「君じゃ、僕には触れることすらできないから」
その言葉は、挑発ではなかった。五条悟にとって、それは揺るぎない事実。
だが、遠野志貴の辞書に「不可能」の文字はない。彼の「眼」が視える限り、そこに「死」があるのなら、神ですら殺せる。
「――そうか」
志貴は短く応じると、その姿を闇に溶け込ませた。七夜の体術。彼は、五条の背後、真上、側面、あらゆる角度から同時に攻撃を仕掛けているかのような、超高速の立体攻撃を敢行する。
だが、その全てが、五条に届く寸前で、ぴたりと止まった。
まるで、分厚いガラスに阻まれているかのように。いや、違う。刃は進んでいる。しかし、その先の標的との距離が、一向に縮まらない。
(これが……「無限」……!)
志貴は一度距離を取ると、赤い包帯の下で、目の前の現象に意識を集中させた。
五条悟は、ただそこに立っているだけだ。何の魔術的な障壁も、物理的な盾も展開していない。しかし、彼と自分の間には、決して越えられない「距離」が存在する。
(魔術……いや、呪術か。空間そのものに干渉する、何らかの術式)
志貴は、思考を巡らせる。
普通の攻撃では届かない。ならば。
(――魔術だろうが、呪術だろうが、それが「生きている」のなら、必ず「死」はある)
彼は、再び「眼」を凝らした。
世界から色が抜け落ち、万物が持つ「死」の線が、灰色の世界に浮かび上がる。
そして、視えた。
五条悟の周囲を覆う、不可視の「無限」。それは、ただの空間ではなかった。術式によって編まれ、維持され、機能している、一個の「生命」だった。そして、その生命には、無数の「死の線」が、まるで網の目のように走っていた。
「……見えた」
志貴の口元に、初めて笑みが浮かんだ。それは、狩人が獲物を見つけた時の、獰猛な笑み。
「おっと、何か分かっちゃった顔だね?」
五条もまた、楽しそうにそれを見ていた。
次の瞬間、志貴は真正面から、一直線に五条へと突貫した。無謀な突撃。
五条は、余裕の表情でそれを見つめる。どうせ、また届かない。
だが、今回は違った。
志貴が振るった忍刀の切っ先が、五条の目の前、数センチの空間を「なぞった」。
プツリ。
何かが、断ち切れる音。
五条悟を護っていた「無限」が、その一部分を「殺され」、穴が空いた。
「なにっ!?」
五条が、初めて驚愕の声を上げた。
その一瞬の穴を、志貴は見逃さない。
彼の身体は、殺された無限の隙間を通り抜け、五条の懐に到達する。
そして、忍刀の切っ先は、五条の胸の中心――彼の「六眼」が捉えた、ただ一つの絶対的な急所。
心臓の「死の点」を、正確に突き立てようとしていた。
(――もらった!)
志貴が、勝利を確信した、その刹那。
「術式反転――『赫(あか)』」
五条の掌から、凄まじい衝撃波が放たれた。
それは、純粋な斥力の塊。志貴の身体は、回避する間もなくその奔流に飲み込まれ、まるで鉄屑のように吹き飛ばされた。屋敷の壁を数枚突き破り、庭の地面に深く突き刺さる。
「ぐ……はっ……!?」
何が起こったのか、理解できない。全身を襲う、骨が砕けるほどの衝撃。だが、それ以上に、志貴は混乱していた。なぜ、攻撃が当たる寸前で、あんな現象が起きたのか。
瓦礫の中から、ゆっくりと五条が歩いてくる。その服には、塵一つついていない。
「……いやー、マジでビビった。本気で死ぬかと思ったよ」
彼は、心底感心したように言った。
「まさか、僕の『無限』を殺してくるとはね。その眼、本当にイカれてる。最高だよ、君」
だが、その口調とは裏腹に、彼の瞳は笑っていなかった。
「でも、ゲームは終わりだ」
五条は、静かに指を組んだ。
「君みたいな面白いオモチャ、ここで壊しちゃうのは勿体ないからね。少し、頭を冷やしてもらうだけだよ」
志貴は、吹き飛ばされた衝撃で朦朧とする意識の中、目の前の男が、何かとてつもなく危険なことをしようとしているのを、本能で感じ取った。
(まずい……!)
逃げようとするが、身体が動かない。
そして、五条は、静かにその名を告げた。
「領域展開――『無量空処(むりょうくうしょ)』」
次の瞬間、遠野志貴の世界は、反転した。
彼の背後に、宇宙のような、黒い球体が出現し、彼と五条、そして気絶している秋葉を飲み込んでいく。
気づけば、彼は、無限に広がる宇宙空間の中心に立っていた。
美しい。だが、その美しさに目を奪われた、次の瞬間。
――知覚が、始まった。
視る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる。生きるために必要な、ありとあらゆる情報が、彼の脳に、ゆっくりと、しかし止めどなく流れ込んできた。五条は、その情報量を、志貴の脳が焼き切れないギリギリのラインに、完璧に調整していた。殺すためではない。ただ、思考を完結させないために。
世界の始まりから終わりまで。原子の生滅。星の誕生。因果の果て。
全てが、分かる。全てが、理解できる。
だが、その情報が多すぎる。思考が、追いつかない。何かを考えようとしても、次の情報がそれを上書きしていく。
「アルクェイド」という名前を思い浮かべようとしても、「あ」と思った瞬間には、宇宙創生の光景が脳裏をよぎり、「る」を発音する前に、素粒子の成り立ちを理解させられる。
思考が、完結しない。
行動が、できない。
ただ、無限の情報を受け取り続けるだけの、生きた彫像と化す。
やがて、領域が解除され、世界は元の破壊された遠野邸の庭に戻った。
「……あ」
遠野志貴は、ただ一言、意味のない声を発すると、その場に糸が切れた人形のように崩れ落ちた。その瞳からは光が消え、焦点が合っていない。脳が情報の奔流から解放された結果、一時的なシャットダウンを起こしたのだ。
「さて、と」
五条は、倒れた志貴の傍らにしゃがみ込むと、彼の赤い包帯をそっと解いた。露わになった直死の魔眼は、今はただ虚空を見つめているだけだった。
「んー、やっぱり良い眼だね、これ」
彼は満足げに頷くと、気絶している秋葉と、行動不能になった志貴を見比べた。
「最強の『殺人貴』クンも、これでしばらくはお休みかな」
五条悟は、捕獲した二人の「面白い生徒候補」をどうしてやろうかと、楽しげに算段を始めるのだった。