月のない夜だった。
魔法舎に、かすかな魔力の脈動が響く。
その気配を感じ取り、驚いた表情をしたブラッドリーは脈動の源へと移動した。
ネロの部屋の前。
気配を感じ取った同じ階の魔法使いや、他の階の魔法使いが数名いた。
ドアの隙間から黒いモヤのような魔力が床を這い、壁を舐め、天井へと登っていく。
それを見たファウストは、若い魔法使いに近づかず、すぐにここから退避するよう命令している。
そして双子とフィガロ話してる声も聞こえる。
「これヤバくない?」
「ヤバいですね。」
「しかもめっちゃ北の気配するんだけど。
ネロちゃんって北だっけ?」
「……確か、生まれは北です。」
ブラッドリーが1つの単語に疑問を持つ。
「……ヤバい?おい、老いぼれジジイ。今なんつった。」
「ジジイじゃないもん!」
「かわいい双子だもん!」
「うっせーな。今なんつったて聞いたんだよ。」
「……ヤバいって言ったのう。」
「そうじゃのう。」
のらりくらりと返事をする双子をよそに、ブラッドリーはドアを蹴破る。
「おい、開けるな!」
「ネロ!!……っ!?」
ドアを開けた瞬間、彼の足首に、冷たい何かが絡みついた。
正面を見ると、部屋の中央、ネロが立っていた。
稲穂のような金色の瞳だけが異様に光っている。
その周囲に広がるのは、ネロの魔力が感じ取れる黒いモヤ。
それらは黒曜石のように光りながら蠢き、ブラッドリーの体を縫うように絡みついた。
「ネロ!」
叫んで近づくブラッドリーに、ネロは微かに笑う。
「……近寄らないでくれ、ブラッド。
俺も、……なんでこうなったかわかんねえんだ。」
「ネロの言う通りだ。ブラッドリー。
今、彼に近づくのは北の魔法使いのお前でも危ない。」
「……っフィガロ……。」
ネロの声は掠れていた。
だが、その金色の瞳には理性の灯火がまだあるように見える。
「……っクソがっ!!!」
ブラッドリーは腕伸ばし、魔法を放った。
しかし黒いモヤは、それを拒むように幾重にも絡まる。
むしろネロの身体を守るように、あるいは侵すように締め付けた。
「……近づくなって言ったのに。」
その言葉が聞こえた瞬間、光が弾け、闇がふっと消える。
空中にフィガロの魔力が残留する。
「ファウストが呪具を持っていてよかった。
暴走の源は……これかな。」
フィガロは小さな石ころを拾い上げ、ファウストに投げる。
「ファウスト。」
「はい。」
「その石、浄化しておいて。」
「……承知しました。ですが、これは一体……。」
「その石は……」
その光景と会話を呆然と見ていたブラッドリーは、崩れ落ちるネロに駆け寄って支えた。
「ネロ!?」
「……しー。」
「っ……。」
「……魔力がほとんどないな。
ブラッドリー。ネロに魔力を分け与えてやれ。」
フィガロが躊躇せず、指示をする。
そしてネロの脈拍を確認し、双子とファウストと共に部屋へ戻っていった。
闇が退いたあと、部屋には静寂だけが残った。
曲がった調理台、割れた窓、焼け焦げたような床。
そこに、ゆっくりとした呼吸だけが響いていた。
ネロは、ブラッドリーの腕の中で眠るように抱かれていた。
魔力がほとんどないせいで、まるで糸の切れた人形のように。
そんなネロの胸に、ブラッドリーが無言で手を当てる。
「……《アドノ・ポテンスム》。
……どっか痛えところあるか。」
ネロは目を伏せたまま、手を重ね、かすかに首を横に振った。
「ないよ。
……あんたの魔力、もらうのいつぶりだろうな。」
ネロの顔や腕に黒い痕が残っていた。
それを見たブラッドリーは、眉をひそめる。
「……フィガロの野郎に助けられた。」
「それはあとでお礼しなきゃな……。」
ブラッドリーはそれを遮るように、ネロの指先を持ち上げ、頬に当てた。
互いに指先が微かに震えている。
「……悪かった。」
「……ああ。」
その一言が、やけに優しかった。
ネロはそのまま、息を呑んだ。
沈黙の中、窓の外で風が鳴る。
夜明けが近い。
ブラッドリーは魔法で濡れたタオルを取り出す。
黒い痕を拭うように、ネロの頬をそっとなぞる。
「……熱あるな。」
「はは、そうかよ……。」
布の冷たさが、肌を撫でるたび、ネロの瞳が少しずつ安堵へと変わっていく。
ブラッドリーは黙って当てていた手を包み込んだ。
指先に残る微かな熱が、確かに''生きている''証拠で。
「……なあ、ブラッド。」
「ん?」
「夢みてた。」
「どんなだよ。」
「……あんたが、俺を呼ぶ夢。」
短い言葉が、ひどく胸に刺さった。
ブラッドリーは何も言わず、ネロの手の甲に唇を落とした。
それは誓いのようで、助けられなかった懺悔のようで。
「……次はねーからな。」
「わかってる。」
夜が完全に明けるまで、2人の影は触れ合ったまま動かなかった。