作:埴輪庭


オリジナル現代/恋愛
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男女の友情は成立するのか?──親友の麻美と長年続けてきた不毛な議論。素直になれない健一は、本心を隠したまま彼女との心地よい関係を続けていた。しかし麻美からの突然の結婚報告が、見て見ぬふりをしてきた想いと長年の関係に終止符を打つ事に。


本作は小説家になろうさんの企画、「秋の文芸2025」で「友情」をテーマとした短編作の転載です

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健一と麻美

 ◆

 

 JR品川駅。時刻は午後八時を少し回ったところだった。金曜日の夜特有の、解放感と一週間の疲労が混ざりあった様な空気が濃密に漂っている。高梨健一はその雑踏の中で立ち尽くしていた。

 

 目の前には学生時代からの──友人という枠組みだけで語るにはあまりにも長い時間を共有しすぎた存在である、市川 麻美が立っている。

 

 麻美はわずかに首を傾げ、健一の目を静かに見据えていた。その瞳の強さは十年以上の歳月を経ても変わらない。だがよくよく見れば、その奥には普段は見せない複雑な色が揺らいでいるように見えた。

 

「それじゃあ、元気でね、健一」

 

 麻美が言った。ありふれた別れの言葉だったがその声は周囲の喧騒にかき消されそうなほど頼りない。

 

「ああ。麻美も、身体に気をつけて」

 

 健一も短く応じた。喉の奥がひどく乾いていた。本来ならば、もっと気の利いた言葉をかけるべきだったのかもしれない。だがそれらは形になる前に胸の奥で硬く凍りついてしまった。

 

 沈黙が落ちる。ややあって麻美がふっと息を吐き、右手を差し出した。

 

「握手、しよっか」

 

 健一は少しだけ目を見張った。握手など、いつ以来だろう。もしかすると、初めてかもしれない。この期に及んで、なぜ握手なのか。その意図を測りかねた。

 

「……ああ」

 

 健一も右手を差し出した。そうして重ねられた手のひらは驚くほど熱かった。麻美の華奢な指が健一の手を思いのほか強く握りしめる。それは単なる友情の確認作業ではなかった。そこには言葉にしてしまえば、すべてが瓦解してしまうような、危うい熱が込められているように感じられた。

 

 視線が交錯する。麻美の瞳が潤んでいるように見えたのは光の加減だろうか。

 

 健一はこの手を引き寄せたい衝動に駆られた。もし、あの時、違う選択をしていたら。もし、もう少しだけ勇気があれば。そんな無意味な仮定が頭の中を駆け巡る。

 

 だがそれは許されないことだった。二人にはそれぞれ帰るべき場所があり、守るべき日常があった。この一線を越えてしまえば、築き上げてきたすべてが音を立てて崩れ去る。

 

「……じゃあ、行くわ」

 

 健一が先に手を離した。その瞬間、手のひらに残った熱が急速に失われていくのを感じた。まるで、夢から覚めるような感覚だった。

 

「うん」

 

 麻美は短く頷く。

 

 健一はもう一度、麻美の顔を記憶に焼き付けるように見つめた後、何かを振り切るように踵を返した。そして自動改札機へと向かう人波の中に紛れていく。

 

 一度も振り返らなかった。振り返れば、決意が鈍ってしまうことを知っていたからだ。

 

 麻美の視線が背中に突き刺さるのを感じながら、健一は歩き続けた。ICカードをタッチし、改札を抜ける。その機械的な音とともに、二人の世界は完全に分かたれた。

 

 これでよかったのだ。自分にそう言い聞かせる。

 

 だがもし、あの時に戻れるとしたら──。

 

 健一の意識は急速に過去へと遡っていった。あの、すべてがまだ可能性に満ちていた、眩しい季節へ。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ◆

 

「だからさあ! 絶対にあり得ないって言ってるでしょ!」

 

 高校二年の秋。放課後の教室は西日に照らされてセピア色に染まっていた。窓の外からは運動部の威勢のいい掛け声が遠くから聞こえてくる。

 

「あり得なくない! 現に、私と健一は友達じゃん! これが何よりの証拠でしょ!」

 

 市川麻美は机に身を乗り出し、健一に詰め寄った。その瞳は勝ち気な光を宿している。彼女はいつもこうだった。自分の信じる正義を、決して曲げようとはしない。

 

