いきてきたるものがたり   作:かに3

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【我らが痛みを照らすもの】

 

 

 その男の不運は、持って生まれた個性そのものにあった。

 

 もっと正確に言うなら、その個性が彼自身の資質や努力とは別の場所で、彼の人生の価値を決めてしまったことにあった。

 

 

 彼は熱心な両親のもとに生まれ、幼い頃から手厚く、そして少しばかり熱の入りすぎた教育を受けて育った。

 両親は彼を愛していたし、期待もしていた。彼がより良い場所へ進めるように、転ばぬように、迷わぬように、先回りして道を整える。両親にとってそれは愛情であり、彼もその愛情を“愛”として特に抵抗もなく受け入れていた。似た者親子だったのだろう。今でも、彼と両親の仲は良好であり、なかなか結婚しないこと以外では「優秀で親孝行な息子」として自慢の種になっている。

 

 蛇口を捻れば出てくる湯水のように課題を与えられる日々だったが、幸いなことに男は勉強が得意であり、それを苦痛とは感じなかった。新しい知識を得ることは楽しく、問題を解くことは心地よく、結果を出せば両親は喜び、教師は褒め、周囲は彼を優秀だと認めた。

 

 文武両道というのか、彼は弁論大会で賞状を持ち帰り、テニスの試合ではトロフィーを抱えて帰ってくるような少年だった。

 だが本人はそれを誇るでもなく、当然の成果として笑顔で受け取る。

 周囲もまた、嫉妬より先に「まあ、あいつなら」と納得した。女子は涼しい横顔に頬を染め、男子はその背中を少し眩しそうに見て、いつか並びたいと憧れる。

 

 コミュニケーション能力も良好で、彼は自分の優秀さが他人の嫉妬にならないよう、自然に振る舞う術を知っていた。

 少し笑い、少し譲り、手柄をひけらかさず、人の敵意を刺激しない形で、当たり前のように輪の中心にいた。笑顔溢れる青春時代だったと言える。

 

 なので彼は、用意されたレールの上を歩かされているという窮屈さすら、ほとんど覚えないまま成長していった。

 

 脱線する理由がなかったのだ。遊ぶ時間もあり、友人もおり、学ぶべきものも多く、将来への希望もあった。

 努力すれば報われる。真面目に積み重ねれば、望んだ場所へ届く。そんな、世の中が子どもに教えたがる綺麗な理屈を、彼は疑う必要がなかった。やればやるだけ結果がでる、当然の流れである。

 

 なんと素晴らしい勝ち組人生だろう。少なくとも、外から見ればそうだった。本人でさえ、ある意味無垢なまでにそう信じていた。

 

 学習の機会を奪われ、衣食住すらままならぬ子供は日本の中でさえ多くいる。

 戸籍に登録されずに、法の守護から零れ落ちたまま、どう生きるのかわからずに息をしている者もいる。

 それに比べて、自分はなんて幸福だろう! ノブレス・オブリージュ。自分こそが、報われない彼らに施しを与えるべき存在なのだ。

 

 

 だがある日、その順調に回っていた人生の歯車は、何の前触れもなく鈍い音を立てて止まった。

 彼が積み上げてきた成績も、努力も、夢も、両親の期待も、その瞬間から急に意味を変えた。男の人生は、彼自身の失敗ではなく、生まれつき背負わされたものによって、大きく足止めされることになった。

 

 それが、“個性”だ。

 

 彼の個性は、順風満帆だった人生に、ある日から拭いがたい暗い影を落とした。

 

 彼はヒーロー免許を持っていない。だから当然、公共の場でそれを利用するつもりなど一度もなかった。

 幼い頃から今日に至るまで、彼は自分に配られたこのハズレくじを切らず、自分の頭と努力と技術だけで勝利を得てきた。

 

 弁論大会の賞状も、テニスのトロフィーも、学業の成績も、人望も、すべてそうだ。

 法で禁じられているものを使うわけがない。ルールには従うべきだ。両親は彼にそう教えた。教科書にもそう書いてあった。社会もまた、人の違反を疑い深く見張っている。まして政治家を志す者が、違法行為をしていいはずがない。

 

 

 ……若かったのだろう。彼は、正しいこととは当たり前に共有される常識なのだと思っていた。

 

