ドリームノート   作:めるね

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ラストノート

 

 

 

 ――――そうして、【今】、この刹那に――私は【繰生エルに消された記憶】を思い出した。

 

 走馬灯どころでは済まない記憶の奔流。感情の濁流。

 

 つい先程、出会い、捜査し、学び、戯れ、信じ、手を取り、裏切られた――

 

 けれど、その記憶は決して地続きではない。

 

 私の眼前に、狂気の笑みを浮かべていた【裏切り者】の姿はなかった。

 

 ただ、現実だけがあった。

 

 忘れてしまっていただけの、ただの現実が。

 

 ――あぁ、そうだ、ここは……

 

 ここ、は――――

 

 

 

 

 

 

 【処刑✔】

 

 

 【己は決定的な間違いを犯した】。

 

 

 

 

 

 

「――――――――」

 

 視界が歪み、言葉が出ない。

 

 看守に捕われ、処刑台に連行される白い少女。

 斬り裂かれた……いいや私が斬り裂いた袖、そこから覗く両腕の包帯。

 それは手筈通りであれば、私が作った傷痕を覆っているはずで――

 

 血の染み一つない純白のそれは、ゆらゆらと、音もなく解けてゆく。

 一段、繰生エルが処刑台へ続く階段を登る。

 二段、役目を終えたと宣言するように、用済みとなった包帯は……処刑台から逆行するように階段の底へと舞い落ちた。

 

 ――繰生エルの、腕の傷は痕さえ欠片も残さず消え去っていた。

 

 それは決して単なる怪我の治癒を意味しない。

 シルクのように美しい素肌は見る影もなく、闇色にくすみ、鋭利な爪を備えた――異形の手がそこにはあった。

 

 すなわち……【繰生エル】の【魔女化】の証明。

 

 その瞬間、私は何かを叫んだのだろう――

 待てとか馬鹿なとかなぜだとかそんな陳腐なセリフのオンパレードだったような気もするが覚えていない。

 

 支離滅裂な言葉の羅列を受けた繰生エルは、記憶を消される直前のそれよりさらに深く、これ以上ないほどの喜悦の笑みを湛えていた。

 

「――ああ、あぁ、自力で……思い出してくれたのですね。嬉しい……素敵です、フゼアさん――」

 

 笑っている。

 頬に両手を添え、悦んでいる。

 眼前の光景と甦った記憶の狭間で頭蓋が揺らぐ。

 

 繰生エルは裏切者だ。

 私の記憶を消し去り、確かに彼女は私を裏切ったのだ。

 

 【私を裏切って、処刑されようとしている】――!!

 

 きっと私は――待てこの裁判結果は誤っている犯人は私だ処刑台に登るのは私だやり直せそこには私がだとか何とか喚いたのだろう。

 ようやくまともな意味を持つ言葉を吐き出した気がする。

 

 突如として脇目も振らず暴発した二人の狂態に唖然としているのか、誰もが困惑の声一つ漏らさない。

 

「ゴクチョーさん。これはやり直せるのですか」

 

 少女が唄うように問いかける。

 

「もう決定してしまったので無理です。なんか妙な事情があったみたいですけど、決まりは決まりですので、面倒ですしこれで終わらせちゃいましょう」

「――みたいですよ?」

 

 ほざけ、貴様らの戯言など知ったことではない……!

 

 何だ、何なのだ、これは、いったい、どうなっている――!?

 

 どうして裏切られた私は、必死に繰生エルを告発し、処刑している?

 ――何一つ記憶のない私は、理不尽な処刑宣告を回避するため、繰生エルを最悪の敵と認識し全力で抗ったから。

 

 なぜ、他の連中は【魔女】の言葉を真に受けている?

 ――極限状態の私が必死に捻り出した歪な仮説を言葉巧みに信じさせたから。

 

「ふざけるなよッ……!」

 

 あれだけ証拠を改竄したのだぞ!?

 どう考えても【小夜フゼアが犯人】以外ありえないだろうがッ……白痴の集団かこいつらは――!!

 

「チィッ――! 知ったことかそんなもの貴様ら動くなッ!」

 

 憤怒に突き動かされるまま、時間停止の魔法を二人に絞って展開する。

 【小夜フゼア】と【繰生エル】の二人だけの止まった世界を。

 

「――ぇ? これ、は――すごいです……! フゼアさん、時間まで止められたなんて……それが貴方の切り札ですかっ……!」

 

 止まった世界をくるくると見渡しながらはしゃいでいる。

 

 これは――誰だ?

 

「裁判もお手柄です。事件の記憶を丸ごと消されても、ちゃんと私という犯人に辿り着いてくれましたね?

 そうです。【犯人は私】……ですよ? フゼアさん?

 私、感動しました。フゼアさんに告発されたとき、幸せで涙を堪えるのが大変でした。ふふ、いっぱい二人で捜査した甲斐がありましたね。

 貴方が私に黙ってたくさん証拠を隠しているずるい人だってことも、信じていましたよ?」

 

 心底楽しげに思い出に耽っている女……これが【繰生エル】の本性、あるいは本体か……!

 

「貴様は……何者だ……! 随分と演技が上手かったのか、それとも本体のお出ましか?

 なるほど【黒幕】だというのなら裁判ごっこなど怖くはないな、これから処刑台に入ってティーパーティーとでも洒落込む予定だったのかね?

 処刑の光景に青褪める少女達を眺めながら齧る茶菓子はさぞかし絶品だろうな」

 

 繰生エルの姿をした何かは、ぽかんと口を開け、首を傾げた。

 

「あの、フゼアさん。何か勘違いされているようです」

「貴様は珈琲派という反論か。結構、私は紅茶派だ。同派閥でなくて安心したよ」

 

 白々しくあたふたしている。

 その様子が……かつての彼女を想起させ、酷く癇に障る。

 

 ……かつての彼女? それもすべてが偽りという話だろうが!

 【過去】の感情の流入による影響か……! こんなときばかりは忌々しいッ……!

 

「いえ、だから、フゼアさん、誤解しています。私はただの【魔女】ですよ?」

「ああ、そういう【黒幕】ならよく知っているよ」

 

 修道服風の衣装を纏った少女が思い浮かぶ。

 

「いえ、ですので、黒幕とかではなくて、私は私なのです。フゼアさんと同じで【魔女】になったのです。貴方の目的を聞かさせた、そのときに」

「は――?」

 

 身体が硬直する。背に冷や汗が伝うような感覚がした。視界がぶれた。悪寒がする。

 心当たりならある。なぜならそれは私にとって、つい先程の記憶なのだから。

 

「ばか、な……」

 

 繰生エルが突如として、感情を止め処なく吐き始めたときの当惑。

 それが単なる感情の曝露ではなく、狂気だと気づき竦んだ刹那。

 痛みを意に介していないことへの疑問、生まれた隙。

 対処しようとした瞬間に【自分の魔法】が何かを【うっかり】忘れていた私は――

 

「だとしても、それでも、なぜだ……!」

 

 皆目分からない。繰生エルが、【ただの繰生エル】だとすればこそ、なおさら理解できない。

 

「……なぜ、ですか。私が【普通の魔女】だから……ではないですか?」

 

「対処した……そうなったことを打ち明けてくれれば、私は改めて策を練った!

 たとえ君が【魔女】と化しても、君が処刑されぬ道筋を!

 その程度、どうにでもできる、馬鹿にしているのか私を……!

 むしろ君の魔法が強力になったのなら私にやったように全員の記憶を――!」

 

「そうではありません」

 

 見当違いです、と諭される。

 

「だめ、なんです」

 

 決壊するように、エルの顔に亀裂が走り始める。

 バツ印のような亀裂が、涙が伝うように目尻から頬にかけて幾つも刻まれた。

 

 これを以て――繰生エルは完全に【魔女化】を遂げた。

 

「待て、諦めるな、まだどうとでもなる。そうだ、逃げればいい、君も言っていただろう。態勢を立て直そう、私の【時を操る魔法】と君の【記憶を操る魔法】、二つ揃えば怖いものなど――」

 

 【トレデキム】――という単語が思考を覆った。

 連鎖的に思い浮かび続ける魔女を殺す手段の数々――そして逃げ果せた最期に待ち受ける袋小路。

 仮に二人で長期間逃げ続けている間にも、残りの魔女候補達は同士討ちか一斉処分で全滅する。

 この手を打てば、自らのチェックメイトにしか辿り着かない……!

 私のくだらない意地や矜持など度外視で、端から逃走という選択肢は否定されている。退路は、ない。

 

「だめです」

 

 繰生エルは魔女の指でバッテンを作って――

 

「フゼアさんは、大魔女になるのですよね? そして、そして――、ぅッ!」

 

 苦悶の声を漏らし、頭を抱えて膝をつく。

 触れてはならない【禁忌】に抗うように――

 

「違う、それは――」

 

 嘘なんだ、と告白して解決する状況ではない。

 

 分からない。いったい何が彼女をここまで変貌させたのか。

 いったい、何が【禁忌】なのかが……!

 

「――フゼアさん……ああ――ふふ、まだ、勘違いされているのですね?」

「何を――」

 

 繰生エルの口角がにたりと釣り上がる。

 以前まで見せていたどこか白々しさを伴う空虚な表情とは違う。生々しいまでに“生きている”この表情は、演技ではない。

 魔女化に伴う殺意とも異なる――これは、悪意だ。

 

「傑作です。私は……貴方の苦しむ顔が見たいのですよ? 私のために苦しんでくれる貴方が、大好きです。

 ねぇフゼアさん、自分が頑張って作り上げた完璧な計画を、必死に自分で台無しにした気分ってどんなものなのですか?

 正直私は裁判を見ていて……あまりに滑稽で、笑いを堪えるのが大変でしたよ、ふふっ……」

 

「――――」

 

 組み上がりつつあった思考が、再度崩される。

 今の私には、その悪意が繰生エル生来の気質なのか、魔女化により歪曲され現出したものか区別できない。

 

「……【普通の魔女】ならそれは起きて当然の現象だ……!

 私が憎くて堪らないだろう。せっかく記憶を消してまで無防備にしたのに、【不死】の私を殺し損ない、あまつさえ処刑されるのは君になった。

 一度は【共犯者】だとほざいていた相手に告発されて正気で――」

 

「――あぁ、それ。どうでもいいです。あは、可愛いですね。本当の私は、魔女になる前から、最初からずっと、ずっと……貴方を裏切りたくて堪らなかった――とは思わないのですか?」

「それは――」

 

 可能性としては、もちろん考えられる。

 人畜無害そうな少女が実は狂った愉快犯など、ありがちで逆に選択肢から外れてしまう程度に――いや安易な結論に飛びついて、思考を放棄するな。

 私に違和感が残っているうちは、解き明かせる。

 

 そうだ、私は……今も変わらず繰生エルを疑っているのだから。

 ゆえに信じるのだ。たかが未知の悪意の一つや二つに動じて何とする。

 それが繰生エルの本性だったとして、だからどうした。その程度で私の決意が揺らぐ? 笑止。

 初志貫徹、決めたのならば、後は貫き通すのみ。

 

 在るべき己を自覚した瞬間、これまでの自らの動揺を嘲笑うように心身に力が漲る。

 心臓を起点に、全身の血液が、果てに魔女因子までもが鳴動し始めるのを感じた。

 そうとも――逆境でこそ笑みを浮かべて凛と立て。たとえ翼がへし折れようとも、飛翔を諦める理由にはならぬがゆえに。

 

「――君の潔白も、邪悪も、等しく信じよう。君を信じる――と言っただろう?」

 

「……強がりですか。いいですね。でもいいのですか? 貴方の記憶なんて、ぜんぶ私の掌の上です。

 あぁ……そうそう、【私を信じるという記憶】、信じてくれているのですね? 嬉しいです」

 

 【魔女】と化した繰生エルの魔法は以前とは比較にならないほど強力になっている。

 その効果の差異は、いずれも身を以て体験している。

 

 あぁ……確かに、すべて嘘なのかもしれない。ともすれば、甦ったと思った記憶そのものが彼女の作り上げた捏造の可能性もありえる。むしろその方が遥かに自然だ。

 おかしいだろう、六人も死者が出ている状態の牢屋敷で記憶をなくして不意に目覚め? いきなり事件に遭遇し? 繰生エルと出会い? 共犯者となって? 裏切られ? この局面で彼女を信じる?

 出来過ぎだ。【小夜フゼア】なんて自我はそもそも実在しない【繰生エル】の空想上の人物で、様々な記憶を与えられては奪われを繰り返し、今もその玩具にされている、というのが最もしっくりくる。

 

 気に入ったモルモットの記憶を入れ替え、こういうときどう動くか、パターンを変えればどういう反応を示すのか――

 そういう私ならやりそうな思考、というものがそもそも飼い主の思想の転写していると云うなら。あぁ分かりやすいな。

 

 ゆえに理解しているだろう? この面白いモルモットは、おまえは“水槽に浮かぶ脳味噌”なのだと告げられた程度で、絶望のあまり首を括ってしまうまともな魔女ではないと――自我ある限り突き進み続ける狂気の産物であると。

 気に食わぬなら今すぐにでも【小夜フゼア】というデータを消すがいい。そう、できるものなら。

 

「そもそも記憶の担保なんて誰がしてくれているのかね。人間、頭を打っただけで別人に変わるというのに。極論、一度眠りに就いて目覚めた際の自己同一性は何を以て証明できるのだ?

 人類は皆、今日眠れば今の自分は死んで、明日は別人として目覚めるかもしれないという恐怖を抱えながら毎日の睡眠にチャレンジしているんだったか? 生憎だが私の記憶にはないねぇ」

 

「……さあ、知りません」

 

 そこで言葉尻を下げてどうする、良い隙だ。

 今度こそ逃れられぬよう、改めて、正面から殴りつけてやろう。

 

「ところでエル、君の記憶の担保はいったいどこの誰がしてくれているのかな?」

「――ッ、そういうつまらない言葉遊び、嫌いです」

 

 ……この反応……、何かあるな。――いや、そう思わされているのか――などといちいち考えるのはいい加減不毛だ。

 いっそ己はただの馬鹿だと認め開き直って対処するのがここでは上策だろう。

 

「なるほど。――――――」

 

 ――? 私は何を言った……?

 あぁ、そうか、彼女にとって都合が悪いことを言ったから消されたのか。

 

「――可愛いな、エル。そんな気に障ったからといってわざわざ魔法を使わなくてもいいだろう?

 良かろう、私は何度でも考えてそのセリフを言ってあげようじゃないか。

 そう、何度でも――」

 

 付き合ってやろう。

 私達の“時間切れ”まで、どこまでも。

 

「――――――どうして、私の言うことを聞いてくれないんですか。――――――物分かりの悪い人は、嫌いです」

 

 この感覚は――聞き取れなかったわけではない。

 またしても【消されている】な。エル、みだりに魔法を使うものではないな。使われた側は、感覚でそれが分かるようになる。

 よって動揺も失せ、対策を講じる隙さえ与えてしまう。

 

「会話が飛び飛びなのは、いちいち君が記憶を消しているからか? 私が勝手に行間を埋めて好きに解釈しても構わないということだろうか」

「そうやって自分の都合の良いように認識を書き換えて、フゼアさんは逃げるのですね? 必死に自分はまともだと言い聞かせている姿……とっても惨めですよ」

 

 悪態のつもりなら、もう少し内容を練った方が良い。

 今の己が惨めであることを自覚していないとでも? そして、それを受け入れていないとでも?

