都市の心臓部を文字通り一撃で壊滅させた、オリンポス最高神の恐るべき神器。
それは現代の電子工学や防衛技術が想定する『電磁パルス』などという科学の範疇に収まる代物ではなかった。
超常災害対策機動部が警戒すべき神罰そのものとも形容すべき未知なるEMP攻撃は、首都圏を蜘蛛の巣のように覆っていた超高圧送電線から、地下まで伸ばしていた微細な光ファイバーに至るまで、その全ての導体に過電流を強制的に注入し、瞬時に融解、破裂させたのである。
人々で賑わう都市の機能は全て無に帰して。
かつての活気に溢れた街並みは、今やどこまでも冷たく染まった墓標の如き冷酷さで沈黙していた。
♡♥♡♥♡
その沈黙の只中で、とある病院の一室。
ソロライブ会場を襲った未曾有の惨劇から数時間。
防人たる風鳴翼は神聖なステージから引き摺り下ろされ、病床へと強引に寝かされていた。
非常用の電力が放つ燐光だけが弱々しく反射する陰惨な空間。
空気中に漂うのは消毒液の異様な臭気と、未だ彼女の肉体から発せられる硝煙のような煙臭さであった。
翼の命は応急処置の包帯によって辛うじて繋ぎ止められていた。
切り裂かれた皮膚、内出血によって青紫に変色した脇腹。
物体に電気を通すと生み出される『ジュール熱』という膨大な熱量はシンフォギアの防御フィールドをも突破し、彼女の解剖学的な肉体の限界を超えて軽度の火傷を刻み付けていた。長時間ゲーム機を起動していると本体が熱を持つように、彼女の疑似神経系は未だに高圧電流の残響によってジリジリと灼かれ続けている。
しかし。
肉体を苛む物理的な疼痛など、彼女の精神、その心の奥でずっと痛め続けている屈辱に比べれば真冬の微風にも劣る。
彼女にとってステージは単なる表現の場ではない。
人々の命を守り、自らの歌で平和を届けるための『戦場』そのものであった。
それをパヴァリア光明結社の残党という歴史の闇に葬られたような敗北者が遺した歪んだ執念によって、完璧に蹂躙された。
その手に持つ生半可な刀、聖遺物の欠片如きでは、完全聖遺物の力を宿す相手には何一つ届かなかったという儼然たる事実の差。
その惨めな敗北感が、彼女の刃の如き矜持を内側から爆砕せんと圧しかかり、彼女の精神の支柱を確実に失わせつつあった。
「·······もう動けます。何の支障もありません·······だから離してください緒川さんッ!!」
「ダメですよ翼さん!?」
常軌を逸した焦燥。
それは自らの無力さから目を背けるための防御本能でもあった。
だが。
点滴の針を引き抜き、焦りで震える指先が包帯の結び目を千切り捨てようとしたその時。
その華奢ながらも世界の重みを知る両肩を、もう一人の歌姫であるマリア・カデンツァヴナ・イヴが強い力で、ベッドへと押し戻した。
「落ち着きなさい翼。気持ちは痛いほど分かるけど、その状態で動こうとすれば更に悪化するだけ。今は休みなさい」
「ッ!!」
翼はその言葉にマリアを強く睨みつけた。
その目はまるで長年の仇である相手と向かい合ったかのような鋭さがあった。
「落ち着けるものか!! あの場で何も出来ずにただ倒れ伏していたなんて·······ッ!! そんなの剣としての私の心が───ッ!!」
パチン!! と。
そんな翼の止まらない叫びを、強引な平手打ちが遮った。
「············ッ!!」
翼の頬を打ったマリアの指先からもまた、悔恨の震えが伝わってくる。
かつては世界を敵に回してまで、だが心を入れ替え彼女達と手を取り合うことを選んで戦ってきたマリアですら、今回は技を絞られ思うような戦いが出来なかった。
その不満と悔しさを押し殺し、ここで翼を暴走させれば二度と取り返しのつかない破滅へと至ることを、彼女の修羅場を潜り抜けてきた経験から来る直感が告げていた。
