誰かの時間を助けるために動く、その一歩が勇気になる。
八幡先生たちの教えが、今、瑠美たちの胸に灯ります。
第8.5話「決意は、誰かに背中を押されて」――どうぞ。
窓ガラスに斜めの陽射しが差し、
職員室の机の上で答案用紙の白が少しだけ金色に見えた。
カチ、カチ、と壁の時計が整然と時を刻む。
比企谷八幡は、
採点用の赤ペンを指先でくるりと回してから止めた。
欄外に書かれた自由記述――「将来の夢:まだ決めていない」――に二重線を引かず、そのまま小さく丸をつける。
「優しいのね」
声の主は雪ノ下雪乃だった。
トレイの上のマグカップが二つ、かすかに鳴る。
湯気が立ちのぼり、紅茶の香りがふわりと漂った。
「採点基準に“やる気”は含まれないはずだが」
「“やる気”が見えたら、つい点を甘くするのがあなたでしょう?」
「見えないよりマシだろ。怖がってるってことは、前を見てる証拠だ」
「また、そうやって都合よく詩人ぶる」
「現実的な詩だよ。誰だって、何も見えなきゃ怖くもない」
雪乃は目を細め、カップを八幡の机に置く。
紅茶の表面に窓辺の光が一文字、二文字と走った。
「……見守るだけって、案外もどかしいわ」
「教師は信号機みたいなもんだ。進め、止まれ、注意。渡るのは本人」
「じゃあ、あなたは黄色信号ね」
「なんでだ」
「“注意”ばかり言うもの」
「赤よりはマシだ」
「緑でもないけれど」
雪乃は肩をわずかにすくめ、笑った。
「――それでも、届く子には届くわ。あの子たちに」
八幡は短く息を吐き、胸の奥に小さな温もりが残るのを感じた。
.....窓の外に視線をやる。
校庭の端を、うっすらとした冬の気配が撫でていった。
◇
放課後の奉仕部。
部室のドアを開けた美羽が、
「ただいま戻りました」と小さく頭を下げる。
手には申請書の束。今日は厚みがいつもよりある。
「生徒会選挙の掲示、全部貼り替え完了です。……あと、これ」
机に置かれたのは、便箋サイズの依頼書だった。
『図書室の静音マットの張り替えサポート』
『弁論大会の補佐』
『文化部交流会の運営補助(仮)』――細かい仕事の羅列。
けれど、そのどれもが“誰かの時間を助けるため”に必要なものばかりだ。
瑠美は一枚ずつめくり、無言でうなずく。
紙の角が小さく鳴るたび、
胸の奥でざわついていた何かが音を立てて形を変える気がした。
「図書室のマット、来週末には届くらしい。準備、俺も行く」
「当然でしょ。奉仕部の一員なんだから」
「いや、“部員”って呼ばれるの、まだ慣れないんだ」
「その照れ、悪くないですね」
美羽がニヤリとする。
「“辞めた立場で出しゃばるな”って、
言われに来たのかと思いました」
「今は“出しゃばる立場”だろ」
瑠美は手元の紙束をそっと置き、ホワイトボードに近づく。
ペン先が「図書室」「弁論」「交流会」と音を立て、
簡潔なタスク表が浮かび上がった。
「順番に片づけましょう。まずは図書室。」
「美羽、マット到着前にサイズの再確認を」
「廊下からの騒音測定もしておいて。大磯くんは……」
「廃マットの処理、運搬ルートの確保」
「図書委員と管理担当のアポ取り」
「あと、貸出停止の掲示作成」
「……手慣れてるわね」
「前任のクセが抜けないだけだ」
部室にさざ波のような笑いが起きる。
その空気は軽い。
けれど、軽さの底に“覚悟の色”が一筋通っていた。
八幡の言葉が、瑠美の胸の底で小さく光る。
怖がってるってことは、前を見てる証拠だ。
◇
図書室――閉館後。
背の高い書架の間に、養生テープが斜めに走る。
床の一角に古いマットがめくれ上がっており、
踏むとミシ、と頼りない音を出した。
「結構、来てるわね」
瑠美が膝をつき、めくれた角を丁寧に戻す。
「ここ、荷重が一点に集中してるんです」
「カウンター側の足音が反響して……」
美羽がスマホの簡易騒音計を見せる。
「ここで65、あっちで58――」数値が滑っていく。
「じゃ、対角に補強入れよう」
「通学靴のグリップも考えて、表面はこの目の細かいタイプをメインに」
「比企谷先生の“転ばないことが第一条件”の呪いがうるさいからな」
「呪いって言うんじゃねえ」
と、背後から本当に呪いの主が現れた。
「様子見っていうか、こういう時に限って事故が起きるから先に口を出しに来た」
