ヨーロッパ行きの古びた貨物船に乗り込んでから、三日が経った。
密航という形ではあったが、船長の老人は士郎の多くを語らないが実直な働きぶりと、どこかこの世の者ではないような白野の儚げな様子を見て、甲板の掃除や錆びついた船体の補修を手伝うことを条件に、二人を船客として迎え入れてくれた。
揺れる船の上で、二人は奇跡のような平穏を味わっていた。士郎は黙々と甲板のペンキを塗り、白野はその傍らで、日に日に遠ざかっていく大陸と、世界の果てまで続くかのような水平線を飽きずに眺めている。士郎が船の厨房を借りて作る食事は、難民キャンプの保存食とは比べ物にならないほど温かく、白野の透けるように白かった頬にも、ようやく微かに血の気が戻り始めていた。
「シロウの作るごはんは、どうしてこんなに優しい味がするんだろう」
ある日の昼食、穏やかな海鳥の声を聞きながら、白野がぽつりと呟いた。熱いスープをスプーンでかき混ぜながら、士郎は少し照れくさそうに、ぶっきらぼうに答える。
「別に……。ただ、腹が減ってる奴が、美味いものを腹一杯食って、少しでも元気になれば、それでいいと思ってるだけだ」
その言葉に、白野はまた、記憶の霧の向こうにいる「あの人」を思う。あの人も、確か料理が得意だった気がする。でも、こんな風に、誰かのためだけに作っていただろうか。思い出そうとすればするほど、記憶の断片は陽炎のように揺らめき、チリチリと胸を焦がすだけだった。
その夜、平穏は唐突に引き裂かれた。
満月が、まるで巨大な真珠のように海面を青白く照らし出す。士郎は、船倉の薄暗がりで古びた鉄屑を掌に載せ、自身の根源たる魔術回路の鍛錬に集中していた。その時、肌を粟立たせる絶対的な悪寒が、背骨を駆け上った。
(この気配は……なんだ?)
魔力とは似て非なるもの。もっと冒涜的で、生命そのものを嘲笑うかのような、死よりも冷たい気配。士郎は直感的に危険を察知し、神経を研ぎ澄ませて船内を探る。船員たちは皆、穏やかな寝息を立てている。だが、気配は深海の圧力のように、刻一刻と濃くなっていく。
その源は、船倉の奥に積まれた一つのコンテナからだった。ひときわ古び、しかしおびただしい数の鎖と封蝋で厳重に封印された、まるで棺のようなコンテナ。その隙間から、触れれば魂ごと凍てつきそうな冷気が、黒い霧のように漏れ出している。
士郎が息を殺し、警戒しながらコンテナに近づいた、その時。
ゴッ!!
内側から、まるで巨人が叩きつけたかのような凄まじい力で扉が歪み、鋼鉄の閂が悲鳴を上げて捻じ切れた。闇の中からぬるりと現れたのは、一人の男だった。貴族趣味の古風なフロックコートを寸分の隙もなく着こなし、月光に照らされたその顔は、大理石の彫刻のように完璧に整っているが、生き物の温かみは一切感じられない。そして、その瞳は爛々と輝く、血のように深い深紅。
「――死徒」
士郎の口から、吐き捨てるような忌々しげな言葉が漏れる。人間社会に巣食い、その血を啜る寄生虫。聖堂教会や魔術協会が、永きに渡り駆逐対象としてきた吸血鬼。
「ほう。面白い小僧だ。我らのことを知っているか」
男は楽しげに口の端を吊り上げた。
「久方ぶりに目覚めてみれば、随分と窮屈な寝床ではないか。ああ、腹も減った。まずは、そこの女から極上のディナーといくか」
死徒の視線が、物音に気づいて船倉の入り口から顔を覗かせた白野に向けられる。次の瞬間、その瞳が、宝石を見つけたかのように愉悦と貪欲さに見開かれた。
「なんと……! その魂、ただの人間のそれではないな! 極上の、いや、至高の逸品だ! 小僧、その女を我に捧げよ。さすれば貴様の命だけは見逃してやろう」
「ふざけるな」
士郎は即座に白野を背後にかばい、拳を握りしめる。その両腕が、これから始まるであろう死闘を前に、静かに、しかし確かな熱を帯びていく。
「お前が何を企んでいようと関係ない。こいつには、指一本触れさせない」
「愚かな。たかが人間風情が、我ら『真祖』に連なる高貴なる者に逆らうか」
死徒が嘲笑った瞬間、その姿が掻き消えた。常人には捉えきれない、音すら置き去りにする神速。だが、幾多の死線を越えてきた士郎の鍛え抜かれた動体視力は、その死の軌跡を辛うじて捉えていた。
「――投影(トレース)、開始(オン)」
士郎の背後から迫る死徒の爪を、虚空から瞬時に現れた白刃――干将が火花を散らして受け止める。甲高い金属音が、船倉の静寂を切り裂いた。死徒は、ありえないものを見たかのように驚愕に目を見開く。
「武器を……無から創っただと!? 貴様、魔術師か!」
「魔術使いだ」
士郎は返す剣で黒剣――莫耶を振るい、死徒を後方へ大きく弾き飛ばす。
「面白い! 実に面白いぞ、小僧ォ!」
死徒は着地と同時に哄笑する。その身体から、おびただしいまでの魔力が黒いオーラとなって溢れ出した。干将に切り裂かれたはずの腕は、見る間に再生していく。