 

 だが、社会に出てからは違った。彼の個性は、政治家としてあまりにも不適切だった。

 

“扇動”

 

 彼の言葉に賛同した者の底力を、わずかに引き上げる。ただそれだけの個性だ。誰かの意思を捻じ曲げるわけではない。命令に従わせるわけでもない。存在しない思想を植え付けるわけでもない。けれど、それを洗脳の一種だとまとめられてしまえば、彼にはもう為す術がなかった。

 

 彼は一度だって、個性を自分のために使ったことなどない。

 彼の演説は、彼の言葉であり、彼自身が学び、考え、選び取って作り上げた思想だった。

 主張も、理想も、方針も、怒りも、願いも、すべて彼自身のものだった。

 

 だが、“扇動”という個性を持って生まれたというだけで、それらは違うものとして見られる。人を惹きつければ、操ったのだと言われる。支持を集めれば、個性の影響を疑われる。熱狂が起これば、危険視される。

 

 彼がどれほど誠実に語っても、その声には最初から色がついていた。

 

 彼の言葉は、届く前に検閲される。

 彼の思想は、理解される前に疑われる。

 彼という人間の努力も才能も、個性によって、すべて穿った視線の下に置かれてしまった。

 

 初めてと言っていいほどの苦難に、彼の心はひどく傷ついた。

 人は“扇動”という二文字を見て、分かったような顔で彼を疑った。その視線と戦い続けるうちに、彼は少しずつ消耗していったのだ。

 

 

 30代初めの頃だ。ある日を境に、突然、外に出るのが怖くなった。

 

 玄関の扉に手を掛けると、突然呼吸が荒くなり体調が悪くなる。部屋に戻りソファに横になると次第に治まったが、無理矢理外へ出ると酷い腹痛に襲われた。

 

 幸い、仕事の大半はリモートで対応できる。買い物は通信販売で済ませられたし、住んでいたマンションは二十四時間いつでもゴミを出せる造りだった。生活は、どうにか部屋の中だけで完結した。

 

 周囲は、彼が病んだことに気づかなかったのかもしれない。彼自身もまた、それを認めなかった。

 経歴に傷がつくかもしれない。心を病んだ政治家志望など、相手にされなくなるかもしれない。そう考えて、病院にも行かなかった。

 

 今思えば、その程度の傷の何を恐れていたのか分からない。けれど、心を病むというのはそういうことなのだろう。視野が狭くなり、優先順位が壊れ、必要なことほど手が届かなくなる。

 助けを求めることすら、敗北のように感じてしまう。自分はこの程度の人間なのだと、気付いてしまう。それが一番恐ろしく、そして惨めだった。

 自分のせいではないことなのに、原因は自分の中にある。こんなに不条理で、理不尽なことなどない。選んでこの個性に生まれたという訳では無いのに!

 

 

 陰鬱とした生活の中で、彼はかつて古本屋で買い込み、読まないまま積んでいた本を一冊ずつ崩していった。

 現実から逃げるようにページを捲り、誰かの思想や歴史や失敗の中に、自分の輪郭を沈めていく。そうして、埃を被った背表紙の山の中から、一冊の本が現れた。

 

『異能解放戦線』

 

 その題名を見た瞬間、彼の指が止まった。読み始めたのは、ほんの気まぐれだったはずだ。

 だがページを進めるごとに、胸の奥で長く眠っていた何かが、静かに目を開けていくのを感じた。

 自分は間違っていなかったのではないか。自分が恥じるべきなのは、個性そのものではなく、それを罪として扱う社会の方ではないのか。疑念はやがて熱を持ち、熱は言葉になり、言葉は彼の中で支柱となる。

 

 その本が、彼の目を覚まさせたのだ。

 

 彼はすぐに動いた。眠っていたはずの思考が熱を帯びると、閉じ切っていた部屋の空気さえ急に薄く感じられた。

 かつて政治活動の中で得た名刺を掘り返し、疎遠になっていた支援者へ連絡を取り、会合で一度だけ言葉を交わした人物の名を辿り、いくつもの紹介と遠回りを重ねた。その道筋の先にいたのが、四ツ橋力也────リ・デストロだった。

