灰の祈りと蒼の名 作:見届人A
第十一話 名の代価
夜だった。
王都の灯りが通りを照らしている。
昼の喧騒は消え、
低いざわめきだけが残っていた。
二人は、しばらく動けずにいた。
路地の空気が重い。
さっきのやり取りが、まだ残っている。
「……ソラ」
灰かぶりが呼ぶ。
「……うん」
返事はある。
弱いが、途切れてはいない。
「……大丈夫か」
「……たぶん」
少し考えてから、そう言った。
胸に手を当てる。
「……さっきよりは、平気」
確かめるように。
完全じゃない。
でも、消えてもいない。
その曖昧さが、そのまま残っている。
灰かぶりは短く息を吐く。
その時、違和感が走る。
「……おい」
「……なに」
「……なんか、変だ」
うまく言えない。
言葉がまとまらない。
「……どこが」
「……分かんねえけど」
少し黙る。
何かが引っかかっている。
大事なものを、置いてきたような感覚。
「……ねえ」
ソラがこちらを見る。
少しだけ迷う。
「……さっきさ」
一拍置く。
「……呼ぼうとして、やめた」
「……何を」
ソラは、すぐには答えない。
少しだけ視線を逸らす。
「……なんでもない」
それだけ言う。
だが、その言い方は曖昧だった。
何かを避けている。
灰かぶりは、それ以上聞かない。
聞けなかった。
「……今さ」
ソラが続ける。
「……自分のこと、どう呼ぶの」
静かな問いだった。
灰かぶりは、少し考える。
考えて。
止まる。
「……俺は――」
言葉が続かない。
何を言えばいいのか。
分からない。
名前。
そのはずなのに。
出てこない。
「……ほら」
ソラが小さく言う。
「……やっぱり、変」
責めるわけじゃない。
ただ、確かめているだけの声。
灰かぶりは視線を逸らす。
「……別にいいだろ」
短く言う。
逃げるように。
それ以上は、言わない。
言えない。
「……私さ」
ソラがぽつりと呟く。
「……人の名前、覚えやすいんだよね」
軽い調子で言う。
でも、少しだけ引っかかる。
「……昔から」
「……初めてでも、なんとなく分かるっていうか」
言葉を探す。
「……すぐ呼べる」
自分でも曖昧なまま。
「……変だよね」
小さく笑う。
灰かぶりは何も言わない。
ただ、聞いている。
「……でも」
ソラが少しだけ顔を上げる。
「……今は、ちょっと違う気がする」
一拍置く。
「……近い」
短く言う。
それ以上の言葉は出てこない。
でも、意味は伝わる。
「……あの声」
小さく付け足す。
「……さっきより、近い」
断定じゃない。
でも、確信に近い。
「……ああ」
灰かぶりも頷く。
見えない。
でも、分かる。
距離が近い。
すぐそこにいる。
「ねえ」
声がする。
すぐ横で。
軽い。
何も重くないみたいに。
「ちゃんと渡した?」
灰かぶりは、すぐに答える。
「……ああ」
「そっか」
声が笑う。
「じゃあ、大丈夫」
一拍置く。
「その子、少し戻るよ」
ソラの呼吸が、わずかに整う。
「……あ」
小さく声が漏れる。
「……さっきより、楽」
だが。
完全ではない。
「……でも」
少しだけ眉をひそめる。
「……なんか、足りない」
その感覚だけが残る。
「当然だよ」
声が言う。
はっきりと。
「全部は返さない」
迷いがない。
「……おい」
灰かぶりが言う。
「……何をした」
「何って」
少しだけ間を置く。
「もうもらったでしょ」
軽い声。
「……っ」
胸の奥に、空白がある。
確かに。
何かがない。
思い出そうとする。
でも。
形にならない。
「ねえ」
声が続ける。
「これからだよ」
一拍置く。
「どこまで残るか」
試すように。
「楽しみだね」
その言葉のあと、気配が少し遠ざかる。
だが、消えない。
まだいる。
どこかに。
ずっと。
灰かぶりは立ち尽くす。
言葉が出ない。
ただ。
分かっている。
何かを失った。
でも、それが何か。
まだ分からない。
隣に、ソラがいる。
まだ、ここにいる。
それだけが。
今、確かなものだった。