奉仕部での誕生日会を描いてみました。
暖かい気持ちで読んでくれると嬉しいです。
第13話 やはり冬の空には星が輝く
放課後の校門前は、
冬の夕暮れが街の輪郭をゆっくり丸くしていた。
吐く息は白い。
隣を歩く結衣は、
両手でケーキ屋の紙袋を抱きしめるみたいに持って、
やけに嬉しそうだ。
「ねえヒッキー、チョコ系にしなくてよかったかな」
「誕生日は誕生日、バレンタインはバレンタインだ」
「混ぜるな危険」
「うわ、国語の先生らしからぬまとめ方」
「国語の先生だからこそ線引きをだな……まあ、雪乃は甘いの全般いけるから大丈夫だ」
「ゆきのん、味に関しては厳しいけどね」
「味覚まで理詰めで語られても困るんだがな」
結衣は、ふふっと肩をすくめた。
紙袋から漂う微かな紅茶といちごの香りが、
鼻先でほどけて消える。
彼女とこうして並んで歩くと、
昔の、遠いようで近いようでよくわからない、
ぼんやりした冬の空が浮かぶ。
あの頃の俺たちは、いつだって何かを持って、
何かを渡そうとして、うまくいかなくて、それでも歩いていた。
「ヒッキー、顔がちょっと優しい」
「生まれつきだ」
「ふふ、それはないし」
ケーキ屋の袋が小さく揺れる。
「これ絶対、ゆきのんびっくりするよね」
「あいつのことだから、びっくりする前に『無駄遣いね』とか言いそうだが」
「ふふ、それ、貶してるの?」
「褒めてる。俺にしては最大限の賛辞だ。節度ある倹約家は家庭の財政を守る」
「あと俺の無駄な散財欲も守ってくれる」
「ありがたい話だ」
「ゆきのんのこと、大好きなんだね!」
「...何言っちゃてんのお前、そういうことは思っても言うな」
「主に俺のライフが削れる」
昇降口を抜け、人気の薄い特別棟へ。
目指すは奉仕部の部室。ノックの前に結衣と視線を合わせ、息を整える。
「いちおうサプライズだからな」
段取りはすでに共有済みだ。
鍵は大磯が手配済みだ。
「おーい、来ました」
扉を開けると、紙テープと折り紙をつないだ飾りが
半分できていて、
机の上には紙皿とプラスチックフォーク。
そして色とりどりのメッセージカード。
大磯が椅子に立って天井へテープを貼り、
瑠美が位置を指示し、
美羽が紙袋から小物を出して手際よく並べていく。
三者三様、無駄のない動き。
奉仕部の連携がここに極まれり、という感じだ。
「比企谷先生、時間ばっちりです」
大磯が降りてきて笑う。
「雪乃先生は現在、職員会議にて停滞中!」
「到着までおよそ二十分の遅延が予測されます!」
大磯が、どこか楽しそうに敬礼のポーズを取る。
「完成に十分な時間ですね」
瑠美が頷く。
「大磯くん、そこ五ミリ右」
「五ミリって言った!?」「言いました」
美羽が小さく笑って、俺たちに会釈した。
「結衣先生、ケーキ、ありがとうございます」
「へへ、よかった〜。瑠美ちゃんが選んでた紺のリボン、すごく可愛いよ」
「ありがとうございます。雪乃先生のイメージカラーは、私の中で冬の星空なんです」
そう言って紺の紙リボンを指先で結び直す瑠美の横顔は、
いつもより少し柔らかかった。
言葉選びが丁寧で、理屈に寄る彼女が、
色の印象を自然に口にする。ここ最近の変化だ。
大磯が隣にいると、その変化がさらに自然に見える。
互いに出過ぎず、足りなさを埋め合う距離感は、
見ていて心地よい。
「比企谷先生、プレゼントは準備できてますか?」と美羽。
「ああ、ある。……まあ、俺らしいものだ」
「……なんだか、意味深ですね」
「中身は見ないほうが平和だ」
美羽が首をかしげ、結衣がすかさず覗き込もうとする。
「ヒッキー、こっそり見せてよ」
「やめろ、サプライズがサプライズじゃなくなる」
「じゃあヒントだけ〜!」
「...過去にちょっとした縁がある」
自分で言っておいて、少しだけ胸の奥がざらつく。
