ドブカス主人公がダウナー系お姉さんと付き合う話です。

ハッピーなのかバッドなのか良く分からないエンドです。

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※本作にはキャラクター表現の都合上、攻撃的及び差別的な表現が含まれております。こうした表現はあくまでも物語上のものであり、その使用を肯定するものではない事をご理解いただけますと幸いです。


プータローの俺が年下のダウナー系お姉さんと付き合った話

 

 

 小高い丘の上、隠れた絶景スポットとして知られているらしいこの場所からは、街の灯りが一望できた。

 

 暗闇を背景に、暖色の光を放つビル群が眩しく浮かび上がっている。その中でも、一際目を引くのは街のシンボルでもある超高層のタワー。世界有数の高さを誇るというその巨塔は、青や赤の光を散らしながら、夜空に突き刺さるようにそびえ立つ。

 遠くを走る幹線道路は、途切れることのない車のヘッドライトで白い帯を描き、川沿いにはオレンジ色の街灯が規則正しく並んでいた。

 

 夜空の星を地上に落とし込んだと言わんばかりの壮観な光景。

 大して外に出ず、狭い部屋の四角い画面ばかりを見てきた俺にとって、この瞬間はあまりに鮮烈だった。 グラフィックがどれだけ凝ったゲームでも味わえない、現実の光の奔流がそこにあった。

 

 冷たい風に頬を打たれ、遠くのざわめきが耳に届き、眼下で瞬く光が網膜に焼きつく――その全部が生きている実感を伴って迫ってくる。

 

「もう十一時だって言うのに。ブラック企業って、案外多いのね」

 

 感動に浸っていた俺を現実に引き戻す、抑揚のない声。

 夜の闇のように深い長髪をなびかせ、高柳さんは木製の柵にもたれかかる。

 街並みを見つめるくすんだ赤い瞳は、どこか虚ろで、冷たく白けていた。

 

「あはは......」

 

 返答の代わりに、ぎこちのない笑い声を漏らす。

 正直、俺は落胆していた。

 

 せっかく事前に場所を調べ、この通りの絶景を見せたというのに、高柳さんは喜ぶどころか、いつも以上に冷めた表情を浮かべている。 

 単純にショックだったというのもあるが、嘘でも構わないから一つくらい好意的な反応を見せてほしいという不快感の方が、心の中で大きく膨らんでいた。

 

 互いに口を開かないまま、気まずい沈黙の中で時間だけが過ぎていく。

 それから五分も経たない内に――

 

「帰りましょう。もう充分だわ」

 

 高柳さんは吐き捨てるようにそう言うと、柵から身を離した。俺を待つ気配もなく、さっさと来た道を引き返していく。

 

 残された俺の胸に、ただ一つの問いが渦を巻く。

 

 ——このままでいいのか?

 

 いいはずがない。

 今日一日、何一つとして思い通りにならなかった。

 高柳さんは、笑顔を見せるどころか、ずっと退屈そうな顔をしていた。

 

 やはり、最初からネットの記事なんかに惑わされず、自分の考えを貫くべきだった。

 そんな後悔が、今になって胸の奥からじわじわと込み上げてくる。

 とはいえ、他人の意見を参考にしたとはいえ、最終的に選択をしたのは紛れもなく俺だ。

 それに、この日のために必死で準備を重ねてきたという事実に、嘘はない。

 

 ——だからせめて、最後までやり切ろう。

 

「高柳さん!!」

 

 反射的に声が出ていた。

 背中がびくりと揺れ、彼女の足が止まる。

 

「......なに?」

 

 怪訝そうな声に、喉の奥が見えない手で握り潰されるように狭まった。

 それでも、ここで引くわけにはいかない。

 

「あの、その......渡したいものがあるんだ」

 

 

ーーー

 

 

「林太郎、ご飯できたわよ。早く降りてきなさい」

 

 下の階から母親が呼びかける。

 

「......ちッ」

 

 思わず舌打ちが出てしまう。

 どうして、親というのは全ての物事を自分のペースで進めたがるのだろう。

 人にはそれぞれの適正な速度やタイミングがあるということを、まるで理解していない。

 

「あっ」

 

 その瞬間、筋骨隆々のプロレスラーのラリアットを受け、赤いチャイナドレスに身を包んだ美少女の体が宙を舞った。

 画面には大きく『You lose』の文字が浮かび上がり、レートの数字が勢いよく減っていく。

 

「クソッ!!」

 

 反射的に机を叩きつける。力が入りすぎ、手にじんと痛みが走った。

 全部、あのクソババアのせいだ。

 アイツが変なタイミングで急かしてこなければ、この対戦にも勝てていたし、俺が痛い思いをすることもなかった。

 

 むしゃくしゃした気持ちをぶつけるように、電源コードを乱暴に引き抜く。

 しかし、画面が暗転してもまだ苛立ちは収まらない。

 

 ——牛丼でも食いに行くか。

 ストレスが溜まった時には、ジャンクなものを摂取するに限る。

 

***

 

 家から歩いて十分ほどの、行きつけの牛丼チェーン。

 行きつけとは言っても、特に味が抜群というわけでも、値段が安いというわけでもない。

 だが、家からそこそこ近く、注文や会計をすべて機械で済ませられるのが何かと便利だった。

 

