やはり俺の結婚生活は間違っている   作:ヒューイK

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修学旅行の夜。
笑い声の奥に、かつての痛みと、いまの優しさがあります。
八幡たちが受け継いだ“青春のバトン”が、静かに次の世代へ渡る夜を描きました。
少しだけ、昔を思い出しながら読んでみてください。


第8.2話 修学旅行編 ― 続いていくもの

京都駅に着いた瞬間、乾いた空気にほんのり出汁の匂いが混じった。

 

京都駅を出てバスに乗り込むとき、

窓越しに見えた空は、透明なのにどこか遠かった。

見慣れた青ではない。

旅先の空は、少しだけ記憶を曖昧にする。

 

車窓に流れる景色をぼんやり見つめながら、

瑠美は胸の奥で小さく息をついた。

「観光」という言葉が、どこか現実離れして聞こえる。

この数日が終わったら、またいつもの日常に戻るのだろう。

そう思うと、少しだけもったいなかった。

 

隣の席で大磯が地図を折りたたむ。

「行き先、もう覚えた?」

「だいたいは。……でも順番までは無理ね」

「大丈夫、迷ったら俺がいる」

「……頼りにしてるわ」

 

会話のあと、沈黙が訪れた。

けれどその沈黙は、気まずさではなく安心に近い。

車内を満たすガイドの声と、遠くで鳴るベルの音。

その全部が旅の一部になっていく。

 

バスが坂道を登る。

窓の外で風が梢を揺らし、金色の光が差し込む。

その光を瑠美はそっと目で追った。

“今この瞬間を覚えておきたい”

そんな言葉が、喉の奥で形にならずに揺れていた。

 

二年生の列の中ほどに、瑠美と大磯。

班ごとに行動予定が配布され、しおりの角が風でめくれる。

二人の歩幅は自然と揃っていて、

肩が触れそうで触れない距離を保っている。

それを後ろから見ていたクラスメイトが小声で囁く。

「ね、やっぱさ…」「え、いや、でも…」

本人たちの耳に届かないところで、

からかい混じりの空気が生まれては流れていった。

 

一方、引率の教師組は最後尾で全体を見渡していた。

八幡、雪乃、結衣。

視線の動きと歩幅だけで、だいたいの役割分担がわかる。

八幡は遅れ気味の班をさりげなく押し上げ、

雪乃は全体の時間と動線を頭の中で組み直し、

結衣は列の雰囲気が固くなりすぎないように声を弾ませる。

 

清水の参道は相変わらず賑やかだ。

飴の甘い匂いと、焼きせんべいの香ばしさが風に混ざる。

境内に上がる石段の途中、

売店脇の蛇口で手を洗った結衣が、

ふとペットボトルを掲げて振り返った。

音羽の滝の方へ視線だけが泳ぐ。

 

「この水、入れたら縁結び効果ありそうじゃない? ね、ヒッキー?」

 

八幡の足が一拍だけ止まる。過去の修学旅行の断片が、結衣の声で一瞬だけ色を取り戻した。

 

「成長したな」

 

「えっ、ほんと?」

 

「……いや、してねぇか」

 

「なんでだし!」

 

「ある意味、あなたより成長してるわね」

 

「ちょっと! ヒッキーのが子どもじゃん!」

 

軽口の温度はちょうどいい。

笑いがこぼれ、列の空気が緩む。

三人のやりとりを横目に、

前方ではガイド役の生徒が班札を高く掲げ、

「ここで一旦、集合写真撮りまーす」

と声を張った。

 

写真の前列には班長の瑠美、後列の端に大磯。

レンズに向かうときだけ、二人の距離がわずかに縮まる。

シャッター音。

瞬間、隣り合った人差し指の背中が、

かすかに触れたような気がした。

 

午後、随求堂の胎内めぐり。

暗闇の回廊を、胸元の数珠玉の感触だけを頼りに歩む。

静けさの中で耳鳴りが増幅され、遠くの足音が大きく聞こえる。

出口の灯が滲み、その先に「願い石」が鎮座していた。

 