「自己申告する呪い、珍しいですね」美羽がさらり。
「口は悪いが事実だ」
八幡は平然と続ける。
「作業は二人一組。刃物担当と押さえ担当を分ける」
「疲れたら必ず交代。『急ぐほど遅くなる』は現場の基本だ」
「了解です」
短く返事をしてから、大磯が軍手を瑠美に投げる。
「汚れてもいいやつ持ってきた」
「ありがとう」
言って、指先を差し込む。
布の内側に残っていた微かな洗剤の匂い。
その些細な気配が、胸の奥にじわりと広がった。
「じゃ、始めようか」
八幡が壁の時計を見てから言う。
「四十分で一度休憩。誰が何と言おうとだ」
一拍の静けさが流れた。
「“誰が”って……」「お前だよ」
瑠美はむっとし、すぐに笑う。
「わかったわ、八幡先生」
マットを巻き取り、寸法線に合わせて新しいシートを当てる。
瑠美がカッターの刃を出す音が、やけに鮮明に聞こえた。
「ここ、押さえて」
「うん」
手と手が、作業の必然で近づく。
軍手越しに伝わる熱は抑えた温度だったが、確かにあった。
「……前より、真っ直ぐ切れるようになったな」
「練習したから」
「何で練習を」
「文化祭のとき。あなたが“雑”って顔したから」
「俺、そんな顔してた?」「してた」
素早い二音に、美羽がマスクの下で笑う。
「証人います」
冗談を挟みながらも、刃先は揺れない。
新しいマットが床に吸いつくように収まり、
端の目地が一本の線になる。
「――きれい」
美羽の声に、瑠美は小さくうなずいた。
「“誰かのため”に、形が変わる音って、好き」
呟きに、誰も照れなかった。
照れより先に、作業のリズムがあった。
◇
休憩時間。
廊下のベンチに並んで座る四人。
紙コップの麦茶が並び、息をつく音が同期した。
八幡がポケットからマッ缶を取り出す。
「差し入れだ。栄養補給に」
「…またマッ缶?」
「今日は頭脳労働してませんよ」
「バッカ、人生はいつでもつらい、
だからいつでも甘いのがいいんだよ」
瑠美が嬉しげに受け取り、美羽も遠慮なく受け取る。
大磯は一拍置いてから手を伸ばした。
「「「甘っ、よくこんなの飲めますね」」」
「お前ら、全員似てきたな」
「会長――じゃないか。……大磯くん、選挙のこと」
「決めたんですね」
美羽が、あえて“いつもの調子”で切り出す。
「ああ。降りる。立場に残るより、やれる範囲でやる」
「立場を捨てても、やることは変わらないって顔してる」
「変わるよ。責任の方向が」
「方向?」
「“前に立って引っ張る”から、“横で支えて押す”に」
「まあ、横で口出しが増えるだけかもしれないが」
自分で言って、少しだけ笑う。
その笑いは以前より柔らかかった。
瑠美は缶の縁に親指を沿わせ、言葉を選ぶ。
「……怖くない?」「怖いよ」
即答だった。
「でも、怖いってことは、次を見てるってことだろ?」
「何も見えなきゃ、怖くもない」
その言葉は、八幡がよく口にしていたものだった。
八幡の言葉が、彼の口から出てくる。
胸の奥で、同じ言葉が二重に響く。
八幡の声で、そして目の前の彼の声で。
「……私も、怖い」
やっとそれを言葉にできた。
「何が?」
「“奉仕部の瑠美”が、ただの“私”になったとき、
みんなの役に立てるのか、わからないの」
「役に立とうとするやつは、だいたい立ってる」
「根拠は?」
「統計と、経験則」
「どこの統計よ」
「俺の中」
不意に、美羽が肩で笑う。
「それ、案外信用できるんですよね」
「美羽」
「だって、会長――じゃないや、大磯くんの予想、だいたい当たるし」
「“だいたい”が余計だ」
「保険です」
軽口をひとしきり交わすと、自然に作業へ戻る流れができた。
扉の向こう、図書委員が覗き込み、
事情を聞くと、
「ありがとうございます」
と深く頭を下げて引っ込んでいく。
その“ありがとう”は、作業の疲れより先に背筋を伸ばす。
◇
作業を終えた頃には、外の空は群青に沈んでいた。
図書室の照明を落とし、戸締まりを二重に確認する。
廊下に出ると、人の気配が引いた校舎に靴音がよく響いた。
「今日はここまでね。――明日は弁論大会本番」
「美羽、タイムキープの段取りをお願い」
「大磯くんは照明と袖の導線、私と一緒にチェック」
「「了解」」
瑠美がわずかに息を整え、