「いい加減にしなさい翼!! そんな無様な格好で、一体何を守れるというの!? 今の貴女は剣ではなく、ただの刃毀れした鈍らよ!!そんな状態で戦場に赴けば、貴女はまた惨めに敗北して、そして今度こそ歌を歌えなくなるわ!!」
「············ッ!?」
マリアの叱責は翼の精神に鋭く貫通していく。
翼の脳裏に焼き付いているのは、あの巨大な雷のレーザーの中心で自らを顧みずに敵の攻撃を食い止める壁となり、そして『謎の少年』と共に消えた、あの少女の背中だ。
それはかつて自らの半身であり、片翼でもあった天羽奏が、命を燃やし尽くして絶唱のトリガーを引いた、あの日の悪夢の完璧なトラウマでもあった。
「だが、立花が······あの真っ直ぐな歌で私達を支えてくれた立花が今行方不明なのだぞ!? 仲間の安否すら確認できない窮地において、どうして泰然自若としていられようかッ!!」
「············翼さん」
吼えるような翼の悲痛な叫び。
失うことへの恐怖が、彼女の理性を塗りつぶしていく。
そんな彼女を一番近くで見て、相棒を失った悲しみを知る風鳴翼の理解者の一人でもある緒川慎次は、マネージャーモードからエージェントモードへと切り替え、あの規格外の男をまるで化物を見るような目で、拳銃を連射することしかできなかった己の無力さを噛み締めるように深く俯いていた。
金属製の銃弾など、完全聖遺物の力を有した電磁バリアの前には呆気なく弾かれ、挙句の果てにはオートスコアラーの如き磁力反発による超高速のレールガンとして撃ち返され、大切な彼女の身体を傷つける結果となってしまった。
政府や国連の枠を超えた彼の属する組織の情報網を以てしても、今回の『世界の理そのものが書き換えられたような消失現象』の前には、立花響の追跡の手がかりすら掴めない。
彼女には何とか安心して休んでいてもらいたいが、まさに神隠しにあって行方を眩ませた立花響のことを何の確証もなく無事であると伝えても逆効果であることは分かっている。
だとしても。
「翼さん、こればっかりはマリアさんの言う通りです。現在、響さんのことはS.O.N.G.が責任を持って追跡しております。どうか今は身体を休め、翼さんのその刃を研ぎ澄ますことに専念してください···········」
そう言うしかなかった。
緒川だって悔しい。あの場にいたのに足手纏いにしかならなかったのだから。
でも、だからこそ。
その悔しさを力へと変え、ボロボロになった精神を極限まで磨き上げて再戦に臨む。それこそが何よりの償いであり、そして報復である。
「···········っ」
翼は渋々といった感じで頷いた。
そして窓の外へと眼を向ける。
彼女らの眼下に広がる街並みは、無様な敗北を証明するように完全に機能を喪失していた。
近代的な信号機は冷たく消灯し、行き場を失った車両が路頭に溢れ、静まり返った街並みはさながら巨大なゴーストタウンであった。
電磁波の余波は私立リディアン音楽院の周辺をも例外なく襲い、全ての交通インフラ、通信インフラも完全に麻痺していた
未曾有の超常災害を前に、学校側は『臨時休校』の措置を下さざるを得なかった。
♡♥♡♥♡
パラパラ。
幸いにも、傘を叩く雨音が今日は弱かった。
天を衝くほどの高層ビルの群列も、網の目のように張り巡らされた首都圏の交通網も、その全てが氷河期の如く機能を凍結させられていた。
信号機の消灯した交差点には不意の制御不全によって立ち往生した車両が幾重にも重なり、静まり返ったアスファルトの隙間を行き場を失った排気熱の残り香が、風に乗って人々の肌を虚しく撫でていく。
世界が急速に冷え切っていくような錯覚を覚えるほどの、異様な静寂。