 奥の方の二人席に腰を下ろす。

 周りにはほとんど客の姿はなく、厨房のざわめきだけが静かに響いていた。

 

 席に設置されているタッチパネルを操作して、”ねぎ玉牛丼”のメガ盛を注文する。

 この空き具合なら、五分もしないうちに注文の品が運ばれてくるだろう。 

 待ち時間を潰すため、スウェットのポケットからスマホを取り出して、画面をスクロールする。

 

 SNSのタイムラインを眺めていると、目に飛び込んできたのは、ブサイク陰キャの自撮り画像。

 画像に添えられた『初めて美容室で神切った。めちゃ良い感じ』という文章がなんとも笑いを誘う。

 叩いて下さいと言わんばかりの醜悪な髪型と顔、それを自撮りしてネットに上げる承認欲求、『神切った』などという使い古された表現を恥ずかしげもなく使うユーモアセンス。すべてがちょうどいい。

 

 『1000円カットを美容室とは言いませんよ』

 そう返信欄に打ち込んだ時、胸がすく思いがした。

 ”完全な下位互換”を見下している時間ほど、楽しいものはない。

 

 その時だった。

 目の前の通路を人が通ったような気配がした。

 顔を上げると、グレーのレディーススーツに身を包んだ、黒髪を一つに結んだ若い女がそこにいた。

 

 目鼻立ちは整っているものの、瞳に光はなく、生気が感じられない。その姿には、“会社疲れ”という言葉がよく似合った。

 にもかかわらず、スーツの胸元は今にもはち切れそうなほどに張っており、タイトスカートの下から覗くふくらはぎにも、程よく肉が付いている。 

 

 ——エロいな。

 俺は無意識の内に、その後ろ姿を目で追っていた。

 するとその女は、俺との間に一つ空席を挟んで、右隣のテーブルに腰を下ろした。

 

 こんなに席が空いているのに、女はわざわざ俺の近くを選んだ。

 ということはだ。

 少なくとも俺に対して嫌な印象は持っていないのだろう。

 もしかすると、多少なりとも好意的な印象を抱いているのかもしれない。

 

 そんな事を思いながら席に着いた女の方を眺めていると、タッチパネルに手を伸ばそうとしていた女が不意にこちらへと目線を向けてきた。

 

 切れ長で大きな目と視線が合う。

 その赤黒い瞳は、見る者を沼に引きずり込むかのような妖しさを感じさせた。

 

 そこで、はっとした。

 ジロジロと見ていたのがバレたのかもしれない。

 近くの席に座ったからと、つい調子に乗りすぎた。

 

 だが、ここで慌てて目を逸らせば、かえって不自然に見える。

 どうにもならなくなった俺は、観念してそのまま視線を合わせ続けた。

 

 女は表情ひとつ変えず、じっと俺を見つめ続けた。

 数秒間、視線だけが絡み合う沈黙が続く。

 やがて、女は何事もなかったかのように、目をタッチパネルへと戻した。

 

 その様子を見て、俺は確信した。

 

 この女は、俺に一目惚れしたのだ——と。

 

 たまたま目が合ったのであれば、すぐに逸らせばいい。

 それを、わざわざ何秒間も見つめてきたのだ。これを好意の表れと言わずしてなんと言おうか。

 

 自分で言うのもなんだが、俺はそこまで顔が悪いわけではない。

 今までモテたことはないが、それはメイクだの髪いじりだのといった女々しい真似をしなかったからだ。 

 素材だけでいえば、低く見積もっても上の下くらいはある。

 

 つまり、女に一目惚れされるくらいのことは、俺にとって別に不思議な話ではない。

 

 彼女候補として、改めて女の方を見てみる。

 ——悪くない。というよりか、むしろアリだ。

 

 まず、見た目はかなりいい線をいっている。

 特に黒髪なのと、細身のわりに出るところはちゃんと出ているのがいい。

 あえて欠点を挙げるなら、俺より背が高そうなところか。理想を言えば自分より小柄な方がいいが......まぁ、妥協できなくはない。

 

 それに、性格も今のところ見てとれる範囲では、決して悪くなさそうに見える。

 まず、大人しそうなところがいい。キャピキャピしたタイプは色んな意味で嫌いだ。

 それと、オタクっぽい雰囲気があるのも地味に高ポイントだ。ア○ドロイドのスマホを使っているあたりに、その気配を感じる。

 

 総合点でいえば、九十点くらい。

 正直、かなりの高評価だ。

 

「お待たせしましたー、ねぎ玉牛丼のメガ盛でーす」

 

 そんな事を考えていると、時代遅れのシイタケ型の刈り上げマッシュヘアーが、俺の机に牛丼を置いて行った。

 

 ——ここは一つ、俺の男らしさでもアピールしておくか。

 

 どんぶりを左手に抱え、口いっぱいに牛丼をかきこむ。

 当然、このままでは飲み込めないので、コップの水で無理やり胃に流し込む。

 

 かきこみ、流し込む。かきこみ、流し込む。かきこみ、流し込む。かきこみ、流し込む。

 

 食べ始めてから三分も経たないうちに、俺のどんぶりは空になった。

 大食いかつ早食い。我ながら、なかなかかっこいいところを見せられたと思う。

 

