灰の祈りと蒼の名 作:見届人A
夕方だった。
昼のざわめきが少しずつ引いて、
王都の空気がやわらかくなる時間。
長く伸びた影が、石畳の上に重なっていた。
二人は並んで歩いている。言葉は少なかった。
昼の出来事が、まだどこかに残っている。
「……ねえ」
「なんだよ」
「さっきの、さ」
一拍置く。
「……消えたやつ」
「ああ」
短く返す。それ以上は言わない。
言わなくても分かる。
しばらく沈黙が続く。人通りは昼よりも少ない。
その分、音がはっきりしている。
足音、風、遠くの声。
そして。
「――ねえ」
後ろから、声がした。
二人は同時に振り返る。
そこに、誰かが立っていた。
距離はそれほど遠くないのに、
顔がはっきりしない。
輪郭だけが、そこにある。
「……誰だよ」
返事はない。ただ、一歩ずつ近づいてくる。
足音はほとんど聞こえないのに、
距離だけが静かに詰まる。
「……ねえ」
さっきよりも近い声。
「名前、なんていうの」
その言葉が落ちる。
ソラの呼吸が、わずかに止まる。
空気が変わる。
何かに触れられたみたいに。
ソラの足が止まる。視線がそちらに向く。
身体が少しだけ傾く。
見えないものに引かれている。
「おい」
灰かぶりが言うが、反応が遅い。
「ねえ」
さらに近づく声。
「名前、教えてよ」
やわらかい声だった。
拒む理由が見つからなくなるような。
ソラの唇がわずかに動く。何かを言いかける。
その瞬間。
頭の奥に、引っかかるものがあった。
――名前、呼んで。
朝の声。はっきりとは思い出せないのに、
感覚だけが残っている。
「……っ」
考えるより先に。
「……ソラ!」
灰かぶりが叫ぶ。強く、はっきりと。
その一音で、ソラの身体がびくりと震える。
「……あ」
焦点が戻る。足が止まる。呼吸が戻る。
数歩、後ろに下がる。
「……今」
ソラが呟く。声が少し震えている。
振り返る。
そこにいたはずのものは、もういない。
最初からいなかったみたいに。
「……なんだよ、あれ」
答えはない。
でも分かる。ただ消えるだけじゃない。
向こうから来る。近づいてくる。
「……私」
ソラが胸を押さえる。
「……言いそうになった」
一拍置く。
「自分の名前」
「……ああ」
否定できない。
「……取られるのかな」
ソラが言う。
怖がっている。
でも逃げてはいない。
「……分かんねえ」
正直に言う。
でも。
「……でも、呼べば戻る」
ぽつりと続ける。確信じゃない。ただの感覚。
「……うん」
ソラが小さく頷く。
「……さっき、戻った」
自分で確かめるように言う。
「……だから」
少しだけ息を整えて。
「……また、呼んで」
真っ直ぐなお願いだった。
「……ああ」
灰かぶりは短く答える。それで十分だった。
二人はまた歩き出す。夕方の王都を、
長く伸びた影の中を。
何も変わらない景色の中で、
ただ一つだけ確かに
変わってしまったことを抱えたまま。
名前は、ただの呼び方じゃない。
それは繋ぎ止めるものだ。
そして同時に、奪われるものでもある。
二人は、まだその途中にいた。