意識が浮上した時、岸波白野は、見慣れた木の天井を見ていた。
そこは、二人がこの村で借りている、小さなコテージの寝室だった。身体に痛みはない。ただ、脳の奥に、まだ無限の情報の残滓が渦巻いているような、奇妙な浮遊感があった。
隣のベッドでは、衛宮士郎が、苦しげな表情で眠り続けている。
白野は、ゆっくりと身体を起こすと、リビングへと向かった。
「お、起きた?月チャン」
リビングのテーブルでは、五条悟が、どこから持ってきたのか、高級そうな洋菓子を頬張りながら、呑気に雑誌を読んでいた。まるで、自分の家のようにくつろいでいる。
「……あなたは」
「まあ、座りなよ。紅茶、淹れてあげようか?」
白野は、彼の言葉を無視して、まっすぐに五条を見つめた。
「士郎は……」
「大丈夫だって。身体の傷は、僕の術式でちょちょいと治しておいた。まあ、精神的なダメージは、本人の問題だから、時間がかかるだろうけどね」
その言葉を聞いて、白野は、拳を強く握りしめた。
あの時の光景が、脳裏に蘇る。自分の全てを懸けた世界を破壊され、絶望に染まる士郎の顔。そして、何もできずに、ただ彼が傷つくのを見ていることしかできなかった、自分の無力さ。
「……私に、力をください」
白野は、絞り出すように言った。
「士郎を守れるだけの、力が欲しい。彼と、隣に立って戦えるだけの、力が」
その真剣な眼差しを見て、五条は、初めてお菓子を食べる手を止めた。
「へぇ……。君、面白いこと言うね。君の魂は、元々戦闘用のプログラムじゃなかったはずだけど?」
彼の「六眼」は、白野の魂が、かつてムーンセルにおいて、マスターを補助するためのNPCであったことを見抜いている。
「それでも、です」
白野は、一歩も引かなかった。
「私は、もうただ守られるだけの存在でいたくない」
その瞳に宿る強い光を見て、五条は、ニヤリと笑った。
「いいねぇ、その目。気に入った。いいよ、教えてあげる。君だけの戦い方をね」
その頃、衛宮士郎は、夢を見ていた。
どこまでも広がる、花々の咲き乱れる丘。
澄み渡る空。心地よい風。
現実とは、あまりにもかけ離れた、理想郷。
その丘の上、一本の大きな樹の下に、懐かしい後ろ姿があった。
肩まで流れる、美しい黄金の髪の少女。
彼女は、静かに、何かを待っている。
(……セイバー)
士郎は、その名を呼ぼうとするが、声が出ない。
彼女に駆け寄ろうとするが、足が動かない。
少女が、ゆっくりと振り返る。
その翠玉の瞳は、少しだけ寂しそうに、でも、確かな信頼を込めて、微笑んでいた。
『――待っています。あなたが、辿り着くのを』
その声が聞こえた瞬間、士郎の意識は、現実へと引き戻された。
「……っ!」
士郎が目を覚ますと、そこは見慣れた自室のベッドの上だった。
身体の痛みは、嘘のように消えている。だが、敗北の記憶は、鮮明に残っていた。
リビングへ行くと、五条悟と岸波白野が、テーブルを挟んで何かを話していた。
「起きたか、太陽クン。良い夢見れた?」
五条が、からかうように言う。
士郎は、その言葉を無視して、彼の前に座った。
「……お前の勝ちだ。俺は、完敗した」
「分かりきったこと言わないでよ。で?どうする?このまま腐る?」
「一つ、聞かせろ」
士郎は、五条をまっすぐに見据えた。
「俺の魔術は、お前が言うように、本当に『化石』なのか?」
その問いに、五条は、少しだけ考える素振りを見せた。
「うーん、半分正解で、半分間違い、かな」
「どういう意味だ」
「君の『日』の属性。そして、それを剣術に昇華させた『ヒノカミ神楽』。その発想は、悪くない。むしろ、素晴らしい。君の魂の本質に、よく合っている」
五条は、人差し指を立てた。
「でも、君は、まだその力の『極意』に至っていない。太陽の本当の恐ろしさは、ただ燃やすことじゃない。その『熱』と『光』で、万物を『変質』させることにある。君の剣は、まだその領域に達していないんだよ」
そして、彼は、再びあの話を持ち出した。
「それと、君の戦い方は、あまりにも不器用すぎる。だから、僕がさっき、親切に『新時代の魔術』を見せてあげたでしょ?領域展開っていうんだけど」
五条は、固有結界と領域展開の違いを、改めて説き始めた。世界を塗り替えるのではなく、既存の世界の上に、自分のルールを建築する、効率的な必中の術。
その話を聞きながら、士郎の脳は、高速で回転していた。
「無限の剣製」は、彼の起源である「剣」に根差した世界。だが、今の自分には、もう一つの力がある。「日」の属性だ。
(……既存の世界の上に、自分のルールを建築する……)
(俺の「日」のルール……太陽のルールとは……)
彼は、思い描く。
「無限の剣製」のように、世界そのものを塗り替えるのではない。
「世界の中に自らのルールを押し付ける」という、全く新しい概念。
「無限の剣製」とは違う、彼が新たに至るべき、「日」の領域。
(……やれるかもしれない)
それは、衛宮士郎という魔術師が、旧世代の「固有結界」という呪縛から解き放たれ、彼の本質である「太陽」の力で、彼だけの「領域」を掴むための、最初の閃きだった。
「どうやら、二人とも、ちゃんと前を向く気になったみたいだね」
五条は、士郎と白野の顔を交互に見比べると、満足げに笑った。
「じゃあ、始めようか。僕による、地獄の個人授業をさ」
絶望の底で、二つの魂は、新たな力を求めて、再び立ち上がろうとしていた。
最強の教師による、あまりにも理不尽な特別講義が、今、始まろうとしていた。