 反応を伺うように右隣へ視線を向けると、女はやはりこちらをまじまじと見つめていた。

 表情は相変わらず変わらなかったが、内心では俺の勇姿に見惚れているに違いない。

 

「あの」

 

 脳内で自画自賛に浸っていた俺の意識を、息交じりの澄んだ声が引き戻した。

 どうやら声の主であるらしい右隣の女は、たしかにこちらを向いている。勘違いではないらしい。

 

 突然の出来事に心臓が跳ねる。

 何と返せばいいのか分からない。親以外の人間と会話するのは、三か月ぶりだ。

 まごつき挙動不審の俺をよそに、女はすっと立ち上がり、一枚の紙を差し出してきた。

 

「これ、私のIDです。もし興味があったら後で連絡ください」

 

 

ーーー

 

 

「林太郎、あんた最近よく出かけるようになったわね。なにかあったの?」

 

 ダイニングテーブルに朝食を並べる母親が、口角に皺をつくりながら言う。

 

「いや別に」

 

 最低限の言葉で返しつつも、俺は内心上機嫌だった。

 というのも――“彼女ができた”上に、それを母親に隠しているという状況が、密かな優越感を俺に与えていたからだ。

 

 母親は俺のことを”ろくでもないカス”くらいにしか思っていないのだろう。

 だが実際の俺は、美人な彼女を手に入れた勝ち組であり、人間的な魅力に満ちた存在なのだ。

 

 といった具合に、ここ最近は常に母親の「人を見る目のなさ」を内心で蔑みながら会話するようになった。

 その甲斐もあり、今の俺は少々小言を言われたくらいではまったく動じない、いわゆる“大人の余裕”を手に入れていた。

 

「そう。まあ、理由がどうであれ、林太郎が元気になって母さんもうれしいわ。この調子で”仕事”の方も」

「おいッ!!」

 

 気づいたときには、俺はテーブルを平手で叩きつけていた。

 わざとらしく怯えた表情を浮かべるクソババア。

 その顔を見ていると、怒りが収まるどころか、逆に煽られているような気分になる。

 

「『今探してるから急かすな』って、もう何回も言ったよな!? 言ったよなぁ!!」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 そんなに謝るくらいなら、最初から言わなければいい。

 『二度と口にするな』という警告の意味を込めて、みそ汁の入っていた木の椀をクソババアの足元めがけて投げつけた。

 

 床にぶつかる鈍い音が響き、汁の跡だけが静かに広がる。

 クソババアが泣き出したのを見て、少しだけ気分の晴れた俺は二階の自室へと戻った。

 

***

 

 一張羅の黒い革ジャンに、同じく黒で統一したスキニーを合わせた俺は、スマートフォンの内カメラを起動し、画面に映る自分を見て思わずニヤけた。

 テレビの中のアイドルだって、メイクや加工を取っ払えば、どうせ大したことのない顔をしているに違いない。まだ“素材”の状態でこのレベルに達している俺の方がよほどイケている。

 

 まだ二十代であるにもかかわらず、革ジャンを着こなしてみせる自分のファッションセンスとイケ具合に酔いしれていたその時、スマートフォンの画面にL〇NEの通知が流れてきた。

 

『着いたよ』

 

 通知欄に収まるくらいのシンプルな文面を確認して、俺はスマートフォンと財布をポケットに突っ込んだ。

 

 家のドアを開けると、いつもの通り、黒い軽自動車が止まっていた。

 

「おはよう、林太郎くん」

 

 助手席に乗り込むと、ネイビーのカジュアルシャツにクリーム色のワイドパンツを合わせた、いわゆる清楚系を感じさせるいでたちの高柳さんが静かに座っていた。

 スーツを着ている際には一つ結びにしている黒髪も、休日には無造作に下ろされており、胸の高さまでゆるやかに流れている。 

 

「うん」

 

 挨拶を返しながらシートに深く腰を下ろす。

 飾り気のない車内には、かすかにコーヒーの香りが漂っていた。

 女らしくないと言えばそうかもしれないが、むしろ親しみやすさを感じさせる分、俺としては好印象だった。

 

 俺がシートベルトを着けたのを横目に見ると、高柳さんは何も言わずにハザードを消し、車を発進させる。

 

 高柳さんの運転はテキパキとしている反面、正直結構荒い。

 特にカーブを曲がるときなどはそれが顕著であり、スピードをあまり落とさずに曲がろうとするため、体にかなりのGがかかる。酔いやすい体質の俺としては結構辛い。

 

 ちょうど今、国道の急カーブに差し掛かった所だが、やはり高柳さんはいつも通りに急ハンドルでカーブを曲がっていく。

 口で「もっとゆっくり曲がって」と伝えてもよいのだが、男は気づかいの出来る男だ。そんな無粋な真似はしない。

 

 こういう時は、自分の体を車の左側面に勢いよくぶつけて、さりげなくGがかかっていることをアピールする。

 

「あら、ごめんなさい」

 

 ——分かってくれれば大丈夫。

 そう伝える代わりに、俺は軽くうなづいて見せる。口にせずとも自分の意見を相手に伝える、これがスマートな男のやり方だ。

 

 そうこうしているうちに、高柳さんは車を有料駐車場に滑り込ませた。

 ブレーキの感触がわずかに伝わり、車体が静かに止まる。

 

