ、美味しそう」
「今日はこくとの大好きなカレーにしてみました!」
「やった! ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
お姉ちゃんは嬉しそうに笑う。
僕は席に座って、手を合わせた。
スプーンをとって、カレーを口に運ぶ。
「美味しい!」
「ふふ、良かった」
久しぶりのカレーはすごく美味しい。それにお姉ちゃんの笑顔が嬉しくて、どんどん食べ進めた。
夢中で食べていたら、いつのまにかお皿は空っぽに。
それを見たお姉ちゃんは嬉しそうに笑った。
「ん、そんなに美味しかった?」
「うん! すごく!」
僕のお腹の中は幸せでいっぱいだ。そして、空になったお皿を片付けようと思ったとき、お婆さんからもらったたくさんの果物を思い出した。
「そうだ、お姉ちゃん。実はね――」
僕はお婆さんを助けて、お礼としてたくさんの果物をもらったことを話した。
「それがお婆さんからもらった果物? すごいたくさんもらったのね」
「食べ切れるかなあ……」
僕とお姉ちゃんが食べれる量にも限界がある。
でも、お姉ちゃんはまたニコニコと笑って僕の頭を撫でた。
「大丈夫! 余ったらジャムにすればいいし、心配しなくても大丈夫よ」
「そっか。良かったあ」
「……あ、そうだ!」
せっかく貰った果物を腐らせてしまったら、あのお婆さんにごめんなさいをしないといけなかった。
一安心だと息を吐けば、お姉ちゃんは何を思い出したのか、早足で自分の部屋へと走っていった。
トトトと戻ってきたお姉ちゃんは、青くて綺麗な手のひらサイズの箱を持っていた。
それを僕の手のひらに乗せる。
どうしていいか分からない僕は首を傾げた。
「お姉ちゃん、これは?」
「開けてみて」
「……うん」
言われた通り箱を開く。
そこには青く光る宝石がついたネックレスがあった。
「ひっ……!」
僕の手からネックレスが落ちた。
知ってる。僕はこれを知ってる。
首が痒い。とても痒い。
それに火傷の後が熱くて、身体が火が吹き出そうだ。
顔から汗がだらだらと吹き出してくる。
「お、お姉ちゃん……」
「ごめんね、こくと」
お姉ちゃんがぎゅっと僕を抱きしめる。
それがとても心地よくて、少しだけ痒みがおさまった。
そんな僕をお姉ちゃんは真っ直ぐ見てこう言った。
「これをこくとにどうしても渡したくて」
「僕に……?」
「そう。だってこれはあの人のものであると同時に、おばあちゃんの形見でもあるから」
それは……。
僕は震える手で、落としたネックレスを拾い上げる。
これはあの人が持っていたもの。見ただけでいろんな事を思い出してしまう、嫌なもの。
けど、僕はそれをぎゅっと握りしめた。
「おばあちゃん……」
あの人たちの中で一人、僕を守ってれたおばあちゃん。
傷だらけになっても僕を包み込んでくれた。
だからこそ僕は今、ここにいるしお姉ちゃんとも暮らせてる。
「わかった。このネックレス、大切にするね」
僕の言葉にお姉ちゃんは悲しそうに、でも嬉しそうなヘンテコな顔で笑った。
おばあちゃんが亡くなって、2年が経とうとしていた。