「それは『今だけ』の錯覚だ! 何度も言わせるな。男女の間に友情なんて成立しない。絶対に、どちらかが相手のことを意識するようになる。これは生物学的な宿命なんだよ!」

 

 健一は腕を組みながら、吐き捨てるように言った。それは彼なりの持論であり、そして彼自身の心の叫びでもあった。彼は麻美に対して、友情とは呼べない感情を抱いていた。だがそれを認めることは彼にとって敗北を意味した。だからこそ、彼は躍起になって「男女の友情」を否定したのだ。

 

「生物学とか大げさなんだよ! 健一は頭でっかちすぎるの! 理屈っぽい!」

 

「理屈じゃないよ。これは普遍的な真理なんだよ。男と女は根本的に違う生き物なんだ。脳の構造からして違うんだからさ」

 

「でも友達にはなれるでしょ! リスペクトがあれば、性別なんて関係ないじゃん! なんでそれが分からないの!?」

 

 麻美は譲らなかった。

 

「リスペクト? 笑わせるなよ。そんな綺麗事で済むなら、世の中の恋愛トラブルなんて起きないだろ。すべては曖昧な関係から始まるんだ!」

 

「それは極端な例でしょ! なんでそうやって、すぐゼロか百かでしか考えられないの!? もっとこう……ファジー? な部分があるでしょ、人間関係には!」

 

「そんなのないよ、あるのは打算と下心だけだ。 男が女に優しくするのは十中八九、下心があるからだ」

 

 健一は力説する。その言葉はブーメランのように、彼自身に突き刺さっていた。

 

「最低! 健一って、そんな風にしか物事を見れないんだね。がっかりした」

 

「がっかり? 勝手にしろよ。俺はただ、現実を言ってるだけだ」

 

「現実ねえ……。じゃあ聞くけど」

 

 麻美が急にトーンを落とし、健一の顔を覗き込むようにして尋ねた。その距離の近さに、健一は思わずたじろいだ。

 

「健一は私のこと、そういう目で見てるわけ?」

 

「……は?」

 

「だから、健一は私と友達でいるのは下心があるからなの? 私のこと、恋愛対象として意識してるってこと?」

 

 麻美の瞳が夕日を浴びて琥珀色に輝いていた。その瞳の奥にある感情を読み取ろうとして、健一は息を呑んだ。

 

 もし、ここで、ほんの少しでも素直になれば、二人の関係は決定的に変わるかもしれない。その予感が健一を竦ませた。変化が怖かった。今の心地よい関係を失うことが何よりも怖かった。

 

「ばっ……! 誰がお前なんか! 自意識過剰も大概にしろよ!」

 

 健一は反射的に否定した。その声は自分でも驚くほど上擦っていた。

 

「ふーん。怪しいなあ。顔、ちょっと赤くなってるよ?」

 

 麻美が指摘する。その声はどこか楽しんでいるようにも聞こえた。

 

「なってねえよ! 夕陽のせいだ!」

 

 健一はムキになって反論した。心臓が早鐘を打つように高鳴っていた。この動揺を悟られてはならない。

 

「あはは図星だ。健一って、意外と分かりやすいんだね」

 

「うるさい! もういい、この話は終わりだ! 不毛な議論に付き合ってる暇はない!」

 

 健一は立ち上がり、乱暴に鞄を掴んだ。これ以上ここにいたら、自分の本心を暴かれてしまうかもしれない。

 

「あ、逃げるの? 卑怯者! 私の勝ちってことだよね!?」

 

「逃げるんじゃない! お前と話してると、調子が狂うんだよ!」

 

「それはこっちのセリフよ! この意気地なし!」

 

 健一は教室を出ていった。背後で、麻美の勝ち誇ったような、それでいて少しだけ寂しそうな笑い声が聞こえたような気がした。

 

 結局、その日も決着はつかなかった。二人はことあるごとに、この「男女の友情」論争を繰り広げた。健一は「ない派」、麻美は「ある派」。どちらも頑として譲らず、議論はいつも平行線を辿った。

 

 それは傍から見れば、滑稽な光景だったかもしれない。口喧嘩しながらも、二人はいつも一緒にいた。周囲からは「もう付き合っちゃえよ」と冷やかされることもあったがその度に二人は声を揃えて否定した。