順番を待ちながら、大磯が息を整える。

指先の汗が、石の冷たさを想像して、少しだけ落ち着く。

隣に立つ瑠美が、掌を一度擦り合わせてから石臼の縁に触れた。

二人でゆっくりと押し始める。

わずかな抵抗が、共同作業の実感に変わる。

 

「何を願ったの?」

 

「……まだ内緒です」

 

目を逸らすタイミングまで、自然に揃った。

内緒という言葉は、たいてい距離を生む。

でもこのときだけは、

むしろ距離を測るためのやさしい物差しだった。

 

自由行動に入ると、

班の提案で市街地の“お化け屋敷”へ。

建物の影に入ると温度が一段落ち、

流れる音響が心拍を一つ分早める。

薄暗い廊下、先に立つ同級生の肩に手を置いて一列で進む。

何かが飛び出す気配に合わせて、

緊張がいっせいに前のめりになった。

 

曲がり角を抜けた瞬間――反射的に手が伸びた。

誰のものか確かめるより先に、指が絡む。

 

握りしめる力は強くない。

けれど離せなかった。

 

出口の非常灯が見え始めたころ、ようやく意識が追いつく。

手のひらの温度が会話のきっかけを奪い、

沈黙が二人の間に挟まる。

 

外に出ると、夕暮れの風が肌を撫でた。

「怖くなかった?」

「……二人なら平気」

照れが頬に広がる。

言葉を取り消すには遅すぎて、誤魔化すには正直すぎる。

二人は視線をずらし、同じ方向へ歩き出した。

 

昼の喧騒が嘘のように遠くなり、通りのざわめきが静けさに変わっていく。

瑠美は深く息を吸い込んだ。

空気が冷たい。

けれど、胸の奥にだけ残っている温度があった。

 

通り沿いの屋台から、たこ焼きの香ばしい匂いが漂ってくる。

焼き台の音が、まるで鼓動のように心の奥を叩いた。

「行こうか」

隣で大磯が言う。

その声に、心のリズムが再び動き出す。

 

人混みの隙間を抜けるたび、

ほんの一瞬だけ手の甲が触れる。

そのたびに瑠美の視線が、遠くの空へ逃げていく。

まるで、旅の終わりを告げるようだった。

 

(この時間が、もう少しだけ続けばいいのに)

そう思った瞬間、

風が吹き抜け、髪がふわりと揺れた。

それが、次の風景への合図みたいに思えた。

 

夕方、嵐山。

通りを抜けた先に、穏やかな川風が流れていた。

 

渡月橋を渡るころには、空の色が群青に傾き、

桂川の表面が薄く銀を塗ったように光っている。

竹林の道に入ると、風が音になる。

葉擦れはさざ波のようで、

ときどき背後からやってきては肩越しに抜けていく。

 

足音は二人分。

観光客の列が遠のいて、静けさが輪郭を取り戻す。

言葉は少ない。

けれど、歩幅と呼吸がそろい、会話の代わりを務めた。

ときどき立ち止まって、空を見上げる。

重なり合う竹の節々に、初めて見る模様を見つけるたび、

どちらからともなく小さく笑った。

その笑いが風に乗って、竹の間を静かに抜けていった。

 

同じころ、教師組は班の動線を見届けてから、

夜間公開の日本庭園に足を向けていた。

苔の上に落ちる光は、

燈籠の陰と交差しながら柔らかい輪郭を作る。

水面はわずかに揺れ、月はまだ低い。

 

足を止め、八幡がぽつりと呟く。

 

「ここの日本庭園って雪乃がどこが猫っぽいのとか言ってた場所じゃないか」

 

「私の黒歴史を掘り返さないで」

 

