ヨーロッパの港町での生活は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
士郎が借りたアパートは、屋根裏にある小さな一室だった。窓からは隣の建物の壁しか見えず、時折、船の汽笛とカモメの鳴き声が聞こえてくる。それでも、二人にとっては紛れもない「自分たちの家」だった。
士郎の日課は決まっていた。
早朝、誰よりも早く起き、廃工場で「ヒノカミ神楽」の鍛錬をする。朝日が昇る頃、アパートに戻り、簡単な朝食の支度をする。白野が目を覚ますと、テーブルにはいつも、湯気の立つパンと温かいスープが並んでいた。
「おはよう、シロウ」
「ああ、おはよう。顔を洗ってきたらどうだ。スープが冷める」
ぶっきらぼうな会話。しかし、その声色には確かな優しさが滲んでいる。白野は、この何気ない朝のやり取りが、たまらなく好きだった。記憶を失い、一人で彷徨っていた時には、決して得られなかった温もりだった。
朝食を終えると、士郎は港へ仕事に行く。白野は、その間に部屋の掃除や洗濯をした。最初は何もできなかった彼女も、士郎に教わりながら、少しずつ「生活」というものを覚えていった。午後は、市場へ買い物に行くのが彼女の楽しみになった。言葉はまだ拙いが、身振り手振りで店主とやり取りし、夕食の材料を買い揃える。
「今日は、お魚が安かったよ」
「そうか。なら今夜はムニエルにでもするか」
夕方、仕事から帰ってきた士郎が、白野が買ってきた食材を見てメニューを決める。キッチンに立つのは、いつも士郎の役目だった。白野は、その隣で野菜を洗ったり、皿を並べたりして手伝う。
ジュウ、とバターの溶ける音。香ばしい匂い。
白野は、調理をする士郎の背中を眺めるのが好きだった。戦場で舞う、あの神々しいまでの背中とは違う。少し猫背で、けれどとても頼もしい、日常の中の背中。記憶の中の「あの人」も、こんな風にキッチンに立ったことがあっただろうか。そんなことを考えると、胸が少しだけ痛んだ。
「できたぞ」
テーブルに並ぶのは、魚のムニエル、彩りの良いサラダ、そして温かいパン。決して豪華ではないが、心のこもった夕食だった。
「「いただきます」」
小さな声が、重なる。
二人だけの食卓。それは、この世界のどこにでもある、ありふれた光景。しかし、二人にとっては、戦いと旅路の果てにようやく手に入れた、かけがえのない宝物だった。
「……おいしい」
白野が呟くと、士郎は少しだけ口元を緩ませる。
「そうか。よかった」
その笑顔を見るたびに、白野は思う。
この時間が、ずっと続けばいいのに、と。
探し人なんて、見つからなくてもいい。このまま、シロウと一緒に、ここで暮らしていけたら。
そんな甘い願いが、心をよぎる。
しかし、彼女は知っている。
士郎が夜ごと、廃工場で血の滲むような鍛錬を続けていることを。彼が時折、窓の外の星空を見上げ、遠いどこかにいる「誰か」に想いを馳せていることを。
そして、自分自身もまた、赤い外套の背中を忘れることができないでいることを。
この穏やかな日常は、二人がそれぞれの「探し人」を見つけるまでの、仮初めの宿でしかない。
その切ない事実が、食卓を照らす裸電球の灯りを、ほんの少しだけ揺らめかせているように、白野には感じられた。
食事が終わると、士郎は「黎明」の手入れを始める。白野は、その隣で、古い魔術書を広げる士郎のために、ランプの灯りをそっと近づける。
言葉は少ない。けれど、確かな信頼が、二人の間に満ちていた。
「シロウ」
「ん?」
「……ううん、なんでもない。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
いつか終わるかもしれない、だからこそ愛おしい。
そんなささやかな幸せを噛みしめながら、港町の夜は、静かに更けていくのだった。