 

「こいつとは絶対にあり得ない!」

 

 その関係は心地よかった。だが同時に、もどかしさも感じていた。結局、二人は互いの気持ちに気づかないふりをしたまま、高校生活を終えた。それは二人なりの、不器用な共犯関係だったのかもしれない。

 

 ◆

 

 卒業後、健一は都内の私立大学へ、麻美は横浜の国立大学へと進んだ。物理的な距離は少し離れたが二人の交流が途絶えることはなかった。月に一度は顔を合わせ、互いの新しい生活について報告し合った。

 

 大学三年生の冬。健一が麻美の住む横浜を訪ねた夜のことだった。居酒屋で飲んだ後、二人は雪が舞い散る中を歩いていた。

 

「寒いね」

 

 麻美が白い息を吐きながら言った。マフラーに顔を埋めているせいか、声が少しくぐもって聞こえる。

 

「ああ。横浜って、こんなに雪降るんだな」

 

 健一はポケットに手を突っ込んだまま、感心したように言った。都心よりも、空気が澄んでいるような気がした。

 

「こっちでも珍しいと思うよ。というか都内と大して変わらないよ。そっちも積もるかもしれないね」

 

「マジかよ。電車止まったらどうすんだ」

 

「その時は私の部屋に泊まればいいじゃない」

 

 麻美があまりにもあっさりと、そう言った。

 

「馬鹿言え。そんなことできるわけねえだろ」

 

 健一は即座に否定した。だが心の中では少しだけ、その提案に心が揺れている自分がいた。もし、本当に電車が止まったら。そんな都合のいい展開を期待している自分がいた。

 

「冗談だってば。健一って、相変わらず真面目なんだから」

 

 麻美が笑った。その声には健一の動揺を見透かしたような響きがあった。

 

「うるせえよ。お前が軽すぎるんだよ」

 

「はいはい。そういうことにしておいてあげる」

 

 沈黙が流れた。雪が静かに降り積もっていく。周囲の音をすべて吸収してしまうような、静かな夜だった。

 

「なんかさ、こうして二人で歩いてると、高校の頃を思い出すね。あの頃も、よくこうやって帰り道で言い争ってたよね」

 

 麻美が懐かしむように言った。

 

「そうだな。お前がいつも突っかかってくるからだろ」

 

「私が? 健一が変なこと言うからでしょ」

 

 麻美が笑った。その横顔が街灯のオレンジ色の光に照らされて、ひどく儚げに見えた。

 

 ふと、麻美が立ち止まった。

 

「ねえ、健一」

 

「ん?」

 

 健一が振り返ると、麻美は潤んだ瞳で彼を見つめていた。その表情は今まで見たことがないほど真剣だった。何か、重要なことを伝えようとしている。そんな気配がした。

 

「もし、私が……」

 

 麻美が何かを言いかけた時、健一のコートのポケットで、携帯電話がけたたましく鳴り響いた。その無機質な電子音が二人の間に流れていた繊細で、しかし危うい空気を、容赦なく切り裂いた。

 

「……悪い、ちょっと出ていいか?」

 

 健一は麻美から視線を逸らし、携帯電話を取り出した。正直、助かったと思った。彼女の言葉の続きを聞くのが怖かったのだ。

 

「うん」

 

 電話はサークルの友人からだった。週末の飲み会の、他愛もない確認だった。健一はわざと時間をかけて話した。先ほどの雰囲気を霧散させるために。いや、それ以上、彼女の領域に踏み込まないために。

 

 電話を切った時、麻美はすでに、いつもの快活な表情に戻っていた。先ほどの真剣な眼差しは雪の中に溶けて消えてしまったかのようだった。

 

「ごめん、なんだった?」

 

 健一が尋ねると、麻美は首を横に振った。

 

「ううん、なんでもない。忘れちゃった。大したことじゃなかったし」

 

 そう言って笑ったがその笑顔はどこか不自然だった。

 

 あの時、麻美は何を言おうとしていたのだろうか。もし、電話が鳴らなかったら、二人の関係は変わっていたのだろうか。

 

 健一はそんなことを考えたが結局、それ以上踏み込むことはしなかった。麻美もまた、それ以上何かを求めることはなかった。

 