いつかの会話が、夜露みたいに蘇る。

雪乃は、言いながらもどこか嬉しそうだった。

思い出を共有できる人間がいる、という事実は、

それだけで心を和らげる。

 

雪乃は空を見上げ、夜の青に滲む月を見つめた。

その視線の先を追うように、八幡も小さく呟く。

 

「……月が、綺麗だな」

 

雪乃が一瞬だけ目を細める。

「……ええ、今日は、特にね」

 

言葉の意味をどこまで共有しているか、

互いに確かめることはなかった。

けれど、それで十分だった。

 

そのあと、三人は嵐山の竹林へ回る。

観光客の波が引き、道はほどよく空いていた。

竹の間を渡る風が、過去と現在を結ぶ導線になる。

沈黙が自然の音に吸い込まれたところで、結衣が足を止める。

 

「今なら、あの時の依頼……どうした?」

 

雪乃は前を見たまま、呼吸を一度深くする。

 

「……即座に断るわ。人の恋愛や友情に他人が介入してもうまく行く保証なんてどこにもないもの」

雪乃は竹の隙間からこぼれる光を見つめ、ゆっくりまばたきをした。

 

「私もそう思う」

結衣は靴先で砂利を蹴りながら、ふっと笑う。

 

「でもヒッキーの斜め上の解決方法でなんとか丸くおさまった」

「解決なんてしてねえ、解消しただけだ」

 

 竹の影が、足元をゆっくり横切る。結衣はその移ろいを見るように視線を落としてから、顔を上げた。

 

「ヒッキーあの時は本当にごめん」

「あの時、ヒッキーのことが本当に好きだった」

「だから嘘の告白ってやり方がどうしても許せなかったんだ」

「でも、ヒッキーは一人で頑張ってたんだよね」

「あの頃のヒッキーはいつも一人で頑張ってた」

「戸部っちの依頼があって、姫名の依頼の裏に気づいて

隼人くんからも、由美子からもなんか言われてたんでしょ」

「でもその時、嘘告白で動揺したのは確かだけど

ヒッキー、一人が傷つくのが悲しかった。

もっと私たちを頼って欲しかったんだ」

 

八幡は肩で息をして、視線を少しだけ逸らす。

 

「由比ヶ浜は優しい子だからな」

 

雪乃が言葉を継ぐ。

夜目にもわかるくらい、まぶたの動きが丁寧だった。

 

「今思えば私もその頃からあなたの事が好きだったのよ」

「でもあの頃の私はそんな感情には気づいていなかったわ」

「だからあなたの嘘告白に苛立ちをどう処理していいかわからなくて…あなたのやり方嫌いなんて言ってしまったんだわ」

「あなたにあんな方法をさせてしまったのは私達とは気づかずに」

 

風が一段強くなる。竹の間を通るとき、音がすこしだけ高くなる。八幡はその音を聞き切ってから、言葉を置く。

 

「でも、今はちゃんと笑えてる」

「だから...あの時の俺たちも間違いじゃなかったよ」

 

竹の葉がまたひときわ強く鳴り、風が静まる。

三人の立ち位置は、ほんの少しだけ近づいた。

 

夜の濃さは増しているのに、輪郭はむしろはっきりしていく。

過去は変えられない。

けれど、過去に向けるまなざしは変えられる。

そんな当たり前が今夜はよく沁みた。

 

ホテルへ戻り、夜食を食べようとしていた、八幡たちは、

入り口のソファで話してた瑠美と大磯と鉢合わせる。

 

「やっぱりバレるんだなあ」

 

八幡の一言に、三人分の苦笑が重なる。

気まずさの膜が、笑いで薄くなる。

 

「どこ行くんですか?八幡先生」

「まあ、夜食を食べにな...」

「引率なのにこんな時間に外出ですか?」

「いやお前らもだが」

 

二人は半ば強制で、タクシーでいつかのラーメン屋に。深いスープの香り。カウンターに並んで腰掛けると、湯気が顔をくすぐった。

 

