「……う……おおおおおおおおっ!」
執念だけを頼りに士郎は再び立ち上がった。その血塗れで満身創痍の痛々しい姿を見て、白野は心底おかしそうにくすくすと笑う。
「あらあら、まだ立ち上がる元気があるのね、旦那様」
「そんなに、この子に会いたいの?」
彼女は自らのお腹を愛おしそうに撫でながら、嗜虐的な視線を士郎へと向ける。
白野が完全に人の心を失ったのはアルトルージュのある囁きがきっかけだった。人の肉を無理やり食べさせられ、心が壊れかけた彼女の耳元で、アルトルージュは甘く、残酷に囁いたのだ。
『――ねえ、可哀想に。あなたの旦那様は、本当はあなたなんか愛していないんじゃないかしら?』
『あの人の心には、いつだって、あの金髪の騎士王様(セイバー)がいるのだから。あなたは、ただの代用品なのよ』
その毒の言葉は白野の砕け散った心の隙間に深く深く染み込んでいった。そして今、彼女はその毒をそのまま士郎へと突きつける。
「……でも、無駄よ。だって、あなたは、私のことなんか、本当は愛していないもの」
「あなたの心の中にいるのはいつだってあの金髪の騎士の王様だけ。私はただの代用品。そうでしょ?」
その言葉は士郎の心の最も柔い部分を抉る毒の刃だった。確かに彼女の魂の形はかつてのセイバーに似ていた。それがきっかけだったことは否定できない。だが今は違う。
「――そんなことはないッ!!」
士郎は魂からの声で全力で否定した。
「俺が愛しているのはお前だ、白野! お前と、これから生まれてくる、俺たちの子だ!」
その悲痛なまでの叫びを聞いた瞬間、白野の嘲笑うかのような表情が一変した。怒りと憎悪とそして僅かな悲しみが入り混じった凄まじい形相へと。
「――嘘つきッ!!」
彼女は絶叫と共に士郎へと襲いかかった。その指先から伸びた鋭い爪が嵐のように振り下ろされる。
「ぐっ……!」
士郎は咄嗟に「黎明」でその攻撃を受け止める。だが反撃はできない。白野を傷つけることができないのだ。彼女と過ごした穏やかな日々の記憶。彼女の笑顔。彼女の涙。その全てが彼の腕を鉛のように重くし、攻撃へと転じることを許さない。
しかし白野の攻撃は止まらない。彼女はまるで八つ裂きにするかのように容赦のない攻撃を士郎に浴びせ続ける。士郎は防戦一方で、その身体に新たな傷が次々と刻まれていった。
観客席ではアルトルージュがその悲劇的な円舞曲(ワルツ)をオペラでも鑑賞するかのようにうっとりと見つめている。
(……もう、もたない……!)
士郎の意識が朦朧とし始める。このままでは殺される。そして我が子も喰われる。それだけは絶対に避けなければならない。
もはや残された手は一つしかなかった。ヒノカミ神楽の奥義、残火の太刀。その四つある型の一つ。相手を殺さず無力化させる唯一の希望。
(……耐えてくれよ、白野……!)
士郎は最後の力を振り絞り、白野の猛攻を弾き返すと距離を取った。そしてその指で印を結ぶ。それは地獄に落ちた者すら救うという慈悲の菩薩の掌印。
地蔵菩薩印。
「領域展開――」
士郎のその言葉と共に世界が塗り替えられていく。悪趣味な劇場は消え、代わりにどこまでも続く黄金色の光の平原が広がった。
「――『天照開闢(てんしょうかいびゃく)』」
衛宮士郎の最後の賭けが今始まった。