 二人は常に、友人という境界線を越えないように細心の注意を払っていた。どちらかが近づきすぎると、どちらかが離れる。そんな絶妙なバランスで、二人の関係は維持されていた。

 

 それは互いに対する強がりでもあったのかもしれない。自分たちは恋愛感情などなくても、異性の親友として成立しているのだと、証明したかったのかもしれない。少なくとも、悪い関係ではなかった事は確かだ。

 

 やがて二人は社会人になった。健一は都内のIT企業に、麻美は地元の出版社に就職した。

 

 社会人になってからも、二人の交流は続いた。仕事の愚痴を言い合ったり、時には互いの恋愛相談に乗ったり。二人は変わらず、仲の良い友人だった。少なくとも、表面的には。

 

 だが周囲の環境は変化していった。友人たちが次々と結婚し、家庭を築いていく中で、二人だけがまるで時代の流れから取り残されているような焦りを感じることもあった。

 

 そんな時だった。麻美から連絡があったのは。

 

 ◆

 

 その夜、健一は自宅のマンションで、缶ビールを飲みながら、ぼんやりとテレビのニュースを眺めていた。スマートフォンが震え、ディスプレイに麻美の名前が表示される。健一はなんだか胸騒ぎがした。

 

「もしもし、健一? 久しぶり。元気にしてる?」

 

 電話口の麻美の声はいつもより少し上擦っていて、弾んでいるように聞こえた。

 

「ああ、なんとかやってるよ。相変わらず、仕事は忙しいけどな。どうしたんだ、急に」

 

 健一は精一杯の平静を装って尋ねた。だが胸の奥で、嫌な予感が渦巻いていた。この種の予感は大抵当たるものだ。

 

「実はね、健一に一番に報告したいことがあって」

 

 麻美は少し間を置いてから、意を決したように言った。

 

「私、結婚することになったんだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、健一は頭の中が真っ白になった。耳鳴りがして、テレビの音が遠ざかっていく。心臓が氷の塊で鷲掴みにされたような、冷たい痛みに襲われる。

 

「……そうか」

 

 ようやくそれだけを絞り出した。声が震えていた。それを悟られないように、努めて冷静な口調を心がけた。

 

「うん。相手はね、職場の先輩で、すごく誠実な人なんだ。私のこと、大切にしてくれるの」

 

 麻美は嬉しそうに語った。その声が健一の胸に深く突き刺さった。彼女は自分とは違う誰かを選んだのだ。当たり前のことなのに、その事実が重くのしかかる。

 

「そうか……よかったな。おめでとう」

 

 健一は喉の奥から絞り出すように、祝福の言葉を口にした。それは彼が今できる、精一杯の演技だった。

 

「ありがとう。健一の方はどうなの? 前に話してた彼女とは順調?」

 

 健一にも、当時付き合っている彼女がいた。心優しく、家庭的な女性だった。結婚相手としては申し分のない相手だった。

 

「ああ、順調だよ。実は俺も、そろそろ身を固めようかと思ってるんだ」

 

「え、本当!? すごーい! じゃあ、お互い、落ち着くところに落ち着いたって感じだね」

 

 麻美が明るく笑った。その無邪気な笑い声が健一の心を深く抉った。

 

「そうだね」

 

 健一も無理に笑った。

 

「それでさ、お願いがあるんだけど」

 

「なんだ?」

 

「結婚したら、旦那さんもいるし、なかなか気軽に二人で会ったりできなくなるでしょ? だから、その前に一度、ゆっくり食事でもどうかなと思って。東京に行く用事があるんだ」

 

「……ああ、いいよ。もちろん。いつにする?」

 

 健一は即答した。断る理由など、あるはずがなかった。最後に、二人きりで会いたかった。この関係に、きちんと決着をつけたかった。

 

「来週の金曜日、夜なら空いてるんだけど、健一の都合はどう?」

 

「大丈夫だ。空けとくよ。店は俺が予約しておく。品川あたりでいいか?」

 

「うん、ありがとう。楽しみにしてるね」

 

 電話を切った後、健一は深くため息をつき、ソファに崩れ落ちた。

 

 麻美が結婚する。それは喜ぶべきことのはずだった。親友の幸せを願わないはずがない。

 