 

 彼は自分の経歴を示し、実績を語り、何よりも己の個性を隠さず差し出した。

 

 私のこれは欠点ではない。誰に否定される謂れもない。社会に不適切と断じられ、封じられ、恐れられたがゆえに価値を歪められた、ひとつの異能です。

 

 そう言って、自分自身を売り込んだ。リ・デストロは彼の言葉をただ悠然と受け止めた。深く頷き、その苦痛は個人の弱さではなく、今の社会構造そのものが生んだ歪みであると語った。

 

 異能とは、本来その者の肉体であり、魂であり、生まれ持った自由そのものだ。

 それを法律と世間体で縛り、許可された場でしか使えぬものとして扱うから、罪なき異能保持者が自分の存在を恥じるようになる。

 

 彼はその言葉に、胸の奥を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。

 

 そうだ。自分が苦しんだのは、自分が間違っていたからではない。

 この社会が、初めから異能を疑い、制限し、人を異能ごと裁くようにできていたからだ。

 

 ならば、このような社会を許してはならない。

 自分と同じように、ただ生まれ持ったものの名によって傷つけられる者を、これ以上増やしてはならない。

 

 やはり自分は政治家になるべきだ。壇上に立ち、言葉を掲げ、票を集め、制度の内側から日本を根幹ごと変えるべきなのだ。

 

 あの日、閉ざした部屋の中で死にかけていた彼の理想は、リ・デストロの言葉によって、より硬く、より鋭い形に鍛え直された。

 

 花畑孔腔という政治家は、決して彼ひとりの力で成り上がったわけではない。

 彼の言葉を信じ、彼の個性を恐れず、同じ痛みと同じ未来を抱いた異能解放軍の同士たちが、見えない場所で道を拓き、票を集め、手を貸し、時には泥を被ってくれた。彼が壇上に立つ時、その足元にはいつも、名もなき同胞たちの祈りと願いが積み重なっていた。

 

 まさに、『1人は皆の為に、皆は1人のために(One for all, all for one.)』!

 

 

 それでも、世間はまだリ・デストロの思想に追いついてはいない。

 彼の胸にはすでに答えがあり、進むべき道も見えている。だが、社会の方は相変わらず鈍く、古く、異能を個性と呼び管理すべき危険物として扱い続けていた。

 

 日々の政治活動の中で、彼は何度も消耗した。公に異能解放の思想を掲げるには、まだ時期が早い。言葉を選び、角を丸め、民衆が受け入れられる形に薄めて語らねばならない。

 無理解ゆえの暴言を聞くこともあった。悪意ですらない、常識の顔をした偏見が、彼の神経を細く削っていった。

 

 そういう時、彼は異能解放軍の集会で出会った少女から受け取った“あかり”を見る。

 6年以上手元に置いているのに、曇りもヒビも無い。小さなガラス球の内側で、淡い光が静かに揺れている。それは炎というには優しく、灯というには生々しく、まるで誰かの心臓の奥から零れたぬくもりのようだった。

 

 彼女は異形型異能の持ち主で、下半身が軟体動物のような形をしていた。その奇異な外見のせいで、酷いいじめを受けてきたのだという。

 本来、彼女がその異能を自由に行使できる社会であったなら、誰も彼女に危害を加えようなどとは考えなかっただろう。彼女には、それほどの力があった。だが彼女は制限され、押し込められ、傷つけられてきた。強いはずの者が、強さを禁じられたせいで弱者にされる。これが正しい社会であっていいはずが無い。

 

「がんばって、応援しています! わたし、選挙権もらえる年になったら、絶対、絶対、一票入れます!」

 

 頬を赤くして、彼女は両手で彼の手を握った。憧れと祈りは、横に瞳孔が走る目の中できらきらと揺れる。それから彼女は、宝物を分ける子どものように、小さなガラス球を差し出した。

 

「これ、“あかり”です! おまじないなんです。がんばりすぎて、もういやだーってなった時にみると、がんばるぞー! ってなります! わたしのあかり、半分あげます!」

 

 その言葉を聞いた時、彼は笑った。子供の可愛らしいプレゼントが純粋に嬉しかったのか、それとも“こんなもの”と相手にしなかったのか、その時の気持ちは忘れてしまった。

 

