遠野志貴が去った後、二人は言葉もなく、アパートへの道を歩いた。士郎の左腕は力なく垂れ下がり、白野がその肩を必死に支えている。いつもの帰り道が、果てしなく遠く感じられた。
部屋に戻るなり、士郎は壁に寄りかかってずるずると座り込んだ。白野は救急箱を手に、慣れない手つきで彼の傷の手当てを始める。消毒液が傷口に染み、士郎の顔が苦痛に歪んだ。
「……ごめん」
白野が、小さな声で謝った。
「私のせいで、シロウが……」
「違う」
士郎は、彼女の言葉を遮った。
「お前のせいじゃない。俺が、弱かっただけだ」
その声には、いつものような強がりはなかった。ただ、事実を認める、乾いた響きだけがあった。
白野は、何も言えなかった。彼にかけるべき言葉が見つからなかった。
その日から、二人の日常は静かに、しかし確実に変化した。
士郎は、左腕の傷が癒えるまで、港の仕事を休むしかなかった。彼は、アパートの窓から、ただぼんやりと外を眺めて過ごすことが多くなった。鍛錬にも身が入らない。廃工場へ行っても、「黎明」を握りしめたまま、立ち尽くすだけだった。
(あの男は、俺と同じだった)
脳裏に、志貴の姿が焼き付いて離れない。
大切な誰かのために戦う、その覚悟。揺るぎない瞳。
だが、手段は正反対。彼は「殺す」ことを選び、そして、自分よりも遥かに強かった。
(俺のやり方は、間違っているのか?)
(セイバーが肯定してくれた、この理想は……ただの綺麗事なのか?)
初めて抱いた、自身の在り方への疑念。それは、じわじわと彼の心を蝕んでいった。
そんな士郎の様子を、白野はただ黙って見守っていた。
彼女は、以前よりも甲斐甲斐しく彼の世話を焼いた。拙いながらも、一人で食事の支度をしようと挑戦し、火傷をしながらも、どうにか食べられるものを作った。
「シロウ、ごはん……できたよ」
テーブルに並んだのは、少し焦げたパンと、味の薄い野菜スープ。
士郎は、無言でそれを口に運んだ。
「……うまい」
ぽつりと、彼が呟いた。
「ああ、すごく美味いよ。ありがとう、キシナミ」
その言葉に、白野の瞳が潤んだ。彼女は、士郎が初めて自分の作ったものを「美味しい」と言ってくれたことが、嬉しくて、そして彼の弱っている姿が、悲しかった。
その夜、眠れずにいた士郎は、そっとアパートの屋上に出た。冷たい夜風が、火照った頭を冷やしてくれる。空には、欠けた月が浮かんでいた。
(まるで、今の俺みたいだな)
自嘲気味に呟いた、その時。
背後に、人の気配がした。白野だった。彼女は、毛布を一枚持って、士郎の隣にそっと座った。
「眠れないの?」
「……ああ」
しばらく、沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、白野だった。
「あの人……遠野志貴、と言ったわね。彼は、とても悲しい目をしていた」
「……」
「シロウと同じ。大切な誰かを想う、優しい目をしていた。でも、その優しさを、刃で隠しているように見えた」
白野の言葉は、士郎の心の棘を、そっと撫でるようだった。
「私は、シロウのやり方が、間違っているとは思わない」
彼女は、まっすぐに士郎の目を見て言った。
「だって、あなたは、私を助けてくれた。あなたの戦い方は、誰かを守るためのものだから。それは、とても温かくて、太陽みたいだから」
「……」
「だから、負けないで」
白野の言葉は、魔術でも、奇跡でもない。
ただ、一人の少女の、心からの祈りだった。
士郎は、何も答えられなかった。ただ、欠けた月を見上げる。
まだ、答えは見つからない。自分の理想が正しいのかも分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
(こいつを、守らなければ)
隣にいる、この不器用で、けれど芯の強い少女を、守らなければならない。
その想いだけが、闇の中で揺らぐ、彼の唯一の道標だった。
「……ありがとう、キシナミ」
士郎は、ようやくそう言うと、彼女が持ってきてくれた毛布を、二人で分け合って肩にかけた。
欠けた月が、寄り添う二つの影を、静かに照らしていた。