灰の祈りと蒼の名 作:見届人A
今日中に10話投稿します
第一話 名前を呼ぶ
王都の朝は、いつも通りに始まる。
鐘の音が鳴り、石畳の上を人が行き交う。
店の戸が開き、
焼きたてのパンの匂いが通りに広がる。
誰もが同じ時間に起きて、
同じように一日を始める。
変わらない朝。 疑う理由のない光景。
その通りに出るための裏門が、
きしんだ音を立てて開いた。
中から少年が一人、外に出てくる。
「おい、灰かぶり」
振り返ると、
訓練場の中から教官が顔を出していた。
「もう終わりだ。帰れ」
「はいよ」
軽く手を上げる。
彼は王都の守備兵を目指す見習いだった。
毎朝ここで剣の訓練を受け、
それが終われば通りに出る。
それだけの毎日だ。
──ただ一つ。
少しだけ、普通と違うことがある。
誰も、彼の名前を呼ばない。
呼ばれるのは、いつも同じだ。
「灰かぶり」
それが、彼の呼ばれ方だった。
意味も理由も考えたことはない。
気にするほどのことでもないと思っている。
そういうものだ、と受け流しているだけだ。
門が閉まる音を背に受けながら、
灰かぶりは通りへ歩き出した。
人の流れに混ざる。
知っている顔も、知らない顔もある。
けれど、どこか距離がある。
誰ともちゃんと繋がっていないような、
そんな感覚が少しだけ残る。
光の中で、何かが揺れている気がした。
風もないのに、 細かなものがゆっくりと
漂っているように見える。
けれど、
それを気にしている様子の者はいない。
肩を払う者もいれば、そのまま歩く者もいる。
理由は分からない。
ただ、それが当たり前の仕草みたいに
繰り返されている。
「──おーい」
声が降ってきた。
顔を上げる。
石段の上に、少女が立っている。
白い装束に、蒼い布。
巫女の少女、ソラ。
「灰かぶり」
当たり前のように呼ぶ。
灰かぶりは小さくため息をついた。
「……そこ邪魔だぞ」
「大丈夫だよ」
軽く言って、ひょいと降りてくる。
そのまま隣に並ぶ。何も言わなくても、
そうなる距離。
「今日も早いね」
「いつも通りだ」
「そっか」
少しだけ嬉しそうに頷く。
それだけの会話。意味はない。
でも、それが当たり前だった。
しばらく歩く。
同じ方向へ。
同じ速さで。
人の流れの中を、並んで進む。
「ねえ」
ソラが言った。
「なんだよ」
「私の名前」
少しだけ間を置く。
「ちゃんと覚えてる?」
足が止まる。
振り返る。
ソラの顔は、冗談じゃなかった。
「何言ってんだ」
「いいから」
一歩近づく。
逃がさない目で見てくる。
「言って」
理由は分からない。
でも、言わないといけない気がした。
「……ソラだろ」
短く答える。
当たり前のことを。
それだけのはずなのに。
ソラの肩が、わずかに揺れた。
「……うん」
小さく頷く。
胸に手を当てる。
確かめるように。
「よかった」
「何が」
「ううん」
首を振る。
それ以上は言わない。
でも、確かに安心した顔をしていた。
「変なやつだな」
「そうかもね」
笑う。
いつもの顔。
それで終わるはずだった。
その時。
「……あれ」
ソラが足を止める。
「なんだよ」
「さっき、あそこに人いたよね」
指さす。
通りの端。建物と建物のあいだ、
少しだけ人の流れが途切れている場所。
ついさっきまで、誰かが立っていた。
視線が合った気がする。
そこに“いた”と分かるくらいには、はっきり。
――なのに。
今は何もない。
灰かぶりも同じ場所を見る。
人は通っているが、
その一点だけが不自然に空いている。
「……いねえよ」
「……でも」
ソラは目を細める。
「いたよね」
言い切るほどの確信はない。
でも、なかったとも思えない。
胸の奥に、小さく引っかかる。
「気のせいだ」
「……かな」
納得していない声。
それでも、これ以上は言わない。
また歩き出す。
変わらない朝。
変わらないはずの景色。
その中で。
「……ねえ」
ソラがもう一度言う。
「なんだよ」
「もう一回」
少しだけ小さな声で。
「名前、呼んで」
足が止まる。
またか、と思う。
でも、断れなかった。
「……ソラ」
呼ぶ。
今度は少しだけ強く。
その一音で。
ソラの呼吸が、はっきりと戻る。
「……うん」
今度は、ちゃんと笑った。
さっきよりも、少しだけ安心した顔で。
「ありがとう」
「……なんだよ急に」
「ううん、なんでもない」
首を振る。
それ以上は言わない。
でも、どこか大事なものが守られたような、
そんな空気だけが残る。
二人はまた歩き出す。
人の流れの中へ。
変わらない王都の中へ。
その日常の中で。
名前だけが、かろうじて繋ぎ止められていた。