その“縁”がどこから始まったのか、どこまで続いてきたのか、
答えはたぶん、この部屋の中にある。
「ヒッキー、箱、見せて」
「やめろ、ネタバレ防止だ」
「いいじゃん、サプライズの練習」
結衣の“練習”は本番と同じテンションで行われる傾向がある。
危険だ。俺は内ポケットの小箱に手を触れ、すぐ離した。
渡す場所はここがいい、そう決めている。
家でも職員室でもなく、この部屋がいい。
あの頃からずっと、少しも変わらない匂いがするからだ。
紙とチョークと冬の埃。
窓越しの斜光が積み木みたいに机に伸びる。
過ぎた時間は戻らないのに、戻れる場所があるというのは、
不思議な救いだ。
「よし、だいたい整いました」
瑠美が手作り飾りの端を留め、満足げに息を吐く。
「大磯くん、電気はこのまま一段階落としてください。
入ってきた瞬間に、暖かい印象が出るように」
「りょーかい。……こう?」
「もう一段」
「五ミリの次は一段か」
「はい」
ツッコミの応酬を微笑で見守りながら、俺は時間を確認する。
そろそろだ。
結衣が胸の前でグーを作って、声をひそめた。
「ヒッキー、合図したらクラッカー鳴らす?」
「ああ、それで行こう」
美羽は部室の扉側で、そっと耳を澄ます。
「......来ます。廊下の足音が、雪乃先生」
「音でわかるの?」結衣が目を丸くする。
「はい。歩幅とテンポが、きれいです」
その言い方は妙に雪乃らしい。
影響は、良いかたちで連鎖する。
ノック。短く二回。
扉が少し開いて、冷たい空気が線のように差し込んだ。
「失礼するわ」
静けさが、ふわりと跳ねた。
「――おめでとうございます!」
クラッカーの弾ける音と、笑い声と、いくつかの「おめでとう」が重なる。
照明は一段だけ柔らかく、飾りの影が壁にゆれて、
机の上の小さな紙旗が小刻みに震えた。
雪乃は一瞬、目を丸くして、それから薄く目尻をほどく。
「あなた達、本当にサプライズが好きね」
声はとがっていない。むしろ、呆れを装った甘さが含まれていた。
結衣が駆け寄って、両手で雪乃の手を包む。
「ゆきのん、お誕生日おめでと〜!」
「ありがとう、結衣さん。……その、ケーキの箱は」
「えへへ、見えちゃった?」
雪乃は箱を覗き込むと、すぐに俺へ視線を寄越す。
「比企谷くん、これは」
「……無駄遣いではない、と主張しておく」
「そう。なら、いただきましょう」
淡々としながら、口角がわずかに上がる。
こういうときの雪乃は、言葉より表情が雄弁だ。
瑠美が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「雪乃先生、私からも。お誕生日、おめでとうございます。
日頃のご指導に、心から感謝しています」
「ありがとう、瑠美さん。……飾り付け、とても綺麗ね。
紺のリボン、冬の星空みたいで、好きだわ」
ふっ、雪乃はやっぱり、色に理屈が乗って戻ってくる。
席を整え、紙皿を配り、ケーキの箱を開ける。
アールグレイのシフォンに蜂蜜クリームを重ね、
上に刻んだいちごと粉糖が薄く散っている。
派手さはないが、上品な香りと明るい表情をたたえた表面は、
雪明かりみたいに静かだ。
「ロウソクは?」結衣が囁く。
「職員室に本数の申告義務があると困るので、今回は割愛で」
「誰に申告するんだし、それ」
「自己申告制だ。厳密な」
「ふふ」
みんなで「おめでとう」をもう一度言って、ケーキの箱を開ける。
雪乃が手を伸ばしてナイフを取ろうとする。
「ゆきのん、私が切るって」
「いいえ、これくらいはさせて」
「え〜、誕生日の人がやるの?」
「ええ。私の誕生日だからこそ、みんなに分けたいの」
ケーキにナイフを入れる雪乃の手元は、ほんの少し震えた。
それを震えと呼ぶほど大きな揺れではない。