 だが心の奥底では何か大切なものを、決定的に失ってしまったような、そんな喪失感があった。

 

 なぜ、こんなにも苦しいのだろうか。答えはとうの昔に出ていたはずだった。ただ、それを見ないふりをしてきただけだった。

 

 ◆

 

 そして約束の日が来た。

 

 健一は品川駅近くの、落ち着いた雰囲気のイタリアンレストランを予約していた。窓際の席からは都会の夜景が一望できた。皮肉なことに、恋人たちが愛を語らうには最適な場所だった。

 

 先に店に着いた健一は席に着くと、ワインリストを眺めるふりをしながら、麻美が来るのを待っていた。胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。

 

 やがて店のドアが開き、麻美が入ってきた。

 

「ごめん、待った?」

 

「いや、俺も今来たところだ」

 

 健一は顔を上げ、麻美を見た。彼女は淡いブルーのワンピースを着ていた。髪は綺麗にセットされ、薄く化粧もしている。

 

「綺麗になったな」

 

 思わず、そんな言葉が口をついて出た。

 

「え? ありがとう。健一もなんか貫禄出たね。スーツ、似合ってる」

 

 麻美が笑った。その笑顔は昔と少しも変わっていなかった。

 

「ただの運動不足だよ。笑わせるな」

 

 二人は席に着き、まずはスパークリングワインで乾杯した。

 

「結婚、おめでとう。改めて」

 

 健一はグラスを掲げながら言った。今度は心からの祝福の言葉だった。そう思いたかった。

 

「ありがとう」

 

 麻美は少し照れたように微笑んだ。

 

「式はいつなんだ?」

 

「来年の春頃かな。まだ具体的には決まってないんだけど。準備が思ったより大変で」

 

「そうか。大変だろうけど、頑張れよ。一生に一度のことだしな」

 

「うん。健一の方も、近いの?」

 

「ああ、まあ、年内にはプロポーズしようかと思ってる」

 

 強がりが半分、事実が半分といった所だ。健一にも付き合っている相手はいた。ただ、結婚を強く意識したことはなかった。相手が結婚従っている事は何となく気付いてはいたものの、踏ん切りをつけられずにいた。

 

「そっか。お互い、幸せになろうね」

 

 麻美が微笑む。

 

 それから二人は他愛もない話をした。仕事のこと、共通の友人のこと、最近の出来事。会話は途切れることなく続いた。久しぶりに会ったとは思えないほど、自然な空気だった。まるで、学生時代に戻ったかのような、心地よい時間だった。

 

 だが話題が思い出話に移った時、空気が少し変わった。

 

「そういえばさ、覚えてる?」

 

 麻美がワイングラスを傾けながら、言った。その瞳にはいたずらっぽい光が宿っていた。

 

「何を?」

 

「高校の頃、よく言い争ってたこと。男女の友情はあるかないかって」

 

 その言葉に、健一はドキリとした。忘れるはずがなかった。あれは二人の関係を決定づけた、最初の分岐点だったのだから。

 

「ああ……あったな、そんなことも」

 

 健一は苦笑した。

 

「あの頃は私もムキになってたなあ。健一が絶対にないって言うから、意地でも証明してやろうと思ってた」

 

「俺も、頑なだったよな。若かったんだよ。青臭い持論を振りかざしてさ」

 

「ふふ、そうだね。あの頃の私たち、若かったよね」

 

 麻美は笑った後、少し真面目な顔になって、健一を見た。その視線は真っ直ぐで、強かった。

 

「ねえ、健一。今はどう思う?」

 

「え?」

 

「男女の友情、あると思う?」

 

 その問いかけは予想外だった。健一は少し考え込んだ。この問いにどう答えるかで、二人の関係の最終的な形が決まる。そんな気がした。

 

「……どうだろうな」

 

 正直なところ、わからなかった。もし、男女の友情が成立するなら、なぜ自分はこんなにも胸が苦しいのだろうか。なぜ、彼女の結婚を前にして、こんなにも感傷的になっているのだろうか。だがもし成立しないと言うなら、これまでの二人の関係は何だったのだろうか。すべてが偽りだったということになってしまう。それだけは認めたくなかった。

 

「俺は……」

 

 健一は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「あって欲しい、と思うよ」

 

 それは彼なりの精一杯の答えだった。肯定でも否定でもない、曖昧な願望。

 