「貴様のその奇妙な魔術、そしてその女の至高の魂、気に入った! すべて我がコレクションに加えさせてもらうぞ!」
死徒の周囲の空気が凍りつき、船倉の壁を伝う水滴が瞬時に鋭い氷の矢へと姿を変える。魔術とは異なる理、血と呪いによって編まれた異能の顕現。
「死ね、魔術使いッ!」
無数の氷塊が、殺意の弾丸となって士郎と白野に襲いかかる。
「シロウ!」
白野の悲鳴が、狭い船倉に木霊した。
「させるかよ!」
士郎は白野の前に仁王立ちになり、かつて幾度となくその身を守った守護の宝具を幻視する。
「――熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)!」
七枚の花弁からなる光の盾が展開され、死徒の凶刃を防ぎきる。しかし、その一撃一撃の威力は、これまで対峙してきた傭兵の銃弾の比ではなかった。凄まじい衝撃音と共に、一枚、また一枚と、誇り高き英雄の盾が砕かれていく。その衝撃は士郎の全身を打ち据え、彼の口から鮮血が噴き出した。
「キシナミ、走れ!」
「でも!」
「いいから行け! こいつは、俺が必ず仕留める!」
士郎の悲痛なまでの叫びに、白野は唇を強く噛み締め、踵を返して船長室へと走った。彼の背中を、彼の言葉を、信じるしかない。
盾が完全に砕かれる寸前、士郎は覚悟を決める。固有結界は使えない。この船という閉鎖空間で展開すれば、白野や善意の船員たちまで、自らの心象世界に巻き込んでしまう。ならば――やるしかない。これまで無意識に避けてきた、自らの魂の、さらに奥深くへ。その根源へと、潜るしかない。
(もっと、もっと強く。もっと、熱く。こいつの穢れた闇を祓う、絶対の光を――)
脳裏に浮かぶのは、あの夜に出会った騎士王の輝き。全てを薙ぎ払った、約束された勝利の黄金。
そして、養父・衛宮切嗣が、遠い日の火災の跡地で語ってくれた、幼い自分の笑顔。
『僕にとって君は、荒んだ心を照らす太陽のような存在だったんだ』
そうだ。俺がなりたかったのは、正義の味方。
それは、絶望の暗闇にいる誰かを、たった一人でも照らし出す、不滅の光。
「――I am the bone of my sword.」
詠唱が、変わる。
いつもの、ただ剣の骨子をなぞるだけの無機質な詠唱ではない。そのさらに奥にある、魂の在り方そのものを問い、再定義する、新たな創世の言葉。
死徒は、士郎の身に起きている尋常ならざる変化に気づきながらも、勝利を確信して嘲笑った。
「小僧、今更何を足掻く。その盾ももう終わりだ!」
最後の一枚がガラスのように砕け散り、死徒の禍々しい爪が、士郎の心臓を抉らんと迫る。
その、瞬間。
士郎の全身を駆け巡る魔術回路が、赤熱した。いや、違う。それは、まるで夜明けの太陽そのものが宿ったかのように、眩いばかりの黄金色に輝き始めたのだ。
「Trace, on.」
士郎の右手に握られたのは、もはや剣ではなかった。
それは、柄から刀身まで、全てが凝縮された太陽光で出来ているかのような、目を灼くほどの光の短剣だった。
「なっ……!?」
死徒の爪は、その光の刃に触れた瞬間、甲高い悲鳴のような音を立てて蒸発した。
「この光は……なんだ!? ただの魔術ではない! 熱い、熱い、我が身が、永劫の時を重ねた我が魂が、溶ける!」
死徒は、まるで神の聖印を押し付けられた罪人のように、苦悶の表情で後ずさる。
士郎自身も、自らの右手に起きた現象に驚愕していた。これは、投影魔術じゃない。もっと根源的な、自らの魂そのものを燃料として燃焼させているかのような、灼熱の感覚。だが、不思議と不快ではなかった。むしろ、これが本来の自分の力なのだと、魂が歓喜に打ち震えている。
「お前の闇は、そこまでだ」
士郎は地を蹴った。その動きは、先ほどまでとは比較にならないほど速く、鋭い。黄金の輝きが、彼の肉体そのものを活性化させていた。
死徒は本能的な恐怖に顔を引きつらせ、血の魔術で幾重にも壁を作り、闇へと逃れようとする。
だが、士郎が振るった光の剣は、その呪われた壁をバターのようにたやすく切り裂き、抵抗も虚しく、死徒の胸の中心を正確に貫いた。
「ああ……あああああ! 我が、永劫の夜が……矮小なる人間の、太陽に、焼かれる……!」
断末魔と共に、死徒の身体は内側から黄金の聖炎に包まれ、その穢れた存在は塵一つ残さず、完全に浄化され、消滅した。
船倉に、夜明けのような静寂が戻る。士郎の右手にあった光の剣は、陽炎のように揺らめいて消えていた。彼の身体は、新たな力に覚醒した代償として、激しい疲労と高熱に浮かされている。
壁の陰からおそるおそる顔を出した白野は、その場に膝をつく士郎の姿と、彼の周囲に漂う、夜明けの光にも似た温かい魔力の残滓に、ただ立ち尽くすしかなかった。
衛宮士郎は、この日、自らの魂に眠る「太陽」の片鱗に、初めて触れたのだった。