衛宮士郎が「黎明」を手にし、その力を覚醒させてから数週間が経過した。
彼の力は日々の鍛錬によって、確実にその輪郭を明確なものへと変えつつあった。しかし、その強大な力を振るうべき相手、「黒血の月蝕姫」アルトルージュ・ブリュンスタッドの居場所は、依然として深い霧の向こうに隠されたままだった。
「……手詰まり、だな」
リビングの重いソファに深く沈み込み、遠野志貴が忌々しげに呟いた。テーブルの上には世界各地から集められた情報が散乱しているが、どれもこれもアルトルージュ本人に繋がるような決定的なものではない。
「いっそのこと、聖堂教会と手を組むってのはどうだ? あいつらも、二十七祖は目の敵にしてるだろ」
志貴が、一つの可能性として口にする。
「却下。絶対にダメだ」
その提案を、士郎は即座に、そして強く否定した。
「奴らは、異端を絶対に許さない。死徒である白野は、交渉の席に着く前に浄化対象として殺される。それだけは、絶対にありえない」
「じゃあ、どうする。今まで通り、夜な夜な死徒を狩り続けて、アルトルージュに繋がる情報を吐かせるか?」
「それも、得策じゃない」
今度は、五条悟が会話に割って入る。
「雑魚相手ならいいけど、そのうち必ず二十七祖クラスのヤバいのが出てくる。そうなったら、こっちの消耗も激しくなるし、アルトルージュに辿り着く前に俺たちが潰される可能性だってある」
聖堂教会とは組めない。かといって、闇雲に敵を増やすのも危険。
議論は、完全に行き詰まっていた。重い沈黙が、リビングを支配する。
その時だった。
ずっと黙って議論を聞いていた五条が、ふと部屋の隅で静かに座っている白野に視線を向けた。そして、その目を僅かに細める。
「……ん?」
何か、僅かな違和感。
五条は自らの「六眼」に意識を集中させ、白野の存在をその根源から精密に観測し始めた。魔力の流れ、生命の循環、魂の在り様――その全てを、情報の奔流として読み解いていく。
そして、彼は信じられないものを見た。
「……は? ……嘘だろ……?」
五条の口から、素っ頓狂な声が漏れる。その驚愕の表情に、士郎と志貴が訝しげに彼を見た。
「どうした、悟」
「いや……ちょっと、待って……。え、マジで……?」
五条は何度も目をこすり、もう一度、六眼を凝らす。だが、視える光景は変わらない。
やがて、彼は確信と共に、驚愕の事実を口にした。
「――白野ちゃん、妊娠してる」
「「は……?」」
士郎と志貴の声が、綺麗にハモった。
「馬鹿を言え!」
最初に我に返った志貴が、即座に否定する。
「死徒が、妊娠するはずがない! 生命活動が停止している死徒が、新しい命を産むことなどありえない! ましてや、人間との子など……!」
「いや、ありえるとかありえないとかじゃなくて、現にそうなってるんだから仕方ないだろ!」
悟は志貴の否定を、さらに強く否定した。
「この眼で視たものは、間違いない! 彼女の胎内には、間違いなく新しい生命の魂が宿ってる! 士郎、お前の魔力とそっくり同じ性質を持った、小さな光が!」
場は、騒然となった。
志貴は、ありえない現実を前に言葉を失っている。
士郎は、驚きのあまりただ呆然と白野を見つめることしかできない。
その中で、当事者である白野だけは穏やかだった。
彼女は、そっと自分のお腹に手を当てる。まだ、見た目には何の変化もない。だが、彼女には分かっていた。この身体の中に、愛する人との間に生まれた新しい命が芽生えていることを。
その事実に、彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、絶望の涙ではない。歓喜と、そしてどうしようもないほどの愛おしさが溢れ出たものだった。
その姿を見て、士郎もようやく現実を理解した。
驚きは、まだある。だが、それ以上に心の底から温かい感情が湧き上がってくる。
彼は白野の隣に静かに座ると、彼女がお腹に当てた手に自らの手をそっと重ねた。
「……そうか」
士郎は、微笑んだ。
「俺と、お前の子か……」
その事実は、彼の決意をより一層、強固なものへと変えた。
守るべきものが、また一つ増えた。ならば、自分がやるべきことは変わらない。いや、絶対に成し遂げなくてはならなくなった。
その光景を、遥か遠く、ヨーロッパのどこかにある古城で一人の吸血姫が、水鏡を通して見ていた。
「黒血の月蝕姫」アルトルージュ・ブリュンスタッド。
彼女は、白野を死徒にしたあの時から、ずっとこの茶番劇を観測していたのだ。
「クク……アハハハハハハハ!」
最初は、静かなくすくす笑いだった。それが、やがて腹を抱えての大爆笑へと変わる。
士郎と白野が、あの夜、体を重ねた時はあまりの滑稽さに腹がよじれるほど笑った。
だが、まさかこんな結末になるとは思いもしなかった。
「死徒が、子を孕む……? しかも、人間の男との間に……? アハハ、傑作だわ! 最高の見世物じゃない!」
ひとしきり笑った後、アルトルージュはふと、ある仮説にたどり着く。
そして、その瞳が初めて、愉悦ではない純粋な「欲望」の色に染まった。
(あの男……衛宮士郎は、いずれ英霊の座にまで行き着くほどの器。いわば、人間でありながらその魂は英霊に近い領域に片足を突っ込んでいる)
(そして、母は死徒。いわば、英霊と死徒の間に生まれた子……)
相反し、絶対に交わるはずのない二つの概念。
その矛盾から生まれてくる、奇跡の子。
それは、死徒なのか? 人間なのか? それとも、全く新しい混血の怪物か?
もはや、そんなことはどうでもよかった。
(父は、「日」の魔術を使い、その血に太陽の力を宿す男)
(母は、その「太陽の血」を吸うことで理性を保ち、生きながらえる死徒)
その間に生まれた子。
その命には、一体どれほどの「太陽」の力が凝縮されているのだろうか?
(――あの子を喰らえば)
アルトルージュの口元が、三日月のように歪に吊り上がる。
(あの子を喰らえば、私は……私たち死徒の永年の悲願である、太陽の完全な克服を、成し遂げられるのではないかしら?)
もはや、退屈しのぎの遊びではない。
アルトルージュは、明確な目的を持って立ち上がった。
「――さあ、始めましょうか。最高のディナーのための、余興の準備を」
彼女の愉悦に満ちた声が、玉座の間に静かに響き渡った。