灰の祈りと蒼の名   作:見届人A

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第五話 名前がほどける

 

 朝だった。

 

 王都はいつも通りに目を覚ます。

 鐘の音が鳴り、店の戸が開き、

 人の流れがゆっくりと動き出す。

 

 何も変わらない朝。

 

 そう思えるはずの景色の中で、

 灰かぶりは一人、通りを歩いていた。

 

 隣にいるはずの姿がない。

 

 それだけで、少しだけ違和感がある。

 

「……遅えな」

 

 思わず呟く。

 

 待っていたつもりはなかった。けれど、

 足は自然といつもの場所に向かっている。

 

 石段の前。

 

 いつもソラが立っている場所。

 

 しばらく待つ。

 

 人は通り過ぎていく。

 

 声が流れる。

 

 時間だけが、少しずつ進む。

 

「……来ねえのか」

 

 そう思った時だった。

 

「……おはよう」

 

 後ろから、声がする。

 

 振り返る。

 

 ソラがいた。

 

 白い装束に、蒼い布。

 

 見た目はいつも通り。

 

 でも。

 

 どこか、遅れている感じがした。

 

「遅えよ」

 

「……ごめん」

 

 返事が少し遅い。

 

 それだけのことなのに、妙に引っかかる。

 

 二人は並んで歩き出す。

 

 朝の人混みの中へ。

 

 しばらく、会話はなかった。

 

 いつもなら、

 どうでもいいことを話している時間。

 

 なのに、今日は違う。

 

 静かだった。

 

「……ねえ」

 

 ソラが言う。

 

「なんだよ」

 

「昨日のこと」

 

 一拍置く。

 

「……覚えてる?」

 

「……ああ」

 

 短く答える。

 

 忘れられるはずがない。

 

「そっか」

 

 ソラは小さく頷く。

 

 それで終わる。

 

 それ以上は続かない。

 

 また沈黙。

 

 足音だけが並ぶ。

 

「……私ね」

 

 ぽつりと、ソラが言う。

 

「今朝、ちょっと変だった」

 

 灰かぶりは何も言わず、続きを待つ。

 

「起きた時」

 

 少しだけ目を伏せる。

 

「……自分の名前、分かんなくなった」

 

 足が止まる。

 

 灰かぶりが振り返る。

 

 ソラは、少し困ったように笑っていた。

 

「一瞬だけね」

 

 軽く言う。

 

 でも、軽くない。

 

「“ソラ”って、私のことだっけ、って」

 

 胸に手を当てる。

 

「ここにある感じが、なかった」

 

 言葉を探すように、ゆっくり話す。

 

「……でも」

 

 一拍置く。

 

「昨日、呼ばれたの思い出して」

 

 少しだけ息を吐く。

 

「戻った」

 

 その言葉は、静かだった。

 

 でも、はっきりしていた。

 

「……そうか」

 

 灰かぶりはそれだけ言う。

 

 何を言えばいいのか分からない。

 

 でも、無視はできない。

 

 確実に何かが起きている。

 

「……ねえ」

 

 ソラが顔を上げる。

 

「今、呼んで」

 

「……は?」

 

「いいから」

 

 少しだけ強い声だった。

 

 冗談じゃない。

 

 確認するための言い方。

 

「……ソラ」

 

 短く呼ぶ。

 

 その瞬間。

 

 ソラの肩が、びくりと揺れる。

 

「……うん」

 

 小さく頷く。

 

 少しだけ、安心した顔。

 

「……今のは分かる」

 

「何が」

 

「自分の名前だってこと」

 

 少し笑う。

 

 でも、その笑いは弱い。

 

 完全じゃない。

 

「……やっぱ変だよね」

 

 自分で言う。

 

「……ああ」

 

 否定しない。

 

「昨日のやつ」

 

 ソラが続ける。

 

「関係あるよね」

 

「……だろうな」

 

 それ以外に考えられない。

 

「……ねえ」

 

 ソラがもう一度言う。

 

「なんだよ」

 

「もしさ」

 

 一拍置く。

 

「呼ばれなくなったら、どうなると思う?」

 

 少しだけ、空気が変わる。

 

 軽く聞いているようで、軽くない。

 

「……消えるんじゃねえの」

 

 灰かぶりは言う。

 

 考えたくはないが、自然に出てくる答え。

 

「……だよね」

 

 ソラは頷く。

 

 怖がっている。

 

 でも、目は逸らしていない。

 

「……じゃあさ」

 

 少しだけ、声が小さくなる。

 

「私が分かんなくなったら」

 

 一瞬だけ、言葉が止まる。

 

「……ちゃんと呼んで」

 

 真っ直ぐなお願いだった。

 

 軽さはない。

 

「……ああ」

 

 灰かぶりは頷く。

 

 短く。

 

 それで十分だった。

 

 二人はまた歩き出す。

 

 人の流れの中へ。

 

 声が重なる。

 

 足音が続く。

 

 何も変わらない王都。

 

 その中で。

 

 ソラは少しだけ、遅れていた。

 

 呼ばれて、戻る。

 

 でも。

 

 完全には戻りきっていない。

 

 少しずつ。

 

 ほんの少しずつ。

 

 何かが、ほどけている。

 

 名前が。

 

 存在が。

 

 目には見えないまま。

 

 静かに、確実に。

 

 壊れ始めていた。

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