その市街地の片隅、本来であれば多大なる喧騒に包まれているはずの通学路に、月読調と暁切歌の二人は立ち尽くしていた。
身に纏うのは、私立リディアン音楽院の制服。
その有り触れた日常の服装が今の彼女達にとってはあまりにも場違いで、世界の崩壊から身を隠すにはあまりにも脆い、仮初めの命綱のように感じられてならない。
雷光の余波によって周辺には避難勧告が出され、今はみんな安全な場所へと移動しているため、静寂の中に残されたのは彼女達しかいなかった。
普段であれば、切歌の他愛のない冗談に調が微かな苦笑を返し、その後ろから大好きな先輩である立花響が『おはよー!』と割って入る。そんな日常がこの先失われないと信じて疑わなかった光景が、一瞬にして消滅した。
その現実を突きつけられた少女達は、息の詰まった閉塞感に支配されていた。
「街全体が死に絶えたみたいデス·······携帯の電波も全然繋がらないなんて··············」
「うん··············」
切歌の唇から漏れ出た声には、いつもの快活な、そして立花響にも負けず劣らずの周囲の空気を強引にでも明るく染め上げるような色は微塵もなかった。
彼女が握り締めるスマートフォンの液晶画面は、相変わらず『圏外』の二文字を冷酷に点滅させたのち、静かに暗黒へと沈んだ。
それは単なる通信障害を告げる警告などではなく、自分達が傷ついた仲間達や本部が有する情報網から完全に切り離されていることを告げる残酷さでもあった。
本部自体は健在であるはずなのに、街全体が機能を失って情報が届かなければ、自分達の力だけではどうすることもできない。
切歌の大きな瞳には、言葉にできない焦燥と、自らの無力さに対する憤怒が灯火のように燻っている。
戦女神ザババが振るう双剣の片割れ、魂の象徴たる『イガリマ』のギアを魂の奥に宿していながら、電流を帯びて触れた瞬間に感電するアルカ・ノイズの包囲網の前には、接近戦特化の大鎌を振るうべき標的すら見出せず、遠距離射撃技の少なさにやりにくさを痛感させられた。
そのジレンマが、彼女の華奢な身体を内側から蝕んでいた。
そんな切歌の今にも崩れ落ちそうな横顔を、調は痛切なまでの眼差しで見つめていた。
調は自身の小さな両手で、自らの肩を固く抱きしめる。制服の薄い生地越しに伝わる己の体温は、この変わり果てた世界の静寂に抗うにはあまりにも微弱で頼りない。
しかし、彼女は知っている。
ここで自分が不安に呑み込まれれば、切歌の歌の紡ぎ手が完全に途切れてしまうということを。
二人は互いを相棒と認め、そして半身として戦場を生き抜いてきた。
切歌の絶望は調の絶望であり、切歌の恐怖は調の恐怖そのものであった。
「学校が休みになっても全然嬉しくない···········響さん、今どこにいるんだろう?」
調はいなくなった少女のことを思って空を見上げる。
依然として、雨雲は晴れない。
調の言葉は切歌を、そして何よりも自分自身の心をこの世に繋ぎ止めるための祈りにも似ていた。
何度も何度も頭に過ぎるのは、あの容赦のない襲撃が起きたライブ会場での光景だ。
突如として現れた、訳のわからない“天使の少年”。
彼が口にした言葉によれば、敵は最高神の雷霆を操り、次元そのものを引き裂くような威力を誇っていたという。
それに勇敢に立ち向かい、文字通り自らを盾として、何の躊躇いもなく少年にしがみついていった立花響の背中。
あの時の光景は、ただどこかにワープしたと言うにはあまりにも異質だった。
確証など何もない、ただの第六感。それでも、あの瞬間の響は唐突に、まるで『この世から完全に消滅した』かのような、そんな言い知れぬ恐ろしさを肌で味わったのだ。
