ちょっといろは入れちゃいましたが、私には無理そうです。
でも、この後の話も読んでください。ごめんなさい^_^
どうぞ。
第8.8話 やはり夏休みも休めない。
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夏休みという言葉には、どうしようもなく甘美な響きがある。
だが、教師になってからというもの、
それは現実のどこにも存在しない幻のようなものになった。
職員室の窓から見える校庭では、
蝉の声だけが途切れなく鳴いている。
生徒の姿はなく、グラウンドには風が通り抜けるばかり。
それでも室内には、プリンターの唸る音やキーボードを
叩く音が絶えず響いていた。
比企ヶ谷八幡は、そんな中で進路指導の資料を整理していた。
書類の山を前に、ため息をつきながらボールペンを回す。
「夏休み」という単語が、もはや幻想でしかないことを
噛みしめながら。
隣の席では、物理のプリントを片手に雪乃が赤ペンを
走らせている。
相変わらず姿勢は完璧で、髪の一筋も乱れていない。
その几帳面さを見ていると、
こちらの集中力まで削がれてくるのだから不思議だ。
「……何か言いたげね?」
「いや、別に。ただ、物理の採点って、
心が物理的に削れそうだなと思って」
「あなたの進路指導の方がよほど精神的負荷が大きいと思うけれど」
「まあな。どっちにしろ、夏は教師の敵ってことだ」
そこへ、保健室から戻ってきた結衣がペットボトルを
手にひょいと顔を出す。
「二人とも、まだいたんだ〜」
「今日こそ早く帰るって言ってなかったっけ?」
「口では言ってたけど、書類が敵のように湧いてくるからな」
「湧くわけないでしょ……」雪乃が呆れたようにため息をつく。
時計の針は、すでに午後五時を回っていた。
窓の外は赤く染まり、廊下に伸びる影が少しずつ長くなる。
夏の一日は、いつもやたらと速く過ぎていく。
ようやく仕事が片付いたのは、日が沈みきった頃だった。
ファイルを閉じて椅子の背にもたれかかると、
結衣がこちらを見てニッと笑う。
「ねえヒッキー、今日誕生日でしょ?」
「……お前、なんで知ってんだ」
「え? 知ってるに決まってるじゃん!」
「カレンダーに“8月8日”って書いてあったんだし!」
「ハチマンの日でしょ?」
「そんな由来で広まるのは心外なんだが」
雪乃がペンを置き、わずかに口元をゆるめる。
「まったく……本当に、あなたという人は、
誕生日まで仕事して、専業主婦希望だったと思うのだけれど」
「…俺の黒歴史を掘り返すな」
「世の中、労働と税金からは逃れられないんだよ」
「言い訳の方向性がもはや社畜ね……」
結衣が手を叩く。
「じゃあさ、せっかくだしごはん行こ! たまには三人で!」
「今からか?」
「うん! ゆきのんも行こ!」
「ええ、構わないわ。ただし、
あなたの“たまには”が週一で発動してる気がするけれど」
「いーじゃん! 今日くらい! 誕生日だよ?」
そうして気づけば三人は、学校近くのサイゼリヤにいた。
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店内は思ったより混んでいた。
部活帰りの生徒たちが制服のまま笑い合い、
カップルがパフェを分け合っている。
その光景を横目に、八幡はミルクと砂糖を
大量に入れた、コーヒーを一口飲む。
「ヒッキー砂糖とミルク、入れすぎだし!」
「頭脳労働の後には、この甘さが必要なんだよ」
「頭脳労働の後じゃなくても一緒でしょ」
雪乃が額を押さえる。
そんな通常運転を終えた後、八幡が呟く。
「……やっぱり夏休みって、楽じゃないんだな」
「先生も生徒も、思ってたより大変そう」
「まあな。あの頃は騙されて、奉仕部の部活に
駆り出されたっけな」
「騙されたってなんだし!」
「ヒッキーが平塚先生の連絡、無視するからでしょ!」
「千葉村一緒に行ったね!」
「鶴見瑠美も今やうちの生徒だからな」
「ふふ、時間の経つのは早いわね」
