Fate/Cross Dimensions   作:水成

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第三十三話:偽りの希望

遠野志貴の問いに、士郎は結局、何一つ答えを出すことができなかった。

「殺せるのか」という、あまりにも重い問い。それは彼の理想と、彼が守りたい現実との間に突き立てられた鋭い楔だった。

 

そんな士郎の葛藤を無視するように、五条悟はぽんと彼の肩を叩いた。

「まあ、その答えはゆっくり考えなよ。それより、姫君が待ってるよ」

 

五条に促されるまま、士郎は重い足取りで地下室へと続く階段を下りていった。

ひやりとした湿った空気。陽の光が一切届かない完全な闇。その奥で、小さなうめき声が聞こえた。

 

「……う……ぅ……あ……」

地下室の隅で、岸波白野は自分の身体を抱きしめ、ガタガタと震えていた。

その瞳は理性を保ってはいるものの、絶え間なく押し寄せる吸血衝動の波に耐え、苦痛に満ちている。

 

「白野……」

士郎が、その名を呼ぶ。

白野はびくりと肩を震わせると顔を上げた。そして、士郎の姿を認めると、まるで恐ろしいものから逃げるように後ずさった。

 

「来ないで……! お願いだから、私に近づかないで……!」

 

「白野、俺だ」

 

「分かってる! 分かってるから、来ないで! また、あなたを傷つけちゃう……! 私、もう自分が自分でなくなるのが、怖い……!」

 

その悲痛な叫びを聞いて、士郎の心にあった最後の迷いが消え去った。

彼は、もう何も言わなかった。

ただ静かに白野の前まで歩み寄ると、彼女の前に跪き、自らの腕をその口元へと差し出した。

 

「……え?」

 

「吸えよ、白野」

士郎は、穏やかな声で言った。

「お前が苦しむくらいなら、俺の血なんていくらでもくれてやる」

 

その、あまりにも優しく、そしてあまりにも残酷な申し出に、白野の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「嫌……嫌よ……! そんなことできない……! お願い、士郎……。私が、まだ『私』でいられるうちに、私を殺して……!」

彼女はそう言って、士郎に懇願した。化け物になる前に、人としての尊厳を保ったまま終わらせてほしい、と。

 

だが、士郎は静かに首を横に振った。

「断る」

その声は、揺るぎなかった。

「お前は、まだ誰も殺していない。自分の意志で誰かを傷つけたわけじゃない。そんなお前を、俺が殺せるはずがないだろう」

 

そして、彼は志貴に問われたあの問いと向き合った。

「もし……もし、お前が完全に理性を失って、本当にどうしようもない化け物になって、人を殺してしまったら……」

士郎は一度、言葉に詰まる。

だが、彼は覚悟を決めて続けた。

「――その時は、俺が、お前を止める。必ず」

殺す、とは言えなかった。言いたくなかった。だが、その言葉には「全ての責任を自分が負う」という、鋼の決意が込められていた。

 

その二人の、あまりにも痛ましいやり取りを階段の上から見ていた五条悟が、わざとらしく咳払いをして割って入った。

「はいはい、お涙頂戴のシーンはそこまで。ちょっと、可能性の話をしない?」

彼は地下室に下りてくると、二人の前にしゃがみ込んだ。

「あくまで、可能性の話だけどね。君たちをこんな目に遭わせたアルトルージュとかいう吸血鬼。あいつが君の『親』なんだろ? 月チャン」

 

「……」

 

「ならさ、その親であるアルトルージュを殺せば、もしかしたら君にかけられた呪いが解けて、人間に戻れるかもしれない。可能性は、ゼロじゃないと思うよ?」

 

その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光だった。

絶望しか見えなかった二人の瞳に、初めて鮮やかな希望の色が宿った。

 

「……本当、ですか?」

白野が、震える声で問う。

「私が、人間に……?」

 

「あくまで可能性の話だって。でも、何もしないよりはマシでしょ?」

 

「……やる」

士郎が、力強く言った。

「そいつを殺せば白野が救われる可能性があるのなら、俺が、必ず殺す」

 

「そうこなくっちゃね」

五条は満足げに頷いた。

 

「白野」

士郎は改めて、彼女に向き直った。

「それまでの辛抱だ。辛いだろうけど、耐えてくれ。俺が必ずお前を救ってみせる。だから――」

士郎は白野の頭を優しく撫でると、もう一度自分の腕を差し出した。

 

白野はしばらくの間、涙を流しながら葛藤していたが、やがてその腕にそっと顔を寄せた。

そして、小さな牙を立て彼の血を吸い始めた。それは生きるための、希望を繋ぐための、痛みを伴う契約だった。

 

その時、地下室の入り口にもう一つの人影が現れた。

遠野志貴だった。

「……そいつを殺すなら、俺も協力する」

彼は静かに、しかし確かな意志を込めて言った。

「俺も、最初からアルトルージュを追っていた。あいつは、俺が救いたい女にとっても邪魔な存在なんでな」

 

こうして、三人の男の目的は一つになった。

打倒、アルトルージュ。

 

志貴は士郎と白野の横を通り過ぎる際、階段の上に立つ五条悟の耳元で、二人には聞こえないごく小さな声で、吐き捨てるように言った。

「……ペテン師が」

 

その言葉に、五条の肩が僅かに震えた。

彼は何も答えなかった。ただ、アイマスクの奥でぎゅっと目を閉じる。

 

(……ああ、そうだよ)

心の中で自嘲する。

到着が遅れ、二人を救えなかった自分。

そして、彼らに残酷な嘘をついてしまった、自分。

 

五条の「六眼」は、真実を見抜いていた。

一度、死徒の呪いに染まった魂が人間に戻ることなど、あり得ない。

親であるアルトルージュを殺したところで、白野が人間に戻る可能性など、最初からどこにも無いということを。

 

それでも、彼は嘘をついた。

絶望の淵にいる二人に、前に進むための「理由」を与えるために。

あまりにも甘く、そしてあまりにも残酷な、偽りの希望を。

 

(僕も、大概、どうしようもないクズだな)

最強の男は、誰にも見せることのない深い自己嫌悪に、静かに沈んでいくのだった。

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