あれは神隠しか、あるいは生者を強引に神聖な領域へと引き摺り込む異界の門が開いた瞬間だったのではないか。あの少年がどこか神々しい天使の格好をしていたからこそ、余計に彼女が本当に『天国』へと連れて行かれてしまったかのように思えてならなかった。
そして切歌は、そんな調の絞り出すような言葉を聞き、現実逃避を許さない装者としての重みに耐えようとするように、深く俯いた。
足元にできた水溜まりには、暗い空を背景に落ちてくる雨によって波紋が連続で広がり、自分達の顔が歪んで映り込んでいる。
きっと酷い顔をしているはずだ。
それを見ないように目を背ける自らの姿は、『現実から逃げない』という装者としての意志と矛盾しているようで、余計に胸が苦しくなる。
いつもならどんなに過酷な運命を突きつけられても、デスという独特な語尾と共に前を向けたはずだった。
しかし、今回の敵────“パヴァリア光明結社の残党”と『最高神の神器』が齎した融合体は。
彼女達がこれまで積み上げてきた戦闘技術を想像以上に上回っていた。
「分かっているんデス·········響さんがあんな所で終わるような人じゃないってことくらい百も承知デス·········でもッ!!」
切歌の指先に異様な力が加わり、傘の持ち手を握り潰すほどに震えていた。
彼女の瞳には、全身を包帯で埋め尽くされながらなお戦場へ戻ろうとしていた翼の狂気的な眼光と、異常現象に遭って倒れたエルフナインの姿が未だに生々しい残像として焼き付いている。
守るべき日常の象徴であったリディアン音楽院が一時的に閉鎖された今、彼女達をこの世界に繋ぎ止めるものは。
ただ互いの存在と、胸の奥で燻る焦燥感だけだった。
「私達、また何もできなかった。あの時も今も、敵の目の前でどうすることもできず、そして響さんが消えていくのをただ見てることしか········神様だか何だか知らないデスけど、私達の日常をこれ以上奪っていくなら········ッ!!」
「切ちゃん」
激情に駆られ今にも絶唱のトリガーを引きかねないほどに昂ぶる切歌の身体を、調は無言で、しかし断固たる力で強く抱きしめた。
調の細い腕が切歌の背中に回される。
その瞬間、切歌の硬直していた身体から、張り詰めた糸が切れたように力が抜けた。
二人の境界線が曖昧になるほどの密着の中で、調は切歌の耳元で静かに、そして温かくも固い決意を秘めた声を紡ぐ。
「大丈夫だよ切ちゃん。私達はまだ何も失ってない。翼さんもマリアも、クリス先輩も、未来さんも········みんなまだ戦う意思を失ってない。だから私達が暴走して、その歌を汚しちゃダメ。響さんが戻ってきた時、『おかえり』 って笑顔で手を握り返せるように········今は耐えなきゃダメだよ」
「調················」
その声はとても優しく、暴走しかけた切歌を一発で大人しくさせるような包容力を秘めていた。
だがその実。
調の胸もまた、底知れぬ恐怖に蝕まれていた。
だからこそ、半身たる切歌を支えるため、そして消えた響の信頼に応えるため、彼女は敢えて『帰るべき場所を守る守護者』として、その場に立ち続けることを選んだ。
人工的な光を悉く奪われた都市の闇の中で。
二人の少女は、ただ互いの熱だけを頼りに。
世界をもう一度取り戻そうと決意した。
♡♥♡♥♡
S.O.N.G.の潜水艦。
普段であれば深海に潜航し、隠密裏に事態を監視しているその鋼鉄の潜水艦は、今漆黒の闇に包まれた都市の港湾に潜むようにして停泊していた。
地上を蹂躙した完全聖遺物の圧倒的なエネルギー波は海洋の表層にまで干渉し、本部の主要な機関や索敵センサーに過大な負荷を与え続けている。直接的な破壊を免れたとはいえ、都市の壊滅に伴う二次被害は、要塞そのものである潜水艦をも確実に機能不全へと追い込んでいた。