「あって欲しい?」

 

「ああ。もし、男女の友情が成立しないなら、俺たちはこうして会うこともできないだろ。それは少し寂しいじゃないか」

 

 健一は慎重に言葉を選びながら続けた。

 

「俺たちがこうして今ここにいることがその証なんじゃないかって。そう信じていたい。そう思わなきゃ、俺たちが過ごしてきた時間が全部、色褪せちまう気がするから」

 

 それは健一なりの、二人で過ごしてきた時間への肯定だった。たとえそれが歪な形であったとしても。そしてこれからも友人として関係を続けていきたいという、彼なりの精一杯の意思表示だった。

 

「……そっか」

 

 麻美は少し驚いたような顔をした後、静かに微笑んだ。その表情からは彼女が何を思っているのか、読み取ることはできなかった。

 

「私も、同じだよ」

 

「え?」

 

「私も、あって欲しいと思う。健一とはこれからもずっと、友達でいたいから」

 

 その言葉は健一の胸に深く響いた。

 

 友達でいたい。それは麻美の本心だったのだろう。だが同時に、それは二人の関係に明確な線を引く言葉でもあった。

 

 私たちはこれからも友達でいましょう。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 健一は麻美の瞳の奥にある、複雑な感情を読み取ろうとした。彼女は本当に、それで満足なのだろうか。それとも、自分と同じように、諦めと後悔を抱えているのだろうか。

 

 だがそれを確かめる術はなかった。もし、ここで自分の本当の気持ちを伝えたら、すべてが壊れてしまうだろう。彼女の未来を、そして自分の未来を、壊す権利は自分にはない。

 

「そうだな。俺たちはずっと、親友だよ」

 

 健一はそう言って、笑った。それは自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。

 

 二人は友情という言葉の陰に隠れて、互いの本心から目を逸らし続けてきた。臆病だったのだ。若さゆえのプライドと、失うことへの恐怖が二人を縛り付けていた。そして気づいた時にはもう引き返すことはできなくなっていた。

 

「ねえ、健一。『友』っていう漢字の成り立ち、知ってる?」

 

 唐突に、麻美が尋ねた。

 

「いや、知らないな」

 

「右手を突き出した形を二つ重ねたものなんだって。手と手を取り合って、助け合う。それが友情」

 

「へえ、そうなんだ」

 

「私たちも、そうやって助け合ってきたわよね。辛い時も、嬉しい時も」

 

「ああ」

 

 麻美はそこで言葉を切り、窓の外の夜景に目をやった。その横顔は何かを堪えているように見えた。

 

「……なんてね。ちょっと感傷的になっちゃったかな」

 

 彼女はすぐに視線を戻し、健一に笑顔を向けた。

 

「楽しかったね、今日。ありがとう、健一」

 

「ああ、俺もだ」

 

「そろそろ、時間だね」

 

 麻美が時計を見ながら言った。

 

「ああ、そうだな」

 

 健一は伝票を手に取り、立ち上がった。

 

 そして二人は並んで、品川駅へと向かい──

 

 ◆

 

 品川駅。午後八時過ぎ。

 

「それじゃあ、元気でね、健一」

 

「ああ。麻美も、身体に気をつけて」

 

 差し出された右手。交わされる握手。

 

 重ねられた手のひらは熱かった。麻美の指が健一の手を強く握りしめる。

 

 それは別れの挨拶であり、そして二人の間に交わされた、無言の契約でもあった。

 

 私たちはこれからも友達でいましょう。たとえ、心の中にどんな感情を抱えていたとしても。

 

 視線が交錯する。麻美の瞳が潤んでいた。

 

「……じゃあ、行くわ」

 

 健一が先に手を離した。

 

「うん」

 

 健一は踵を返し、自動改札機へと向かう。

 

 改札を抜け、人混みの中に紛れていく。

 

 胸の中に、ぽっかりと穴が空いたような気がした。だがその穴を埋める術はもうどこにもない。

 

 これでよかったのだ。自分にそう言い聞かせる。

 

 健一はポケットに手を突っ込み、自分もまた、帰るべき場所へと向かって歩き出した。

 

 ──もしあの時

 

 頭の中で聴こえるそんな声を無視しながら。

 

(了)

 

 


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