呼吸と同じくらい微細な動き。
けれど俺にはわかる。
彼女が、嬉しいときにだけ見せる、ごく短い間の乱れだ。
彼女はすぐに平静を取り戻し、均一な速度で等分に切り分けながら、
ふっと視線だけをあげる。
「結衣さん、端の部分、好きでしょう?」
「好き〜」
「美羽さんはいちごの多いところを」
「ありがとうございます」
「大磯くん、台紙を押さえて」
「はいっ」
「瑠美さん、ナプキンを配ってくれるかしら」
「はい」
無駄がない。なのに温かい。
雪乃の「指示」は、相手の癖と好き嫌いを見たうえで出てくる。
だから命令に見えない。
配られた一切れを眺めながら、俺はそんなことを考える。
昔は、もっと鋭かった。
正確で、鋭かった。
今は正確で、柔らかい。
角が削れたのではない。角の先を守る布ができたのだ。
その布は、きっとここで織られた。
「比企谷くんは」
雪乃が俺を見る。
「一番ナイフの入りにくい場所を切っておいたわ」
「あなた、こういうのが似合うもの」
「ほう、難所担当か。評価が高いのは嬉しいな」
「ええ。あなたは、そういう時だけ、頼りになるもの」
「時だけ、は余計だ」
笑いがテーブルの上を渡っていく。
口に運んだシフォンは、甘さの手前で舌に融け、
遅れて紅茶の香りといちごの酸味が立ち上がる。
結衣が「ん〜〜幸せ!」と頬に手を当てるのを見て、
雪乃が小さく目を細めた。
瑠美と美羽は、準備を褒められたことで落ち着き、
いつもの会話の調子を取り戻している。
大磯は場の端で、全員の動きを目で追っていた。
あいつのこういう気配りは、言葉にしなくても伝わる。
よくやっている。言わないが、伝わるだろう。
食べ終えるころ、雪乃が「ありがとう」ともう一度言った。
今度は個別ではなく、ここにいる全員へ向けて。
結衣が手を叩いて、
「プレゼントタイムに移行しまーす」
と進行役を買って出る。
誰に許可を取ったのかは知らないが、
こういう時の彼女は迷いがない。
司会進行は経験が物を言うのだろう。
結衣が手を叩いて声を弾ませた。
「はーい! まずは現奉仕部からのプレゼントです〜!」
大磯、美羽、瑠美の三人が、それぞれ包みを手に前に出る。
「順番にどうぞ」と結衣が笑う。
先に差し出したのは大磯だった。
「俺からは、マグカップです。雪乃先生の紅茶タイム用に」
「まぁ……猫の模様ね。ふふ、可愛いわ」
雪乃が頬を緩める。
続いて、美羽が細長い箱を差し出した。
「こちらはスプーンです。マグに合わせて」
雪乃は一瞬だけ箱とカップを見比べて、目を細めた。
「これも猫じゃない。あなたたち、一緒に行ったの?」
「あ、はい。偶然……ではなく、打ち合わせして」
そのやりとりを見つめながら、瑠美は自分の手元の包みをぎゅっと握った。
自分の贈り物は、別の日にひとりで選んだ。
それでも、今この場に混じっていられることが少し誇らしく、
そしてほんの少しだけ、胸の奥がざわめいた。
その様子を見て美羽はすぐにフォローする。
「あ、そういえば――大磯くんが“瑠美さんは服を防御力で選びそうだから”って言ってたんです」
「ちょ、茅ヶ崎!?」
大磯が慌てて制止する。
雪乃の頬がわずかに紅くなる。
八幡は苦笑しながら肩をすくめた。
「……あれは、分析的な購買活動だったのよ」
「はいはい、理論武装お疲れさま」
結衣がぽかんとした顔で首を傾げる。
「え、なにそれ? なにそれ!?」
「結衣さん、昔話はそのうちね」
雪乃が視線を逸らして、紅い耳を隠すように髪を直した。
「……瑠美さんのも、ぜひ」
美羽の声に促され、瑠美は顔を上げた。
「はい。私からは……栞です。先生の本に似合うと思って」
「ありがとう。とても、あなたらしい贈り物ね」
雪乃が微笑む。
瑠美は小さく頷き、その笑顔を胸に焼き付けた。
結衣が、そっとケーキ皿の隣に小さな包みを置いた。