 外の空気は春の陽気に満ち、さっきまで車内に漂っていたコーヒーの香りが遠のいていく。

 アスファルトの照り返しがやわらかく、風に混じってどこかの飲食店から漂ってくる香ばしいにおいがかすかに鼻をくすぐる。

 

 高柳さんは駐車券をポケットにしまい、静かに歩き出した。

 俺も隣に並び、同じ方向へと足を向ける。

 

 細い通りを抜けると、人で賑わうアーケード街に出た。

 左右にはカフェや飲食店、雑貨店がぎっしりと並び、BGMと呼び込みの声が入り混じっている。

 

 正直、かつての俺はこの場所が苦手だった。

 歩いている人間も、立ち並ぶ店も、その全てが、自らの放つ”キラキラ感”に酔いしれているように見えて不快だったからだ。

 

 しかし、今は違う。

 俺自身が、光を放つ側になったからだ。

 美人の彼女を隣に連れた“陽”の存在──それが今の俺だ。

 

 それを証明するように、すれ違う“キラキラもどき”たちは皆、俺たちを物珍しげに一瞥して通り過ぎていく。

 きっと、奴らの目には俺たちが“絶世の美男美女カップル”にでも映っているのだろう。

 

 ほどなくして、目的の店が見えてくる。

 二十四時間営業のカラオケ店。ここが、俺たちのデートスポットだ。

 高柳さんは慣れた足取りで自動ドアをくぐる。俺もその後に続く形で店内へと入った。

 

 受付カウンターには制服姿の女の店員が立ち、天井のスピーカーからは今流行っているらしい曲が小さく流れていた。

 

「二名様......でお間違いありませんか?」

 

 人数を確認する女は、どこか訝しげな表情を浮かべていた。

 もしかすると、俺というイケメンが彼女持ちであることに対してショックを受けてしまったのかもしれない。

 だとすると申し訳ないが、若さだけが取り柄といった感じのブスは、俺の恋愛対象には入らない。高柳さんという美人が隣にいる今なら、なおさらだ。 

 

 そんなことを考えているうちに、気づけば高柳さんは受付を済ませ、部屋番号の書かれた伝票を手にしていた。

 

「林太郎くん。部屋、4階だって」

 

 それだけ告げると、高柳さんは足早にエレベーターへと向かう。

 艶のある黒髪を追いかけながら、何気なく振り返ると、あの女店員がキョトンとした表情でこちらを見つめていた。

 

***

 

 俺は、女歌手のアニソンでも原キーで歌いこなすことが出来る。

 それも、やれ裏声だの、やれミックスボイスだのといったものには頼らない。

 使うのは地声だけだ。

 

 歌い終わると、画面が採点モードへと切り替わる。

 点数は......78点。

 俺の点数は毎回このくらいなのだが、正直納得がいかない。

 

「まぁ、カラオケの点数と歌の上手さって関係ないから。プロの歌手だって、カラオケの点数は八十点前後だってよく聞くし」

 

 無表情のまま手を叩く高柳さんに向かって、俺がカラオケで点数を取れない理由を説明する。

 ちなみに、プロの歌手どうこうの部分は、ネットの掲示板にあった書き込みの受け売りだ。

 

「そうだね。林太郎くん歌上手だもんね」

 

 その言い方は棒読みのようにも聞こえるが、高柳さんの話し方はいつもこんな感じだ。

 つまり、これが彼女の本心なのだ。

 

 高柳さんは基本的に、俺の言うことをすべて肯定してくれる。

 もちろん、俺の言っていることが常に正しいというのが最大の理由だろうが、高柳さん自身の性格の良さもあるのだろう。

 牛丼チェーン店で初めて彼女を見たときに抱いた第一印象が、決して間違いではなかったと改めて感じる。

 

 すっかり気分を良くした俺は、間髪入れずデンモクを操作し、次の曲を入力した。

 選んだのはボカロ曲。

 ネットで人気の“歌い手”たちは、男のくせに妙にキンキンした女声で歌ってドヤ顔をしているが、俺はそういうのとは違う。

 本当の“歌うま”とは、男らしい声のまま高音を制する者のことだ。

 

 ラストの高速パートも危なげなく歌い切り、自分の美声の余韻にひたる。

 完璧だった。まさに原曲超えと言っていい。

 

 だが、採点画面に表示されたのは75点。

 思わず眉をひそめる。

 やはり、カラオケの採点などというものはまったく当てにならない──改めてその事実を痛感した。

 

 ちなみに、高柳さんは歌わない。

 それが分かったのは、初めて一緒にカラオケに来たときのことだ。

 俺は一曲目を歌い終えたあと、「次どうぞ」の意味を込めてマイクを差し出し、そのままトイレに立った。

 しかし、戻ってきたときには、彼女はマイクにも触れず、スマホをいじっていたのだ。

 

 その瞬間、俺は悟った。――ああ、この人は“聴く側”なんだな、と。

 俺の歌を誰よりも真剣に聴きたいから、あえて自分は歌わない。そういうタイプの女なのだと、その時点で確信した。

 

 それ以来、俺は一度も高柳さんに「歌わないの?」とは聞いていない。

 彼女が望んでいるのは、俺の歌を聴くこと、そして、俺がそれを歌ってやることだからだ。

 それで、完璧にバランスが取れている。

 