 開き直っている奴に図星を突いても意味がないことを、骨の髄まで教えてやる。

 

「むしろ君は今に至るまでこの私が惨めな魔女以外に見えていたのか。

 当の私は、君に出会うずっと前から、自分の無能さが腹立たしくて堪らなかったというのに。優しいな、君は」

 

 そう、徹頭徹尾、何より自身の弱さにこそ私は怒りを宿している。かつて只人として生きていた過去においても、牢屋敷で魔女と化した現在でさえも。

 許せぬのだ、決して理想に至れない薄弱たる愚図が。繰生エル一人のことさえ理解できない愚劣さが。

 

「そうやって私を言葉巧みに籠絡すれば何かが解決すると思っているのですか?

 フゼアさんと私は、今は同じ【魔女】ですが……私の方が、立場は上なのですよ?」

 

 何を言い出すかと思えば……今まさに、処刑を食い止めているのは誰だと思っている。

 

「今にも処刑されようとしている女がよく言うよ。あぁさて、もう一度立場の話を聞かせてもらっても良いかな?」

 

「なら、時間を動かせば良いじゃないですか。それで私は処刑台送りですよ。できないのですか? あぁ、怖いのですね。

 そうですよね。私が貴方をどんな風に書き換えたのか……私が死んでしまえば、永遠に分からなくなっちゃいますね?」

 

 その脅迫も落第点だ。

 一度記憶を丸ごと消されるなんて反則技を使われてしまえば、以降お前の記憶をちまちま書き換えてやるなんて脅されても霞んでしまう。

 そういう切札は、使われたらどうしようと思わせている内が華だ。

 君は既に爆弾を投下し私の世界を焼け野原にしてしまった。互いがムキになり退けなくなった後にはもう泥沼の絶滅戦しか残らない。あぁ……核抑止論の勉強をさせる時間が欲しかったな。

 

「既に一度焼き払われた私の記憶の是非は誰にも保証できないと思うのだが……何かめでたしめでたしで解決する方法があれば無知な私に教えてくれないか?

 あぁ、それともう一つ。忘れているようだが【魔女】は不死ゆえ君は死なんよ。

 たとえなれはれと化し氷漬けになろうが、必ず私が引きずり出して叩き起こす。安らかに眠れると思うなよ」

 

「……可哀想なフゼアさん。私が操った通りに私を助けようとしてくれる。それを自分の記憶だと信じている。とっても愛らしいですね?

 貴方は……本当に、役に立つ魔女です」

 

 ならば、役に立つ魔女の手綱はもう少し上手く握るべきだ。

 君の扱い方は下手くそ過ぎる。まるでコントロールできていないではないか。

 

「お褒めに与り光栄だ。よければこの後のエスコートもさせてくれないか?」

 

「……ふふふっ、この後があると思っているだなんて。お間抜けさん、ですね?

 私はこの後、処刑される。貴方は、失敗したのです。

 ねぇ、改めて聞かせてくれませんか? 誰かを救おうと練った計画が、信じた相手にぐちゃぐちゃの台無しにされるのは、いったいどんな気持ちなのでしょう?」

 

 ……失敗、失敗か。確かに……失敗してしまった。

 残る私の手札は三つだけ。【加速】、【停滞】、【停止】――

 

 これでは、一時凌ぎに逃げることしか――

 

 ――ん? ああ……今、私のやり方から【ズレた】な?

 

 私の目的は、エルの身代わりになること――ではない。無論一時凌ぎの逃走計画を最初から企てていたなど論外だ、考慮にすら値しない。

 

 これは……何か、重要な記憶を消されているな……!

 それを回収できなければ、チェックメイトだが……何のことはない。

 お喋り好きの繰生エルから洗い出してやれば済む話だ。

 

「ああ――それですよぉ……! フゼアさん、そのお顔、もっと見せてください。辛いのですね。苦しんでいるのですね?

 可愛いです。だから……私の言うことを聞いてくれれば、ご褒美、あげますよ」

 

 ……これは、乗るべきか? 煽り返すべきか……?

 重大な決断なのに、調子づいているエルがシンプルに腹立たしいな……!

 

「ね……フゼアさん、逃がしてあげましょうか。いい方法、思いついたんです。

 私が、看守とゴクチョーの記憶を操ってしまえばいいのですよ。そうすればみなさん晴れて自由の身です」

 

 ……!

 まずいッ……!

 ゴクチョーはいくらでも代用の効く遠隔操作型端末のような何かであることを知らないのか……!

 

 【エマ】の【魔女殺し】が作用していたことから奴が魔女因子を有していることは憶測できるが、それだけだ。

 端末の記憶を改竄するだけで、ゴクチョーを送り込んだ、ないし操作している何者かまで連座で洗脳してしまえるとは思えない。

 余計な手出しをさせてさらなるイレギュラーを招来させるわけにはいかない。

 

 伝え方を誤れば、今、妙に嗜虐心が高まっているらしいエルを刺激して暴走させかねないが……人間は基本的に、自分より更におかしい存在を認識してしまえば冷静になる性質がある。教科書通りにいくとしよう。

 

「そうか、君は知らないのか」

「何をです?」

「ゴクチョーを殺したことがないから」

「……え?」

 

 明確に動揺の色が浮かんだ。

 

「おや、試したのは私だけか? 他にはいなかったかね?」

「そんな危険なこと、誰も……」

 

 よし、この世界でゴクチョーを殺したことがある存在はいないようだ。

 

「私にはあるのだよ、ゴクチョーを殺したことが」

 

 先人達の記憶を借りた嘘……のはず。

 ……さすがに過去の私もゴクチョーを殺したりは……いや、時間を止めて試しにやりかねないか……?

 しかし、前兆もない突然の破壊は停滞とも現象が異なるため、時を止められることを悟られないために、やらない……とは思うが……それは時期によるか……。

 

 答えは出ない。ひとまず置いておく。

 

「でも、ゴクチョーは生きて――」

 

「まさか、あの梟の中に魂が宿っているとでも思っていたのか? そしてこの島のすべてを支配していると?

 まぁ魔法だの魔女だの看守だの、そういうのばかりの環境で監禁されれば、そういうものがいてもおかしくないと思うかもしれないな。私も少しはその可能性を考えたよ。

 ゆえに、一度殺してみた。ゴクチョーを殺してはならないなどというルールはなかったからねぇ」

 

「……ゴクチョーも【不死】だったということですか」

 

「厳密には異なるな。この牢屋敷おいては魔女の【不死】よりも不死性は高いと言えるかもしれないが。

 まぁ、ざっくり言ってしまえばロボットのようなものだよ。アレを操作している【何者か】がいる。【政府】か、【真の黒幕】か、その【同志】だとかは不明だが。

 ともかく、壊したらすぐに全く同じ姿、声、性格のゴクチョーが飛んできて、小言を言われて終わりだよ。

 一度目は見逃されたが、次は処刑だとさ。と言うわけで、君の案は断固として棄却させてもらう。

 そうそう、一応おさらいだが、以前の君の魔法は配信者には効かないとのことだったが、今も、レンズの奥にいる人間を書き換えることはできないのだろう?」

 

「……感覚でしかありませんが、無理だと思います」

 

 エルは両手を握り締め、止まったゴクチョーを睨みつけている。

 ……彼女にもこんなにも殺意の篭った瞳が宿るのかと、僅かに気圧される。

 

「……ふふ、やっぱり貴方はいい子ですね? フゼアさん。危うく失敗しちゃうところでした」

 

 ……せっかく一度は落ち着いたのに、まだ続けるのか、その振る舞い。

 

 ――いや、そんな感想で流している場合ではないだろう。そもそも急に見せ始めたこのエルの嗜虐性は何だ? なぜ当たり前に受け入れてしまっていた?

 もっと考えるべきだろう。そういう演技なのか、本性なのか、一面なのか、それとも解離性障害か何かか――

 

 そうだ、私はたかだか数十分でいったい――彼女の何を知った気でいた?

 

 一度開き直ってしまったからか、悪意など慣れたものだと軽く受け流していたが、それはよろしくない。

 私はあれが彼女の本性なのか、異様な状況で箍が外れてしまっただけなのかを吟味すらしていない。まさしく余裕ではなく油断というものだ。

 

 そのように記憶を操作され――いや、違う。私が彼女に踏み込みすぎることを恐れていたのか。

 

 またも意図せず地雷を踏んでしまうのが恐ろしいから、悪意に嘲笑を返すことで、彼女の潔白の闇に向き合うことを避けていたのではないか……?

 

 ――愚図がッ……!

 この期に及んで安穏とした夢に浸ったままでいようとしていた己が軟弱さに殺意さえ覚える。我ながら見るに堪えん。何たる体たらくか。

 だが……湧き上がり続ける怒りのまま自身の醜態に拘泥する時間すら惜しい。

 自覚したらば切り替えろ。

 繰生エルの深淵を覗き、暴き尽くせ。

 

 ならばこそ、もう一つの現実にも向き合う必要がある。

 【停止】の時間があとどれだけ残っているか……だ。

 感覚ではまだ数分大丈夫な気はするが、それだけだ。

 直感が外れて次の瞬間にも時が動き出せば処刑へのカウントダウンが始まってしまうが……そのような些事、繰生エルに向き合うことを躊躇う理由にはならんだろう?

 時間など、気合いで止め続けろ。その程度のことさえ出来ぬ者に、いったい何を成し遂げられると云う。

 

「……それで、ご褒美とやらは何をくれるのかな? 私の記憶が正しければ、今回のことと合わせて二回ほどご褒美を貰える権利があるはずなのだがね。

 君が、こんなことまで書き換えてなかったことにする卑怯者だったら困るな。私は君からのご褒美をとても楽しみにしている」

 

「ええ。ですから、フゼアさん、私と……、――楽しみに、しておいてくださいね? おあずけです」

 

 ……一瞬だが嗜虐的なエルの表情が、かつての、心の色すら感じさせぬ、無感を呈した平坦なものに変わったと思えば――すぐにまた【繰生エルらしい表情】に作り直した。

 何かを、内に秘めたのか。ではさて、どう解体する……。

 

「あまりおあずけされても困るな。はぁ……時間が、このまま止まったままなら良いのだがね」

「――やっぱり、時間制限、あるのですね」

 

 ……首を傾げ、今度は私ではなく、自分を嘲るように頬を歪めた。

 

「どうかこのままずっと、時間が止まってくれたら――私はそれでいいのに。

 ああ――嫌です。もう“やり直す”ことはできないのに――」

 

 やり、直す――

 

 【時間遡行】――!

 

 いつの間にか記憶から奪われていた最大の切札であり、目的そのもの。

 

 しかし何だ、これはおかしい。

 なぜ【時間遡行】のみを奪った?

 そしてそもそも、なぜこの魔法の存在を知っている? 誰にも明かしていないからこその切札だ。

 確かに、牢屋敷の出来事をやり直すという旨のほのめかしはしたが、それは大魔女に至ることで得られる果実という方便であり、私の魔法で事を起こすとは言っていない。

 

 では記憶を読まれた……?

 あぁそれぐらいはできるようになっていてもおかしくないが、それならここまでの彼女の言動がおかしい。

 

 一つ。なぜ、彼女は私と普通に会話をしている?

 

 記憶を読み取っているのなら、エルの魔法は読心の域に近いだろう。

 その気になれば私の返答を待つまでもなく、一方通行の会話が成立する。

 また、私は複数のことを同時に考えながら話す傾向がある。ならば読心の最中も私の突飛な思考が入り混じることで、エルには疑問や混乱が生じるはず。しかし彼女は何のこともなく平静だ。ごく普通に、会話をしている。

 何なら今この時点で何かしらの反応を得られているだろう。割り込んでくるなり、思考を読み取っていることを隠そうとするなり。

 しかしそんな様子は微塵もない。

 

 一つ。なぜ、彼女は誤った結論を導き出した?

 

 エルが希望を見出していたゴクチョーと看守を洗脳しての逃亡――それが不可能なことは、私の記憶から読み取れる。

 また、私が大法螺を吹いていることも見抜いて指摘するだろう。

 そして何より……計画を打ち砕かれたときのあの動揺と殺意は……決して演技ではありえない。

 

 よって……記憶は読み取られていない可能性が濃厚だ。

 

 それでも、もしも何らかのきっかけで【やり直せる魔法】の記憶をピンポイントに奪ったのなら、“やり直す”なんてワードの使用には細心の注意を払うはずだ。

 だと言うのに、うっかりNGワードを口にしてしまったと悔いる様子もない。

 

 となれば……エルに第三の魔法【時間停止】をかけたことで、私が更なる奥の手、【第四以降の時を操る魔法】を隠し持っている可能性を警戒し、【時を操る魔法は三種だけ】と記憶を書き換えた……。

 それがたまたま私の心臓を貫いていたということになる。おそらくはこれだ。

 

 ならばしかし、どうして未知である第四以降の魔法を封じようとした……!?

 逃亡計画を企てていたのなら、その魔法もまた切札である以上、何らかの役に立つと考えるのが道理だ。

 生き残ろうとしているのに自滅的な選択を採る理由がない……!

 

 経験則だが、これは論理だけで解決できる問題ではない……。

 何か、複雑な要素が絡み合って形成されている。論理と、感情。

 人は“そうする”のが論理的で、合理的で、どの角度から考えても正しいとしっかり頭で理解してなお、その通りに行動できない生き物だ。

 感情もまた、慈愛と憎悪が両立するように、誰かを尊敬しながら嫉妬し、恐れながら見縊り、愛するがゆえに殺す。

 たった一人の人間に、それら数多の矛盾が、同時に成立しながら、時にどちらかが勝り、どちらかが消え、時に逆転する。

 全く以て……度し難く、愚かしく、理不尽で、荒唐無稽で――だからこそ人間は面白い。

 

 そんな少女の心を解き明かすにはさらなる対話が必要となるが……しかしエルは魔女化してしまっている。

 正確な情報を引き出すのはまさに至難の業……無論、【時間停止】のリミットもある……根性論も無限には続かない。

 

 ――いいや、冷静になれ小夜フゼア。私は切札を取り戻した。停止が解除されたら一度【戻る】か?

 ああそうとも、暴走前の繰生エルに改めて向き合い、徹底的に分析するのだ。解が得られるまで何度でも繰り返す。それが最も堅実――

 

 

『ふざけるな』

 

 

 突如私の内から湧き上がった殺意にも似た漆黒の怨嗟。

 全身を焼き焦がすかのような赫怒の意志。決意。信念。覚悟――

 

 まさか……これは、もしや――魔女因子に蓄積された【過去の私達】の残留思念か!?

 

 ……! 身動きが取れない……だと……!?

 

 眼球を動かし周囲を確認すると、背にある歪な翼から伸びた影が私自身の影を縛り、身体を縫い留めていた。

 これは【私の知る私の魔法】ではない……! 【過去の私】が魔法を基に開発した何らかの術技か……!? だとすればどうしてそれが私に牙を剥いている……!? 暴走、不具合、いいや、これは――

 

 私の動揺を愚かしいと戒めるように小さな翼は“変異”を始めた。

 パキリ、ポキリ、ミシリと骨が折れ、鱗が剥がれ落ちるような不協和音を奏でつつ、しかしそれと相反するように蝋が溶け落ちるが如く蠢き続け……やがて新たな……いや、真の姿へと再構築された。

 背に聳えているソレは、もはや邪魔な装飾品呼ばわりしていた小さな黒翼には程遠い。ファンタジーの魔王か大悪魔を彷彿とさせる異形と化している。

 

 光の一切を呑み込まんばかりの“黒”一色、立体感すら消失し、まるで背景の上に雑に黒塗りしたようにさえ見える純黒。

 数は左に六、右に六、そして外套のように腰部から大きく広がる一、総数にして十三の翼。

 そこからぽとりぽとりと滴り落ちる“紅”と“紫”、二色の未知の液体――前者はまさしく血のようで、後者は強いて言うなら私の髪の色を淀ませた毒々しい色――“死”をイメージさせる。

 それらの雫は一滴たりとも決して地面に到達することなく、墜落の度に翼の最上段に回帰し続けている。十三の翼が織り成している怪現象が描き出しているのは、さながら円環と螺旋――ウロボロスとカドゥケウスを想起させた。

 

 そんな“蛇”のような翼が私の肉体を覆い、遂には我が身を物理的に締め上げる黒縄と化した。

 

 ここで【過去に逃げることは許さない】と、【私の総身】が告げている――!

