灰の祈りと蒼の名 作:見届人A
昼だった。
朝のざわめきがそのまま続いて、
王都はゆるやかに熱を帯びている。
石畳の通りには人が溢れ、
露店の呼び声が重なり合う。
焼いた肉の匂いと、甘い菓子の香りが混ざり、
どこか気の抜けた空気が漂っていた。
何も変わらない。
そう思える光景だった。
灰かぶりは、
人の流れに紛れながら歩いている。
特に目的はない。
訓練が終わったあと、こうして通りを
流すのが習慣になっているだけだ。
隣には、いつものようにソラがいる。
白い装束に、蒼い布。
人混みの中でも、なぜか目に入る存在だった。
その時、ふわりと甘い匂いが流れてくる。
焼き菓子の匂いだ。
「……いい匂い」
ソラが足を止める。
匂いに引かれるように、
自然に露店の方へと歩いていく。
灰かぶりも、何も言わずについていく。
「これにする」
ソラは並んでいる菓子の中から一つを選び、
手に取った。
表面が少しだけ焦げていて、
砂糖が薄くかかっている。
まだ温かそうだった。
少しの間を置いて、奥から店主が出てくる。
中年の男だった。
……たぶん。
そう見えた。
「銀貨一枚」
「はい」
ソラが金を渡す。
男はそれを受け取り、軽く頷いた。
短い会話。
それだけのやり取り。
何も変わったところはない。
ごく普通の買い物だった。
「ほら」
ソラが菓子を差し出す。
「いらねえ」
「一口くらい食べなよ」
「嫌だ」
「ほんと頑固だよね」
小さく笑う。
それで終わる。
何も起きていない。
「行こ」
二人は露店を離れる。
数歩進む。
人の流れに戻る。
周囲の音がまた戻ってくる。
誰かの笑い声。
呼び込みの声。
足音の重なり。
変わらない王都の昼。
そのまま、しばらく歩く。
特に会話もなく、ただ並んで。
その途中で。
「……ねえ」
ソラが言った。
「なんだよ」
「さっきの人」
一瞬だけ言葉が止まる。
何かを思い出そうとするように。
「……どんな顔だったっけ」
灰かぶりは少しだけ考える。
思い出そうとする。
さっき、確かに見ていたはずだ。
目の前にいた。
金を受け取った。
頷いた。
全部、覚えている。
――はずなのに。
「……分かんねえ」
口に出る。
自分でも少しだけ違和感がある。
「……私も」
ソラが小さく言う。
手の中の菓子を見る。
確かに受け取ったものだ。
温かさも残っている。
やり取りも覚えている。
でも。
その相手の顔だけが、
ぽっかり抜け落ちている。
「……なんでだろ」
軽く言う。
冗談みたいに。
でも、その声にはわずかな引っかかりがある。
「……さあな」
灰かぶりも軽く返す。
深く考えるほどのことじゃない。
そう思おうとする。
けれど。
妙に気持ち悪い。
思い出そうとすると、そこだけ空白になる。
まるで、最初から何もなかったみたいに。
「……まあいいか」
ソラが言う。
無理やり流すように。
「たまにあるよね、こういうの」
「ねえよ」
「あるって」
「ない」
いつものやり取りに戻る。
少しだけ強引に。
違和感を押し流すように。
二人はまた歩き出す。
人の流れの中へ。
声が聞こえる。
足音が重なる。
いつも通りの王都。
何も変わらないはずの景色。
その中で。
ほんの少しだけ。
確かに存在していた何かが。
きれいに抜け落ちていた。
それに気づいているのは。
今のところ、二人だけだった。