その日、士郎は白野と共に、少し大きな街へ買い出しに来ていた。古びた魔術書を解読する中で、白野の記憶に関わるかもしれない「月の魔術」の痕跡を追い、隣町の図書館を訪れた帰りだった。
夜の帳が下りた、裏路地。
二人がアパートへの近道としてそこを通りかかった時、空気が一変した。先日、船上で感じたものと同じ、しかし比較にならないほど濃密で邪悪な気配。
「シロウ、これ……!」
「ああ。隠れてろ、キシナミ!」
路地の奥から現れたのは、異形の怪物だった。人間の姿を辛うじて保ってはいるが、その両腕は巨大な鎌と化し、背からは蝙蝠のような翼が生えている。紛れもない、高位の死徒。
「見つけたぞ、太陽の小僧。そして、至高の魂を持つ女」
死徒は、船で同胞がやられたという報を聞き、二人を追ってきたのだ。
「我が主、リタ様への手土産にしてくれる!」
問答無用で、死徒の鎌が二人を襲う。
士郎は白野を突き飛ばし、即座に「黎明」を投影する。だが、今回は自ら打ち上げた本物ではない。ただの投影品だ。
「――ヒノカミ神楽、円舞!」
黄金の炎を纏った剣閃が、死徒の鎌と激突する。凄まじい衝撃。投影品の「黎明」は、その一撃に耐えきれず、刀身に大きな亀裂が入った。
「ハッ、その程度か!所詮は紛い物!」
死徒の猛攻が続く。士郎は神楽の型を繋ぎながら必死に応戦するが、武器の性能差は明らかだった。投影した剣は次々と砕け散り、彼は徐々に追い詰められていく。
(くそっ、本物の「黎明」があれば……!だが、アパートに置いてきてしまった!)
死徒の鎌が、士郎の防御を弾き飛ばし、彼の肩を深く切り裂いた。
「シロウ!」
物陰から見ていた白野が、悲鳴を上げる。
「終わりだ、小僧!」
死徒が、とどめの一撃を振り下ろした、その瞬間。
「――うるさいな。お前の『死』は、見ていて反吐が出る」
冷たく、感情のない声が、夜の闇に響いた。
気づけば、死徒の背後に、一人の青年が立っていた。黒いジャケットを羽織り、その目元は赤い包帯で固く覆われている。異様な出で立ちだが、その佇まいは、夜の闇そのものと一体化しているかのようだった。
「な、貴様は……!その赤い包帯……まさか、『殺人貴』……!?」
死徒が恐怖に染まった声を上げる。
青年――遠野志貴は、その言葉を無視し、包帯の隙間から覗く冷たい視線で、死徒の身体に走る無数の線を、ただ見つめていた。
「お前は、ここで終わりだ」
志貴の身体が、消えた。
常人には捉えきれない、七夜の体術。彼は死徒の懐に一瞬で潜り込むと、手にした短刀「七ツ夜」を、まるで精密な手術を行う外科医のように、正確に振るった。
プツリ。
何かが、断ち切れる音。
次の瞬間、死徒の巨大な身体は、まるで最初から繋ぎ合わされていたプラモデルが崩れるように、バラバラに崩壊し、塵となって消えた。再生する間も、断末魔を上げる間すら与えない、完璧な「殺害」だった。
士郎は、肩の傷の痛みも忘れ、その光景に呆然としていた。
なんだ、今のは。あの死徒を、たった一撃で?
志貴は、死徒が消えた空間を一瞥すると、次にその冷たい視線を士郎に向けた。
「……お前、何だ?その炎、死徒の同類じゃないな。だが、邪魔だ」
「邪魔、だと……?」
「そいつは俺の獲物だった。お前が手を出したせいで、少し手間取った」
志貴の言葉には、何の感情も乗っていない。ただ、事実を述べているだけだ。
だが、士郎はその在り方が許せなかった。あまりにも簡単に、命を「殺した」こと。そして、それを当然のこととして語る、その態度が。
「お前こそ、何なんだ!あいつは危険な存在だったが、それでも……!」
「それでも、何だ?話し合えば分かるとでも?馬鹿馬鹿しい。あれは害虫だ。害虫は、ただ駆除する。それだけだろ」
二人の視線が、夜の闇の中で交錯する。
一人は、不特定多数の弱者を守るため、命を「生かそう」とする者。
もう一人は、たった一人の愛する人を救うため、命を「殺し尽くす」者。
「お前のやり方、俺は認めない」
士郎は、傷ついた身体で、砕けた投影剣を再び握りしめる。
「……そうか」
志貴は、士郎の構えと、その瞳に宿る折れない光を見た。そして、ふと、赤い包帯の下で自嘲するように呟いた。
「お前みたいな奴も、いるんだろうな。綺麗事で、世界が救えると信じている……眩しい奴が」
その言葉に、士郎は眉をひそめる。
「綺麗事じゃない。理想を叶えるために、俺はここにいる!」
「理想、か」
志貴は、静かに腰の後ろに差していた忍刀の柄に手をかけた。その時、彼の左手の薬指にはめられた、白く輝く指輪が、街灯の光を反射して、士郎の目に留まった。それは、この殺伐とした裏路地にはあまりに不似合いな、清らかで美しい輝きを放っていた。
「俺には、そんなものを語っている時間はない」
志貴は、その指輪をそっと撫でる。まるで、愛しい者に触れるかのように。
「守りたいだけの『正義』じゃ、俺の姫様は救えないんでな」
姫様――その言葉に、士郎の脳裏に一人の少女の姿がよぎる。金色の髪、碧の瞳。気高く、誰よりも誇り高い、彼の王。
「お前の理想がどれだけ立派でも、俺の邪魔をするなら――」
カチャリ、と音を立てて、忍刀が鞘から引き抜かれる。
その刀身は、月光を吸い込んで、不気味なほど静かに輝いていた。
「お前もここで『殺す』までだ」
二人の男が、対峙する。
一人は、失われた理想郷で待つ王のため、自らが「正義の味方」という理想の体現者とならんとする少年。
もう一人は、千年城で眠る姫のため、自らが「殺人鬼」という業を背負うことを決めた青年。
守りたいものが、ある。
会いたい人が、いる。
その二点において、彼らは驚くほど似ていた。
だからこそ、その手段は決して交わらない。
「――行くぞ」
「――来い」
短い言葉を合図に、衛宮士郎の黄金の炎と、遠野志貴の死を断つ刃が、激突した。
その傍らで、二人の戦いを見つめる岸波白野は、彼らの魂が放つ、あまりにも切実で、悲しい輝きに、ただ息を呑むことしかできなかった。