この状態で下手に推進機関を動かせば、システム全体の致命的なメルトダウンを招きかねない。やむなく波間に巨体を浮上させ、外部の物理的な電磁干渉が収まるのを待つ、あるいは麻痺した通信網を強引にバイパスするハッキング信号が辛うじて開通するのを待つという、実質的な孤立状態を強いられていた。
防壁を叩く冷たい潮騒の音が、要塞全体を支配する逼迫した空気感をより一層引き立てている。
その停泊する要塞の最深部に位置する医務室。
独自の機密プロトコルによって完璧に防護され、外部からの強烈な電磁パルスを辛うじて免れたその一室には、微かな電子医療機器のビープ音だけが響いている。命の波動を測るその音だけが、不気味なほど規則正しく静寂を刻んでいた。
純白のシーツが敷かれたベッドの上で、エルフナインは未だ青白い額に玉のような汗を浮かべ、苦悶の呻きを漏らしていた。
彼女が試みたのは、かつて世界を破滅の道へと追い詰めたウェル博士の遺産───『ダイレクトフィードバックシステム』のチートコードを用いた、未知なるエネルギーの逆相関解析であった。
電気信号化した自らの意識を他者の脳内に割り込ませる機器『電界顕微観測鏡Beatrice』を極限まで改造し、現場にいた観客の記憶から襲撃者のエネルギー残滓を逆引きする。その技術があれば、敵の正体を暴けると確信していたのだ。
しかし。
最高神の神器が齎す破壊力は、人間や錬金術師が構築した二進法の論理や計算式の限界を、嘲笑うかのように超越していた。
解析を開始した直後、目の前を埋め尽くした青白い閃光の嵐。
錬金術の防壁はガラス細工の如く粉砕され、膨大な神威のエネルギーがエルフナインの疑似神経系へと直接逆流した。
脳組織を焼き尽くさんばかりの猛烈な電流が、彼女の小さな頭脳を容赦なく駆け抜けたのである。
「す、すみません············ボクの浅はかな行いのせいで、皆さんに心配をかけてしまって。“キャロル”から受け継いだこの身体でなければ、きっと今頃ボクは···········ツっ!!」
激しい頭痛に言葉を遮られ、エルフナインは再びベッドに沈み込む。
彼女が今この時も息を引き取らずにいるのは、その肉体がかつて自らの記憶を燃料として世界そのものを書き換えようとした錬金術師────“キャロル”が残した強靭な肉体があったからこそに他ならない。
彼女の肉体は、自らの脳内にある『想い出』という電気信号を戦闘エネルギーへと変換・錬成して戦うことができる。だからこそ、超高負荷に耐えうるよう設計された強靭な疑似神経系は、神の雷の直撃を受けてもなお、その構造を物理的に維持し得たのだ。
とはいえ、破壊を免れたのは飽くまで肉体の枠組みだけだ。
倒れた直後に友里が医療ドラマの真似をして脈を測り、辛うじて生存が確認されたものの、未だに脳髄の奥底を極太の針で穿たれるような激痛が彼女を苛み続けている。目を開けても、世界は二重三重にブレたままであった。
己の無力さと、人智を超えた未知の脅威に対する恐怖が、彼女の小さな身体をベッドの上でさらに萎縮させていた。
「·······」
そのベッドの傍らで、小日向未来はまるで影そのもののように立ち尽くしていた。
窓のない医務室の無機質な壁を見つめる彼女の瞳には、かつてない暗闇が宿っている。
響が戦いに身を投じるたび、彼女は常にその帰りを待つ『陽だまり』であり続けようとした。どんなに傷つきボロボロになっても、最後には自分の元へ戻ってきてくれる。その確信だけが、彼女がこの世界を生きる意味であった。
しかし、今回の胸騒ぎは過去のどの戦いとも本質的に異なっていた。
いつもなら言葉を超えた魂の繋がり、その片割れの存在を肯定する第六感が、今は不気味なほどに完全な『無』を示しているのだ。
