「……やめておけ、秋葉。お前では、俺は殺せない」
その言葉は、忠告ではなかった。ただの事実。そして、志貴の揺るぎない決意の現れだった。アルクェイドを救うという目的。その邪魔をするのなら、たとえ血を分けた妹であろうと、容赦はしない。彼は、とうの昔にその覚悟を決めていた。
「黙りなさい!」
秋葉の絶叫と共に、赫く染まった髪が、無数の槍となって志貴に襲いかかる。遠野の血が持つ「掠奪」の権能。触れた対象の熱(生命力)を根こそぎ奪い取る、必殺の「檻髪」。
書斎は一瞬にして破壊された。本棚は引き裂かれ、床や壁は檻髪が通った軌跡のままに、赤黒く焦げ付いていく。
志貴は、その猛攻を、ただひたすらに回避する。七夜の体術は、襲い来る赫い槍の僅かな隙間を縫って、彼の身体を闇の中へと滑り込ませる。
(速い……!昔とは比べ物にならない!)
秋葉は内心で戦慄していた。かつてこの屋敷にいた時とは、比べ物にならないほどの洗練された動き。だが、攻撃の手を緩めはしない。屋敷全体が、彼女の力に呼応するように軋みを上げる。彼女のホームグラウンドであるこの場所では、彼女の力は無限に近い。
「逃げてばかりで、どうするのですか!」
檻髪の密度が増し、ついに志貴の死角を捉えた。数本の赫い髪が、彼の肩と脇腹を貫く。
「ぐっ……!」
常人ならば、その一瞬で全身の熱を奪われ、即身仏と化す。だが、志貴の身体は、左手の指輪が一瞬だけ淡い光を放ち、奪われた生命力を瞬時に補った。
「その指輪……!やはり、その女の力ですか!」
秋葉の嫉妬が、さらに炎を燃え上がらせる。
「他人の力に頼らなければ、妹一人にも勝てないのですか、兄さんは!」
その言葉は、図星だった。そして、志貴の逆鱗に触れた。
彼は、肩に突き刺さった髪を引き抜くと、初めて反撃に転じた。
「――うるさい」
志貴の身体が、消えた。
秋葉の「掠奪」は強力だが、その分、動きが大振りになる瞬間がある。戦闘経験の差。志貴は、その一瞬の隙を見逃さなかった。
「なっ――」
気づいた時には、もう遅い。
志貴は、秋葉の懐、そのゼロ距離に立っていた。
そして、その手には、いつの間にか抜かれた忍刀が握られている。
「あ……」
秋葉の瞳が、見開かれた。
目の前の兄の、赤い包帯の下から覗く、直死の魔眼。
その瞳が、自分の胸の中心――心臓の「死の点」を、正確に捉えているのが分かった。
(死ぬ)
本能が、そう告げていた。
だが、身体は動かない。恐怖ではない。兄の瞳に宿る、あまりにも深い絶望と、悲しみの色に、心を奪われてしまったからだ。
「さよならだ、秋葉」
志貴は、何の躊躇もなく、忍刀を振り上げた。
妹を、殺すために。
その、刹那。
「――はい、そこまで」
場違いなほど、軽薄な声が響いた。
次の瞬間、志貴の身体は、まるで不可視の壁に阻まれたかのように、その動きをぴたりと止めた。いや、違う。彼の身体と、秋葉の身体の間に、「無限」が生まれたのだ。振り下ろされる忍刀は、秋葉に近づけば近づくほど、その速度が無限に遅くなっていく。決して、届かない。
「な……んだと……!?」
志貴は、人生で初めて、理解不能な現象に遭遇した。
書斎の、崩れた天井の上。月光を背に、一人の男が立っていた。
雪のように白い髪。黒い布の目隠し。そして、ニヤリと笑う口元。
「いやー、危ない危ない。僕が来なきゃ、お嬢ちゃん、死んでたよ?」
男――五条悟は、ひらりと地上に降り立つと、パンパン、と服の埃を払った。
「さて、と。まずは自己紹介からかな。僕は五条悟。見ての通り、ただの良い男さ」
彼は、信じられないものを見る目で固まっている志貴と秋葉に、にこやかに笑いかけた。
「君が、噂の『直死の魔眼』クンだね?で、そっちが遠野の『紅赤朱』のお嬢ちゃん。いやー、二人とも、良い術式持ってるじゃん」
五条の「六眼」は、二人の能力、その根源に至るまで、全てを視ていた。
「で?兄妹喧嘩も大概にしなよ。こんな派手にやらかして、近所迷惑だって分かってる?」
志貴は、ゆっくりと忍刀を下ろした。目の前の男は、次元が違う。本能が、警鐘を乱れ打っていた。こいつは、自分が今まで出会った、どんな死徒よりも、どんな人間よりも、危険だ。
「……お前は、何者だ」
「だから、五条悟だって。まあ、君らみたいな『魔』を狩るのが、僕の仕事の一つでね」
五条は、肩をすくめた。
「遠野の次期当主が、正体不明の侵入者に殺されかけてるって、僕の『眼』が教えてくれたもんでさ。ちょっと様子を見に来てやったってワケ」
彼は、志貴に向き直ると、その笑みを消した。
「ま、理由はどうあれ、僕の目の前で人は殺させないよ」
「邪魔をするなら、お前も殺す」
「おっと、威勢がいいねぇ。でも、無理だよ」
五条は、人差し指を立てて、静かに告げた。
「君じゃ、僕には触れることすらできないから」