 

 ――そうか、そういう、ことか……!

 

 この翼は、いや、魔女化そのものが、私の強化装置であり拘束具――

 私が突如として魔女化したのはストレスや偶然の産物ではない。私自身の魔女因子そのものを依代とした【過去の私】による仕込み。

 

 私は……【私自身】によって【魔女化させられていた】――!

 

「フゼアさん……! いったい何が――!?」

 

 繰生エルが目を見開き怯えているが、今彼女の相手をしている暇はない。

 

「案ずるなただの魔女化の進行だッ――!」

 

 なおも私に声をかけ続ける少女の声も、瞬時に遠のき耳をすり抜けてゆく。

 

 ――思えばただの魔女候補として目覚めた時点で、【時を操る魔法】の定義には収まっているものの……四種もの魔法を応用的に操れていたこと自体がおかしいのだ。

 さらにはその魔法出力すらも制限されていた……ゆえに私の主観では、魔法の効果時間すら安定していなかった。

 

 では、魔女化をコントロールされていたのなら、あのタイミングで魔女化させられたことには確実に狙いがある。

 魔法を強化する必要があった――違う。あの時点で魔法の強化がなければ詰んでいた局面はない。

 

 ならば別発想――私を魔女化させることで退路を断たせたということか……!?

 何も知らない私が魔女化をすれば当然、安易に【時間を遡れない】という制約を課せられる。なぜなら【時を遡っても魔女化は元に戻らない】――と考えるからだ。

 それはつまり、私が時間遡行を繰り返すことで何らかの問題が生じるか、あるいは時間遡行を封じることでこそ成し遂げられる計略を【過去の私達】が企てているということだ――!

 そして事ここに至れば私がその解に到達することも言うに及ばず織り込み済み。ここから先の私の選択、その全てが【私達】の掌中の劇場だ。

 仮に不都合が生じるようなら先程の強硬策のように、自らの翼で、私の行動を直接制限すれば良い。

 今の私はもはや魔法の執行権すら、回帰し続けたかつての己自身に簒奪されている。いいや、むしろその逆。私のものだと思っていた魔法は、積み重ねた過去のおこぼれに与っていただけに過ぎないのだ。

 

 理解を深めるほど、事あるごとに妙な確信を持った直感が私を従わせたことにも、すべて得心がいく……!

 過去に過ちを犯した自分自身によって同じ轍を踏まぬよう、道筋をナビゲートされていたのだから。

 

 ――しかし記憶の破綻に関しては説明がつかない。

 いくら未来の自分を依代としても、そこまでコントロールできるとは思えない。もといそのような迂遠なやり方をする意味がない。記憶を持ったまま目的を果たすべきだ。

 この極限状況下で自縄自縛により選択肢を大きく狭めるなど、【私達】はいったい何を企んでいる……?

 

 あるいは人為的な魔女化による副作用……いいや違う、私自身を塗り潰さんばかりの意志の強さはミスや一時の気の迷いでは断じてない。

 

 初めから一貫していた揺るがぬ覚悟――絶望さえも一顧だにせず、数多の仲間の屍すら踏みしめ立ち上がり続け繰り返す――希望という名の狂気だ。

 

 ここにきて、過去の自分は、この私と全く同じ思考パターンを持っているという前提に齟齬が生じ始めた。

 

 だがどうしろという、私の持ち得る限りの情報では繰生エルの核心には……そう、私の、持ち得る限りでは――

 これが凡愚の限界……何たる醜態かッ……!

 

 今この刹那こそが踏み込むべき時だと、【お前達】は言うのか。

 未だ完成していないピース……繰生エルの、【禁忌】に――

 

「――やり直すことはできる、私が保証しよう」

 

 ぴくり、と壊れた人形のように私を見つめるエルの首が傾いた。

 

「ぇ……あぁ……そうでしたね。ぜんぶ、やり直してしまうのでしたね。それは素敵です、ありがとうございますよろしくお願いしますね」

 

 そうだ――この反応だ。

 【やり直す】という話題を出した途端、突如発生した小夜フゼアの変貌に対して、もしかすると私以上に慌てふためいていた様相が急変し、諦観どころか失望するかのような投げやりな態度を示す。

 “どうせなかったことにされるのだからどうでもいいでしょう”と不貞腐れているようにすら見える。

 

 思えば悲劇をなかったことにできると言っても、彼女は一度も安堵の感情を見せたことがない。

 全く以てそんなことどうでもいいと言わんばかりに空虚な微笑を浮かべている。

 

 では――角度を変えて考えるのだ。

 考えようによっては、やり直されるということは、ある意味で“永遠の死”を意味する。今の自分のまま死すことは能わず、異なる未来を歩んだ自分に上書きされてしまうがゆえに。

 少なくとも、どれだけ失敗を積み重ね、辛く苦しく惨めでも、その自我は、“今の自分”しか持ち得ない。

 特に、やり直されると消えてしまう悲劇の中でこそ、失いたくない何かを見つけてしまっていたとしたらどうだ?

 平時の世であれば心底目障りで鬱陶しいだけだった隣人も、戦時に出会っていれば苦難を乗り越え深い絆を結んだ生涯の戦友となったかもしれない。

 

 この牢屋敷もそうだ。監禁されない平穏な未来があったのなら、ほとんどの少女達は互いに一度もすれ違うことなく、存在も知らぬまま一生を終えることになっただろう。それは、互いにとって世界に存在していないのも同じだ。

 悲劇を起こさないという真っ当な目的のために、悲劇によって育まれた情や絆は綺麗さっぱり無くなって然るべきだろうと同調を強いられ、笑顔で肯定できることは、果たしてまともな人間の在り方と言えるだろうか?

 悲劇の果てに得た友や絆は、過ちから生まれた歪な不具合だから、そんなものは存在しないのが正しい世界なのだと、大義のために否定されて良いものなのか?

 

 そうとも、【やり直し】を行うと宣告された当人にとっては一瞬で世界を消滅させられるとも言い換えられる。少なくとも現行世界は消えてなくなるの違わぬ事実なのだから。

 記憶を持ったままやり直せるならともかく、そうでなければ一概に許容できるものではない……?

 

 では自分の立場でも考えてみよう。

 もしも私が誰かに、自分が過去に戻って嫌なことは全部なかったことにするから安心しろと言われて、良かった安心したでは頼んだよ、とは……ならない。

 それを容認できるのは、もう近い内に自分の破滅が確約されているか、死よりも恐ろしい事態に直面している状況下でだろう。

 

 しかしその観点で言うなら……まさに今こそが“やり直してほしい”シチュエーションではないのか。

 ……だと言うのに、繰生エルは、まさにそれをこそ厭うている。ならば活路はそこにあるはずだ。

 

「……既に君が私にかけた記憶改竄の一部は紐解いた。なぜ君は……私の四つ目以降の魔法を恐れた?」

 

「……やっぱりまだ……切札、隠していたのですね。それを奪ったことも暴くなんて、酷いです。

 でもそれを私に伝えてしまって良いのですか? また、消しちゃいますよ?」

 

 やはり当てずっぽうだったか……危うくすべてが御破算になりかねない衝動的な行動だ……。

 

「一度思い出せたんだ。二度目も思い出せる。

 ……なぁ、もうこういう駆け引きはなしにしないか。

 私は、ただ、君と話がしたい」

 

 それはあらゆる問題を加味した上での打算的なセリフでもあるが、同時に……ただ、エルと話がしたいということもまた、心からの本音だった。

 

「――っ、馬鹿にしているんですかっ!? ――だって――私だってずっとお話ししていたいのに!

 フゼアさんが、勝手に! ぜんぶ終わらせようとしているんじゃないですか――!

 それでみんな救われるんだって……? 反吐が出ますよ……!」

 

 唐突に返ってきたのは……まるで子供の癇癪だった。

 

「な……いやしかし、そうしなければならない理由も、せざるを得ない事実も、君は充分理解しているし、納得もしてくれただろう?」

 

「は……? いつ私がそんなことを言いましたか……?

 理解しましたか? 納得しましたか? 頼みましたか? 喜びましたか?

 いつ、私の気持ちを聞いてくれたんですか、知ってくれたんですか……!?

 答えてくださいよ、お得意の弁舌でっ……!」

 

 ――分からない。

 気持ちがどうこうとかではなく、これは、そうするしかないだろう……?

 それが、厳然たる事実ではないか。

 

「受け入れて、くれたではないか。君は私の手を取って、共犯者になってくれただろう!」

 

「そうするしかなかったじゃないですか! 私は嫌だったのに!

 そうするしかないって……フゼアさんが悪いんですよ……!

 ぜんぶぜんぶぜんぶ、私が犯人で良かったのに……!」

 

 何だ……?

 いったい……何の話を……?

 

「待ってくれ、確かに時を戻すことは今の君の自我の消滅を意味するのかもしれない!

 だがこのまま処刑されるのはそれよりも酷い末路だ。死や消滅なんて言葉は生温い……君もこれまで見てきただろう! 少女達のなれはてを!」

 

 私はこの牢屋敷のほとんどを知らない。繰生エルを観測した時間ですら些細なものだ。

 ゆえに断言はできないが……彼女にとって失いたくない何かがこの牢屋敷にあるとは思えない。

 故人となっている七人との間にも、私を含め生き残っている五人との間にも、特別な何かを見出だせない。

 実例として挙げるなら【以前】の裁判でも、魔女候補という“存在”にも、牢屋敷という“環境”にも大した執着を見せることなく潔く死のうとしていた。

 それを言うなら、【私が犯人です】と言い募っていた頃から、人形のような無機質さと取り繕った感情からは、情念とも呼ぶべき何かを感じ取れなかった。

 つまり、我々が邂逅した時点で、繰生エルにはこの世に未練がないのだ。あの時点で万事がどうでもいい彼女には、やり直されて困る理由がない。

 だからこそ、この矛盾を解消できず行き詰まっている。

 何処からか湧いてきた繰生エルの未知なる【禁忌】、あるはずのなかった【禁忌】、その根源はいったい何だ……!?

 

「――ねえ、フゼアさん。私、いったいいつ、死にたくないとか、処刑されたくないって言いました?」

「そんなもの――当たり前過ぎて、そもそも言葉にする必要がないだろう。……まさか――」

 

 理由の見当は全くつかないが、処刑されたかったということなの、か……?

 確かに殺人という罪に対する罰を欲しているのなら、ある意味それは自然な欲求と言えるかもしれないが……得心がいかない。

 それは繰生エルの在り方ではない……そう思ってしまう。

 

「フゼアさん。それ、たぶん間違っていますよ? 私が、死にたがっているとか処刑されたがっている、なんて考えていませんか?」

 

 完全に言い当てられてしまった。つまり、誤答ということだ……。

 それはそうだろう、罰を欲しているのなら……“逃げよう”という提案は出てこない。

 

「……それならなおさら意味が、分からない……」

 

 思わず、首を振ってしまう。

 自殺志願でもなければ、贖罪を求めているわけでもない……それでいて、やり直しは嫌だと……?

 

 ……あぁ……ホワイダニットは、ミステリにおける私の最も苦手な分野だったな……。

 多くの【犯人】は、真相を知ってなお、共感できない動機を持っているゆえ。

 

 理解と納得、同意さえ得られれば、最終的にやり直して計画を完遂できるのなら、感情は置き去りにしても問題ない――そんな油断と慢心を始発点として杜撰な計画が、このような事態を招いてしまった。

 

「――分からなくて、いいんですよ。私がおかしいだけなのですから。

 それでも、フゼアさんは必死に私を分かろうとしてくれる。苦しみ抜いてくれる。それだけで、私は、満足です」

 

 ――だから、もういい……などと。

 

「許すわけ、ないだろうが……! 私は満足していない、君にだけ勝手に満足されて堪るものか! 絶対にその諦観を暴いてやる……!」

 

 エルの下手くそな作り笑いは、くしゃりと泣き笑うように崩れ、やがて怒りと悔しさを滲ませた。

 

「――どうして、諦めてくれないんですか。諦めさせてくれないんですか。分からないのなら、踏み込まないでくださいよ……!

 放っておいて、くださいよ……、分かってくれるかもなんて思わせないで……絶対に、分かってほしくないのに――」

 

 どうして……と、溢れた涙は床に落ち、溶けることなく止まった世界に弾けた。

 

 ああ――そうか。私もずっと本音を隠し続けていた。

 本当は教えて楽になりたいが、そうすれば自分に都合が悪いから。だから知られたくない、知られてはいけないと口を噤んだ。

 目的のために、自分にとって最初の真実をひた隠しにしていた。

 事ここに至ってもはや、それを隠し立てすることが無意味だと、早く気付くべきだった。

 相手のことを知りたいなら、まずは自分から――か。

 

「――私には記憶がない」

「え――?」

 

 私の突然の告白は、さぞや突拍子もなかったことだろう。

 

「いきなりで理解に苦しむと思うが、私にはこの牢屋敷に来てからの、いったいどれだけの時間かは分からないが……ついさっき君と出会った日以前の記憶がないのだよ」

「嘘……どう、して……なんで? 私はそんな魔法使っていないのに、おかしいです! そんなの、私は、……知らない間に、また……?」

 

 知らない間にまた、というのは気になるが、今は置いておこう。

 

「落ち着け。……おそらく君は関係ない。君が魔女化した後に消した記憶はきっと戻ってきている。そうだろう?

 それに君と出会った後に記憶が消えたわけではなく、私の主観では、本当に気がついたらこの牢屋敷に私はいたんだよ。ただ、何故か牢屋敷に関するあらゆる知識だけを持って。

 自分の正体が何なのか、今何が起きているのかを調べるために屋敷を彷徨い、そして君と出会った。

 そこから既に君のことは疑っていた、まるで信用などしていなかった。捜査の中で君が記憶を操れることを知って……ああより一層深く疑ったよ。当然だろう?

 共犯者として君の手を取るまで気が狂いそうなほどずっとずっと、君を疑い続けていた」

 

「おかしいです、おかしい。私じゃないならいったい誰がそんなことを……!」

 

 繰生エルの魔法が無意識に暴走していた。繰生エル自身が魔法を使った記憶を失った。

 他にも記憶を操る魔法……あるいはそれに類する魔法を使える者がいる、もしくは、いた。

 運営側がマインドコントロールの要領で私の記憶を消した。

 【過去の私達】が【私】の記憶を書き換えた。

 可能性なら腐るほどある。

 

「私もそれがとても気になっている。けれど、君のことは信じている」

「信じないでください……! 私は人の記憶を弄ぶ、最低の、魔女なんですよ!?」

 

「信じるさ――おっと口を開くな、まだ私のターンだ。

 繰り返しになるが、私は死ぬほど君を疑っていた。もはやこの世で私以上に君を疑い、知りたいと思った存在はいないはずだ。疑い抜いたからこそ、信じられる。

 理解は得られなくてもいい。ただ伝えておきたい。牢屋敷の記憶のない私にとって、ほんの僅か、繰生エル、君と過ごした記憶こそが、私の唯一の拠り所だ」

 

「――私が……フゼアさんの、唯一の――」

 

 如実に反応が変わった。これが糸口になるかもしれない。

 だが、まだ私の懺悔は終わっていない。

 

「君こそどうなんだ。私は、初日から共に過ごしている仲間のフリをして、君に近づいた。

 今の私は、君が昨日まで知っていた【小夜フゼア】ではない。偽物なんだよ。ずっと君を欺いていた魔女の言葉をどこまで信じられるという」

 

「……フゼアさんは、フゼアさんですよ。貴方は記憶を失っていても、私の知るフゼアさんでした。記憶を失っているだなんて、他人だなんて、思いませんでした」

 

 ……そうか、私は、この私でも、しっかりと【小夜フゼア】の役割を果たせていたのか。

 

「……ごめんなさい、嘘です」

「な……」

 

 く……やはり決定的な何かを、どちらかの私がやらかしていたか……。

 

「私にとっては……貴方が……、私は……今の【小夜フゼア】を、一番、信じています」

 

 ……何だと……?