それは空間の壁を越えた地平の果てや、生死の境という領域すらも超えていた。
まるで───
妖精の存在を信じなくなったら世界のどこかで妖精が死んでしまうように、世界そのものから彼女の存在確率が消え去ったような喪失感が、未来の精神の拠り所をじわじわと侵食していた。
「おいおい、これ以上自分を責めんじゃねぇよ。お前が生きていただけでも十二分な収穫なんだしな」
雪音クリスは医務室の冷たい壁に背を預けたまま、腕を組んでそう言った。
彼女とて、後輩たちの賑やかで退屈しない日常から急転直下で引き起こされた立花響の消失には、内臓を掴まれるような寒気を覚えている。
港に停泊し身動きの取れない要塞の現状も、彼女の焦燥感に拍車をかけていた。
だが。
ここで自分まで動揺の色を見せれば、この部屋で最も彼女を心配している未来の精神が完全に崩壊してしまうことを、クリスの過酷な過去の経験が察知していた。
故に、あえていつも通りの乱暴な口調を演じ、部屋を満たす絶望の濃度を希釈しようと試みているのだ。
「なぁ、お前もそんなこの世の終わりみたいなツラすんな。あの馬鹿の生命力を舐めるなよ。どうせ今頃はどこぞの路地裏で 『お腹が空いて動けません~』なんて情けない声を上げてケロッと戻ってくるに決まってる」
「···········うん」
クリスの言葉は荒々しいが、確かな温情を含んでいた。
未来はその不器用な労いを受け止め、引き裂かれそうな胸の痛みを隠すように、形ばかりの空虚な微笑を浮かべてみせた。だが、その微笑みが、かえって彼女の痛々しさを際立たせる。
「そうだよね、クリス··········響のことだし、絶対に戻ってくるよね」
未来は細い声を絞り出し、ただ静かに俯いた。
彼女はそう言うが、本当は不安で仕方はなかった。
その目に宿る今にも消え入りそうな光、それは誰にも、クリスにさえも見せたくはなかった。
だが未来の胸を焦がす最悪の予感は、ある意味で的中していた。
立花響の存在は、今やこの三次元的な世界のどこにも観測されず。
遥かなる天の彼方───“神話”という名の別次元へと、その身を連れ去られていたのだから。
♡♥♡♥♡
「う、 うわあああああああああッ!? な、なにここ!? 天国!? 私、ついに人生の終わりを迎えちゃったの!? お父さんお母さん、おばあちゃん!! これまで不忠不孝の数々、本当に申し訳ありませんでしたあぁぁぁぁアアアアアアッ!!!!!」
「いや違う違う違う!! 死んでないですから!! 落ち着いてッ!!!??」
立花響、絶叫。
地上界の冷たい空気とは全く異なる、神聖でどこか陽気な光に満ちた空間に彼女の悲鳴が派手に木霊する。
立花響が五感で捉えたその世界は、圧倒的な『光』によって構成されていた。
自分が住んでいた都市を包んでいたあの息苦しさも、近代社会の排気ガスも存在しない、見渡す限りの純白にして底の見えぬ雲海。
その果てしない雲の海の上に整然と聳え立っているのは、パルテノン神殿を遥かに凌駕する規模を持つ大理石と純金で彩られた古代ギリシャ様式の神殿群であった。
それらは一つの巨大な大地にあるのではない。
現世の重力法則すら歪められているのか、幾重もの神殿や闘技場を模した遺跡が大小様々な『空中島』として雲海の上にぷかぷかと浮遊しているのだ。
島々の間にはどこから湧き出ているのか、天空を割って雲海の深淵へと流れ落ちる巨大な水のカーテン、壮麗な滝が幾条もの虹を架けながら眩しく輝いている。
そして神殿群の最奥、最も高い場所に位置する聖域には、大いなる純白の双翼を広げた、慈愛に満ちた巨大な女神の彫像が世界を統べるように君臨していた。