 ......気づけば、七時間が経っていた。

 いつも通り歌のレパートリーが途中で尽きたため、同じ曲を三周歌ったのだが、流石に喉が限界だ。 

 

「そろそろ出ましょうか」

 

 メロンソーダを飲み切った高柳さんが、伝票を手に取って立ち上がる。

 俺の方から何も言わずとも、ちょうどいいタイミングを察してくれる高柳さんは本当に出来た女だ。

 

 一階まで降りると、高柳さんに会計を任せ、俺は一足先に店の外へ出た。

 外はすっかり薄暗くなり、アーケードに並ぶ店々の看板が明かりを灯していた。

 

 ふと視線を巡らせると、アーケードの端にあるラーメン屋の黄色い看板が目に留まる。

 『◯郎系』と書かれたその文字に、カラオケで酷使した喉が、こってりとしたスープで潤う瞬間を想像せずにはいられなかった。

 高柳さんだって昼食に牛丼を選ぶような女だ。◯郎系も喜んで食べるに違いない。

 

「高柳さん、メシ、あそこにしよう」

 

 カラオケ店から出てきた高柳さんに、俺は店の方向を指さす。

 

「......えぇ、そうしましょう」

 

***

 

「今日も楽しかったわ。それじゃあ、また来週ね」

 

 運転席の窓を開けた高柳さんは、それだけを言い残して帰っていった。

 俺は自室へ戻るために階段を上がりながら、今日のデートを反芻する。

 

 高柳さんは「楽しかった」と言ってくれたし、俺も心から楽しめた。

 もし仮に点数をつけるとすれば、100点以外ありえない。

 

 ただ、これは今回のデートに限った話ではないのだが、一つだけずっと引っかかっていることがある。

 今日一日を振り返ってみても......やはりそうだ。

 

 ——高柳さんの笑った顔、見たことないんだよな。

 

 

ーーー

 

 

 ——一度くらい、心の底から笑う高柳さんを見てみたい。

 いつの間にか、俺はそう強く願うようになっていた。

 

 そこで俺は考えた。

 いつも通りの100点のデートではなく、それを上回る120点のデートをすれば、さすがの高柳さんでも笑顔を見せてくれるのではないだろうか、と。

 とは言え、すでに完璧なデートをしているにも関わらず、それ以上を求められるとなるとこれはかなりの難題だ。なにか”特別なこと”でもしない限り、達成することはできないだろう。

 

 なにかヒントになるような情報はないかと、高柳さんとのL○NEでのやり取りを見返してみる。

 しかし、必要最低限のことしか伝えようとしない、その淡白な返答からは、何も得るものがなかった。

 

 ちょっとした落胆を覚えながら、トーク履歴からブラウザバックする。

 表示されたのは、ただの真っ黒な画像をアイコンと背景の両方に設定した、高柳さんのプロフィール画像。

 その時、アイコンの下に小さく表示されたある数字が目に留まった。

 

『20○○ 6/6』

 それは、高柳さんの誕生日であるらしかった。

 この時初めて、俺は今まで年上だと思い込んでいた高柳さんが、実は年下だったことを知った。

 だが、本当に重要なのは年ではなく、その日付である6月6日のほうだ。

 今日の日付は5月9日。

 スマホのカレンダーで確認すると、ちょうど1ヵ月後の日曜日が彼女の誕生日であることが分かった。

 

 まるで天啓を授かったような気分だった。

 ——誕生日デート。

 120点を叩き出すには、これしかない。

 

***

 

 その日、俺は近所のスーパーマーケットでレジを打っていた。

 

「......す」

「ありがとうございます! またお越しくださいませー」

 

 愛想の悪い中年ババアにお釣りを手渡し、いやいやながらも頭を下げる。

 すると、さっきから俺の後ろに突っ立っている”指導係”の陰毛パーマ男が、偉そうな口調で説教を垂れてくる。

 

「ちょっと、田中さん。お客さんへの挨拶は、もう少し大きな声でしないと全く聞こえないですよ。

それと、商品はお客さんが大切なお金を出して買ってくれるものなんですから、もっと丁寧にカゴに入れてください。特に卵なんか、さっきみたいな入れ方してるとそのうち割っちゃいますよ」

 

 この“田中”というのは、俺の苗字だ。

 大学生のアルバイトであるらしいこの指導係は、自分が先輩であることを鼻にかけ、年上である俺に対して些細なことにまでいちいち口を出してくる。

 

 本当はカゴを投げつけて帰ってやりたい気持ちでいっぱいだった。

 だが、「Z世代のカスは人生の先輩を敬うことを知らない」とネットで話題になっていたのを思い出し、コイツもそうなのだと見下すことによって、なんとか平静を保っていた。

 

「......い......せ」

「いらっしゃいませ、こんにちは」

 

 客が来るたびに、当てつけのように挨拶を被せてくるのも癪に障る。

 頭に血が上りそうになるのをこらえながら、会社員風のおっさんが持ってきたカゴの中の商品を、ひとつずつスキャナーに通していく。

 

 食パン、洗剤の詰め替えパック、長ネギ、6缶パックのビール、そしてパック入りの卵をもう一方のカゴに移そうとしたとき、手を少し高い位置で離してしまい、クシャリという音がした。

 ——別に投げつけた訳でもないし、おそらく、パックの音がしたのだろう。

 そう判断し、ペットボトル飲料に手を伸ばそうとした瞬間だった。

 

