ベネットの酒場での話

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ベネットの酒場は、不定期にしか開かなくなった。

店の中から漏れ出るランタンが灯るときだけ、魔法使いたちはどこからともなく現れては去っていく。

 

今夜は風邪が少し冷たい。

ガラスの外には霜が降り、街灯の光がぼんやりと滲んでいた。

 

カウンターの奥では、シャイロックがいつものように磨かれたグラスを拭いている。

その動作は相変わらず丁寧で、静かで、どこか妖美。

かつてよりもシャイロックの瞳は、深く静まり返っていた。

 

扉が、軽やかな音を立てて開く。

 

「まだ閉めないでくれてよかった。」

 

入ってきたのはムルだった。

外の冷気をそのまま連れてくるように、肩や髪が少し湿っている。

 

「……ああ、ムルですか。」

 

シャイロックは微笑んだ。

その声に懐かしさが混じっていて、ムルの胸が少し熱くなる。

 

「ムルだよ!シャイロック、今日のおすすめは?」

「やれやれ……やかましい客が来ましたね。」

 

ムルはカウンターに腰を下ろし、すっかり湿ってしまった空気の中にひとり分のぬくもりを増やした。

 

「今夜のおすすめはこちらですよ、ムル。」

 

そう言って、シャイロックは棚の奥から琥珀色の瓶を取り出す。

コルク栓を抜くと、花と蜜のような香りが静かに広がった。

 

「甘い香り!」

「追憶のリキュール、と呼ばれるものですよ。

 時間の記憶を少しだけ呼び覚ます魔法がかかってます。」

「おもしろそう!シャイロック、早く飲ませて。」

「ふふ。……はいはい。」

 

ムルが笑ってグラスを受け取った。

透明な液体が月光を受け、ゆっくりと揺れる。

 

「……ねえ、シャイロック。」

「はい。」

「どうして、ここをあまり開けなくなったの?

 賢者の魔法使に選ばれたから?

 飽きたから?

 それとも、痴話喧嘩によく巻き込まれたから?」

 

その問いに、シャイロックの指が一瞬だけ止まる。

グラスの縁に映ったシャイロックの横顔は、どこか遠くを見ていた。

 

「……この場所は、夜を抱える人のためにありました。

 けれど今の私は、朝を見てしまった。

 もう、夜だけで生きることができないほどの眩しい朝を。」

 

ムルは「わからない!」といい、グラスの中の琥珀を飲み干す。

飲み込んだ瞬間、胸の奥に古い記憶が広がった。

断片的な、昔の記憶。

賑やかな声、ふざけた冗談、そして、同じ夜を過ごしたこと。

 

「そんな顔しないでよ、シャイロック。」

「そんな顔?」

「まるで、もうここに戻ってこないみたいな顔。」

 

ムルの言葉に、シャイロックは微かに笑う。

 

「戻らないわけではありませんよ、ムル。」

 ただ……帰り道が長くなっただけです。」

 

ムルはため息をついて、指先でカウンターをなぞった。

 

「ねえ、シャイロックの世界が朝を迎えたのなら、俺はその夜の端っこで、いつまでも灯りを持ってていい?」

「……もちろんですよ。」

 

シャイロックはムルの手を取った。

その手は、かつてより少し冷たく、そして穏やかだった。

 

「あなたがいなければ、夜も寂しいでしょうから。」

 

その言葉に、ムル笑う。

 

「シャイロックってずるい!そうやって、優しくする。」

「あなたが泣きそうになる顔が、私には美しく感じるのですよ。」

 

カウンターの上のランプがゆらめいた。

外の風邪が止み、遠くで葉がカサカサと揺れる音がした。

 

そして静かな沈黙の中で、ムルはシャイロックの手に、そっと唇を落とした。

 

「先に魔法舎に戻ってる!」

「……そうですか。」

 

ムルが店を出るとき、扉の鈴が静かに鳴った。

その音が止む頃、ベネットの酒場のランプがゆっくりと消え、魔法使いが去っていく。

 

残された香りは、琥珀と追憶の匂い。

そして、ふたりの記憶の中でだけで灯る夜が、静かに揺れていた。


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