柱の一本一本に刻まれた微細な文様からは、それ自体が固有の波長を持つ魔力、いや神威が波動として放射されており、人間の常識の限界を超えるほどの色相が世界を支配している。
現代的なスニーカーであてもなく足を踏み出すたび、身体が温かい光に包まれて浮かび上がるような錯覚さえ覚える。
空気を肺に吸い込むたび、全身の細胞が内側から清められていくような、非現実的な充足感が現世の肉体を揺るがせていた。
そんな神々しい世界の中で響の前を先に歩いていたのは、一人の少年であった。
額には知性を宿す月桂樹の冠を戴き、身に纏うのは古代ギリシャの男女が好んで着ていた白いキトンを思わせる汚れなき純白の衣。
そして何より。
彼の背中には生物学的な鳥類のそれとは根本的に異なる『純白の翼』が、不変の調和を保って生えていた。
光の粒子が寄り集まって形成されたかのような、芸術的な美しさを湛えたその翼。それは現世の歴史や絵画、あるいは幼い頃に読み聞かされた神話の頁の中にしか存在し得ない、本物の『天使』の姿そのものであった。
ガングニールの適合者として、先史文明のアヌンナキや聖遺物という数々の超常現象を目の当たりにしてきた響をして、目の前の光景は自らの死と、それに伴う『天国への召天』を確信させるに充分過ぎるほどの神秘に満ち満ちていた。
人間としての生の境界線を越え、神罰の雷に焼かれて霊魂だけが救われたのだと、そう思うのも無理はなかった。
だが、その焦りっぷり。
その姿を見るとピットまで釣られて焦ってしまい、そして疲弊したように深いため息をすると、
「さっきも言ったけど、君はボクに掴まってきたせいで一緒に転送されて────!!」
パニックを起こしている響へ改めて言い聞かせようとする少年の声。
その響きは不思議と温かく、そして響の耳には、かつて自らの命を救い、託された想いを胸に魂の先駆者となったあの“天羽奏”の声質と奇妙なほどに酷似して聞こえた。
その事実が、死の恐怖に震えていた響の胸の奥底に、形容し難い親近感と微かな安堵の光を灯す。
しかし、同時に我に返った響の脳裏に、怒濤の勢いで疑問が噴出してきた。
ここはどこなのか。自分は何故生きているのか。
そして、目の前にいるこの不思議な少年は──────
「───ハッ!!」
というかそもそも!!
早めに宿題を終わらせておかないから今日みたいに読めもしないような文字の『ギリシャ歴史プリント』を読まされる補習の刑に処されるわけだが。
そんなギリシャそのものの神殿にいるのは一体どういうわけだ!?
「ってそうだ! あなたは一体誰なの!?」
「ふがっ!?」
話全然聞いてなかったことにピットはショックのあまりそんな声を漏らした。
響は勢いよく身を乗り出し、自らの口元が少年の唇に触れそうなほどの近さで問い詰めた。
突然の形振り構わぬ詰め寄りに少年は元気いっぱいに跳ねたアホ毛を激しく揺らし、両手を振って狼狽しながら。
やれやれと。
そんな風に落ち着いて自らの胸にそっと手を当て、背中の翼を誇らしげに震わせた。
「じゃあもう一回説明するから、今度はよく聞いてくださいね? ボクは、光の女神“パルテナ”様に仕える、親衛隊長のピット。ここは“天界エンジェランド”。地上の人間が簡単に来られるような場所じゃないんだけど·········さっきのワープの光に君が飛び込んできちゃったみたいで」
「天界、エンジェランド·········ピット、君·········?」
「いや、君って·········」
親しみを込めて『君』と呼ぶ少女の隣でピットは年の離れた姉に翻弄される弟のように眉を顰めた。
見た目こそ響より年下に見える少年だが、これでも彼女より遥かに年上であり、何世代にも渡って天界を生き抜いてきた歴とした戦士なのだ。