 何を言っている、血迷ったのか……!?

 

「私は今の今まで君を騙し続けていたのだぞ! 【共犯者】だと嘯きながら、最期まで真実を明かさず繰生エルを利用しようとした、そんな奴を君は――!」

 

「お互い様です。私もずっと貴方を利用しようとしていました。だから裏切ったのですよ? それは今も変わりません。

 本当のことを打ち明けてくれた貴方に、私は、私の目的も明かさないまま――だから、私も……っ――」

 

 エルは、秘めた【禁忌】を口にしようとしているのだろう。

 だが、それでは駄目だ。

 

 先に答えを言われてしまったら、私の“負け”なのだから。

 この勝負、決して譲らぬと、とうに決めている。

 

「言うな。何も言うな。……言っただろう、私が絶対に君を暴いてやると。君がまだ裏切者だと宣うなら、私は君を完膚なきまでに叩き潰す。その屈辱をもう、二度と、決して――」

 

 続けようとした言葉に、はっとする。

 

 あぁ、そうか、そういう……ことだったのか――

 

 気付いてしまえば、答えはこんなにも明瞭なはずなのに。

 

 ああ……本当に、私は愚かだな。

 

「――そこまで言うのでしたら、一度だけ、チャンスをあげます。フゼアさん……どうか、貴方の決意で私を、終わらせてください――」

 

 縋るように、私に向かって虚空へ伸ばされたその手は――当然、物理的に私に届かない。

 

 反射的に証言台から処刑場に向かって伸ばした手もまた同様に届かない。

 

 ――決して交わらない“二人の影”……だが――“それがどうした”と言わんばかりに、翼から生じた暗黒色に彩られた歪な影によって両者の手は容易く結ばれ――

 

 その瞬間、今は遠い幼き白の記憶に漂白された――

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 私は【うっかりさせる魔法】が使えました。

 

 人をただうっかりさせるだけの、そんな魔法。

 そんな不思議な力を持っていることに気がついたのはいったいいつだったでしょう。

 

 今ではもう、何が魔法で、何が偶然だったのか……そんなことすら、私には分かりません。

 

 三時のおやつのおかわりが欲しいときは、お母さんに、うっかりおやつを出し忘れたと思ってほしいと願いました。

 慌てて出してくれた別の味のクッキーは、一枚目と同じように美味しかったです。

 

 お父さんに構ってほしいときは、うっかり仕事道具をどこにしまったのか忘れてほしいと願いました。

 困っているお父さんに仕事道具を渡してあげて、頭を撫でて褒めてもらったときのてのひらは暖かかったです。

 

 友達とかくれんぼをしたときの私は無敵でした。

 うっかり見つからなかったことにしてほしいと願えば、鬼の子はどこかに行ってしまい帰ってきません。

 

 テストの問題を一問間違えてしまったとき、答案用紙の間違った答えを消しゴムで消して、正しい答えに書き直しました。

 先生に、うっかりバツがついてますと言えば、バツ印はまる印に変わって、テストの結果は満点になりました。

 

 毎日、誰かがうっかりして、私は少しだけ幸せになります。

 

 ある日、家族でお出かけする約束を守れなくなったとお父さんが言いました。

 大事な仕事があるからだめなんだと言っていたので、うっかり仕事のことを忘れてもらいました。

 三人で遊びに行った遊園地は、とても楽しかったです。

 

 次の日、お父さんは顔を真っ赤にしながら大慌てしていました。

 お父さんは何かに怒っていて、落ち着いてと止めるお母さんに対しても怒っていました。

 喧嘩をしていると私は悲しいので、怒っている理由をうっかりぜんぶ忘れてもらいました。

 お父さんはしばらく悩んでいましたが、お母さんに謝って仲直りできました。

 私は嬉しかったです。

 

 次の日、お父さんは部屋に物を投げつけて怒っていました。

 どうして大事なことを二日も忘れてしまうんだ俺はおかしくなったのか――と。

 お母さんは、病気だったらいけないから病院に行きましょうと言っていました。

 家族が困っているのは辛いので、それもうっかり忘れてもらいました。

 みんな笑顔になりました。

 

 次の日、知らない人が家に来ました。

 お父さんの上司という人らしいです。

 怒っているその人に、お父さんは必死に謝りながらお酒を勧めていましたが、その人は帰りは車だからと断り続けていました。

 きっと、お酒を飲んでもらえば仲直りできるのでしょう。

 お酒を飲んではいけない理由をうっかり忘れてもらうと、その人はお酒を飲み始めて、しばらくすると笑顔になりました。

 仲直りできたようで、最後はみんな笑顔になりました。

 めでたしめでたし。

 

 次の日、昨日家に来ていたお父さんの上司が帰り道に交通事故で家族三人を死亡させたとニュースが流れていました。

 原因は、お酒を飲んで車を運転したかららしいです。

 

 ――私のせい?

 

 違う。違う違う違う違う――

 

 私が願っても、その人がお酒を飲まなければ、お酒を飲んでもその人がちゃんと運転していれば、誰も死ななかった。

 だから私のせいじゃ、ない。

 

 ――人殺し。

 

 違う違う違う違う違う――――

 

 学校から帰ると、警察の人が来ていました。

 お父さんがお酒を飲ませたのが最初の原因と言っているのが聞こえました。

 私は警察の人に、お父さんがお酒を飲ませたとうっかり思い込んでしまった。本当はそんなことはないのだと魔法をかけました。

 警察の人は紙に書いていたことを書き換えて、お父さんはお酒を飲ませていないことになりました。

 

 めでたしめでたし――のはずなのに――

 

 次の日、私はお父さんの上司の人に魔法を使ったことを、うっかり忘れてしまいたいと願いました。

 めでたしめでたし。

 

 ――次の日、次の週、次の月、次の年……毎日がめでたしめでたし。

 

 めでたしめでたし――のはずなのに――

 

 もういつかも覚えていないある日。

 自分が間違える度に、誰かが間違える度に。

 私は願いました。嫌なことは、辛いことはぜんぶ忘れてしまえば幸せに戻れると信じていました。

 

 知らないある日。

 

 お父さんがおかしくなりました。

 

 お母さんがおかしくなりました。

 

 みんながおかしくなりました。

 

 どれだけ辛いことを忘れさせてあげても、その前の嫌な記憶を、その前の苦しい記憶を、どんどん思い出して、こんなに大切なことを忘れていたのが信じられないと、恐ろしいと。

 何度も忘れさせてあげても、それでも、みんな、昔の自分を呪っていました。

 

 どうして、忘れてしまったのだろう――と。

 

 私は何か悪いことをしてしまったのでしょう。

 何かを間違えてしまったのでしょう。

 

 でも、それが何なのか私には分かりません。

 

 辛いことは嫌なので、いつも忘れてしまいたいと願っていました。

 

 それでも、思い出してしまうのです。

 うっかり自分が犯してしまった過ちを、それを忘れてしまったという事実を、その度に、また私は忘れたということを、思い出します。

 

 毎日思い出して忘れさせて忘れて毎日思い出して忘れさせて忘れて――

 

 そのうち、こう思うようになりました。

 どこかで、人が怪我をしたら、それはきっと私が犯人なのでしょう。

 私に怪我をさせられたことを忘れさせられて、それを私は忘れたのでしょう。

 

 どこかで、人が死んだら、それはきっと私が犯人なのでしょう。

 私が殺したことを、いろいろな人に忘れさせて、それを私は忘れたのでしょう。

 

 私が犯人です。私が犯人です。私が犯人です。

 

 きっと、ぜんぶ、私が犯人です。

 

 ある日――

 

 お母さんという人が手首を切って死んだらしいです。

 毎日辛そうだったので、これ以上苦しまないのなら良かったと思います。私の面倒事も一つ減りました。

 私が犯人です。とりあえず忘れておきましょう。

 

 お父さんという人が首を吊って死んだらしいです。

 毎日苦しそうだったので、これ以上辛くならないのなら良かったと思います。私の手間も一つ減りました。

 私が犯人です。とりあえず忘れておきましょう。

 

 そうして気がついたら、誰も私のことを憶えていませんでした。

 

 私も、誰のことも憶えていませんでした。

 

 私も、私のことを憶えていませんでした。

 

 ――白。

 

 世界はどんどん白くなっていきます。

 毎日、毎日、欠かさず私は世界を白く塗り重ねます。

 世界がすべて真っ白なら、私は幸せ以外の色を見なくて済みます。

 

 でも――どれだけ丁寧に白で塗り重ねても、絶対に浮き出してくる【繰生エル】という何かが消えてくれません。

 きっと、それが犯人なのでしょう。私が犯人なのでしょう。繰生エルは、私なのでしょう。

 潔白な世界に必ず残ってしまう一点の穢らわしい染みが、繰生エルという汚濁なのです。

 

 私は諦めました。

 どれだけ私ががんばっても、必ず繰生エルが邪魔をする。

 

 だから、様々な色で満ちた汚い世界を、ただ眺めて見過ごすことに決めたのです。

 その瞬間、私は安心しました。

 

 ああ――これでもう、穢らわしい魔法なんて使わなくて済む――

 

 そして――どれだけ月日が流れたのかは分かりませんが、私は【施設】というところから【牢屋敷】というところに引っ越しさせられていたようです。

 

 ここにいる人たちは全員悪い【魔女】らしいです。

 

 やっぱり私が【繰生エル】だったみたいです。

 繰生エルが悪い魔女だったせいで――何だったのでしょう。私はどうしてそれを恨んでいたのかも覚えていませんでした。

 

 でも、すっと納得できました。

 ただただ、繰生エルは悪い魔女であるという事実に。

 

 今まで自分が何を見て生きていたのかは覚えていませんが、このときに自分と同じ魔女がどんな人たちなのか気になって、焦点を向けました。

 白くくすんでいた視界が、少しだけはっきりした気がします。

 

 私の他に十二人いる魔女たちは、怒っていたり、泣いていたり、困っていたり、楽しんでいたり、動じていなかったり、考えていたり、いろいろな人がいました。

 

 順番に行われた自己紹介で、遂に私の番が回ってきました。

 

 “私は【繰生エル】です――”

 

 当たり前に――私はそう名乗っていました。

 

 私は、これまで眺めてきた景色や知識を継ぎ接ぎして、【繰生エル】という何者かになることにしました。

 

 その後も――私は、私の知らない繰生エルを演じることができていました。

 魔法を見せ合うと言われたときは、とても気分が悪くなりましたが、それでも私は繰生エルを演じられました。

 

 ――おぞましい。

 

 牢屋敷は二人部屋とのことです。

 私と同じ部屋の人は、私が魔法を使ってしまったときに、私のことを鋭い目つきで眺めていた人でした。

 私のことが嫌いなのかもしれません。当たり前だと思います。

 

 牢に戻ってきてからその人は紙に何かを書き込んでいました。毎日、書き込んでいました。

 私から質問はしませんでしたが、彼女は日記を書くのが趣味だから気にするなと言っていました。

 なので気にしないことにしました。

 

 ある日――殺人事件が起きました。

 きっと私が犯人だと思いました。

 

 でも、私は犯人ではないと、裁判で決まったようです。

 

 犯人である魔女は処刑台に拘束され、処刑されました。

 みなさんの反応は様々でしたが、共通していたのは、その人のことは絶対に忘れられない――ということでした。

 

 ――こうなりたいと、思いました。

 処刑をされれば……もう誰にも忘れられない。

 

 ――二度目の殺人事件が起きました。

 今度こそ私が犯人だと思いました。

 

 でも、私は犯人ではなかったようです。

 

 ――羨ましい、と思いました。

 犯人の魔女は、この想いだけは本物だと、処刑されてもこれだけは失わないと叫んでいました。

 

 絶対に忘れられない何かがあることと、ずっと誰にも忘れられないこと。

 

 それはなんて……素敵なのでしょう。

 

 繰生エルの世界は、誰かが死ぬ度に、処刑される度に、苦しんでいる魔女候補の人たちを眺める度に、どんどん色づいていきました。

 

 ――三度目の殺人事件も、私は犯人ではありませんでした。

 殺された人と処刑された人を見送りました。

 

 そのときには自覚していました。

 

 私が抱いている感情は、彼女たちへの嫉妬なのだと。

 

 もう私は――二度と【忘れたくない】。【忘れられたくない】。

 

 だから……次こそは私が犯人だといいな――と。

 

 それまでは、少しでも誰かの記憶に残るような、“それらしい”繰生エルとして振る舞い続けよう――と。

 

 そして――

 

 そして、ようやく――

 

 私は、犯人になれました。

 

 それはただの偶然でしたが、結果的に、私は彼女のお腹をナイフで貫いていました。

 

 少しでも誰かの思い出に残れるように、料理を作ってみようなんて考えていたのが馬鹿馬鹿しくなって、どうでもよくなりました。

 

 私の殺意は後出しでしたが、でも確かに殺意でした。

 

 立ち上がってお腹を押さえながらこちらを見てくるその子の表情を見て、お願いだから、どうか、そのまま死んでしまえと祈りながら眺めていました。

 そして願わくば――死ぬ瞬間まで私のことを憶えておいてください、と。

 

 彼女は後ろに転倒し、階段を滑り落ち、もう二度と動きませんでした。

 

 私は浮遊するような充足感に包まれたまま、呆然と時計の針を眺めていました。

 

 早く裁判で断罪されたいと願っていたのでしょうか――

 それとも、この満ち足りた高揚感のなか、どうかこのまま時が止まってほしいと願ってしまっていたのでしょうか――

 

 そんな邪なことを、希ってしまったからなのでしょうか。

 

 私の前に――【魔女】が現れてしまいました。

 

 彼女は……最も近く、最も長いときを共にした人――

 

 私のことを裁くのに最もふさわしく、今だけは、最も見つかりたくなかった人――

 

 私のルームメイト――【小夜フゼア】さん――

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 ――流れ込んできたこの“記憶”が、繰生エルの秘めていた真実。

 

 本人すら忘れ去っていたであろう確かな彼女の軌跡――

 

 私はそれを知ってなお、繰生エルに抱く感情に変わりはなかった。

 本来の繰生エルがとうの昔に塗り潰されていようとも、今の繰生エルが歪に再構築された何者か……文字通りの人格破綻者であろうとも、私にとっては眼前の彼女こそが紛うことなき【繰生エル】なのだから。

 

「――エル、私は、君を――、ッ!?」

 

 景色が、動いた――

 看守が、少女達が動き、音を発している。

 

 ――勘違いではない。

 これは――【時間切れ】ッ……!

