やはり俺の結婚生活は間違っている   作:ヒューイK

13 / 30
日常の中で積み重ねる小さな奉仕。
誰かの時間を助けるために動く、その一歩が勇気になる。

八幡先生たちの教えが、今、瑠美たちの胸に灯ります。

第8.5話「決意は、誰かに背中を押されて」――どうぞ。


第8.5話 決意は、誰かに背中を押されて

 

窓ガラスに斜めの陽射しが差し、

職員室の机の上で答案用紙の白が少しだけ金色に見えた。

 

カチ、カチ、と壁の時計が整然と時を刻む。

 

比企谷八幡は、

採点用の赤ペンを指先でくるりと回してから止めた。

欄外に書かれた自由記述――「将来の夢:まだ決めていない」――に二重線を引かず、そのまま小さく丸をつける。

 

「優しいのね」

声の主は雪ノ下雪乃だった。

トレイの上のマグカップが二つ、かすかに鳴る。

湯気が立ちのぼり、紅茶の香りがふわりと漂った。

 

「採点基準に“やる気”は含まれないはずだが」

「“やる気”が見えたら、つい点を甘くするのがあなたでしょう?」

「見えないよりマシだろ。怖がってるってことは、前を見てる証拠だ」

「また、そうやって都合よく詩人ぶる」

「現実的な詩だよ。誰だって、何も見えなきゃ怖くもない」

 

雪乃は目を細め、カップを八幡の机に置く。

紅茶の表面に窓辺の光が一文字、二文字と走った。

 

「……見守るだけって、案外もどかしいわ」

「教師は信号機みたいなもんだ。進め、止まれ、注意。渡るのは本人」

「じゃあ、あなたは黄色信号ね」

「なんでだ」

「“注意”ばかり言うもの」

「赤よりはマシだ」

「緑でもないけれど」

雪乃は肩をわずかにすくめ、笑った。

「――それでも、届く子には届くわ。あの子たちに」

 

八幡は短く息を吐き、胸の奥に小さな温もりが残るのを感じた。

.....窓の外に視線をやる。

校庭の端を、うっすらとした冬の気配が撫でていった。

 

◇

 

放課後の奉仕部。

部室のドアを開けた美羽が、

「ただいま戻りました」と小さく頭を下げる。

手には申請書の束。今日は厚みがいつもよりある。

 

「生徒会選挙の掲示、全部貼り替え完了です。……あと、これ」

机に置かれたのは、便箋サイズの依頼書だった。

『図書室の静音マットの張り替えサポート』

『弁論大会の補佐』

『文化部交流会の運営補助(仮)』――細かい仕事の羅列。

けれど、そのどれもが“誰かの時間を助けるため”に必要なものばかりだ。

 

瑠美は一枚ずつめくり、無言でうなずく。

紙の角が小さく鳴るたび、

胸の奥でざわついていた何かが音を立てて形を変える気がした。

 

「図書室のマット、来週末には届くらしい。準備、俺も行く」

「当然でしょ。奉仕部の一員なんだから」

「いや、“部員”って呼ばれるの、まだ慣れないんだ」

「その照れ、悪くないですね」

美羽がニヤリとする。

「“辞めた立場で出しゃばるな”って、

 言われに来たのかと思いました」

「今は“出しゃばる立場”だろ」

 

瑠美は手元の紙束をそっと置き、ホワイトボードに近づく。

ペン先が「図書室」「弁論」「交流会」と音を立て、

簡潔なタスク表が浮かび上がった。

 

「順番に片づけましょう。まずは図書室。」

「美羽、マット到着前にサイズの再確認を」

「廊下からの騒音測定もしておいて。大磯くんは……」

 

「廃マットの処理、運搬ルートの確保」

「図書委員と管理担当のアポ取り」

「あと、貸出停止の掲示作成」

 

「……手慣れてるわね」

「前任のクセが抜けないだけだ」

 

部室にさざ波のような笑いが起きる。

その空気は軽い。

けれど、軽さの底に“覚悟の色”が一筋通っていた。

八幡の言葉が、瑠美の胸の底で小さく光る。

怖がってるってことは、前を見てる証拠だ。

 

◇

 

図書室――閉館後。

背の高い書架の間に、養生テープが斜めに走る。

床の一角に古いマットがめくれ上がっており、

踏むとミシ、と頼りない音を出した。

 

「結構、来てるわね」

瑠美が膝をつき、めくれた角を丁寧に戻す。

「ここ、荷重が一点に集中してるんです」

「カウンター側の足音が反響して……」

美羽がスマホの簡易騒音計を見せる。

「ここで65、あっちで58――」数値が滑っていく。

「じゃ、対角に補強入れよう」

「通学靴のグリップも考えて、表面はこの目の細かいタイプをメインに」

「比企谷先生の“転ばないことが第一条件”の呪いがうるさいからな」

「呪いって言うんじゃねえ」

と、背後から本当に呪いの主が現れた。

「様子見っていうか、こういう時に限って事故が起きるから先に口を出しに来た」

「自己申告する呪い、珍しいですね」美羽がさらり。

「口は悪いが事実だ」

八幡は平然と続ける。

「作業は二人一組。刃物担当と押さえ担当を分ける」

「疲れたら必ず交代。『急ぐほど遅くなる』は現場の基本だ」

 