「ちょ、ちょっと!! なにやってるんですか!?」

 

 いきなり大げさな声を出した陰パ(陰毛パーマの略)が、俺を押しのけるようにして卵のパックを手に取った。そして、わざとらしく両手でゆっくりと回転させながら、割れていないかどうかを確認してみせる。

 ——どうせ割れちゃいねえのに、余計なことしやがって。

 そう心の中で毒づいていると、陰パがおっさんに向かって勢いよく頭を下げた。

 

「お客様、大変申し訳ございません。こちらの卵が割れてしまっておりますので、すぐに新しい商品と交換いたします。少々お待ちください」

「えぇ、お願いします」

 

 卵のパックを手に、陰パは店の奥の方へと走っていく。

 そして、レジに一人取り残される形となった俺を、おっさんがジロジロと睨みつけてきた。

 気まずい空気に思わず視線を逸らすと、おっさんはため息をついてポケットからスマホを取り出

す。

 だが、ため息をつきたいのは、むしろ俺の方だ。

 あのバカが大げさに騒ぎ立てたせいで、余計な恥までかかされてしまった。

 

 やがて、新しい卵のパックを手に持って戻ってきた陰パは、俺のほうを見るなり突然声を荒げた。

 

「なにぼーっと突っ立ってるんですか!!お客さん待たせてるんですよ!? 早く残りの商品通してください!!」

「......ちッ」

 

 さすがの俺もこれには堪えきれず、思わず舌打ちが漏れた。

 Z世代というやつは年上を敬う心どころか、他人の心情を想像する力すら持ち合わせていないらしい。

 

 俺は今日が人生初のバイトなのだ。

 自己判断で行動してミスを起こすより、慎重に動いて確実に仕事をした方がよほど建設的だ。

 だから俺はあえて何もせずに待っていたというのに、想像力のないバカはそんなことすら理解できないのかと怒りを通り越して呆れてしまう。

 

 「大変申し訳ございませんでした」と執拗なまでに頭を下げる陰パに対して、おっさんが「いえいえ、あなたも大変ですね」と声をかけているのが聞こえた。

 このおっさんもおっさんだ。

 どう見ても、この陰パがわざとらしい一人芝居を演じただけなのにも関わらず、本気で俺が卵を割ったのだと信じているらしい。

 

 無性に腹が立った俺は、会計を済ませた後もおっさんに頭を下げることはせず、その後、何か喚いてきた陰パの言うこともすべて無視してやった。

 

***

 

 俺が突然バイトを始めた理由。

 それは、高柳さんの誕生日プレゼントを買う金が欲しかったからだ。

 

 母親に小遣いを前借りするという手もあった。

 だがそのときの俺は、なぜか「自分で稼いだ金で買いたい」という妙なプライドに突き動かされ、勢いのまま近所のスーパーに応募してしまったのだった。

 

 どこからか俺がバイトを始めたという噂を聞きつけたらしい母親は、なぜか号泣して俺を褒め称えた。その夜の食卓には出前の寿司が並び、そのあまりの浮かれっぷりに正直少し引いたが——まぁ、悪い気はしなかった。

 

 それから少しして、給料の入った封筒を自室の机の上にそっと置いた俺は、デスクトップを立ち上げ、ブラウザの検索バーに『誕生日デート プレゼント』と打ち込んだ。

 『【30選】彼女が喜ぶプレゼント特集!!』という見出しを筆頭に、恋人へのプレゼント案や、それに関連して当日のデートプランまで紹介しているらしい記事がずらりと並ぶ。

 

 とりあえず、カーソルが当たっていた記事を適当にクリックしてみる。

 『誕生日デートにぴったり!おすすめプレゼントとデートスポット!』というタイトルの下には、目次という章立てと共に具体的なプレゼントやデートスポットの名称がずらりと並らんでいた。

 

 軽く目を通して、俺は愕然とした。

 

 俺は元々、ゲームソフトや漫画本をプレゼントの候補として考えていた。自分がもらって嬉しいものであれば、高柳さんにも喜んでもらえるだろうと思ったからだ。

 しかし、その記事に書かれていたものは、香水、バッグ、アクセサリー、ハンドクリーム、花など仮に自分が貰ったとしてもまるで嬉しくないものばかりだった。こんな記事では到底参考にならない。

 

 ——ハズレだな。

 詳しい中身を読む前にブラウザバックした俺は、すぐさま他の記事を開く。

 しかし、俺の期待とは裏腹に、先ほどの記事と大して変わり映えのしないラインナップばかりが紹介されていた。

 

 ブラウザバックとクリックを繰り返し、表示されているページリンクを片っ端から踏んでいく。

 だが、そのどれもが、最初に開いたものと大差のない内容だった。 

 そして、ブラウザの1ページ目を最下部までスクロールしたとき、ふと俺の頭に、一つの可能性がよぎった。

 

 ——もしかして、俺の感覚ってズレてるのか?