「でね、ゆきのんには……これ!」
中から出てきたのは、可愛らしいフルーツタルト。
桃とキウイの彩りが、まるで小さな花束みたいに並んでいる。
「昔ね、ヒッキーと小町ちゃんのために作ったことがあってさ」
「その時は、隠し味が何かわからなかったけど――今回はちゃんと入れたからね」
結衣の笑顔に、八幡はわずかに目を細めた。
「だったら確かに、美味しく出来たんだろうな」
その声には、あの冬の日の空気が混じっていた。
不器用で、温かくて、少しだけ甘い記憶。
「もう、ヒッキー、そういう言い方ずるいし!」
「褒めてるんだよ、珍しく」
「珍しくって言わないの!」
「ふふ、ありがとう。結衣さんとっても嬉しいわ」
雪乃が小さく笑い、三人の間にやわらかな空気が流れた。
笑いが一巡して、少しだけ落ち着いた空気が流れる。
その静けさの中で、結衣が手を叩いた。
「では真打ち登場ヒッキーの番だよ」
俺は小箱に触れた指をぎゅっと握り、ゆっくり立ち上がる。
「雪乃」
名前を呼ぶと、雪乃はわずかに背筋を伸ばした。
職員室や教壇の癖が抜けないのだろう。
俺はその様子に少しだけ胸の内で笑ってから、箱を差し出す。
「誕生日おめでとう。……これ」
「開けていいかしら」
「おう」
雪乃の眉が、ほんのり上がる。
「またメガネ?」
「前のをずっと使ってただろ。壊れちゃ困るし、
修理のタイミングもわからないし、それに――」
言い淀んだ自分に苦笑し、言葉を選び直す。
言葉を仕事にしていると、時々、仕事が邪魔をする。
余計な修飾語が邪魔して、ほんとうの核心が見えづらくなる。
だから今回は、なるべく短く。
「ここで渡すなら、これがいいと思って」
雪乃は静かに頷き、小箱を開ける。
淡い銀の細身フレーム。
レンズは薄く青を帯びたカット仕様。
彼女の黒髪と白い肌の間に挟まれた時、きっと冷たい星の線みたいに見えるだろう。
そんな算段で選んだものだ。
「ここで......ね」
「ああ、ここがいい」
部室の窓の外では、夕焼けの色が一段落ち、青と黒の間の、
名前のない時間が始まっていた。
紙旗の影が伸び、飾りの端が微かに揺れる。
積み重ねた匂いと、笑いの残り香が、空気の層みたいに重なっている。
「ここでかけてくれると、嬉しい」
雪乃は目を瞬き、指先でフレームをそっと持ち上げた。
耳にかけ、鼻梁にそわせ、鏡はないから、
代わりにこちらをまっすぐ見た。
「どう? 似合うかしら」
「ゆきのん、すっごい似合ってる!」結衣が即答する。
声が半音高くなるのは、滅多にないお世辞じゃない証拠だ。
「……まあ、似合うと言えなくもない」
「なんでそこでヘタれるし!」
笑いがまた一巡する。
雪乃は、ほんの少し肩を揺らして笑った。
たぶん、今のは俺に対する最高点に近い「照れ隠し」だ。
点数配分の厳しい採点官にも、甘いところはある。
「ありがとう、比企谷くん」
雪乃が、メガネの脚にそっと触れる。
「また、あなたのものを身につけるわ」
「所有権を主張するな。貸与だ」
「返さないわよ?」
「強奪か?」
「贈与でしょ〜」
「由比ヶ浜が贈与なんて言葉知ってるなんて、成長を感じるわ〜」
「なんか言い方がひどい!ヒッキー、言い方が堅いんだよ」
「言い方が柔らかいと、俺が俺じゃなくなる」
「ふふ、それはそれで、ちょっと見てみたいかもだし」
結衣と雪乃が目で笑い合う。
二人の間の空気が、長い時間に磨かれたガラスみたいに透明だ。
そこへ瑠美が控えめに手を上げる。
「雪乃先生、私たちからも、メッセージカードがあります」
「皆で少しずつ書きました」
「ありがとう。……とても嬉しいわ」
雪乃はカードを一枚ずつめくる。
字形の癖、言葉の選び方、余白の取り方。
読む人の顔が、読み手の顔に重なるのを、俺は知っている。
