遠野志貴の問いに、士郎は結局、何一つ答えを出すことができなかった。
「殺せるのか」という、あまりにも重い問い。それは彼の理想と、彼が守りたい現実との間に突き立てられた鋭い楔だった。
そんな士郎の葛藤を無視するように、五条悟はぽんと彼の肩を叩いた。
「まあ、その答えはゆっくり考えなよ。それより、姫君が待ってるよ」
五条に促されるまま、士郎は重い足取りで地下室へと続く階段を下りていった。
ひやりとした湿った空気。陽の光が一切届かない完全な闇。その奥で、小さなうめき声が聞こえた。
「……う……ぅ……あ……」
地下室の隅で、岸波白野は自分の身体を抱きしめ、ガタガタと震えていた。
その瞳は理性を保ってはいるものの、絶え間なく押し寄せる吸血衝動の波に耐え、苦痛に満ちている。
「白野……」
士郎が、その名を呼ぶ。
白野はびくりと肩を震わせると顔を上げた。そして、士郎の姿を認めると、まるで恐ろしいものから逃げるように後ずさった。
「来ないで……! お願いだから、私に近づかないで……!」
「白野、俺だ」
「分かってる! 分かってるから、来ないで! また、あなたを傷つけちゃう……! 私、もう自分が自分でなくなるのが、怖い……!」
その悲痛な叫びを聞いて、士郎の心にあった最後の迷いが消え去った。
彼は、もう何も言わなかった。
ただ静かに白野の前まで歩み寄ると、彼女の前に跪き、自らの腕をその口元へと差し出した。
「……え?」
「吸えよ、白野」
士郎は、穏やかな声で言った。
「お前が苦しむくらいなら、俺の血なんていくらでもくれてやる」
その、あまりにも優しく、そしてあまりにも残酷な申し出に、白野の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「嫌……嫌よ……! そんなことできない……! お願い、士郎……。私が、まだ『私』でいられるうちに、私を殺して……!」
彼女はそう言って、士郎に懇願した。化け物になる前に、人としての尊厳を保ったまま終わらせてほしい、と。
だが、士郎は静かに首を横に振った。
「断る」
その声は、揺るぎなかった。
「お前は、まだ誰も殺していない。自分の意志で誰かを傷つけたわけじゃない。そんなお前を、俺が殺せるはずがないだろう」
そして、彼は志貴に問われたあの問いと向き合った。
「もし……もし、お前が完全に理性を失って、本当にどうしようもない化け物になって、人を殺してしまったら……」
士郎は一度、言葉に詰まる。
だが、彼は覚悟を決めて続けた。
「――その時は、俺が、お前を止める。必ず」
殺す、とは言えなかった。言いたくなかった。だが、その言葉には「全ての責任を自分が負う」という、鋼の決意が込められていた。
その二人の、あまりにも痛ましいやり取りを階段の上から見ていた五条悟が、わざとらしく咳払いをして割って入った。
「はいはい、お涙頂戴のシーンはそこまで。ちょっと、可能性の話をしない?」
彼は地下室に下りてくると、二人の前にしゃがみ込んだ。
「あくまで、可能性の話だけどね。君たちをこんな目に遭わせたアルトルージュとかいう吸血鬼。あいつが君の『親』なんだろ? 月チャン」
「……」
「ならさ、その親であるアルトルージュを殺せば、もしかしたら君にかけられた呪いが解けて、人間に戻れるかもしれない。可能性は、ゼロじゃないと思うよ?」
その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光だった。
絶望しか見えなかった二人の瞳に、初めて鮮やかな希望の色が宿った。
「……本当、ですか?」
白野が、震える声で問う。
「私が、人間に……?」
「あくまで可能性の話だって。でも、何もしないよりはマシでしょ?」
「……やる」
士郎が、力強く言った。
「そいつを殺せば白野が救われる可能性があるのなら、俺が、必ず殺す」
「そうこなくっちゃね」
五条は満足げに頷いた。
「白野」
士郎は改めて、彼女に向き直った。
「それまでの辛抱だ。辛いだろうけど、耐えてくれ。俺が必ずお前を救ってみせる。だから――」
士郎は白野の頭を優しく撫でると、もう一度自分の腕を差し出した。
白野はしばらくの間、涙を流しながら葛藤していたが、やがてその腕にそっと顔を寄せた。
そして、小さな牙を立て彼の血を吸い始めた。それは生きるための、希望を繋ぐための、痛みを伴う契約だった。
その時、地下室の入り口にもう一つの人影が現れた。
遠野志貴だった。
「……そいつを殺すなら、俺も協力する」
彼は静かに、しかし確かな意志を込めて言った。
「俺も、最初からアルトルージュを追っていた。あいつは、俺が救いたい女にとっても邪魔な存在なんでな」
こうして、三人の男の目的は一つになった。
打倒、アルトルージュ。
志貴は士郎と白野の横を通り過ぎる際、階段の上に立つ五条悟の耳元で、二人には聞こえないごく小さな声で、吐き捨てるように言った。
「……ペテン師が」
その言葉に、五条の肩が僅かに震えた。
彼は何も答えなかった。ただ、アイマスクの奥でぎゅっと目を閉じる。
(……ああ、そうだよ)
心の中で自嘲する。
到着が遅れ、二人を救えなかった自分。
そして、彼らに残酷な嘘をついてしまった、自分。
五条の「六眼」は、真実を見抜いていた。
一度、死徒の呪いに染まった魂が人間に戻ることなど、あり得ない。
親であるアルトルージュを殺したところで、白野が人間に戻る可能性など、最初からどこにも無いということを。
それでも、彼は嘘をついた。
絶望の淵にいる二人に、前に進むための「理由」を与えるために。
あまりにも甘く、そしてあまりにも残酷な、偽りの希望を。
(僕も、大概、どうしようもないクズだな)
最強の男は、誰にも見せることのない深い自己嫌悪に、静かに沈んでいくのだった。