 

 いや、そんなはずはない。

 気の迷いを振り払うように、シャットダウンのボタンにカーソルを合わせる。

 

 その瞬間、高柳さんのどこか愁いを帯びた表情が脳裏に浮かんだ。

 

 ——もし、ここに書いてある通りにしたら高柳さん笑ってくれるのかな。

 

 一度だけ、一度だけ試してみよう。 

 気づくと俺は、ろくに読みもせずにブラウザバックした記事をもう一度開き直していた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 そして、話は冒頭へと遡る。

 

 

 

「あの、その......渡したいものがあるんだ」

「......そう」

 

 声の調子は相変わらず冷たかったが、高柳さんは踵を返し、俺の方へと戻ってきた。

 

 薄暗い展望デッキの照明が、彼女の横顔を柔らかく照らす。

 煌びやかな夜景を横目に、俺は高柳さんと向かい合う形になった。

 肩にかけていたバッグの中を探り、指先で取っ手をつかむ。

 そして、ブランドロゴが大きく印字された、厚手の小さな紙袋を取り出した。

 

 この中には、デパートで買った香水が入っている。

 住む世界が違うと言わんばかりの高級感溢れる店の雰囲気に、中に入る決心が出来ず、店の前の通路を何度も往復したのを思い出す。

 それでも、高柳さんの笑顔が見たい一心で店内へと踏み込み、なんとか手に入れたのがこの香水だった。

 

「高柳さん今日誕生日でしょ? だから、これ、プレゼント」

  

 腕の震えを必死に抑えながら、紙袋を高柳さんの方へ差し出す。

 

 しかし、彼女は手を伸ばすこともなく、目を大きく見開いたまま固まっていた。

 

 初めて見る、高柳さんの驚いた表情。

 きっと、あまりの嬉しさに思わず固まってしまったのだろう。そうに違いない。

 

「林太郎くん。私、あなたのこと......見損なったわ」

「え?」

 

 吐き捨てるような言い方に、心臓が握り潰されるかのような心地がする。

 困惑とショックと悲しみ、そして怒りが同時に込み上げてくる。

 

 ネットの記事なんか参考にするんじゃなかった。

やっぱり、俺が全部正しかったんだ。

 世間一般などというクソどものセンスを一度でも信じた俺がバカだった。

 

 それに、高柳さんも高柳さんだ。

 何がそこまで気に食わなかったのかは知らないが、人がせっかく準備した物を受け取ろうとすらしないのは人として論外だ。

 今まで良い女だと思っていたが、結局は他のカス女どもと変わらなかった。

 

 怒りに任せて高柳さんを睨みつけようとした――その瞬間、高柳さんの鋭い視線がこちらを射抜く。

 眉は微かに吊り上がり、唇は薄く引き締まって、目だけで全てを押し返してくる。

 初めて見る高柳さんの"怒り"の表情に、胸の奥で燃えていた怒りがあっという間に萎んでいくのを感じた。

 

「......林太郎くん、私がなんであなた”なんか”と付き合ってるのか、分かる?」

 

 不快感や怒りを隠そうとすらしない、その表情や口調。

 更に、高柳さんの口から出たとは到底思えない攻撃的な言い回しに触れ、体全体が急に冷たくなるような感覚に襲われた。

 

 パニックになりつつも、一番それらしい理由を挙げる。

 

「お、俺が......か、かっこいい、から?」

「かっこいい? 梅干しの皺みたいな面して、よくもまぁそんな勘違いが出来るわね」

 

 もう訳が分からなかった。

 もはや別人と化した高柳さんは、一つ大きなため息をつくと、そのまま間髪入れずに言葉を畳みかける。

 

「......そうね、あなたじゃ到底理解できないと思うから教えてあげる。

 私はね、あなたがこれ以上ないくらいの”ゴミカス”だったから付き合うことにしたの。

 容姿も性格も、これまで歩んできたであろう人生も、その全てが他人の下位互換でしかない存在  ——それが林太郎くん、あなたなの。 

 

 私もね、決して褒められたような人間じゃないの。

 世の中の人たちが言う”普通”にさえなれない落ちこぼれ。

 林太郎くんは感じたことないかな?

 ”普通”にさえ届かない人間に、世の中がどれだけ冷淡かってこと。

 見下されることはあっても、認められることはないし、酷い時にはいないものとして扱われることだってあるのよ。

 

 私はそれが嫌だった。

 だから、私はやりたくないことだって、辛いことだって、全部我慢して、必死に"普通"を演じようとして、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張ったのにッ!! 

 それでも......私はずっと皆の”下”だった。

 結局、”普通”にはなれなかったの。

 

 この顔だってそうよ。

 醜いだとか汚いだとか、散々罵られた。

 見返したくて、私頑張ったの。

 馬鹿みたいに時間を使って、馬鹿みたいにお金を使って......それでやっとこの顔になったのに、結局今度は”作りもの”だと笑われた。 

 ほんっと馬鹿みたいッ!!

