これは、私たちが初めて出会うヒーローと、それに救われた子供たちの物語。

1 / 1
第1話

 

アンパンマン。

 

 幼い頃、それは世界を構成する最も重要な要素だった。テレビの画面に映る彼の丸い顔は、僕の宇宙の中心だった。太陽であり、月であり、そして、なによりも頼れるヒーローだった。お気に入りのぬいぐるみはいつも抱きしめ、主題歌を歌い、彼のように正義の味方になることを夢見ていた。

 

 だが、成長は残酷なものだ。小学校に上がり、少しばかり世の中が見え始めた頃、そのヒーローは急に色褪せて見え始めた。

 

「アンパンマン?だっさ。」

 

 友人の一言で、僕の心にあった絶対的な輝きは一気にくすんだ。戦隊ヒーローや、もっと「リアル」な特撮、アニメに夢中になり、アンパンマンは「小さな子どもが見るもの」というレッテルが貼られた。

 

 さらに思春期を迎えれば、その存在は笑いのネタに変わった。携帯の画面越し、YouTubeの薄暗いフィルターを通して流れてくるのは、不自然なCGで変顔をするアンパンマンや、下品なセリフを喋らされる彼をいじり倒すふざけた動画。

 

 友達と集まっては、それを見て「やべーだろこれW」「マジキモいW」と腹を抱えて笑った。僕たちにとって、それは純粋な時代への皮肉であり、幼稚だった過去を清算するための儀式だったのかもしれない。

 

そして、大人になった今。

 

 アンパンマンは、もはや記憶の彼方だ。忙しい仕事、終わりの見えない雑務、結婚、住宅ローン…。

 

「そういえば、昔そんなアニメあったな」という、本当にそれだけの存在。関心も、愛情も、そして、あの頃の冷笑すらも、すべてが無関心の中に溶けて消えていた。

 

そんな僕に、娘が生まれた。

 

名前は、陽葵(ひまり)。

 

 可愛い、愛しい、この世の宝。そう思う一方で、子育ての現実は僕の想像を遥かに超えていた。夜泣き、授乳、おむつ替え。これまで自分のためだけに生きてきた人間にとって、予測不能な生命の世話は、まさに戦場だった。妻と二人、毎日が四苦八苦。疲れ果て、心はささくれ立っていく。

 

 ある日の深夜。陽葵は理由もなく泣き続けた。妻も僕も、あらゆる手を尽くしても泣き止まない。焦燥感と無力感で、僕は思わず声を荒げてしまった。

 

「なんで泣き止まないんだよ!」

 

 その瞬間、隣で妻が顔を歪ませるのを見て、僕は自分の浅はかさに絶望した。

 

 その時、妻が諦めたようにスマートフォンを手に取り、ポチッと動画を再生した。そこに映ったのは、赤い鼻、丸い顔、あの三色の服。

 

 聞き慣れたはずの、しかし、あまりにも久しぶりな主題歌のイントロが、部屋に流れ出した。

 

 娘は、一瞬泣き止んだ。そして次の瞬間、画面をじっと見つめ、クスクスと笑い出したのだ。

 

 その笑い声は、驚くほど澄んでいて、部屋の重い空気を一瞬で吹き飛ばした。

 

 画面の中では、アンパンマンがバイキンマンに立ち向かい、困っている人に自分の顔を差し出している。

 

 僕の目の前で、涙で濡れた頬をキラキラと輝かせながら笑う娘。

 

 その姿は、かつて僕が友達とふざけた動画を見て腹を抱えて笑った、あの時の僕自身の顔と重なった。ただ、娘の笑いには、僕たちが持っていた皮肉や冷笑は一切含まれていなかった。そこにあるのは、純粋な喜びと、圧倒的な安心感だけだった。

 

「…アンパンマン、だ。」

 

 僕の口から漏れたのは、独り言のような小さな声だった。

 

 あんなに馬鹿にしたのに。興味も関心も失っていたのに。僕が何もしてやれない、この絶望的な戦いの最中に、僕の初めてのヒーローは、時を超え、場所を変え、僕の娘を、そして僕を救いに来てくれた。

 

彼は何も変わっていない。ただ、そこにいる。

 

 僕の胸に、熱いものがこみ上げた。それは、昔の僕の純粋な気持ちと、今の僕の無力さに対する懺悔のような感情だった。

 

「ありがとう…アンパンマン…。」

 

 僕は泣き止んで笑っている娘を抱きしめ、画面の中のヒーローに、そっと礼を言った。

 

僕の戦いはまだ続く。だが、もう一人ではない。

 

 記憶の彼方にいたはずのヒーローが、今、再び僕と一緒に、この子育てという戦場を共に戦ってくれているのだ。

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。