数日間の過酷な旅路の果て、二人はようやく国境を越え、地中海に面した古びた港町にたどり着いた。肌を刺すようだった砂漠の乾いた風は、ここではもうない。代わりに、生命の息吹を感じさせる湿った潮の香りと、遠い国のスパイスが混じり合った異国情緒あふれる空気が、疲弊した二人を優しく包み込んだ。
久しぶりに見る「文明」の光景に、白野は知らず知らずのうちに歩みを止めていた。石畳の広場では、陽気な音楽に合わせて人々が踊り、露店には瑞々しい果物や焼きたてのパンが山と積まれている。子供たちの屈託のない笑い声、客を呼び込む威勢のいい声、恋人たちが交わす囁き。その全てが、士郎が命を懸けて守ろうとしている「日常」という名の輝きそのものだった。
士郎は、旅で擦り切れたなけなしの硬貨を数枚握りしめ、路地裏にひっそりと佇む安宿の扉を叩いた。軋む階段を上った先の小さな部屋は、決して快適とは言えなかったが、風雨をしのげる壁と屋根があるだけで、二人にとっては望外の安息所だった。
シャワーから戻った士郎の髪からは、まだ湯気と石鹸の香りが立ち上っている。彼は砂と血の匂いを洗い流すと、部屋に一つしかないベッドを当然のように白野に譲り、自分は壁に背を預けて床に腰を下ろした。
「明日、ヨーロッパへ渡る船を探す。今夜くらいは、ゆっくり休めるはずだ」
その声はいつもより少しだけ柔らかく、安堵の色が滲んでいる。
「……ありがとう、シロウ」
白野は小さく礼を言うと、シーツの清潔な匂いに身を沈めた。旅の疲れがどっと押し寄せ、意識が微睡んでいく。
どれくらい時間が経っただろうか。ふと目を覚ますと、窓の外では月が静かに夜空を渡っていた。その青白い光が、床で眠る士郎の横顔を神々しく照らし出している。戦いの最中に見せる鋼のような険しさは消え、そこには歳相応の、あどけなさすら残る少年の寝顔があった。
白野は、音を立てないようにそっとベッドから抜け出し、彼の隣にゆっくりと腰を下ろした。規則正しい寝息が、部屋の静寂を優しく揺らしている。
この旅が始まってから、ずっと考えていた。
衛宮士郎という少年。彼は、私が探し求める「あの人」ではない。けれど、彼の生き様が、失われた記憶の扉を軋ませながら、少しずつこじ開けていく。敵を前にした時の、全てを焼き尽くすかのような熾烈な眼差し。仲間を想い、無骨な手で温かい食事を作る、あの広い背中。そして、時折見せる、戸惑うような不器用な優しさ。そのすべてが、白野の空っぽだった心に、温かいインクが染み込むように広がっていく。
(もし、このまま探し人が見つからなかったら? もし、この旅が、このままどこまでも続いたなら?)
そんな、毒のように甘い考えが、疲弊しきった心にふと浮かんでしまう。それは、あまりにも魅力的で、抗いがたい誘惑だった。
しかし、白野はかぶりを振ってその幻想を振り払う。ダメだ。私は、あの人を見つけなければならない。そして、士郎にも、探している人がいる。彼が時折、何かを慈しむように、あるいは何かを悔いるように、遠い空を見つめることがある。その視線の先には、きっと彼にとっての世界そのものであるような、大切な誰かがいるのだろう。
私たちは、同じなのだ。
失われた半身を探し求める、孤独な旅人。
帰るべき場所を持つ、異邦人。
だからこそ、今はこうして、傷を舐め合うように寄り添うことしかできない。
白野は、乱れそうになる心を律するように、静かな決意を胸に刻んだ。
必ず、探し人を見つけ出す。そして、この優しくも愚直な少年が、彼の光の元へ帰れるように、今はこの脆い背中を支えよう、と。
その時だった。眠っているはずの士郎の唇から、熱に浮かされたようなうわ言が、吐息と共に漏れた。
「……セイバー……」
それは、士郎が決して人には明かさなかった、彼の魂の核。彼の旅の、たった一つの真実。
白野は、その名前を知らない。それが何を意味するのかも分からない。けれど、その響きに込められた、焦がれるような切実な想いだけは、痛いほど伝わってきた。それは、自分が記憶の片隅に残る「赤い外套の背中」に向ける想いと、全く同じ色をしていたから。
彼女は、彼の額に滲んだ汗を、自分の袖でそっと拭う。その肌は、まるで熱病に罹ったかのように熱かった。
「大丈夫。きっと、会えるよ」
それは、眠る士郎に語りかけた慰めであり、何より、自分自身の揺らぎそうな心に打ち込む、誓いの楔でもあった。
港町の安宿の一室で、二人の探し人は、互いの胸に秘められた同じ痛みを知らぬまま、同じ星を見上げ、それぞれの「再会」を夢見て、束の間の休息をとるのだった。