灰の祈りと蒼の名   作:見届人A

10 / 15
第十話 名前の外側

 

 夜に入りかけていた。

 

 王都の灯りがひとつずつ点き始める。

 昼の喧騒がゆるやかに沈み、

 代わりに別のざわめきが街を満たしていく。

 

 二人は人通りの少ない路地に入っていた。

 

 通りの明るさから少し外れた場所。

 石壁に囲まれた、狭い道。

 

 人の流れが薄い分、音がよく響く。

 

 足音。

 

 呼吸。

 

 そして。

 

 声。

 

「……ねえ」

 

 すぐ近くで、囁く。

 

 もう隠す気もないように。

 

「名前、なんていうの」

 

 距離は、ほとんどゼロだった。

 

 ソラの足が止まる。

 

 完全に。

 

「……おい」

 

 灰かぶりが呼ぶ。

 

 だが、反応がない。

 

 視線が定まっていない。

 

 焦点が、合っていない。

 

「……ソラ」

 

 もう一度呼ぶ。

 

 だが。

 

 返事が来ない。

 

 遅れる、ではない。

 

 返らない。

 

「ねえ」

 

 声が重なる。

 

「教えてよ」

 

 優しく。

 

 逃げ道を消すように。

 

 ソラの口が開く。

 

 迷いはない。

 

 止まらない。

 

「わたしは――」

 

「ソラ!」

 

 叫ぶ。

 

 間に合わせるために。

 

 だが。

 

 遅い。

 

 その言葉は、もう止まらない。

 

 音にならないまま。

 

 何かが、抜ける。

 

 はっきりと。

 

 今までよりも。

 

 大きく。

 

 ソラの身体が揺れる。

 

 一歩、後ろに崩れる。

 

「……っ」

 

 灰かぶりが支える。

 

 軽い。

 

 軽すぎる。

 

「……おい、しっかりしろ」

 

 顔を覗き込む。

 

 目が、合わない。

 

 焦点がずれている。

 

「……ソラ」

 

 呼ぶ。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

「……ソラ」

 

 だが。

 

 返ってこない。

 

 その時。

 

「……あ」

 

 かすかな声。

 

 ソラの口が動く。

 

「……誰」

 

 その一言で、空気が止まる。

 

「……は?」

 

 理解が追いつかない。

 

「……誰、だっけ」

 

 ソラが言う。

 

 目の前を見ている。

 

 だが。

 

 見ていない。

 

 認識していない。

 

「……おい」

 

 肩を掴む。

 

「……俺だ」

 

 言葉が出る。

 

 だが。

 

 それが何なのか。

 

 分からない。

 

 名前を、言えない。

 

 言葉が詰まる。

 

「……お前」

 

 違う。

 

 それでは足りない。

 

 足りないのに。

 

 出てこない。

 

「……ねえ」

 

 声がする。

 

 すぐ横で。

 

「いいでしょ、もう」

 

 優しい声だった。

 

 終わらせるように。

 

「名前、ちょうだい」

 

 ソラの身体が、わずかに傾く。

 

 引かれるように。

 

「……っ」

 

 灰かぶりは歯を食いしばる。

 

 そして。

 

 無理やり、言葉を出す。

 

「……ソラ!」

 

 叫ぶ。

 

 絞り出すように。

 

 その一音で。

 

 ソラの身体が止まる。

 

「……あ」

 

 かすかに、焦点が戻る。

 

 だが。

 

 不安定だ。

 

「……もう一回」

 

 ソラが言う。

 

 小さく。

 

「……呼んで」

 

 灰かぶりは、間を置かない。

 

「ソラ」

 

 強く。

 

「ソラ」

 

 重ねる。

 

「ソラ」

 

 何度も。

 

 その度に。

 

 ソラの輪郭が、少しずつ戻る。

 

 だが。

 

 完全ではない。

 

「……足りない」

 

 ソラが呟く。

 

「……戻らない」

 

 はっきりと。

 

 理解している。

 

「……さっきの」

 

 一拍置く。

 

「……取られた」

 

 静かな声だった。

 

 だが。

 

 確定していた。

 

 失われたものは、戻らない。

 

「……ねえ」

 

 ソラが顔を上げる。

 

 目が揺れている。

 

「……もう、だめかも」

 

 その言葉は、弱くなかった。

 

 受け入れている。

 

 終わりを。

 

「……だめじゃねえ」

 

 灰かぶりは言う。

 

 即答だった。

 

 根拠はない。

 

 だが。

 

 ここで止まれない。

 

「……戻す」

 

 自分に言い聞かせるように。

 

「……どうやって」

 

 ソラが聞く。

 

 当然の疑問だった。

 

 答えは、ない。

 

 だが。

 

 その時。

 

「……知りたい?」

 

 声がする。

 

 すぐ後ろで。

 

 今までとは違う。

 

 少しだけ。

 

 はっきりした声。

 

「……戻したいなら」

 

 一拍置く。

 

「方法、あるよ」

 

 空気が変わる。

 

 温度が落ちる。

 

「……何だよ」

 

 灰かぶりが言う。

 

 睨む。

 

 見えない何かを。

 

「簡単」

 

 声は笑っていた。

 

「代わりに、少しもらうだけ」

 

「……何を」

 

「もう持ってるでしょ」

 

 その言葉に。

 

 息が詰まる。

 

「名前」

 

 はっきりと告げる。

 

「君の」

 

 沈黙が落ちる。

 

 ソラが、こちらを見る。

 

 不安定な目で。

 

「……やめて」

 

 小さく言う。

 

「……だめ」

 

 分かっている。

 

 それが何を意味するか。

 

 灰かぶりは、何も言わない。

 

 ただ。

 

 考えている。

 

 時間はない。

 

 選ばないといけない。

 

 目の前で。

 

 ソラが、崩れていく。

 

「……ねえ」

 

 声が囁く。

 

「早くしないと」

 

 一拍置く。

 

「消えるよ」

 

 静かに。

 

 確実に。

 

 終わりを告げるように。

 

 灰かぶりは、目を閉じる。

 

 一瞬だけ。

 

 そして。

 

 開く。

 

 答えは、決まっていた。

 

「……やる」

 

 その一言で。

 

 空気が変わる。

 

 ソラが息を呑む。

 

「……だめ」

 

 小さく言う。

 

 だが。

 

 止められない。

 

「いいよ」

 

 声が笑う。

 

「それでいい」

 

 そして。

 

「じゃあ、もらうね」

 

 その瞬間。

 

 世界が、わずかに歪んだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。