「了解です」

短く返事をしてから、大磯が軍手を瑠美に投げる。

「汚れてもいいやつ持ってきた」

「ありがとう」

言って、指先を差し込む。

布の内側に残っていた微かな洗剤の匂い。

その些細な気配が、胸の奥にじわりと広がった。

 

「じゃ、始めようか」

八幡が壁の時計を見てから言う。

「四十分で一度休憩。誰が何と言おうとだ」

 

一拍の静けさが流れた。

 

「“誰が”って……」「お前だよ」

瑠美はむっとし、すぐに笑う。

「わかったわ、八幡先生」

 

マットを巻き取り、寸法線に合わせて新しいシートを当てる。

瑠美がカッターの刃を出す音が、やけに鮮明に聞こえた。

「ここ、押さえて」

「うん」

手と手が、作業の必然で近づく。

軍手越しに伝わる熱は抑えた温度だったが、確かにあった。

「……前より、真っ直ぐ切れるようになったな」

「練習したから」

「何で練習を」

「文化祭のとき。あなたが“雑”って顔したから」

「俺、そんな顔してた?」「してた」

素早い二音に、美羽がマスクの下で笑う。

「証人います」

 

冗談を挟みながらも、刃先は揺れない。

新しいマットが床に吸いつくように収まり、

端の目地が一本の線になる。

「――きれい」

美羽の声に、瑠美は小さくうなずいた。

「“誰かのため”に、形が変わる音って、好き」

呟きに、誰も照れなかった。

照れより先に、作業のリズムがあった。

 

◇

 

休憩時間。

廊下のベンチに並んで座る四人。

紙コップの麦茶が並び、息をつく音が同期した。

 

八幡がポケットからマッ缶を取り出す。

「差し入れだ。栄養補給に」

「…またマッ缶?」

「今日は頭脳労働してませんよ」

「バッカ、人生はいつでもつらい、

だからいつでも甘いのがいいんだよ」

瑠美が嬉しげに受け取り、美羽も遠慮なく受け取る。

大磯は一拍置いてから手を伸ばした。

「「「甘っ、よくこんなの飲めますね」」」

「お前ら、全員似てきたな」

 

「会長――じゃないか。……大磯くん、選挙のこと」

「決めたんですね」

美羽が、あえて“いつもの調子”で切り出す。

「ああ。降りる。立場に残るより、やれる範囲でやる」

「立場を捨てても、やることは変わらないって顔してる」

「変わるよ。責任の方向が」

「方向?」

「“前に立って引っ張る”から、“横で支えて押す”に」

「まあ、横で口出しが増えるだけかもしれないが」

自分で言って、少しだけ笑う。

その笑いは以前より柔らかかった。

 

瑠美は缶の縁に親指を沿わせ、言葉を選ぶ。

「……怖くない?」「怖いよ」

即答だった。

「でも、怖いってことは、次を見てるってことだろ?」

「何も見えなきゃ、怖くもない」

その言葉は、八幡がよく口にしていたものだった。

八幡の言葉が、彼の口から出てくる。

胸の奥で、同じ言葉が二重に響く。

八幡の声で、そして目の前の彼の声で。

 

「……私も、怖い」

やっとそれを言葉にできた。

「何が?」

「“奉仕部の瑠美”が、ただの“私”になったとき、

みんなの役に立てるのか、わからないの」

「役に立とうとするやつは、だいたい立ってる」

「根拠は?」

「統計と、経験則」

「どこの統計よ」

「俺の中」

不意に、美羽が肩で笑う。

「それ、案外信用できるんですよね」

「美羽」

「だって、会長――じゃないや、大磯くんの予想、だいたい当たるし」

「“だいたい”が余計だ」

「保険です」

 

軽口をひとしきり交わすと、自然に作業へ戻る流れができた。

扉の向こう、図書委員が覗き込み、

事情を聞くと、

「ありがとうございます」

と深く頭を下げて引っ込んでいく。

その“ありがとう”は、作業の疲れより先に背筋を伸ばす。

 

◇

 

作業を終えた頃には、外の空は群青に沈んでいた。

図書室の照明を落とし、戸締まりを二重に確認する。

廊下に出ると、人の気配が引いた校舎に靴音がよく響いた。

 

「今日はここまでね。――明日は弁論大会本番」

「美羽、タイムキープの段取りをお願い」

「大磯くんは照明と袖の導線、私と一緒にチェック」

「「了解」」

 

