灰の祈りと蒼の名   作:見届人A

13 / 15
第十三話 触れてしまうもの

 

 通りは、確かに朝の光に満ちていた。

 

 空は明るい。人もいる。

 店の軒先では、

 いつものように呼び込みの声が上がっている。

 それでも、何かが決定的に違っていた。

 音が遠い。匂いが薄い。

 空気の温度が、皮膚の上を滑るだけで、

 内側に入ってこない。

 

 灰かぶりは歩いていた。

 特に目的があるわけではない。

 ただ、止まることが怖かった。

 立ち止まった瞬間、

 自分の足元から何かが抜け落ちるような、

 そんな感覚があった。

 

 隣に、ソラがいる。

 

 だが、さっきまでより、

 少しだけ距離があった。

 意図して離れているわけではない。

 ただ、並んで歩く“間”が、

 うまく合わなくなっている。

 

「……ねえ」

 

 ソラが言う。

 

「……なに」

 

「……さっきの人」

 

 一拍置く。

 

「……ほんとにいた?」

 

 灰かぶりはすぐには答えなかった。

 足を止める。振り返る。

 通りは、何事もなかったように流れている。

 

「……いた」

 

 短く言う。

 

 そう言うしかなかった。

 

 だが、その言葉には、確信がなかった。

 

「……だよね」

 

 ソラは小さく頷く。

 

 安心したようにも、

 不安が深まったようにも見える表情だった。

 

 また歩き出す。

 

 同じ道を進んでいるはずなのに、

 景色が少しずつ変わっていく。

 さっき見た看板がない。

 逆に、見覚えのない店が並んでいる。

 違和感は小さい。

 だが、確実に積み重なっている。

 

「……おかしくない?」

 

「……ああ」

 

 灰かぶりも気づいている。

 

 だが、説明ができない。

 

 道は繋がっている。

 建物も崩れていない。人もいる。

 それなのに、“記憶と合わない”。

 

 それだけが、はっきりしていた。

 

「……ねえ」

 

 ソラが足を止める。

 

 通りの端、石壁の影を見ている。

 

「……あの人」

 

 指差す。

 

 そこに、ひとりの男がいた。

 

 壁にもたれかかり、動かない。

 目も合わない。

 ただ、そこにいるだけの存在。

 

 だが、妙に目に引っかかる。

 

「……どうした」

 

「……名前」

 

 ソラが呟く。

 

「……分かる」

 

 その言い方は、いつもと同じだった。

 

 けれど。

 

 声の温度が、少し違う。

 

 灰かぶりは男を見る。

 何も感じない。ただの通行人だ。

 特別なものは何もない。

 

 なのに、ソラは動かない。

 

「……呼んでみる」

 

 その一言に、空気がわずかに揺れた。

 

「やめろ」

 

 灰かぶりは即座に言う。

 

「……なんで」

 

「……分かんねえ」

 

 本当に分からない。

 ただ、嫌だった。

 理由もなく、強く拒絶する感覚があった。

 

 ソラは少しだけ迷う。

 

 それでも、視線を外さない。

 

「……大丈夫」

 

 小さく言う。

 

「……呼ぶだけだから」

 

 その言葉の軽さが、逆に不安を煽る。

 

 止めるより早く、ソラの口が開く。

 

「――」

 

 名前になりかけた音が、空気に触れる。

 

 その瞬間。

 

 男の輪郭が、揺れた。

 

 ぼやける。削れる。形が、崩れかける。

 

「……っ!」

 

 ソラが息を呑む。

 

 すぐに口を閉じる。

 

 それ以上は出さない。

 

 出せない。

 

 男は、そこにいる。

 

 だが、さっきよりも明らかに薄い。

 存在の密度が、削られている。

 

「……おい」

 

 灰かぶりが低く言う。

 

「……今の」

 

「……分かんない」

 

 ソラは首を振る。

 

 だが、その目は離れない。

 

「……なんか」

 

 一拍置く。

 

「……触れた」

 

 その言葉は、正確だった。

 

 見たでも、呼んだでもない。

 

 触れた。

 

 内側に、触れた。

 

 灰かぶりの背中に、冷たいものが走る。

 

「……やめとけ」

 

「……うん」

 

 返事はある。

 

 だが、動かない。

 

 視線が、男から外れない。

 

 男は、微動だにしない。

 

 ただ、少しずつ薄くなっていく。

 

 誰も気づかない。

 

 通りはいつも通り動いている。

 

 この場所だけが、切り離されている。

 

「……ねえ」

 

 ソラが言う。

 

「……これ」

 

 一拍置く。

 

「……良くないよね」

 

「……ああ」

 

 灰かぶりは頷く。

 

 それ以上の言葉はいらなかった。

 

 そのとき。

 

「いいね」

 

 声がする。

 

 すぐ後ろで。

 

 軽く、乾いた声。

 

「今の、近かったよ」

 

 楽しそうに。

 

「……お前」

 

 灰かぶりが振り向く。

 

 誰もいない。

 

 だが、気配だけがある。

 

「あと少しで」

 

 一拍置く。

 

「ちゃんと取れたのに」

 

 その言葉に、ソラの肩が揺れる。

 

「……違う」

 

 小さく言う。

 

「……今のは」

 

 否定しようとする。

 

 だが、言葉が続かない。

 

「違わないよ」

 

 声が即答する。

 

「もう触れてる」

 

 はっきりと。

 

「だから、見えてる」

 

 確定するように。

 

 ソラは黙る。

 

 否定できない。

 

 さっきの感触が、まだ残っている。

 

 触れてしまった感覚が、消えない。

 

「ねえ」

 

 声が続ける。

 

「どっちになる?」

 

 一拍置く。

 

「残す側?」

 

 そして。

 

「それとも、減らす側?」

 

 静かに問いかける。

 

 答えは求めていない。

 

 ただ、突きつけているだけだった。

 

 灰かぶりは、ソラを見る。

 

 ソラは動かない。

 

 ただ、そこにいる。

 

 けれど。

 

 さっきまでとは違う。

 

 ほんの少し。

 

 確実に。

 

 何かが、ズレている。

 

 そのズレは、まだ小さい。

 

 だが。

 

 戻る方向ではない。

 

 それだけは、はっきりしていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。