「社会人の自由って、休みのカレンダー見ながら
“あ、来月祝日ある!”って喜ぶレベルよね」
雪乃が淡々と紅茶を置く。
「教師の夏は、自由どころか時間との戦いよ」
「……まったく、どうしてこんな職を選んだのかしら」
「お前はともかく、俺は成り行きと勢いと社会の歯車だな」
「いや、それ一番ダメなやつじゃん!」
ピザが届き、三人で取り分ける。
安っぽいトマトソースの匂いに、
八幡はふと学生時代を思い出した。
当時もこうして三人で食事をした。
違うのは制服がスーツになっただけだ。
「そう言えば、ヒッキーってトマト苦手じゃなかったっけ」
「生のトマトがうぇってなるだけだ、ケチャップは大丈夫」
「ふふ、相変わらず子供みたいだし!」
「誕生日なのにサイゼって、ヒッキーらしいけどさ」
「俺の人生にとってサイゼはマッ缶の次に大事なものだからな」
「はあ……」雪乃が額を押さえる。
「ヒッキーの一番と二番って、ロマンなさすぎだし!」
「俺にロマンを求める時点で間違ってる」
そんな他愛もない会話の中に、どこか居心地の良さがあった。
誰かに祝われるほどの人生じゃない。
けれど、こうして二人が隣にいてくれるだけで十分だと思えた。
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食事を終え、外に出ると夜風が少し冷たかった。
街灯の明かりが歩道を照らし、遠くで花火の音がかすかに響く。
八幡は二人と並んで歩きながら、何とはなしに空を見上げた。
「夏って、なんか……忙しいくせに、終わるの早いよな」
「そうね。気づけば、秋の風に変わっているわ」
「でも、いい夏だったじゃん。こうしてまた三人で歩いてるし」結衣が笑う。
その笑顔を見て、八幡は小さく息を吐いた。
「……まあ、悪くない誕生日だったな」
「なにそれ、素直に“ありがとう”でいいのに!」
「俺の辞書にそんな単語はない」
「ほんと、相変わらずね」
雪乃の苦笑が、夜風に溶けていった。
「……あ、そうだ!」
結衣が思い出したようにバッグを探る。
「ヒッキー、これあげる!」
差し出されたのは、手のひらサイズの小さなキーホルダーだった。
青とピンクのストラップが絡み合い、
中央に“8”の文字が刻まれている。
「おい……これはまさか」
「うん、“ハチマンの日”記念だよ!」
「そんな公式記念日、作るな」
「えへへ〜、ゆきのんと選んだんだよ?」
隣で雪乃も小さな包みを差し出す。
「私は、こちらを。あなたのデスクにでも置いておきなさい」
中には、シンプルな銀のボールペン。
八幡は思わず息をのむ。
「……まさか、ペアとかじゃないだろうな」
「ええ、もちろん。私は金色よ」
「地味にセットなんだな」
「当然でしょ? 教師夫婦として、統一感は大事だもの」
結衣がくすくす笑う。
「やっぱり、そういうとこ仲いいんだよね〜」
「違うわよ」と言いつつ、
雪乃の声には柔らかい照れが混じっていた。
「ありがとうな、二人とも」
「ほら、言えたじゃん!」
「辞書に追加された様で何よりだわ」
「まあ、誕生日くらいは、な」
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帰宅後、部屋に明かりを灯す。
机の上には、昼間書きかけのプリントが置かれたままだった。
椅子に座り、ペンを取り、八幡はふと手を止める。
――夏休みという言葉には、どうしようもなく甘美な響きがある。
ノートにそう書きつけて、八幡は小さく笑った。
きっと、いつかこの一文が誰かの前に出る日が来るだろう。
それが生徒への作文指導であれ、人生の回想であれ。
今日のこのささやかな一日が、何かの始まりになるような気がしていた。
大人になっても、“誰かと過ごす時間”の価値は変わらない。
仕事に追われる日々の中で、こうして笑い合える人がいること。
それが何よりのご褒美だと思います。
読んでくださって、ありがとうございます。
次週からは本構想の第9話、クリスマス編です。