瑠美がわずかに息を整え、

「……そして、私も練習しておかなくちゃ」

と小さく付け加える。

 

返事が重なり、扉の向こうに夜の空気が流れ込む。

 

階段の踊り場で、ふと息を整える。

手すりの金属は冷たく、

頬を撫でる風は冬の匂いが濃くなっていた。

瑠美は、その冷たさを嫌いではないと思う。

輪郭がはっきりするから。

自分の呼吸の深さも、目の前の人の歩幅も。

 

「じゃあ、また明日」

美羽が軽く手を振って先に降りていく。

階段に残ったのは瑠美と大磯、二人分の影。

窓の外に街の灯りが一つ、二つと灯っていく。

 

「……ありがとう」

瑠美が言う。

「何が」

「今日、ここに来てくれたこと」

「それから、怖いって言ってくれたこと」

「礼を言われるほどのことは何も」

「あるわ」

重ねて言う。

「“怖い”って言葉は、私には進むための合図に聞こえたから」

 

大磯は言葉を選ぶ間を置かずに、短くうなずいた。

「なら、良かった」

それだけを言って、踊り場の灯りに目を細める。

沈黙は、気まずくない。

気まずくない沈黙を持てる関係は、強い。

 

「また明日ね」

瑠美が胸の前で小さく手を振る。

大磯はどこか嬉しそうに

「ああ、また明日な」

と返す。

 

扉が閉まり、足音が遠ざかる。

瑠美は、階段の途中で一度だけ振り返る。

さっきまでいた踊り場に、誰もいない。当たり前だ。

けれど、さっきまで“いた”という事実が、不思議と背中を温めた。

 

◇

 

職員室の窓の外は、もう夜の色だった。

答案用紙の束は半分に減り、

八幡は赤ペンのキャップをカチリと嵌める。

「終わった?」

雪乃が戻ってきて、マグカップに温かいものを注ぐ。

 

「半分。残りは明日」

「珍しく、計画的ね」

「“急ぐほど遅くなる”って、さっき自分で言ったからな」

「自分の戒めを自分で守れるのは、立派よ」

「褒めてるのか」

「どっちでもいいわ。ただ――」

「ただ?」

「あなたの言葉、ちゃんと届いてると思うわ」

雪乃は窓の外を顎で示す。

奉仕部のある棟の明かりが、ぽつりと灯り、ゆっくりと消えた。

「届いてるから、私は紅茶を淹れる回数が減らないのね」

「それは俺への嫌味か」

「感謝よ」

ほんの少しだけ笑って、雪乃はマグカップを差し出した。

八幡は受け取り、窓の外をもう一度見る。

……渡るのは本人だ。

けれど、信号がある夜道は、やっぱり歩きやすい。

 

◇

 

夜。

自室で、瑠美は窓辺に椅子を寄せた。

ガラスに指の跡がつかないよう、袖口でそっと押さえる。

机の上には今日の依頼書が束のまま置かれ、

角に付箋が規則正しく並んでいる。

携帯のメモには、明日の段取りと材料の個数、

館内放送の文面案が走り書きに近い字で並んだ。

 

いったん画面を閉じ、背もたれに体重を預ける。

瞼を閉じると、図書室の匂いが蘇る。

紙とインクと、床材の微かなゴムの匂い。

軍手越しの体温、刃物の金属音、そして――「怖いよ」と言った声。

(怖い、か)

 

口の中で一度転がす。

“怖い”は、避けるための言葉じゃない。準備するための言葉だ。

そう思えるのは、きっと誰かが灯りを点けてくれているからだ。

黄色でも、緑でも、赤でもいい。信号がある。

そう思えるだけで、人は前に進める。

 

窓の外に目をやる。

屋根の向こう、薄い雲の切れ間に星がひとつ。

冷えた空気が、頬の内側まで澄んでいく。

 

指先が、机のメモに戻る。

”明日、図書委員に差し入れ(個包装の飴)/弁論用に予備のストップウォッチ”

書き足してから、ペンのキャップを閉めた。

 

椅子をくるりと窓のほうに向き直る。

胸の奥に残った声を、そっと確かめる。

八幡先生の低い声。

……怖がってるってことは、前を見てる証拠だ。

 

瑠美は窓の外を見上げた。

その空の色が、八幡の声と同じ“優しさの色”に見えた。

 

(明日は、私の番だ。

 誰かの言葉を届けるんじゃなくて、

 自分の言葉で、誰かに届かせる番。)

 

瑠美は小さく息を吸い、

胸の奥の灯りを確かめるように目を閉じた。

その光は、もう迷いではなく、まっすぐな“決意”だった。




「優しさ」は形を変えて伝わっていく。
それが、奉仕部の真髄であり、比企谷夫妻の教えなのかもしれません。

生徒たちがどんな言葉を選び、
次に何を伝えるのか。

その続きも、見届けてください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。