 

「ふぜ、あ、さん――」

 

 世界の針は再び動き始め、影に結ばれた手と手は引き裂かれた。

 

 繰生エルが、処刑台――巨大な黒い箱へと連行される。

 

 どうする――再度、時を止めてエルを連れて逃亡するか……無論、そんなものは事態の完全解決にならないが、私は繰生エルに伝えなければならない答えがある。処刑も遡行も断じて否だ。

 そもそも魔法のインターバルがある、現に今も魔法が発動しない、このままでは間に合わん……!

 

 では、執行中の処刑台を破壊することで【処刑は執行されたが処刑失敗は管理側の落ち度】……ゆえに【処刑は完了した】という方便で彼女を解放させる――そんな詭弁が通用する手合か……!?

 魔女裁判における処刑は【魔女をなれはてとするため】という名目ではあるが、シェリーのように魔女化していなくとも処刑は中止されることはなく、ノアのように何処かに消えてしまっても良しと宣うぐらいだ。

 逆に、エマの場合は処刑執行寸前の保留という特例が認められてはいたが……基本的には運営サイドにとって都合の良い解釈が採用されるだろう。

 

 現代日本の刑事訴訟法における死刑執行手順としては【死亡の確認】まで刑が執行されることとなっている。

 当然、不死身の超人や、超越神力で空中浮揚を行える解脱者の存在は想定していないため、もし首を吊っても死ぬことがなければ、次はこの手順を……というような特例法すら存在しない。

 仮に、首吊りで死なない者が現れてしまえば当然大問題となり法制度の見直しが行われるだろうが、条文の字面に忠実に従うなら【死亡の確認】が成されるまで……すなわち首を吊った状態で死ぬまで永遠に放置することになる。

 処刑器具の故障……たとえば死刑執行中に縄が千切れて死刑囚が生存してしまった場合も、現代では実例はないものの、刑の執行完了という処理ではなく、再試行という措置が取られるというのが通説だ。

 

 現行法が魔女裁判に適用されるという発想自体ナンセンスではあるが、連中は連中にとって都合の良い引き出しから根拠を提示するはずだ。

 よって、これらの理屈を魔女裁判に当て嵌めるならば、執行中の処刑台が壊れたとしても、【なれはてと化すか、死亡するか、消滅するかを確認】するまで別の処刑台を盥回しするという措置を取られることになるだろう。

 仮に全ての処刑台を破壊したとして、さらに看守の手にも負えないともなれば、最終的にはトレデキムの使用やら政府の軍隊の投入が行われるのは想像に難くない。

 ……やはり、私の主張による解決法は当てにできん。

 

 もはや我が計画は破綻してしまった以上、彼女を救出した後に再度策を練る他ない。

 

「くッ、止まれ……!」

 

 焦燥が燻るなか、全力で魔法を発動しようとするが何を起こすこともできない。

 

 【加速】、【停滞】、【停止】……何も反応しない!

 おのれ……インターバルは克服できていないか……!

 

 過去の罪業を煮詰めた己の翼も警戒態勢を厳にして警鐘を鳴らしている。

 “過去の自分達”がこの事態を挽回しようとしてなお能力を発揮できていない以上、他人任せの奇跡を期待することもできない。

 

 【遡行】の発動も無論不可能だろうし、そもそも事ここに至って行使するなどありえない……そうすれば、“今の”エルは消えてしまう……!

 

 私はまだ、彼女に言葉を伝えていない――!

 

「認めてなるものかッ……!」

 

 私は証言台から飛び出し、一目散にエルの元へと駆け出したが、淡々と時は進み続ける。

 看守はじたばたと暴れるエルを無視し、遂に処刑台の扉の前へと到達した。

 

 魔法のインターバルはまだ解けない。

 

「退けッ! 痴れ者が……!」

 

 このままでは間に合わないと判断し、看守に殺意を向け挑発する。

 

 同時に翼が無意識の内に大きく広がると、多数の羽が鋭利なナイフのような形状と化し看守に向け一斉に放たれた。

 次々と射出されたそれは百発百中の精度で、看守を刺し穿ち、動きを鈍らせる。

 

 この翼、こんな芸当もできるのか……!

 良いぞ、処刑作業を中断させ、攻防戦にもつれ込ませれば雌伏の時は終わり、【私の時間】を展開できる。

 

 だが――明確に殺意を込めた攻撃に対し、あろうことか奴は私には見向きもしないまま迅速に黒箱の中へエルを放り込み扉を閉め――

 そして間髪入れず武器を全身から展開し、どこか歪な姿勢ながら――明確に迎撃体制を整えた。

 

 何だと……こいつは【あの牢屋敷】の看守よりも遥かに最適化されている……!

 素体の性能が高かったのか、洗脳の精度がより強力なのか――後者でないことを祈るばかりだが……!

 

 魔女化している私は看守と同じく不死ではあるものの、耐久力や再生能力に関しては全くの未知だ。

 手足を切り落とされる程度なら問題ないだろうが、頭部や胴体を両断された場合、復帰までにかかる時間がどの程度のものになるか……。

 少なくともエルのついでに処刑台にぶち込まれる程度には行動不能になると見積もっておくべきだ。

 

 看守の構えた大剣……その今後の挙動を予測できない。

 生物的な振る舞いを逸脱しており予備動作というものが全くない、どの瞬間にどのような攻撃をしてくるのか分からない。

 これではまるで化物と言うより、機械のようだ。

 

 私の知る世界では、多くの少女達が看守からの攻撃をある程度逃れることができていた。

 少女によっては、攻撃を見切った上で回避すらしていたが――眼前の存在を相手に、私も同じ芸当を披露できるとは思えなかった。

 

 とは言えこのまま止まるわけにはいかない。

 翼を盾のように構えつつ、黒箱の扉に向けて突撃を敢行する。

 

 ――看守の大剣が動いた……!

 

 ここまでの修羅場の心得はないが、この角度ならば速度を殺さないまま回避、翼で逸らす、あるいは腕の一本程度――、ッ馬鹿な三枚刃だと……!?

 

 スライドするように広がった刃に戦慄する。

 やむを得ず回避に全力を注ごうとした――そのときだった。

 

 看守の姿が消え、奴がいた場所には洋服のボタンと思わしきものが落ちた――

 

 ……!? 何が起こった……!?

 

 速度を殺さぬまま周囲に視線を送ると、看守が私の数メートル後方にワープしており、三枚刃は宙を切っていた。

 

 証言台を見るとルカラが得意気にウィンクをしている。

 なるほど、【魔法】か……! 他の魔女候補ももちろん魔法を持っていることを完全に失念していた。

 発生した現象を鑑みるに【テレポート】……いや、【位置を入れ替える魔法】か!

 

 彼奴め、こんなにも便利な魔法を持っていやがったのか――

 とにかくよくやった……! 裁判で私にかけた迷惑の帳尻はこれで合わせてやろう!

 

 礼代わりにルカラには目もくれず黒箱の入口へ勢いのまま突撃する。

 扉を砕けば、あとは慣性に引きずられ処刑台内に突っ込むことがないよう翼をストッパーに――という算段は一瞬で瓦解した。

 

 ――処刑台へ衝突した際、発生した現象は実に不可解なものだった。

 

 一切の衝撃がない。

 

 まるで――という次元ではない。

 破壊できなかったとしても、こちらに跳ね返ってくるはずの反作用のエネルギーや慣性……それすらもが完全に霧散している。

 硬いとか柔らかいという領域ですらなく、反動の一切を感じることなく私の身体は扉の前で完全に静止した。

 仮に大型トラックを全速力で追突させようとも、どちらも損傷を負うことなく車体はピタリと停止し、タイヤが空回りし続けるのみ――そんな感覚すら抱く。

 

 これは……物理法則の範疇に収まらない。

 原理こそ分からないが、魔法障壁のようなものが展開されているのか……!?

 

 観察しても目に見える装置はなく、扉には取っ手すら無い。ただ、扉であることだけを示す四角い区切りがあるだけだ。

 

 ……ん? これは……よく見れば微かながら処刑台が振動している……?

 瞬時に確信した。外からは何も見えないが、今まさに処刑は進行している……!

 

「チィ……! エル! 聞こえるか!」

 

 全力で殴り、踏み込んでは蹴り続けるも発生する現象は突撃したときと同じだった。

 私の身体にさえ一切の衝撃を返すこともなく、箱は小揺るぎもしない。

 

 ――背後で看守の動く気配がした。

 振り向くと、ギギギと軋んだ音が聞こえ、初見時の滑らか且つ迅速な動作とは異なり、まるで壊れた人形の関節をへし折りながら無理矢理操っているような……非生物どころか機械という形容すらできない挙動だ。

 これも誰かの魔法か? 【知らない誰か】がそんなことをした気配はないが、もはやそんなことはどうでもいい。

 早急に、私の魔法を以て対処しなければならない。

 

「ええい羽虫如きがッ――!」

 

 無事、【停止】が発動した手応えとともに背後で繰り広げられていた殺意と狂騒が一切合切凍てついた。

 

 此度の時間停止は己以外のすべてが対象――よってこの世界で動けるのは私のみ――

 

「……馬鹿なッ!?」

 

 黒い箱は……微振動を続けていた。

 

 止まって――いない、だと……!?

 

 慌てて周囲を見渡すが、看守、ゴクチョー、その他諸々全ては時の牢獄にいる。唯一、処刑台を除いて――

 

 魔法すらも無効化しているのか、忌々しいッ……!!

 

 すぐさま看守に近寄ると、奴が振りかざしている武器を無理矢理引き千切り、両腕に得物を握り込む。

 それと同時に背の翼までもが意図せず動き、刃状となった羽で看守を切断しながら器用にも次々と武器を握り込み収奪する。

 

 過去の私と今の私、会話こそできないが想いは一つだった。

 

 私は奪った武器で処刑台に対し全力で攻撃を始める。

 翼もまた私の意志とは関係なく様々な武器を全力で振るっている。

 

 だが――しかし――返ってくる手応えに依然変化はない。それでも止まらない。

 扉が駄目なら窪み、それも駄目なら角、それも駄目なら――とありとあらゆる箇所に破壊行為を試みる。

 

 打つ――削る――斬る――刺す――抉る――

 そのどれもが、意味を為さない。

 

 まさか時間停止の影響か……いや、停止時に物体に触れた時とは明らかに異なる手応えだ。

 そもそも停止以前から手応えが変わっていない以上、その可能性は否定されている。

 

 条理を無視する不可解なこの現象……【牢屋敷を囲う塀】――それに類する何かか!

 

「要らぬ小細工を……!」

 

 こうしている間にも処刑は進行している。

 私は、単なる物理的手段に頼ることをやめ、ヤケクソ気味に武器を黒箱に投げつけ放棄した。

 

 そして胸ポケットから純白の――エルのハンカチを取り出し、握り締める。

 

「エル! 聞こえるか、応えてくれ! 頼む……!」

 

 駄々を捏ねる子供のように、握った両拳を棺に何度も振り下ろしながら叫ぶ。

 

「繰生エル、返事をしろ……!」

 

 漆黒の翼もまた武器を棄て、獣が爪牙を突き立てるように棺を掻き毟り始める。

 

「認めてなるものか……! このような結末を……赦す道理があるものかッ……!」

 

 憎悪と憤怒を煮詰めた怨声が寂静たる停止世界に木霊する。

 やがて自分が何を叫んでいるのかも分からないまま、視界が棺の黒、その一色に染まっていく。

 

 ――そのとき。

 

 常軌を逸した不屈の意志を滾らせながらながら、拳を振り下ろし続ける己の狂態が視界に映った。

 ――艶一つない黒一色が、反射だと……? いや、これは……違う。

 

 実際の動作と映る姿にラグがあるだけではない。

 黒みがかった映像の奥には、証言台や看守が見える。

 

 そして、私の拳に合わせるように、縋るように押し付けられている魔女の掌は――エル。

 

 これは――彼女の【記憶】か!

 

 おそらくは彼女自身が今まさに見続け、記憶に刻まれていく映像を【記録装置】として私の記憶に【転写】している。

 どうやら外部からの魔法と物理現象は効かないが、少なくとも内部からの魔法は有効らしいな……!

 

「エル! 私にも視えているぞ、君の記憶は、私に届いている……! 安心しろ、君は一人ではない!」

 

 はっとするように視界が動いた。

 外部からの音は遮断できていないようだな。

 そして無論、光も……つまり、仕組みとしては処刑用のスモークガラスか。

 

「君は無事か……!? 中はどうなっている!」

 

 右から左へ、ゆっくりと視界が動く。

 

 見る限り怪しい装置のようなものは見つからない。

 ただ黒く霞んだ視界に廷内が映り込む。

 

 ――そういう、ことか……!

 

 今、この処刑台の真の目的を理解した。

 これは、処刑されている様子を誰にも見られないようにし、その反応をエルに見せつけるためのものだ。

 真っ当な流れで処刑が行われていたのなら、おかしな音や悲鳴が聞こえることもなく、血の一滴も見えないただの黒い箱に対し、証言台にいる者は今何が起こっているのかとひたすらに困惑しているだろう。

 

 中の様子が、傍聴者に一切伝わらぬまま処刑が完了する。

 犯人がよく分からない黒い箱に入ったと思ったら処刑が終わったらしい――と。

 

 これでは未知の黒い棺に対して気味の悪さを覚えることはあっても、エル本人に対して思いを馳せることはないだろう。

 そうなれば……エルが受けた処刑は全く印象に……記憶に残らない。

 

 その様子を、まざまざと見せつけることでなれはて化を促す……極めて悪辣で的確な手法だ。

 

 では、現在行われるはずの処刑とは何だ……?

 凶器の類は見当たらない。水などを注ぎ込まれている様子もない。

 となれば……目に見えない何か。

 酸素を奪うなり毒ガスを撒くなり、見えない何かによって侵蝕を受けているはずだ……!

 

「エル、どのような処刑を受けている! 目に見える変化があれば視てくれ!」

 

 まずは手を確認する、変化は見られない。

 そのまま視界を下げながら、身体を確認する。

 そして、足元まで視線が至る――

 

 ビクリと視界が震えた。

 

「安心しろ、私も視えている。慌てて動くなよ、難しいかもしれないが、なるべく息も抑えろ。いいな?」

 

 こくこくと頷くように視界が揺れる。じっと足元を注視したまま。

 

 ――これは、何だ……?

 

 エルの足が、白い粒子のような何かに変貌し始めている。

 なれはて化や魔女化の進行の類ではなさそうだが……。

 

 思考を分析に切り替え、映像を注視する。

 震えるエルに連動するように、足元の粒子――否、白い何かと化したエルの足が、僅かに崩れた。

 

「エル、大丈夫だ。私が共にいる」

 

 言葉をかけつつ、その正体を推測する。

 

 白い、砂……いや、粒か?

 なぜそんなものに変貌しているのか、原理を求めることは不毛だ。

 だが、このような仕掛けにしたことには何かしら意味がある。ただ肉体を苛むだけなら効率的な手段が山ほどあるのだから。

 考えろ、思考を止めるな……!

 

「――――くッ、忌々しい……!」

 

 断言はできないが、仮説は立った。

 

「――塩だ」

 

 “心底恨めしそうに顔を顰めている私”と目が合った。

 今、私とエルは壁越しに目を合わせている。

 

「落ち着いて聞いてくれ、今派手に動くと身体が崩壊する恐れがある。私の推測通りなら君は、何らかの方法で身体を塩に変えられている」

 

 ゆっくりと、こくりと視界が頷いた。

 

 ああ……畜生が、実に手の込んだ悪趣味ぶりだ……!