「……そして、私も練習しておかなくちゃ」
と小さく付け加える。
返事が重なり、扉の向こうに夜の空気が流れ込む。
階段の踊り場で、ふと息を整える。
手すりの金属は冷たく、
頬を撫でる風は冬の匂いが濃くなっていた。
瑠美は、その冷たさを嫌いではないと思う。
輪郭がはっきりするから。
自分の呼吸の深さも、目の前の人の歩幅も。
「じゃあ、また明日」
美羽が軽く手を振って先に降りていく。
階段に残ったのは瑠美と大磯、二人分の影。
窓の外に街の灯りが一つ、二つと灯っていく。
「……ありがとう」
瑠美が言う。
「何が」
「今日、ここに来てくれたこと」
「それから、怖いって言ってくれたこと」
「礼を言われるほどのことは何も」
「あるわ」
重ねて言う。
「“怖い”って言葉は、私には進むための合図に聞こえたから」
大磯は言葉を選ぶ間を置かずに、短くうなずいた。
「なら、良かった」
それだけを言って、踊り場の灯りに目を細める。
沈黙は、気まずくない。
気まずくない沈黙を持てる関係は、強い。
「また明日ね」
瑠美が胸の前で小さく手を振る。
大磯はどこか嬉しそうに
「ああ、また明日な」
と返す。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
瑠美は、階段の途中で一度だけ振り返る。
さっきまでいた踊り場に、誰もいない。当たり前だ。
けれど、さっきまで“いた”という事実が、不思議と背中を温めた。
◇
職員室の窓の外は、もう夜の色だった。
答案用紙の束は半分に減り、
八幡は赤ペンのキャップをカチリと嵌める。
「終わった?」
雪乃が戻ってきて、マグカップに温かいものを注ぐ。
「半分。残りは明日」
「珍しく、計画的ね」
「“急ぐほど遅くなる”って、さっき自分で言ったからな」
「自分の戒めを自分で守れるのは、立派よ」
「褒めてるのか」
「どっちでもいいわ。ただ――」
「ただ?」
「あなたの言葉、ちゃんと届いてると思うわ」
雪乃は窓の外を顎で示す。
奉仕部のある棟の明かりが、ぽつりと灯り、ゆっくりと消えた。
「届いてるから、私は紅茶を淹れる回数が減らないのね」
「それは俺への嫌味か」
「感謝よ」
ほんの少しだけ笑って、雪乃はマグカップを差し出した。
八幡は受け取り、窓の外をもう一度見る。
……渡るのは本人だ。
けれど、信号がある夜道は、やっぱり歩きやすい。
◇
夜。
自室で、瑠美は窓辺に椅子を寄せた。
ガラスに指の跡がつかないよう、袖口でそっと押さえる。
机の上には今日の依頼書が束のまま置かれ、
角に付箋が規則正しく並んでいる。
携帯のメモには、明日の段取りと材料の個数、
館内放送の文面案が走り書きに近い字で並んだ。
いったん画面を閉じ、背もたれに体重を預ける。
瞼を閉じると、図書室の匂いが蘇る。
紙とインクと、床材の微かなゴムの匂い。
軍手越しの体温、刃物の金属音、そして――「怖いよ」と言った声。
(怖い、か)
口の中で一度転がす。
“怖い”は、避けるための言葉じゃない。準備するための言葉だ。
そう思えるのは、きっと誰かが灯りを点けてくれているからだ。
黄色でも、緑でも、赤でもいい。信号がある。
そう思えるだけで、人は前に進める。
窓の外に目をやる。
屋根の向こう、薄い雲の切れ間に星がひとつ。
冷えた空気が、頬の内側まで澄んでいく。
指先が、机のメモに戻る。
”明日、図書委員に差し入れ(個包装の飴)/弁論用に予備のストップウォッチ”
書き足してから、ペンのキャップを閉めた。
椅子をくるりと窓のほうに向き直る。
胸の奥に残った声を、そっと確かめる。
八幡先生の低い声。
……怖がってるってことは、前を見てる証拠だ。
瑠美は窓の外を見上げた。
その空の色が、八幡の声と同じ“優しさの色”に見えた。
(明日は、私の番だ。
誰かの言葉を届けるんじゃなくて、
自分の言葉で、誰かに届かせる番。)
瑠美は小さく息を吸い、
胸の奥の灯りを確かめるように目を閉じた。
その光は、もう迷いではなく、まっすぐな“決意”だった。
「優しさ」は形を変えて伝わっていく。
それが、奉仕部の真髄であり、比企谷夫妻の教えなのかもしれません。
生徒たちがどんな言葉を選び、
次に何を伝えるのか。
その続きも、見届けてください。