「あら、愛しの旦那様。……なんで、こんな所に来ちゃったの?」
氷のように冷たい白野の声。その瞳には、かつての光はなく、代わりに見知らぬ他者を見るような冷ややかな光が宿っている。士郎は胸の傷の痛みも忘れ、ただ呆然と彼女を見上げていた。
「……白野……?何を言って……」
「ああ、そうか。まだ、分からないのね」
白野はくすくすと楽しそうに笑うと、立ち上がった。そしてまるで舞台女優のように両手を広げ、語り始める。
「私はね、気づいたの。あの男の血をちびちびと吸って、かろうじて理性を保つなんて、なんて馬鹿げたことだったのかしらって」
「アルトルージュ様が教えてくださったわ。本当の『食事』の美味しさを。本当の『自由』を」
彼女がこの城に連れてこられた時。アルトルージュは彼女に人の肉を無理やり食べさせた。その、おぞましい行為は、白野のかろうじて残っていた人間の心を完全に粉砕した。そして彼女は、祖であるアルトルージュに絶対的に服従する忠実な下僕と成り果てていたのだ。
「だから、旦那様が助けに来てくれなくても、私はここで、アルトルージュ様と楽しく暮らしていくの」
「いろんな人間を喰らって……たくさん栄養をつけて……そして、この子が生まれたら、アルトルージュ様に美味しく食べてもらうのよ!」
白野は自らのお腹を愛おしそうに撫でながら、嬉々として語った。その言葉は鋭い刃となって、士郎の心をズタズタに引き裂いていく。
その時、観客席からぱちぱちと拍手の音が聞こえた。見ると、そこにはアルトルージュが心底楽しそうな愉悦の表情を浮かべて座っていた。
「素晴らしいわ、白野。最高の舞台よ」
その声に、白野はぱっと顔を輝かせた。
「アルトルージュ様!」
彼女は満面の笑みでアルトルージュに手を振る。アルトルージュもまた優雅に手を振り返した。
その光景は、まるで仲睦まじい本当の親子のようだった。
「……あ……あぁ……」
士郎の心は折れかけていた。助けに来たはずだった。愛する人を、未来を守るために、ここまで来たはずだった。なのに、その愛する人自身が、その未来を否定している。もう戦う意味なんてないじゃないか。
だが。
(……まだだ)
心の奥底で、小さな炎が揺らめいた。白野がどうであれ。まだ生まれてきていない我が子がいる。その子だけは、絶対に喰わせてはならない。
それはもはや理想でも正義でもない。ただ一つの父親としての執念。
「……う……おおおおおおおおっ!」
士郎はその執念だけを頼りに、血を流しながら再び立ち上がった。「黎明」を杖代わりに、その切っ先を白野へと向ける。
その痛々しい姿を見て、白野は心底不思議そうに首を傾げた。
「あら? もう、そんなに頑張らなくていいのに」
「だって、あなたはもう要らないもの」
その言葉は、とどめの一撃となるはずだった。
だが。
「……うるさい」
士郎の心はまだ砕けない。彼の瞳には、怒りでも悲しみでもない、ただひたすらに純粋な執念の光が燃え盛っていた。
たとえ世界中の全てを敵に回しても。たとえ愛する人に裏切られても。守るべき最後の一つのために。
衛宮士郎は、まだ立てる。