 

 これは、“塩の柱”だ。

 後ろを――【過去を振り返った】女への天罰のつもりか。

 エルがこんな示唆を察せるとは思えないというのに、随分と手の込んだ戯事だ……!

 

「塩の柱……というものに聞き覚えは?」

 

 首が振られる。

 

「だろうな。端的に言えば聖書の一節にある天罰の一種だ。一種の災害から逃げる際に告げられた、決して後ろを振り返るなという神の忠告に背き、後ろを振り向いてしまった妻が塩の柱に変えられたというね。

 この警句の解釈は多数あるが、そのうちの一つは【過去を振り返るな】というものだ。記憶という過去を振り返った君への神罰を気取っているのだよ、これを考えた塵屑は……!」

 

 一旦、双方頭を冷やすためにあえて与太話を披露する。

 

 これはあくまで処刑……原典や意図を見抜いたからといって解放されることはない。そしてゲームのように脱出の糸口になることもない。

 ではどうやってこの現象を引き起こしている……現代科学において吸い込めば人体を塩に変えてしまう怪現象を起こせるトリックなど存在しない。

 であれば、魔法由来の仕組み、あるいはトレデキムのような薬物を散布することで、魔女因子を通じて全身に効力を発揮していると考えられる。

 トレデキムには副作用として眼球を鉱物に変質させるというものがある。成分を変えるなり応用することで、人体が塩に変わる“何か”があっても不自然はない。

 

 毒性への対処法がないのなら、まずは魔法という切口に賭けるしかない。

 この箱のどこかに魔女が潜んでいて、魔法を使っている可能性……!

 

 いや、その前に確認すべきことがある。

 

「エル、肉体に負担がかからないよう壁を軽く殴りつけてみてくれ」

 

 こくりと視界が頷き、ぽかんという風に拳が壁にぶつかる。

 魔女と化している以上、実際の威力は見かけ通りの生易しいものではないだろう。

 

「返ってきた感触はどうだった? 殴った衝撃すら感じず不気味なほどぴたりと止まらなかったか?」

 

 困惑するように、しかし、こくんと視界が動いた。

 中から攻撃を加えても同じ……チッ、想定内、次だ。

 

「この棺は外から見れば四角形の物体だ。そこに放り込まれたあと、君は中を四隅まで探索したかね?」

 

 ふるふると視界が横に振られる。

 無理もない、その直後に私が騒ぎを引き起こした。

 それを無視して探索とはそうそういかないか。

 

「では、この全体を一度は観察してみたか? 床、天井もだ」

 

 視界が縦に動く。

 あの騒動の中よく確認している。普通はそれすらできない、やればできるじゃないか。

 

「いいぞ、そこにおかしなものは無かったか? ほんの些細なことでもいい。物影のようなものがあった気がするとか、不自然な出っ張りがあったとか」

 

 考え事をするように視点が固定され……そして横に振られた。

 想定内だが、この局面では多少気落ちしてしまう。

 

「分かった、では君に魔法を使ってもらいたい。君を除いて処刑台全域に対し、【自分は魔法を使うことを忘れ、繰生エルに従わなければならない】というように記憶の書き換えをしてほしいが、できそうか?」

 

 大きな期待はできないが、視界の疑似共有という応用までできるようになった今のエルになら、どこにいるかも分からない未知の人物に対しても効力を発揮する可能性はある。

 

 こくこくと視界が縦に揺れ、エルの手がサムズアップしているのが映る。

 よし、やれるということだな……!

 

「では魔法をかけた後は、何者かに命令し引き摺り出せ。油断はするなよ、常に記憶を上書きし続けろ。頼んだぞ」

 

 指がピースサインに変わると、視界が黒く……眼前の箱の色に染まった。視界共有が停止されたということだ。

 

 もしも中に何者かが潜んでいたのなら、事態を大きく動かせる。

 皮肉にも私は祈るように箱に縋りついた。

 

 ……やがて視界に“私”が映る。視覚共有が再開された。

 

「エル、どうだった……!?」

 

 視界は横に振られ、指でバッテンが作られた。

 

「くっ……やはり、駄目かっ……!」

 

 中には何者もいない。

 やはりこの現象は誰かが使っている魔法ではなく、人為的に生成された魔法の副産物、科学の領域に足をかけている……!

 

 万事休すか、と額が壁にぶつかるもやはり衝撃はない。

 その酷く無様な姿が視界に映り込み、再び怒りの炎が灯る。

 

 ……馬鹿が! まだ次の手を考えろ、まだ、まだだ……!

 

 ――そんなとき、壁越しに私の頭に手が添えられた。

 私の頭を撫でるように、慰めるように彼女の手が動いている。

 

「エル……」

 

 彼女のハンカチを握り締めていた手が緩む。

 

「あぁ……これは、君から無断で拝借したものだ、返せないと盗人になってしまう」

 

 彼女の手にハンカチを渡そうとするも、届かない。

 

 ――あ・げ・ま・す――

 

 そう、彼女の指が動き、白い粒子――塩が、指先から零れ始めた。

 

「――駄目だ……! 諦めるな! 案ずるな、次の策を考えている! ゆえに……!」

 

 そうとも、まだ諦めるわけに、は……?

 

 黒一色の棺が一部――エルの手が触れている辺りが白く、なっている?

 錯覚では、ない。

 

「エル、何故かは知らんが箱の一部が白くなっている! 君が触れている辺りだ、そちらに変化はないか!?」

 

 エルの視界に変化はなく、またエルの身にも異変は見られない。

 慌てるように視界が横に振られる。

 

 これは何だ、処刑台のシステムか?

 最悪の可能性として思い当たるのは処刑の総仕上げ、最終フェーズ……チェックメイト……!

 

 “黒”に垂らされた一滴の“白”は、波紋のようにじわじわと広がると瞬く間に箱全体を覆い尽くす。

 黒の棺が純白に染まった。

 塩の色ではない、純白に。

 

「ッ……!?」

 

 白くなった棺に対して既に攻撃を始めていた翼に追従するように、私も拳を振るう。

 ――こちらの反応は変わらず、か……!

 

 ならば――と思考を切り替える寸前に、またも変化が起こる。

 覆い尽くしていた純白が、色を喪失し始める。

 

 透明――それはガラスですらなく、見えない壁がただ存在しているだけの純粋な透明色に。

 一切の理解も追いつかないが、困惑を無視し間髪入れず拳を叩きつける。

 

「屑箱風情がッ……いい加減に砕け散れッ!」

 

 しかしやはり、手応えに変化はない。

 

 何なのだ、さっきからいったい、何が起きている!

 

 混乱を他所に、すぐ目の前にエルの姿が見え始めた。私自身の目で、彼女が見える。

 瞬く間に白塗りの棺は、完全に透明になった。

 

「エル、またも理由は分からんが箱が透明になった、君の姿が私の目でも見える! 君の方に異常は――」

「――フゼア、さん……」

「――!」

 

 声が聴こえる。これは記憶の上書きなどではない、彼女の、そのままの声だ。

 透明化に伴い、内部からの音が通るようになった……? だがそれ以外の変化はない……何か決定的なカラクリが潜んでいるのか、あるいは見落としている……?

 

 呆気に取られる私に反して、私の翼は“見えない壁”への猛攻を開始していた。

 翼は無数に枝分かれし、武器を叩きつけている部位、杭と化した羽を突き立てている部位、既に目視できなくなった棺へ大蛇のように絡み付き、締め潰さんとしている巨大な両翼――破壊試験についてはそれらに任せることとした。

 

「聞こえている、君の声が……!」

「いったい、何が――」

「分からない、だが好機かもしれない、侵蝕を受けていない動かせる部位はないか!? この異常事態の連続だ、今なら内から壁を破壊できる可能性もある!」

「!」

 

 即座にエルは全身を確認し始め、私も同時に確認する。

 四肢の先端は既に侵蝕済みか……これでは殴りつければその部位は崩壊してしまう。

 

 ならばこの検証は――

 

「――くらえぇっ……!」

「なっ!?」

 

 エルは右肘で、肘打ちをかました。

 その動きのせいで、指先が崩れ落ちる。

 

「何をしている! それでは君の身体が――」

「放っておいたらどうせぜんぶ崩れます。だったらこんなの、どうでもいいでしょう」

「あ、あぁ……」

 

 確かにその通りだが、ここまで思い切りが良かったとは……。

 

「それで、手応えは……!?」

「同じです」

「く……そうか……」

 

 無駄に手傷を負わせてしまった……違う、内部からの破壊も変わらず望めないという情報は得られた。が……その情報では突破口には繋がらない。

 

 透明化した処刑台を改めて観察する。

 何らかの装置まで見えなくなってしまった可能性は否定できないが、少なくとも床や天井といった外部から“何か”を供給されている様子はない。

 

 ……微振動が停止している……?

 だが、時間停止が有効になったからではない。

 攻撃した際の手応えは変わらず、その中にいるエルもまた動きを止めていない。

 

 改めて処刑台の情報を整理する。

 ざっくり言うなら物理的な衝撃と、外部からの魔法を無効化し、中に入った者を塩に変える棺――そうした性質を持つ処刑台としか言いようがない。

 

 エルの魔法が内部から外部に通用するというイレギュラーこそ分からないが――

 いや、イレギュラー……黒が白に変わり、最終的に透明化した……処刑台本来の仕様を知らない以上、この事象も実はイレギュラーだったと言えないか?

 タイミングは……エルが棺全体を対象に、繰生エルに従うよう記憶改竄の魔法を使ったあと……その影響で、処刑台が誤作動を起こしているとは考えられないか……!?

 

 現に、私の魔法が効いていないはずの処刑台は正常に機能していたはず。だがそれにしてはあまりにも処刑に時間がかかり過ぎだろう。

 平均的な処刑時間がどの程度かは与り知らぬが、こうして悠長に話をしながら処刑の仕組みの検証さえできているのはまともな状態とは思えない。

 無論、エルがなれはてと化すのに時間がかかることを想定した仕様であることも完全否定できないものの――結果的に都合が良いのならば、とことん利用してやるまでのこと。

 

 仮定の一つに過ぎないが、種も仕掛けも見えない処刑台……それが引き起こす奇妙な塩化現象は、かつて存在した魔女候補の魔女因子に由来している可能性……ならば打てる手もある……!

 

「エル! 処刑台に対して魔法を使え! 【繰生エルのために魔法を止め、自壊しなければならない】と!」

 

 憶測だが、この処刑台にかつて存在したかもしれない【塩に変える魔法】や【衝撃を無くす魔法】、【魔法を無効化する魔法】を持つ少女達の魔女因子を利用しているなら、魔女因子に対して【記憶改竄】を行えばあるいは――!

 魔女因子が僅かでも【記憶】を有していることは、【私の翼】が証明している!

 

「――分かり、ました」

 

 エルが瞼を閉じる。

 

 そして数分にも感じた数秒後――彼女は瞼を開き、私を見つめ――

 無言で首を振った。

 

「チッ……これでも、駄目なのか……いいやまだだ! 刻む記憶を他のものに――」

「フゼアさん」

 

 一雫、涙を頬に伝わせたエルが私を諌めるようにまっすぐ見つめている。

 やめろ、そんな目をするな。

 諦めることを、決意して何とする――!

 

「おい、何を勝手に諦めている。まだ時間は――」

「ありません。自分で分かります。手遅れです」

 

 彼女の症状を感じ取ることはできないが、体感で致死量に達してしまっていると……?

 

「仮にそうだとしても、そんな胸糞悪い掃き溜めでなど――」

「もういいのですよ。私はフゼアさんと少しでも長くお喋りしたいです。余計なことに時間を使わないでください」

「馬鹿が、諦めるな、私はまだ――」

「最期ぐらい、私のお願い、聞いてください」

「っ――――」

 

 最期だと……? そんな勝手は許さない――と、二の句を継げない。

 私の直感は、もう“お前”の出る幕ではないと告げていた。

 時間切れが近いことは、私もまた察してはいた。仮に今すぐ処刑台が崩壊しようとも、繰生エルは既に手遅れであると――

 それを理解してなお、それでもまだ諦める理由には足りぬがゆえに奮起するのだと……そんな狂った理屈を信奉する異常者はそうそういないことを、失念していた。

 繰生エルは、彼女が思っているよりも、私が思っているよりも至極“真っ当”な少女だった。

 

「フゼアさん、ご褒美あげていませんでしたよね? そのハンカチがご褒美です。悪い泥棒のことも、赦してあげます」

「あぁ……」

 

 やめろ、そのような遺言じみた言い回しは……致死量に至っていたとしてもまだ時間の猶予はあるはずだろう。

 ならば、その程度で諦めてどうする……!

 

 ――ああ……そうだとも、“死”如きが何だと言う。心肺蘇生法を代表とする黄泉の国からの帰還すら、所詮は科学の範疇に過ぎない。

 ならば魔法による終焉とて、魔法で覆せば良いだけだろうが……!

 一度は繰生エルの心を尊重し、諦めを受け入れたことさえ女々しい気の迷いだと吐き捨て、再び怒りを燃料とし決意の焔を燃焼させ始めた、ものの――

 

「だめです。許しません」

 

 その足掻きを――決して認めないと、エルは自らの確たる意志を以て、諦観を私に突きつけ私に対峙した。

 頑迷とも言えるその黒い執念を断固として拒絶すると、純白の瞳が告げている。

 小夜フゼアが本気で諦めない。繰生エルは本気で諦めた。そして両者の覚悟が対等であればこそ、理は繰生エルにあった。

 

 彼女の覚悟を認め、清白たる煌きに魅せられたからこそ、それに応えるべく退いてはならぬ。ゆえに――

 それでも――と吼えられない時点で、既に私は敗けていたのだ。

 

「フゼアさんは、きっとこの後……【時間を巻き戻して】牢屋敷の初日からやり直すのですよね?」

「そうだ……」

「それで、どうやってみなさんを救うのですか?」

 

「正直、救えるのかどうか、いや、救いになるのかも、分からん……いいや否、私は皆を救おうなどと考えていない。

 私の目的は、魔女候補達の魔女化を促し、牢屋敷の管理者側に対抗できる戦力を作り上げ、反逆することだ。

 ただ、私と私が大切に想う者らのみが無用な恐怖に怯えることなく、幸福を甘受できるようにするために」

 

 たとえこの真意がエルに対する苛烈な裏切りになるとしても、もはや優しい嘘で隠し立てはしない。

 

「ふふ、すごいですね。良かったです……フゼアさんが、みんなを救いたいだなんてそんな馬鹿げた大嘘をつかなくて。私には、本当のことを話してくれて」

「気付いて、いたのか」

 

「安心してください、記憶は覗いていませんよ? 私の知っているフゼアさんは誰でも救うなんて頭お花畑なことは考えません。

 貴方は、救う人を“選ぶ”はずです。今のフゼアさんにとってはほとんどが知らない人。

 もしかしたら全員を救うという結論に至るかもしれませんが、それは【次】にいかないと決められないでしょう?」

 

「すっかりお見通しだな……」

 

 まさかここまで己のことを理解されているとは……深淵を覗くとき、深淵もまた……とはよく言ったものだ。

 

 エルの言う通り、【この牢屋敷】の少女全員が私にとって“救うべき存在”である確率はそう高くないだろう。

 “価値のない存在”程度ならまだしも“唾棄すべき存在”がいた場合、その者とどう相対するか、あるいは折り合いをつけるかは相当な問題となる。

 情報のない今は、そういう者がいないことをただ祈るしかない。

 どうせいつかは派手に動くのだ。理不尽にも投獄された者同士、打算的にも、心情的にも、全員が救済対象であるならば、それに越したことはない。

 