 

 ......そんな私でも、あなたと一緒にいる間だけは、こんな私よりも”下”の人間がいるんだ、生きてていいんだって思えるの。

 これは本当にすごいことよ。

 私、これまで生きてきた中で、林太郎くんと一緒にいる時ほど心が穏やかだったことってないもの。

 

 だからね、私、どうしても許せないの。

 私の”完全な下位互換”であることにしか存在価値のない林太郎くんが、自らその価値を下げようとしていることが。

 

 何に影響されたのかは知らないけれど、今日のあなたには心底がっかりしたわ。

 真っ当なデートプランに、真っ当なサプライズ。

 もし私がそんなものを望んでいるのだとしたら、最初からあなたなんか選ばない。

 私は、あなたのみっともない姿を隣から眺めて、優越感に浸っていたいだけなの。

 

 もちろん、林太郎くんは今でも十分すぎるくらいに”ゴミカス”よ。

 あなたとしては相当成長したつもりなのかもしれないけど、”普通”に生きている人たちからしたら、まだスタートラインにも立っていないようにしか見えないでしょうね。

 

 だけど、”成長しよう”という姿勢を見せられること自体が、私にとってはすごく不快なの。

 例えるなら......そうね、宝くじで当たった数億円が少しずつ減っていくのを見せつけられてるような、そんな気分。

 

 私、林太郎くんのこと大好きなんだよ。

 それこそ、何億積まれたって林太郎くんの方を選ぶくらいにはね。

 でも、私が好きな林太郎くんは——

 外見も中身も醜悪で、愚鈍で、思いやりがなくて、責任感がなくて、教養がなくて、常識がなくて、何一つとして成し遂げたことがなくて、自分の話はしたがるくせに私の話はまともに聞こうとさえしなくて、おまけに口が臭いから話を聞いていると気分が悪くなってくる——そんな林太郎くんなの。

 

 だからね......林太郎くん」

 

 俺は嗚咽していた。

 鼻水をすすり上げ、声にならない呻きを漏らしながら、とめどなくあふれる涙を地面にぼたぼたと落とす。

 その姿はきっと、この世のものとは思えないほど醜かっただろうが、そんなことを気にする余裕など微塵もなかった。

 

 高柳さんは一拍置いて、はっきりとした口調で選択を迫る。

 

「今、ここで決めて。

 その下らない努力を今すぐにやめるか、もう二度と私の前に現れないか」

 

 俺は手に持っていた紙袋を、地面へと落とした。

 

***

 

 その日、俺は高柳さんの家に呼ばれていた。

 四畳半の賃貸アパート、その狭い空間にはシンプルなベッドだけが置かれており、殺風景という言葉がぴったりと当てはまった。

 

 やがて浴室から現れた高柳さんは、淡い水色の下着だけを身につけていた。

目を奪われたのは、広く露わになった血色の悪い白い肌。その不健康さとは裏腹に、体つきは意外なほど豊満で、特に腹部はほんのりと丸みを帯びている。

 とはいえ、決して太っているわけではない。むしろ、ぽっちゃりとする一歩手前の絶妙なバランスで、その柔らかなラインは、スレンダーなモデル体型にはない現実的な艶めかしさを感じさせた。

 

 初めて目にする女性の下着姿、それもあの高柳さんのとなると、興奮しない訳がない。

 緊張と興奮に晒され、思わず生唾を飲み込んだ俺に向かって、高柳さんは弄ぶかのような視線を向けてくる。

 そして、その視線を俺の"下"へと落とすと――

 

「林太郎くん興奮してるの?

 じゃあ、気持ちいい事しなくちゃね」

「......えっ?」

 

 そう耳元で囁いた。

 息混じりの声が耳を撫でた瞬間、快感とも悪寒ともつかないぞくりとした感覚が、背筋を伝って脳を揺さぶった。

 

 まだ頭の理解が追いついていない俺を更に追い詰めるかのように、高柳さんが再び耳元で囁く。

 

「選ばせてあげる。あなた一人でするか、それとも......私と二人でするか」

 

 正直、いつかはしたいと思っていた。

 家に呼ばれた時点で、もしかしたらとは思っていた。

 しかし、いざこうして迫られると、”したい”という衝動と、まだ心の準備ができていないという戸惑いがせめぎ合い、言葉が喉の奥で詰まったまま出てこなかった。

 

——それでも、やっぱり高柳さんとしてみたい。

 

「ふ」

「あぁそれと、もし二人でするとしたら、その時は一から十まで全て林太郎くんに任せるわ。私はあなたの言葉に大人しく従うだけ」

 

 意を決して言葉にしようとした瞬間、それを察したかのように高柳さんが言葉を被せた。

 

 その一言に、俺の中で固めかけていた決意が揺らぐ。

 童貞の俺は、”それ”を動画でしか見たことがない。

 正直、分からないことだらけだ。

 さまざまな不安や恐怖が一気に押し寄せ、”二人でしたい”という願望を押し流してしまうかのような感覚に囚われた。

 

「じゃあ......一人で」

 

 そして結局、俺は”また”折れてしまった。

 高柳さんはその答えを待ち構えていたかのように、嘲るような口調で俺を捲し立てる。

 

「そうよね、怖いわよね。もし二人でして”何かあったら”、その責任は全て林太郎くんに降りかかるもの。そんな重荷を背負えるほど、あなたは大人じゃないわよね。

 いいわ、ここに座っててあげる。私の体を見ながら一人でしなさい」

 

 そう言うと、高柳さんはベッドの縁に腰を下ろして足を組む。

 恥ずかしさや情けなさに苛まれながらも、それ以上に、どうしようもなく興奮している自分がいた。

 まるで自我を何かに乗っ取られたかのように、俺はただひたすらに手を動かし続けた。

 

「ふっ、ふふふふっ、あははははははッッ!! いい、いいわ林太郎くん!! 今のあなた、最高に惨めよ」

 

 高柳さんは笑っていた。

 

 

 


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