 けれど、今では違う。どうしようもなく疲れた夜、世間の無理解に心が荒れ、言葉を武器にすることすら重たく感じる時、彼はその“あかり”を眺める。

 

 “あかり”は、暗い部屋の中で柔らかく瞬きのように明滅していた。緩やかに、静かに、呼吸をするように光り、しかし決して消えることがない。

 

 罪ではないものまで責められてきた心へ、そっと許しを与えるように。悲しみの輪郭を撫で、荒れた感情を慰撫するように、それはただそこに在った。

 

 “あかりさま”とは神様なのだと、人は言う。

 

 そんなことはありえない、と彼は思う。神などではない。神であるはずがない。きっと、リ・デストロのようにどこかにいる偉大な異能者なのだろう。

 己の異能を惜しみなく分け与え、見知らぬ誰かの孤独を照らす、稀有な力の持ち主。少なくとも、その慈悲深さは疑いようがなかった。

 

 どこの誰かも分からない“あかりさま”の存在は、異能解放軍の者たちに確かな良い影響を与えている。

 傷ついた者は眠れるようになり、怒れる者は己を保てるようになり、折れかけた者はもう一度立ち上がる理由を得る。思想だけでは届かない場所に、その小さな光は届いていた。

 

 彼は、我らと敵対する存在ではない。

 

 むしろ、併存すべき存在だ。異能を恐れず、否定せず、制限せず、その力によって人を救う者。社会が本来認めるべき異能のかたちを、“あかりさま”はすでに体現している。

 

 出来ることなら、“あかりさま”を同胞として迎え入れたい。名を知り、声を聞き、手を取り、この国の未来を語り合いたい。感謝を伝えるために。これまで救われてきた者たちの祈りを返すために。そして、これから訪れる解放の時代、その繁栄を共に分かち合うために。

 

 

 

 

 

 花畑孔腔。────解放コード“トランペット”には、ひとつの予感があった。

 

 そう遠くない未来、自分たちはきっと“かみさま”にお目見えできる。

 根拠はない。理屈もない。ただ、胸の奥で静かに灯る確信だけがあった。

 政治の場で言えば失笑を買うような霊感じみた直感。だが、彼は知っている。こういう勘ほど、案外よく当たるものなのだ。

 

 小さなガラス球を掌の中で転がし、そっと口付けを落とす。

 炎でありながら熱を持たない“あかり”が、暗がりの中でゆるく瞬く。

 

 その柔らかな明滅を見つめながら、トランペットは祈る者のように、あるいは来たるべき謁見を待つ臣下のように、静かに目を細めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……そして、満を持して行われた再臨祭で、異能解放軍は死柄木弔に敗北を喫した。

 

 すべてが終わったあと、散らばった証言と映像が少しずつ繋ぎ合わされ、ヴィラン連合の事務方担当と思われていた『あかり』が、火継────すなわち、あかりさまであると発覚した。

 

 なるほど、“あかり”という名は珍しくない。だからこそ隠れ蓑になった。ヴィランネームとして登録されている“火継”の名を限界まで伏せていた為に、気づくのが遅れた。

 

 

 案内のために先導しながら、一度だけ振り返る。

 慣れた様子でスーツを着こなす長身の青年と、サングラス越しに、確かに目が合った。ほんの一瞬のことだった。

 だが、待ち受ける群衆のざわめきも、敗北の余韻も、今後の処理に追われる慌ただしさも、その瞬間だけは少し遠ざかったように思えた。向こうも気づいたのだろう。青年は驚くでも警戒するでもなく、こちらの視線を受け止め、柔らかく笑みを向けてきた。あまりにも自然な微笑。人を安心させることに慣れている顔。自分がどう見えるかを知っていて、それを押しつけがましく使わない顔。

 トランペットもまた、同じように微笑みを返した。どうにか、どこかで時間を取ってもらえないだろうか。

 

 話を聞きたい。彼が何を思い、何を見て、何を救おうとしているのかを知りたい。

 

 火継。あかりさま。ヴィラン連合の事務方だと思われていた青年。そのすべてがひとつに重なった今、彼のことが、どうしようもなく知りたかった。

 

 

 

 

 

 

 

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