「正直、フゼアさんの目的を聞いた今、私にもどれだけの人が貴方の味方になってくれるかは分かりません。ただ今までの日常に戻りたいだけの人も、多いですからね」

「だろうね」

 

 私の計画は誰かに“救済してもらう”のではなく、自分たちが“勝利する”ことを目的としている。

 突き詰めれば極端とも言えるその思想と計画には、当然強い反発や別離が生じて然るべきだろう。

 

 よってこれもまた大きな懸念事項だ。

 組織を作り上げるなどと息巻いてはいたが、日常への帰還を至上命題とする者がほとんどなのは当然のこと。

 

 大魔女を召喚し、地球上から残らず魔女因子を回収してもらい政府から帰還の許可を得る――というのが先人の成功例だが、そもそも私は政府というものを信じていなくば、あちらと同一条件という認識も持っていない。

 何せ……彼女らの物語を見ていたときですら、完全な丸腰で政府に身柄を委ねるのは危険だ、これはバッドエンドルートではないのかと終始危惧していたぐらいだ。

 

 私が政府側の存在なら、いくら少女達から魔女因子が消滅したからと言ってみすみす解放などしない。

 元より死んだことにしているのだから、再発の懸念も込みで一生飼い殺しにし研究しようとするだろう。

 ならば、私のいる【この牢屋敷】ではその前提で動くべきだ。

 

 また、こうして我々が存在している以上、魔女因子というシステムを構築し、蔓延させた者――おそらくユキに相当する大魔女がいることと、魔女候補の殺処分を止めているメルルに相当する者がいることは濃厚だろう。

 ただし両者の思想や目的までこちらでも類似していると決めつけてかかるのは危険だ。

 とは言え人類の絶滅を目的としているなら将来的に敵対するか、融和するか、あるいは他の選択肢も考える必要がある……。

 

 何にせよ圧倒的に情報が足りない今の状況では、“殺される前に殺せる”だけの力を手にする修羅道を征かなければならない。

 

「でも、考えはあるのでしょう?」

 

「ああ……だが、私は君とルカラ以外の情報を一切を持ち合わせていない。……いや、ルカラについても牢屋敷収監以前のことしか分からないな。

 ひとまずは牢屋敷で死人が出ないように過ごしつつ、個々のパーソナリティを把握することから始めなければならない。それによって計画は逐一組み直す。

 おそらくここを出たい者だけでなく、逆に世間から排斥されたがゆえに残りたい者もいるだろう。ある意味で君も後者に近いのではないかな。

 出るにせよ、残るにせよ、希望を掴むためにはそのための力が必要であることを一人ひとりに向き合って伝えた上で、【禁忌】を抉り、魔女化させ味方になってもら……えれば良いな。

 この辺りの順序をどうするかもまぁ……後々だな。場合によっては事前に魔女化させ、退路を断ってから戦意を鼓舞した方が良いかもしれない。

 まぁ……ただの机上の空論だが、全員で一致団結して戦おうというのは、難しそうか……」

 

「変な人ばかりでしたから……でもきっと大丈夫です。戦うか殺されるかなら、戦いを選びそうな人が多いと私には見えました。

 何せ最初は……みんなでゴクチョーと看守の殺害計画を立ててやろう……無理なら脱獄に切り替えよう、だとか……そういう元々牢屋敷に対して反抗的な人が多かったですし。

 もちろんみんなでおとなしく仲良く暮らそうって人達もいましたけれど」

 

 想定よりなかなか活きの良いメンバーが揃っていそうだな……。

 尤も、中途半端な反抗の危険性を承知しているがために誰より管理者サイドに反乱を企てている私が、まずはそいつらを諌める側になりそうなのは皮肉な話だ。

 ともあれ、エルの見立てが正しければ、私がしくじりさえしなければ、多くは味方になってくれるかもしれない。

 【次】で出会う少女達に対しては、道具や駒という戦力単位ではなく、将来的に肩を並べて抗う戦友という認識で向き合うべきか。

 

 ……楽しみと不安を同時に感じる。

 最初は私が先頭に立って少女達を導く必要があるからだ。

 本来の私は裏であれこれこそこそと練った計画を、他者を使って実行したり、独断専行でルールも破ったとしても、それらのマイナスを上回る成果を出したのだからそれで良いだろう……と結果を出しつつ和を乱すタイプだ。

 一定の合議に基づいた組織運営も経験上不可能とは言わないまでも、やはり最適ではない。最終的には私の意志決定が優先されるよう仕向ける遠回しなワンマン気質が陰湿でよろしくない。それなら端から堂々と独裁すべきだ。

 よって、表立った指導者の代替わりが早急に行われることが望ましい。私の計画に深く賛同した上で、リーダーとなってくれる存在……後者の点でエルとルカラはアウトだな……。

 他にも欲しい人材……【まのさば】で言うところのエマやヒロのように人を惹き付けたり先導してくれる主人公のような存在と、レイアのようなムードメーカーがいてくれるとありがたいが……流石に欲張り過ぎか……。

 

 いや……むしろ現段階では主人公気質の者はいない方が望ましいかもしれない。

 仮にその【主人公】が平和主義者の類で、政府との融和や大魔女との和解による救済を目指す【戦わない道】を掲げ少女達を扇動した場合、本来手を取り合うべき魔女候補間ですら勢力が二分されてしまいかねん。

 

「それに、殺人は起きちゃいましたけど、本当なら皆さん、とても仲良くなれたと思います。私も表面上は溶け込めていましたからね。フゼアさんですら、孤立していませんでしたよ?」

「はぁ……ここにきて嫌味かい」

 

 だがまぁ重要な情報だ。孤立していない程度には嫌われていないというのは上々と言って良い。

 理念には共感できるが、人間として受け付けないという評価を下されてしまえば協力を拒まれる可能性がある。よしんば協力を得られても先々の連携に支障をきたすだろう。

 特に思春期の少女が相手があることを念頭に置くと、感情を優先して、されどそのことに自己嫌悪して、ズレた解決法を盲信して明後日の方向に暴走するなんて事態は容易に想像できる。

 この辺りの事前予測と対処はルカラに任せられるだろうか。……いや、あの変態に一任するのは不安があるな……。まぁいい、それは【次】に考えよう。

 

「言えるときに言っておかないとだめでしょう?

 それに、皆さんを魔女化させるという課題も、私の心をズタボロにして魔女化させた後にも徹底的に意地悪な言葉で虐め抜けるフゼアさんなら余裕です」

 

「そこまで悪意を込めていたつもりはないが……そんなに根に持っていたのか」

「悪意もなく……もっと最低です。ああいうの、ロジハラだって騒いでいる人がいました」

 

 正論をロジハラだと騒ぎ立てる恥知らずな輩……ルカラか?

 アレと同じ感性を持った奴が他にもいるのなら頭を抱えるな……。

 

「あんな風にねちねち責め立てれば、ほとんどの子は魔女化させられそうです。良かったですね。

 もしも、それでも行き詰まったら――

 ちゃんと【次の私】を使ってくださいね?」

 

「な――」

 

 至極合理的なはずのエルの提案にそのまま頷くことができない。

 

「フゼアさんが、フゼアさんでいてくれるなら、きっとまた私は貴方の共犯者になります。私には帰りたい日常なんてありませんしね。

 私を使えば、いざとなれば皆さんを操ることもできます。必ず役に立ちますよ」

 

「ふざけるな、君は道具ではない」

 

 否、繰生エルは正しい。大事を成すに当たり、時には友さえ計画達成のための一駒として使い潰す覚悟と器量こそ肝要だ。

 そんな正論を心底理解していながら、一度懐に入れた存在を単なる道具として扱うことができない。それが自身の克服すべき明確な弱点であることに疑いようはない。

 我ながら実に温い精神だ、厭わしい。優秀な政治家や起業家、総じて支配者層にサイコパス気質の者が多いという事実が示すように、リーダーの資質とは、切り捨てることだ。

 これから戦争を始めようというのに、己は同胞を切り捨てることができない、犠牲を出すぐらいなら撤退を選ぶと縮こまっている指揮官に、いったい誰がついてくるという。

 これもまた、私が十二人の魔女を取り纏めるリーダーの資質として不適格であるという根拠の一つだ。

 無論、それは【やり直し】ができるからこその余裕とも言えるが、それが通用しなくなる状況も当然想定しなければならない。そしてそのとき手を汚すのは……やはり私でなければならない。

 改めて、自らの惰弱さに向き合い克服すべき課題を示してくれた繰生エルの正しさに、感謝するとしよう。

 

「ふふ、【次の私】なんて【私】にとってはどうでもいい他人ですよ。だから、道具でいいんです。

 けれど……自分で言うのも変ですけど、取り扱いには気をつけてくださいね?

 暴走させるときっとフゼアさんにも牙を剥きます。だから、“ちゃんと”使ってください」

 

「そんな危険物に取扱説明書がないのなら、やはり道具としては扱えないな」

 

 いずれは君の取り扱い方も習得するつもりだから、それまでは許してほしい。

 そして……仲間を道具として使い潰す覚悟と同時に、救うべき者を一人たりとも捨て駒として消費する余地のない強さを手にしなければならない。

 

「面倒臭い人ですね、フゼアさんは……」

「君にだけは言われたくないねぇ」

 

 エルは崩れかけの手を虚空に添える。

 私もまた、そこに手を合わせる。

 

「エル、その手は――」

 

 崩れかけている影響で元のままではないが、原型としては人間の手に戻っている。

 魔女化が解けている……?

 

 エルの顔に刻まれた亀裂も……これは、塞がり始めている、のか……!

 理屈は分からないが、これはこの窮状を打破するきっかけになるのでは――と些細なことに活路を見出そうとする私の悪癖は、彼女の言葉によって遮られた。

 

「……フゼアさん、私はこの結末に幸せを感じています」

「涙を流しながら言うことではない」

「嬉し涙ですよ。貴方がとても辛そうな顔をしているので、嬉しいのです。これ、本心ですよ?」

「悪趣味だな……」

 

 また一欠片、彼女の指が崩れる。

 

「ッ、駄目だ、まだ崩れるな、終わるな――!」

「いいえ、私はここで終わりです。貴方と進むことはできません。最初から決まっていたことでしょう?

 なら私がどうなっても、同じじゃないですか。どちらにせよ、貴方は【やり直す】のですから」

 

「くっ――いや……そうだ……! 君の記憶を私に転写しろ! その記憶を次の君に移すことができれば――! あぁ手段や方法など、やり直した先でいくらでも探し、試し尽くしてやる……!」

 

「私を何だと思っているのですか?

 一緒に魔法の使い方を考えて、魔女化して、できることはとても多くなりましたが、私の【魔法】は何でもありの……それこそ“魔法”じゃありません。やれるのならやっています」

 

 咄嗟に思いついた案も即座に否定される。

 

「フゼアさん、私からお説教です。はぁ……これで最後にしてくださいね。

 貴方一人が何でも考えて、頑張って、諦めなかったぐらいで必ず思い通りになるだなんて思わないでください。それぐらい分かっていますよね?

 切り捨てるべきものは切り捨ててください。だめなものはだめなんです。重い荷物は捨てないと溺れますよ。

 ……なんて言っても、どうせまたみっともなく、それでもまだだ決して諦めないとか言いながら足掻き続けるのですよね?

 それが貴方の良いところであり、最悪なところです。

 今のフゼアさんのままだと、どうせ【次】も変な思い違いをして失敗します。

 そもそも私なんかにあっさり裏切られたの、ちゃんと自覚していますか? 貴方なりに必死にあれこれ考えたのでしょうけど、結果だけ見ればただのお馬鹿さんですよ。

 それで、この期に及んで何とかできる絶対諦めないとか、まだ考えていますか? 私、消えかけているのですけど」

 

 至極真っ当な説教の数々に、普通にへこまされる。

 反論の余地がない。

 

「いや、それは、……気を付ける……が、生憎、私が私である限り改善の見込みは……」

「では今だけ諦めてください。おへんじ」

「あ、あぁ、くっ……」

 

 今際の際だから一歩引いてやったが、それでも妙に釈然としない……!

 

「その嫌々ながら私に従うお顔を見られなくなるのが一番の心残りかもしれませんね」

「そんな機会はこれ限りだから、何も心残りにする必要はないぞ。自分の残り少ない寿命に感謝するんだな」

 

 事ここに至ってなお口をついて出たのは、いつも通りの皮肉だった。

 “いつも通り”が終わることなく、そのまま時が止まってほしい――とでも願っていたのか。

 

 しかし、砂時計は止まらない。

 エルの身体は徐々に、確実に、塩と化し失せてゆく。

 

「最期のときぐらい私に精一杯尽くす心遣いもできないのですね」

 

 そう言いながら、何を思いついたのか徐ろにエルは自分の指先を舐めた。

 

「しょっぱい、です」

「何をしている!?」

「本当に塩なのか確かめておいた方が良いかと思いまして。塩です。予想が当たって良かったですね。はいえらいえらい。……涙の味じゃ、ないですよ?」

 

 おかしなものを口に含むな――という注意は、平穏への帰還を前提としたものだ。

 ゆえにそれは何の意味もなさないと気付き、言葉が詰まる。

 

「……どうだか、ね。区別がつく状況でないなら検証に正確性を欠くな。ゆえに、泣き止んでからやり直したまえ」

「フゼアさんは泣いてくれないのですね。ぐちゃぐちゃの泣き顔を見せてくれたら、私はとても笑顔になれると思いますよ」

 

「年齢が二桁になってからは、欠伸や目に砂が入るだとかの生理反応以外で涙が出なくなってしまってねぇ。困ったことに愛犬の死にも泣けなかったのだからもう泣き方すら分からん。

 なので笑顔で見送ることにするよ」

 

「じゃあ急いで笑顔を作ってください」

 

 エルの身体が大きく揺れる――足元が崩れたのだ。

 崩壊する身体を支えるように彼女はもう片方の手を壁についた。同時にその手も大きく損傷する。

 

「っ……!」

 

「いよいよですね。……ごめんなさい。いい遺言、思いつきませんでした。

 こんなときって、どんな顔でどんな言葉を吐けばいいのでしょう?」

 

 さらさらと、全身が崩れつつある。

 もう、くだらないことを言い合う時間は――ない。

 

「聞く相手を間違っているな、そんな作法を私は知らない。

 ――ゆえに、まずは君のすぐ後に、この世界から消え去る私の遺言を聞いてくれ」

 

 繰生エルの真実を知り、処刑台に引き裂かれてから、ずっと後回しにしていた伝えなければならない私の答え。

 告げるべき時は、今を措いて他にない。

 

「はい」

 

 どうぞと首を傾げるエル。

 見えない壁に隔たれた彼女の両手に、私もまた両手を重ね――

 

 その潤んだ白い瞳から目を逸らさない。

 

「私は、【やり直す】。その先でも、おそらく何度も【繰り返す】」

「はい」

 

「何度も“繰生エル”と出会う」

「――はい」

 

「だが……! 決して【君】のことは忘れない……! 今、私の眼前にいる、この、ただ一人の【繰生エル】のことを、私は絶対に忘れない!」

「…………」

 

 無様だ。なんて醜い台詞を叫んでいるのだ。みっともない。愚かしい。

 そう思いながらも言葉が止まらない。

 

「たとえこれから何万回“君”と出会うことになろうとも、私は【今の君】を思い出し続ける……!

 拒まれようが忘れてなどやるものか、これから欠片も残さず消え去る様も、その後に残る骸も、一つ余さず、【繰生エル】を記憶し続けてやる……! 【小夜フゼア】が死に絶えるその時まで!