言葉は、出会った人の数だけ表情を持つ。
雪乃はその表情を、ちゃんと見てくれる人だ。
だから、伝わる。
たぶん、俺が今言葉を仕事にしていて、
彼女が今ここにいる理由の、近くにあるものだ。
ひと通りの“式次第”が終わると、
部室は拍子抜けするくらいの静けさを取り戻した。
甘い匂いは少し薄れ、笑い声の余韻だけが、
本棚と窓の間に漂っている。
片づけを進める生徒たちの手は、来た時と同じくらい手際が良い。
大磯がゴミ袋の口を縛り、瑠美と美羽が机を戻し、
結衣がフォークの数を数えている。
雪乃はメガネをかけたまま、飾りの結び目をほどいた。
「……この部屋は、変わらないわね」
ぽつりと落ちたその言葉は、誰に向けたでもなく、
それでも全員に届くような高さで響いた。
俺は返事をしなかった。
したら崩れそうな気がしたからだ。
代わりに、内心で短く応えた。
(ああ、変わらない。変わらないものが、ひとつでもあるのは、救いだ)
片づけが終わりに近づくと、大磯が時計を見て、
「今日は、ご一緒できて光栄でした」
と礼をする。
「ありがとう、大磯くん。あなたがいると、場が整うわ」
「恐縮です」
大磯は照れを抑えた顔で出ていく。
瑠美と美羽も「失礼します」と会釈し、扉の外へ。
結衣は最後にもう一度、雪乃と指先を合わせるみたいに
小さくタッチしてから、
「じゃあ、また明日ね」
と笑った。
扉が閉まって、部室に二人分の呼吸が残る。
雪乃はメガネを外さない。
俺はそれを確認して、椅子の背にもたれた。
窓の外、白い吐息が数人分、歩道を流れていく。
校舎の灯りが、ゆっくり夜に溶けていった。
部室に残った二人に静かな時間が訪れていた
「……嬉しかった?」
「ええ。とても」
即答だった。俺は少しだけ驚いて、少しだけ、安心した。
「あなたが“ここで渡す”と言った理由も、わかる気がするわ」
「そうか」
「ここで、あなたはいつも、言葉足らずだったもの」
「黒歴史を掘り返すのは、やめてくれ」
「褒めているのよ。言葉が足りないから、行動で補おうとしてくれた」
「今もそう」
「……だから、嬉しいの」
叱るように、包むように。言葉の使い方さえ、雪乃らしい。
俺は肩を一回すくめて、わずかな笑顔で答えた。
「じゃあ、よかった」
「ええ。とても」
短い往復。それで十分だ。
俺たちは昔から、必要な分だけを渡し合ってきた。
多すぎるものは、しばしば本質を濁らせる。
少なすぎると、相手の輪郭が見えなくなる。
必要な分だけ。
難しいが、できないことじゃない。
窓の外で、冬の風が小さく鳴った。
「帰るか」
「ええ。でも、その前に」
雪乃はメガネの脚を軽く押さえ、俺をまっすぐ見る。
レンズを通した視線は、わずかに青く、
冬の星の光をひとすくい混ぜたみたいに澄んでいた。
「似合うって、言って」
「……似合う」
簡潔に。まっすぐに。
言った途端、雪乃の頬に、さっきより少し深い笑みが灯った。
これ以上の修飾は、いらない。
「ありがとう。――行きましょう、比企谷くん」
「はいはい。雪乃先生」
灯りを落とす。
部室の匂いが、ふっと背中を押した。
扉を閉める瞬間、振り返る。
机の並び、黒板の角、窓枠の影。
どれもが、変わらずそこにある。
変わらないものがあるから、変わっていける。
そんな当たり前を、ようやく素直に思える夜だった。
(やっぱり、この場所は特別だ)
そう心の中で言って、俺は廊下の冷たい空気に身を入れた。
雪乃の足音と、俺の足音が、同じ速度で冬の校舎を進んでいく。
外は、息が白い。
けれど胸のあたりは、不思議と、温かい。
その温かさのまま、夜は静かに、二人を包んでいった。
この章は、“変わらない場所”というテーマを軸に描きました。
雪乃と八幡の関係は、もう形を変えながらも確かに続いています。
冬の星が、静かに輝くように。