アルトルージュの狂喜に満ちた宣言が、夜の静寂に響き渡る。
その言葉がまるで引き金であったかのように、覚醒したばかりの岸波白野が獣のような咆哮を上げた。
「――アァァァァアアアアアアッ!!」
もはや、そこに理性の光はない。
血のように赤い瞳は、ただ目の前にいる「餌」――衛宮士郎の生命だけを捉えていた。
吸血衝動。それは死徒としての根源的な本能。彼女の思考は今や、その一つの命令によって完全に支配されていた。
「白野……?」
士郎は地面に叩きつけられた激痛に喘ぎながら、信じられない光景に目を見開く。
白野が、見たこともないような俊敏さで四つん這いの姿勢から、一気にこちらへ跳躍してきた。その動きはもはや人間のものではない。しなやかで、力強く、そして飢えに満ちた捕食者のそれだった。
「やめろ、白野! 俺だ! 士郎だ!」
士郎は必死に呼びかける。
共に旅をした日々、交わした言葉、分かち合った温もり。その全てを思い出してほしくて、魂の底から叫ぶ。
だが、その声は今の彼女には届かない。
白野の耳に聞こえるのは、士郎の体内を流れる温かく、そして極上の魔力を秘めた血液の音だけ。
「――ヒノカミ神楽、幻日虹!」
士郎は砕けかけた黎明を構え、必死に白野の猛攻を捌く。
しかし、死徒と化した白野の身体能力は士郎の想像を遥かに超えていた。彼女の振るう爪は鋼鉄すら容易く引き裂き、その動きは目で追うことすら困難な領域に達している。
ガキンッ!
ついに、限界が訪れた。
白野の爪撃を受け止めた瞬間、アルトルージュによってヒビを入れられていた「黎明」の刀身が、甲高い音を立てて完全に砕け散った。
夢で見た理想の剣。白野と共に鍛え上げた希望の象徴。その破片が、無情にも地面に散らばる。
「くっ……!」
唯一の武器を失い、士郎は後退する。
だが、白野は容赦なく追撃してくる。
「――投影(トレース)、開始(オン)!」
士郎は瞬時に思考を切り替え、両手に馴染んだ夫婦剣――干将・莫耶を投影する。
もはや頼れるのは、この無数の剣を生み出す投影魔術のみ。
「目を覚ませ、白野! お前は、こんなことをする奴じゃないだろう!」
剣を交えながら、士郎は叫び続ける。
その瞳から、涙がこぼれ落ちた。
守ると誓ったはずの少女と、今、殺し合っている。この現実が、彼の心を容赦なく抉っていく。
「ふふっ、無駄よ、無駄」
少し離れた場所で、アルトルージュがその光景をうっとりと眺めている。
「今の彼女は生まれたての獣と同じ。あるのは、ただ血への渇望だけ。あなたの声なんて、雑音にしか聞こえていないわ」
その言葉を証明するかのように、白野の攻撃はさらに激しさを増していく。
彼女の動きには、かつて五条悟との訓練で見せた思考の煌めきはない。ただ、圧倒的な身体能力と血を求める本能だけが、その四肢を突き動かしていた。
士郎は、完全に防戦一方に追い込まれていく。ジリ貧だった。
攻撃ができない。
目の前にいるのがどれだけ変わり果てた姿であろうと、岸波白野であることに変わりはないからだ。
彼女の身体に、剣を突き立てることなどできるはずがなかった。
その一瞬の躊躇いが、命取りになる。
士郎の防御の隙間を縫って、白野の爪が彼の肩を深く切り裂いた。
「ぐああっ!」
鮮血が夜の闇に舞う。
その血の匂いを嗅いだ瞬間、白野の動きが、一瞬だけぴたりと止まった。
そして、その赤い瞳がさらに飢えたように、爛々と輝き出す。
「ア……ァ……」
彼女は恍惚とした表情で、士郎の傷口を見つめている。
「まずい……!」
士郎は後ずさる。
一度、血の味を覚えさせてしまえば、もう後戻りはできないかもしれない。
だが、傷を負った士郎の動きは鈍い。
白野は再び地を蹴った。今度こそ、その喉笛に食らいつこうと鋭い牙を剥き出しにして。
(……ここまで、なのか……?)
士郎の脳裏に、絶望がよぎる。
セイバーとの再会も、正義の味方としての理想も、全てがここで終わるのか。
愛した少女の手によって。
だが、その死を覚悟した瞬間。
彼の脳裏に、朝日の光に包まれて、消えていった少女の笑顔が浮かんだ。
そして、隣で笑ってくれた白野の顔が重なった。
(……冗談じゃない)
ここで諦めて、どうする。
ここで倒れて、何が正義の味方だ。
「――まだだ……!」
士郎は血を流しながら、ふらつく足で立ち上がる。
「まだ、終わらせない……!」
彼の瞳には、絶望の色はもうなかった。
そこにあるのは、どれだけ傷つき、打ちのめされても決して折れることのない、鋼の決意。
「お前を……白野を、必ず、元に戻す……!」
「たとえ、どんな手を使ってでも……!」
その姿を見て、アルトルージュはさらに楽しそうに口の端を吊り上げた。
「そうこなくっちゃ。絶望の淵で、それでも足掻く姿こそ、人間の一番美しいところだもの」
悲劇の舞台は、まだ始まったばかり。
士郎の孤独で絶望的な戦いが、今、幕を開けた。