「ゆきのん達、こんなとこ来てたんだ。ずるいし!」

 

「バッカ、口止め料もらっただけだ」

 

「やっぱり凶暴な旨みね」

 

「雪乃先生の表現的確すぎる」

 

「じゃあこれも口止め料ですよね」

 

どんぶりの向こうで、目が合うたびに笑いが生まれる。レンゲで掬う手のリズムまで、どこか似てくる。麺が少し伸びてしまうのも気にならない。熱いスープは、今日一日の張りつめを溶かすのに十分だった。

 

食後、店の外。夜風がスープの熱を均していく。瑠美が肩の力を抜いた声で問う。

 

「先生達、こんな夜中に生徒を引きずり回して叱られませんか?」

 

「叱られることは悪いことじゃない」

「誰かが見てくれてるから叱られるんだ」

「だから、お前達もいくら間違ってもいい。俺たちが見てるからな」

 

「あなた、それ……平塚先生の言葉よね」

 

「ああ。あの人の遺言みたいなもんだ」

「勝手に殺すなし!」

 

言いながら、それぞれが胸の奥に同じ顔を思い浮かべていた。叱られた記憶は、不思議と嫌な重さを残さない。見られていたという確かさだけが、背骨みたいに残っている。

 

ホテルの灯が、夜気の中に四角い窓をいくつも浮かべる。エレベーター前で手を振り、二組は別れた。

 

消灯前の静けさ。瑠美は布団にもぐり、天井の模様を追いながらスマホの通知に気づく。画面には短いメッセージがひとつ。

 

「今日、ありがとう。また明日」

 

唇の端に、自然と笑みが触れる。指が滑って、返事は短く。

 

「……こちらこそ」

 

送信音が小さく鳴った。電気を落とす。暗闇は柔らかく、昼間とは違う種類の安心があった。

 

同じころ、旧奉仕部の部屋。窓の外に京都の夜景が滲み、遠くの車列がゆっくり動く。

 

「次の修学旅行、行きたいね」

 

「教師として、ね」

 

「京都以外がいいな、じゃらん担当よろしく雪乃」

 

一拍おいて、空気が照れで温かくなる。赤くなる雪乃。視線を外へ滑らせ、咳払いをひとつ。

 

「気づいてたのね」

「まあいいわ任せなさい」

「ちゃんと3人で作業分担するから」

 

「もちろん、一緒にやろう、ゆきのん」

 

「了解だ。雪乃」

 

三人の笑い声が重なり、夜景の手前に薄い膜のように広がった。笑いはすぐに消えたが、その温度は部屋に残る。過去を抱えたまま、今を受け入れて、次へ進む。大げさな決意は要らない。ただ、同じ方向を見て歩く約束だけがあればいい。

 

外は静かで、街の灯は穏やかだ。竹林を渡った風の音が、耳の奥でまだ続いている気がする。叱ってくれた人の言葉も、レンゲですくったスープの熱さも、手のひらに残った心細さも、同じ場所に仕舞われている。

 

青春は終わらない。

正確に言えば、終わらせない。

バトンは目に見えないから、渡すたびに確かめ合うしかない。

それでも、続いていく。

 

――そして京都の夜は、静かに更けていった。




この夜の竹林は、彼らにとって“過去を許す場所”でした。
言葉にできなかった思いがようやく交わり、
傷跡ではなく、あたたかさだけが残る。
そして八幡の「間違いじゃなかった」という一言が、
全部を優しく包んでくれた気がします。

過去の痛みを共有できる人がいるということ。
それだけで、人はもう一度やり直せるのだと思います。

次回の第8.3話(ハロウィン編)は、10月29日に投稿予定です。

これからは、少しゆっくりとした更新ペースに切り替えようと思っています。

物語も季節も、秋から冬へ。
現実の季節感と共に、作品をお届けしていけたらと考えています。

これからも、温かく見守ってもらえたら嬉しいです。
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