そんな少年の真摯な自己紹介をよそに、響はほえーと間抜けな声を漏らしながら、改めて周囲を見渡した。
彼女はピットに促されるまま、二人揃って神殿へと続く広大な大理石の回廊を歩み始める。
その歩行の感覚すら、現実の物理法則を完全に凌駕していた。
床を構成する乳白色の石材には周囲を埋め尽くす雲海の照り返しや、神聖な光の粒子がまるで万華鏡のようにリアルタイムで投影され、流動している。一歩を踏み出すたびに足元から柔らかな光の波紋が広がり、煤に汚れた響の衣服すらその神秘の波によって清浄な輝きを取り戻していくかのようだった。
遥か天空を見上げれば、そこにはただの太陽ではなく、現実の概念には存在しない多面体の巨大な光の結晶が世界の光源として慈愛の光を放射している。
雲海からは時折神聖な聖水で洗われた水流が滝となって虚空へと流れ落ち、その飛沫が虹の架け橋となって天空の神殿群を繋いでいた。
「すごい·········じゃあ本当に、神様の世界なんだ·········!!」
天界と言うから半分冗談だと思っていたが、こんなに綺麗で、静かで、神聖さに満ち溢れた光景を見たら嫌でも納得してしまう。
そんな響の呟きは、回廊を流れる聖なる微風に溶けていく。
ピットは彼女の感動を誇らしげに受け止めながらも、その表情は、徐々に地上の異変を見据える戦士のそれへと戻りつつあった。
「はい、着きましたよ。この奥にボクにとって尊敬する御方、パルテナ様がいらっしゃいます」
「あ、うん!!」
ピットが立ち止まったのは、エンジェランドの中でも一際高く、天の結晶の直下に位置する最も神秘的な大神殿の御前であった。
その巨大な黄金の門が、音もなく厳かに左右へと開かれていく。
神殿の最奥から溢れ出すのは、これまでに見たどの光よりも深く、世界を統治し人間に幸福を注ぐ『奇跡』の加護そのものを具現化したかのような、絶対的な光の奔流。
─────その光の紗幕の向こう側。
人間が決して足を踏み入れることの許されぬ神域の間に、鮮やかな緑色の髪を膝裏まで蓄え、白を基調とした神衣と金色の美しい装飾に身を包んだ、まさに『光の女神』に相応しい存在が静かに立っていた。
「よくぞおいでくださいました。お待ちしておりましたよ。神殺しの神器───ガングニールの力を持つ、立花響さん」
神殿の奥から響いたのは、天界そのものを優しく震わせるような鈴のような声。
全身から放射する、本物の神のオーラ。
しかしその慈愛に満ちた言葉が鼓膜を震わせた瞬間、立花響はあたかも極低温の冷水を浴びせられたかのように硬直した。
「え········っ!? な、何で私の名前を!?」
「ふふ······っ」
驚愕のあまり、響の唇から掠れた声が漏れ出る。
ここは人間の常識が一切通用しない、次元の彼方の神話の世界。
初対面のはずの天上の女神が、何故自分の名を正確に呼んだのか。
そればかりか異端技術たる聖遺物の欠片───自分の身体と魂に融合し、託された想いを胸にこれまで数多の戦場を切り開いてきた『ガングニール』の存在を、何故最初から見透かしているのか。
そしてパルテナが口にした『神殺しの神器』という、不穏な響きを持つその単語。
シェム・ハという『身勝手な神』が地球と生命を改造し、その神が人間に宿るのを阻害するための統一言語の阻害、『バラルの呪詛』を先に浄罪された器。
そんな響自身ですら完全に把握しきれていない、自らの纏うギアの根源的な因果を射抜くような言葉であった。
己の名とその胸に宿る力の真実を突きつけられた歌姫は。
ただ呆然と、眩いほどの神聖さと威厳を放つ女神を見上げるしかなかった。
地上の運命の歯車を大きく歪める、神殺しの歌姫と天上の神々との邂逅。
その歴史的な一歩を、立花響は今、静かに踏み出そうとしていた。