 私は【君】を忘れなどしない!」

 

 私はまたも致命的な過ちを犯してはいないだろうか。

 彼女の【禁忌】と【渇望】に応えられているだろうか――

 

「【私】にとっての【繰生エル】は【君】だけだ……!」

 

 だが、私に伝えられる言葉は、それだけだった。

 

「――ぅ、ぁ、あ、あああぁぁぁぁっ!!」

 

 繰生エルは、何かが決壊したかのように声を上げた。

 幼い子供のように、泣いていた。

 

「――――」

 

 何か、間違った……のか……?

 彼女の叫泣の理由を読み取れず、ただ眺めることしかできなかった。

 

「――私もっ、フゼアさんのこと、忘れません……! 最期の最期に、そんな、私、もっと、言いたいこと、あったのに……」

 

 歯を食いしばって彼女は言葉を絞り出している。

 

「そんなこと言われると、うまく、言えなくなっちゃうじゃないですかぁ……!」

 

 私の伝えるべきことは伝えられた。

 あとは彼女の言葉を聞き届けるだけ――

 

「私は――空っぽなんですよ?

 自分の記憶すら、何が本当か分からないんです。

 人格だって、私は本当は、どんな人間なのかも、分からないんです。

 それなのに、どうして――」

 

「君が、共犯者だからだ。それ以上の理由など必要ない。そもそも空っぽなのは私の方だろう?」

 

 記憶がどうこうと、それこそ私が言えたことではない。

 

「ふ、ふふ……お互い空っぽで、似た者同士ですね。

 ……ねぇ、フゼアさん。私は、貴方の共犯者として役割を全うできましたか?」

 

 エルは涙を流しながら頬を嗜虐的に歪める。

 

「よく言うよ、裏切者が」

 

 ああ――もう君の真意は何となく掴めているよ。

 

「うふふ……私は、貴方を――“絶望”させることができましたか?」

 

 それもまた今更だ。

 

「あぁ……全く以てこんなはずじゃなかったのに、最悪の気分だよ。おとなしく私の掌に収まっていれば良いものを。

 こんなにもタチの悪い女、ますます忘れられなくなってしまった」

 

「あはっ……嬉しいです。この【絶望】が、私から貴方への、二つ目のご褒美です。喜んでくださいね?」

 

 かつて【絶望】が必要だと嘯いたのは他でもない私――

 

 身に覚えのない嫌疑について裁判で徹底的に追い詰められ、無惨な敗北の末、己の処刑台と対面し、絶望と禁忌を自身に刻み込むことで魔女化を進め、覚醒させる――

 そんな、不確実性の高い計画をぶち壊し、完璧な形に彼女は仕上げた。

 

 繰生エルは私を裏切ることで、私の目的と、彼女の目的、その両取りを完遂したのだ。

 

「あぁ本当に……見事だよ。君の、勝ちだ」

 

「ふふ……ふふふっ。ね、フゼアさん? 実はまだ隠している裏切りがあるんです。でももう、時間がないので、貴方の記憶にしまっておきました。

 【戻ったら】、私のハンカチ、開いてみてください。きっと思い出すはずです。

 私が魔女化してからできるようになったこと、私の知っているみなさんの【禁忌】、【魔法】、色々なことを写してあります。

 私ができるようになったことを知れば、内緒の裏切りも理解できます。きっと笑ってもらえます。

 あとは伝えきれなかったことも、ぜんぶ……だから、やり直すたび、ちゃんと私のこと、思い出してくださいね?」

 

「――ああ。……心強いな。約束する」

 

 くしゃくしゃになってしまったエルの……私のハンカチに一瞬視線を送った。

 せっかく貰ったこのハンカチも、【戻れば】私のものではなくなってしまうな……。

 

 そして改めてエルを見つめ直せば……彼女の姿が蜃気楼のように揺らぎ始めている。

 

 それは、先ほどまで彼女を蝕んでいた塩の処刑とは明確に異なる現象――足元に積もっていた塩までもが、消失している。

 だが、この怪現象に驚きはなかった。

 

 もう彼女は塩の柱として、なれはてには至らない。

 ただ、魔女の呪いという軛から解き放たれただけのこと。

 

「フゼアさん」

「エル」

 

 壁越しに重ね合わせた両手は震えているが、だからこそ私は尊大に胸を張り、向き合う。

 繰生エルの思い描く小夜フゼアであるために。

 

「私を裁いてくれるのが、看取ってくれるのが貴方で良かった――」

「私を裏切る者が、共犯者になってくれたのが君で良かった。君がいてくれたからこそ、私は何度でも歩き出せる――」

 

 ああ、駄目だ、際限なく言葉が頭に溢れてくる。

 しかし、もう終わりにしなければならない。

 

 あと一言、たった一言だけ――

 

「――繰生エルを、小夜フゼアは忘れない」

 

 それが、私から彼女に送る最期の手向け。

 

「――、私は、もう空っぽじゃないのですね。こんなにも自分が消えていっているのに、私は今、とても満ち足りています。

 でも、だから、消えたく、ないです。辛いのに、嬉しくて……こんなの初めてです。

 フゼアさんは、そんな私を苦しめる悪い人ですから、呪いをかけちゃいます。

 ――繰生エルは、小夜フゼアを赦さない」

 

 そう言って、いたずらが成功した子供のようにはにかんだ。

 

「――なんて、半分、嘘です。半分は本当ですよ?

 ふふ、幸せです。こんなにも幕引きに未練を残せて本当に、幸せ――」

 

 額をそっと壁にくっつけた彼女に私も倣う。

 

 泣き笑うような表情を浮かべる繰生エルに負けぬよう、笑顔で送ると約束した通り、私は【小夜フゼア】通りの薄気味悪い不敵な笑みを浮かべた――つもりだ。

 

「――ふふ、へたくそ、です。

 フゼアさん――私を信じてくれて、辛さと苦しみを、嬉しさと喜びをくれてありがとう。

 最後は、ぜんぶ本当ですからよく聞いてくださいね――」

 

 目と目を合わせるのも、これで最後――

 

 涙の止んだエルの瞳は、半透明に透けていて、それは今までに感じた虚ろな潔白でも、塩のように無機質な純潔でもなく、闇夜を小さく照らす月明かりのようだった。

 

 

「フゼアさん――

 【――――――】

 ――ふふ――」

 

 

 別離の間際に囁かれた言葉は【小夜フゼア】にしか聞こえない。

 

 

「――さようなら」

 

 

 その言葉を最期に――【繰生エル】は、魔女ではなく、ただ一人の少女としての笑顔を浮かべ、生涯を全うした。

 

 なれはての呻きは聞こえない。

 ただ、時の止まった世界に寂寥たる静寂だけが残った――

 

 

 

 

 そうして――

 

 そうして――――

 

 繰生エルを構成していたすべてが塵一つ残さず虚空へと消える――刹那に。

 

 見えない壁の先で、一枚、黒い羽が床に落ちた。

 

 それは紛れもなく【小夜フゼア】の一部であり――繰生エルと共に影も残さず消え去った。

 

 

 ――そして、【私ではない小夜フゼア】の記憶の欠片が脳裏を過る。

 

 

 

 

 

 ――小夜フゼアと、繰生エルがそこにいる。

 

 “さようなら――【いつか】、ちゃんと私のことを、裁いてくださいね”

 

 “ああ――約束しよう。また、【いつか】――必ず”

 

 小夜フゼアは【儀礼剣】で繰生エルの胸を貫いた。

 

 床には【13】のラベルが貼られたビンが転がっていた。

 

 

 

 

 ――小夜フゼアと、繰生エルがそこにいる。

 

 “落ち着け――今の君は魔女化が進行して暴走状態にある――!”

 

 “それがどうしたのですか”

 

 “……くっ、やむを得ん……!”

 

 “逃がしませんよ?”

 

 “っ、何だ……これは二人の魔法が……!? まずいッ……このままでは――!”

 

 二人の魔法が同時に発動した。

 

 

 

 

 ――小夜フゼアと、繰生エルが監房にいる。

 

 “ここはどこだ……それに、この女は……く、何だ、この断片的な記憶、いや、知識は……?”

 

 “……大丈夫ですか”

 

 “確か……君は……、誰だ……?”

 

 “……、私は……繰生、エル……です”

 

 

 

 

 ――小夜フゼアがそこにいる。

 

 “……失敗か、やり直さねば――だが、遡行の反復使用により図書室の本は全て解読できた。【次】は得られた知識を基に私と彼女らの魔法を組み合わせて実証実験を行えば――”

 

 

 

 

 ――小夜フゼアがそこにいる。

 

 “……失敗か、やり直さねば――だが、魔女因子の研究は進み、応用の一つは確立した。【次】はさらに――”

 

 

 

 

 ――小夜フゼアがそこにいる。

 

 “……失敗か、やり直さねば――また記憶が破綻している、か……だが、魔女因子に【この私の時を固定し残滓を残せば】――”

 

 

 

 

 ――魔女化した小夜フゼアがそこにいる。

 

 “……失敗か、だがそれもまた糧となった。では【次】だ――諦める理由など皆無。何度でもやり直してくれる――”

 

 

 

 

 

 ――そこで、記憶は途絶えた。

 

 同時に、己が今まで不自然に抱えていた使命感のような何かが欠落したのを感じた。

 

 ああ――そういう、ことか。

 

 私の翼、黒い羽は【過去の私】の魔女因子、その積み重ねで構成されている。

 処刑台に送られる以前、いつの間にかエルに潜んでいた一枚の羽――【いつかの私】は、ここで繰生エルと共に在ることを選んだのだろう。

 

 

 すべてを見送った私は――そのまま崩れ落ちるように膝をついた。

 

 透明な壁の奥には、ただ裁判所の景色が広がっているだけ。格好をつけるべき相手はいなくなってしまった。

 ゆえに、糸の切れた人形のように力が抜けてしまったのだろう――

 

 ……しかし、だからこそ――どろりと心臓が音を立てた。

 

「――まだだ……」

 

 不屈を誓う怨嗟の意志が、喪った少女を弔う間もなく再び私を立ち上がらせる。

 

「まだ、【これから】だ……」

 

 エルからの贈り物を丁寧にたたみ、懐にしまうと共に激情を滾らせる。

 彼女の嘆きと慟哭を背に、立ち止まることなど許されない。

 

 否、繰生エルだけではない。この牢屋敷で何周にも渡って流された少女達の血と涙、奪われた友情、遂げられなかった決意、穢された希望、積み上げられた屍山血河――

 その全てに、報いなければならない。そして遍く悲劇を、これより幾度となく繰り返す己の罪業を自覚すればこそ――止まらない。

 

 未だ凍てついた世界で背後を振り返れば、すぐそこに武器を尽く毟られた看守が案山子のように棒立ちしている。

 少し観察すれば羽の貫いた部位周辺が不自然に溶解していた。

 

 なるほど、コレは何らかの毒性も有しているわけか。これもまた、【かつての私の誰か】が仕込んだ研究成果だろう。

 鴉の羽に蛇のような鱗――後者が毒蛇をモチーフとしているなら不自然はない。

 とは言え出血毒にしては生じた現象がいささか過激だ。おそらく細胞溶解素を組み込んだのであろうし、確認はできないが神経毒の類も抜かりなく含んでいるだろう。

 殺傷性を追求するなら、毒素はあればあるほど良いのだから、誰憚ることなく毒という概念を凝縮しているはず。

 時間を止める直前に起きた看守の壊れた人形のような不規則な動作にもこれで腑に落ちた。

 

 それだけ理解すると、看守を翼で八つ裂きにし、その肉片も八つ裂きにし、さらにその一欠片までも八つ裂きにするほどに解体する。

 両翼で肉塊を拾い上げ空中に固定すると、少女達に直撃させぬよう注意を払いつつ――翼を振るい乱雑に、叩きつけるように、裁判所の至るところにバラ撒いた。

 

 原型も分からないほどに細切れとなり散乱したそれらは、時が動き出せば一斉に花火のように弾けるだろう。

 

 ここまですれば再生にはかなりの時間がかかるはずだ。

 

 ……あぁ、もう一つあったな……。

 

 撓り跳ねた蛇のように伸びた翼は、ゴクチョーを捕え締め上げる。圧壊すると同時に無数の羽が貫通し、さながらアイアンメイデンの様相を呈していた。

 そのまま更に圧縮し床に叩きつけた時点で、もはや原型を留めておらず、細切れとなった破片が飛び散った。

 

 変幻自在に形を変える翼も仕事を終えると、背に収まるよう収縮し痕跡も残さず姿を消した。

 自らの手を確認すると、人間のものに戻っている。

 

 ――なるほど、私の魔女化は【人為的な魔女化】。私自身がストレスや【禁忌】に苛まれ異形化したわけではない。

 自身に蓄積した【魔女因子に宿る意志】に反しない限り、異形化をコントロールできるようだ。

 

 最後に見た記憶の断片から鑑みても、私は【普通の魔女化】を一度もしていない。

 如何なる苦痛、絶望、罪業さえも【次】の糧に変えなければならない。

 止まること、諦めることは決して赦されないという執念の怒りと決意が、見果てぬ希望への燃料として昇華され続けるゆえに、自然な形で【魔女化】することがないのだ。

 

 ならば実に都合が良い。

 これなら時を遡った先でも、魔女でありながら人の姿を保てる。

 

 一通りの解体作業と思考の整理を終えると、私は自身の証言台に戻り――時間停止を解除した。

 

 その瞬間――景色一面に潰れたトマトのような何かがびちゃびちゃと散乱する。

 ヘドロのような何かで彩られた廷内を、無感動に眺めた。

 

 見知らぬ少女達は悲鳴を上げ、錯乱し、腰を抜かす者までいた。

 

 ただ一人、ルカラだけはすぐに私の仕業と見抜いたようだが、引き攣った笑顔のまま声を出せずにいる。

 長い付き合いだ、【小夜フゼアの容姿】のモデルとなった【キャラの設定】から私が【時間停止】を使える可能性ぐらいは考慮していたかもしれないな。

 安心したまえ、言うまでもなく君も庇護対象だ。……せめて【次】は最初から頼れる味方であってほしいが。

 

 改めて周囲に異常が発生しないことを確認し、再度翼を展開した。

 

 自分の足元から全身を覆うように螺旋を何重にも描いたそれは、自身を完全に密封し防御態勢を構築する。

 この状態でなら、もはやそこらの剣や銃弾程度では小揺るぎもしない。

 密閉された空間は外界から隔絶され、毒ガスすらも通さない。

 

 あぁまさか、最初はただの邪魔なお飾りと思っていた翼が攻防一体の物理的な切札になるとは。

 まぁ、すべて【かつての私】の仕込みだったゆえに、自業自得と誹るべきか、自画自賛で称すべきか。

 

 巡り巡った歪な彷徨の末、此度の周回で果たすべき全てが完遂される。

 

 懐にしまっていた純白のハンカチを取り出す。

 どこかの誰かが散々握り締めてしまったせいで、皺一つなかった手巾は見るも無残な有様だ。

 

 もう二度と穢れてしまうことのないように――

 私は、一人の少女がこの世界に存在した確たる証拠を見つめた。

 

 これにて――この世界の幕引きだ。

 君が遺してくれた絶望に、応えてみせよう。

 

「――私はこの結末を認めない。ゆえに何度でもやり直す。さぁ、再審を始めよう――」

 

 これから幾度過ちを積み重ねようとも、全てを糧に永劫立ち上がり続けるのだ。

 屍山血河を築き上げた末に、必ず悲願を成し遂げるのみ――

 

 呪詛で彩られた決意の宣誓とともに時間遡行の魔法は発動し、未知なる牢屋敷の初日へと、時は戻された――――

 

 

 

 

 

 

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