ヨーロッパの夜を血に染めながら、遠野志貴は一つの結論に達していた。
闇雲に死徒を狩り続けても、アルクェイドを根本的に救うことには繋がらない。彼女を苦しめる吸血衝動――その呪いを解くには、もっと根源的な情報が必要だ。人ならざるモノ、混血、鬼、吸血鬼。そういった「魔」に関する、古くからの伝承や研究。
そして、日本において、それらが最も色濃く残る場所を、彼は一つしか知らなかった。
かつて自分が長男として過ごし、そして刃を向けた、あの忌まわしい屋敷。
遠野家。
月のない夜。志貴は、まるで亡霊のように、懐かしい屋敷の敷地内に侵入していた。七夜の体術は、屋敷に張り巡らされた簡易な結界や警備システムを、まるで存在しないかのように無効化する。彼の目的は一つ。遠野家の当主、遠野秋葉の書斎だ。あそこならば、遠野の血にまつわる、あるいは「反転」に関する古文書が残されているはずだった。
書斎は、静まり返っていた。志貴は赤い包帯の下の「眼」で、魔術的な罠がないことを確認すると、音もなく本棚を漁り始める。彼の記憶にあるよりも、蔵書は増えている。秋葉が当主として、家の歴史を学んでいる証拠だった。
(……これか)
志貴は、一冊の古びた和綴じの書物を手に取った。表紙には「混血と反転衝動に関する考察」と書かれている。これこそ、彼が求めていた情報に繋がるかもしれない。
その時。
背後から、氷のように冷たい声が響いた。
「――そこで何をしているのですか、兄さん」
志貴は、ゆっくりと振り返った。
書斎の入り口に、一人の少女が立っていた。腰まで届く、艶やかな黒髪。血のように赤いリボン。そして、かつてと変わらない、強い意志を宿した瞳。
遠野家の現当主、遠野秋葉。
「……秋葉」
志貴は、感情のない声で、妹の名を呼んだ。
「その格好……その目……。噂は本当だったのですね。『殺人貴』。世界中の死徒を狩り続ける、正体不明の暗殺者。それが、私の兄だったとは」
秋葉の声は、静かだが、怒りと、そしてそれ以上に深い悲しみに震えていた。
「なぜ、戻ってこなかったのです。なぜ、こんな……泥棒のような真似を!」
彼女の周囲の温度が、急激に上昇していく。遠野の血――「紅赤朱」の力が、彼女の感情に呼応して昂ぶっているのだ。廊下の床が、じりじりと焦げ付いていく。
「……用があっただけだ。済んだら、すぐに消える」
「用、ですって?私たち家族を捨てておきながら、今更この家に何の用があるというのです!」
秋葉の言葉が、志貴の胸に突き刺さる。
家族。その言葉の響きが、ひどく遠いものに感じられた。
「お前には関係ない」
「関係なくありません!」
秋葉が、一歩踏み出した。
「兄さんがいなくなってから、この屋敷がどれだけ静かになったか、貴方に分かって?翡翠も、琥珀も……皆、貴方のことを心配して……!」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「帰ってきて、兄さん。もう、あんな戦いはやめて。昔みたいに、また四人で……」
その言葉は、志気にとって、あまりにも眩しく、そして残酷だった。
昔みたいに?もう、戻れるはずがない。自分は、あまりにも多くのモノを殺しすぎた。そして何より、自分には、迎えに行かなければならない人がいる。
志貴は、秋葉に背を向けた。
「……それは出来ない」
「なぜです!」
「俺は、もう遠野志貴じゃない。俺は、あいつを迎えに行くためだけに存在する、ただの殺人貴だ」
彼は、左手の薬指にはめられた、白い指輪をそっと握りしめる。
その仕草を見て、秋葉は全てを悟った。
兄が、誰のために戦っているのか。誰のために、人であることをやめてしまったのか。
「……そう。その女のためですか」
秋葉の瞳から、涙が消えた。代わりに宿ったのは、燃えるような嫉妬と、絶望。
「その女のために、私たち家族を捨てるというのですね」
「……」
「分かりました。ならば、もう容赦はしません」
秋葉の黒髪が、赫く染まっていく。
「遠野家の当主として、家に仇なす侵入者は、私が排除します。たとえ、それが血を分けた兄であろうとも!」
廊下の壁に、床に、燃え盛る檻のような紅い線が走る。
「檻髪」が、逃げ場のない書斎で、志貴を捕らえんと牙を剥いた。
志貴は、静かに忍刀の柄に手をかける。
「……やめておけ、秋葉。お前では、俺は殺せない」
過去を断ち切るための刃と、過去を取り戻すための炎が、静まり返った遠野邸で、悲しく交錯しようとしていた。