お待たせしておりますが、本年もよろしくお願いします。
大体三、四年前からか────息子の微妙な変化に、進藤美津子は上手く言葉に出来ない感情があった。
例えば唐突に、休日のお昼時のテレビを占領して特定の盤上競技の番組を見だしたり。
例えば夫に懇願して、図書館やら書店やらいろいろ巡り歩いて盤上競技の本を読み漁ったり。
もともとスポーツが好きで、サッカーやらドッジやら運動を得意としていたわが子だ。その急な変化には困惑しかなかった。ただ義父が、息子のはじめた競技については得意だというのもあって、困惑するがまあ有り得る変化の一つなのだろうと、それはそれとして受け入れた。
「それ本当どうしてこんな風に……、別に悪いって訳じゃないんだけど…………」
「だから、あかりはここに打ちたいってのは俺だってわかってるからさ。そういうのを想定して打つんといいぜ? こう、恐れを勇気に変える的な」
「恐れとか言われてもわかんないよ」
「ありゃ? あー、そのあたりはまだか……」
自宅のリビングで。テーブルに座りながらマグネットの
本当、どうしたものかしらと。子供の興味関心なんて移り変わりが激しいものと、この一児を見ていて良く知っていたからこその困惑は、おそらく夫は共有できまい。
お昼の支度をしながら、美津子は何とも悩ましいような、どこか寂しいような感覚に襲われていた。……料理に関しては時折、息子の彼女になった藤崎あかりに手伝わせてはいるものの、今日はいちゃいちゃしたい! という気分の日なのはなんとなく見てて察したので、気にせず一緒に遊んでなさいといったら、もう
息子の膝の上に座る彼女……、息子の背が伸びてきたので頭の位置が釣り合い始めているが、まだちょっと息子の方が彼女より小さく、ぎりぎりその肩から盤面やテレビを見たりしている位置関係。そんな状態で後ろから軽く抱きしめられつつ、後ろから耳に吹きかけられる声に頬を赤らめ嬉しそうな彼女。……昔から相手の家とは保護者会で顔合わせもしていたし、娘がヒカル君のこと好きみたいねと雑談してた時も微笑ましい気持ちになっていたが、息子の変化に影響されてかあの子も色々と動きが容赦なくなってきているように思わなくもない。
そう、変化したのは息子だ。
それこそ突如、囲碁の面白さに目覚めた小学三年生当時の進藤ヒカルだ。
一過性の話だろうと、そのうちまた飽きてスポーツに戻るだろうと思ていたが、そのままズルズル引きずってプロになる! とか言いだすまでに心血を注いでる姿は、不気味とは言わないが不可思議ではあった。
繰り返すが、わが子の変化に美津子は不思議という感情が強い。
強いのだが、別にそれが何だという話でもあった。
そもそも子供には普通に育って、普通に食いはぐれて欲しくない、くらいの感覚だ。
その過程で女の子への接し方や勉強の取り組み方など、色々と強く注意しようとしたとき、夫から注意されたことはあるが、それとて普通の生活の仕方のはずだ。
……別に「美津子の言うとおりにすると、注意じゃなくて矯正になるから。とりあえず本人がどう動くかを見た上で、まずは言葉で留めておこう」くらいの話だったし、そこまでおかしなことだとは思わないのだが。
そういったことを置き去りにして、碁に目覚めた息子は急速に心構えが大人になっていった。美津子はそう思っている。
食器の片づけや着替えなどはルーズなところが残っているものの、それでもよく「ありがとう」と言ってくるようになったし、なんなら不慣れながらも手伝おうという時もある。あかりが片付けてるのを見てソワソワしてから微妙な顔になってからが結構多いが。……このあたりは、ヒカルなりに誰にも話せない事情が関わるのだが、そこまでは察しきれていない美津子であった。
勉強もきちんとこなすし、夜更かしの回数が減ったような気はする。
ラーメンの
食費に関してはもともと
デート費用は結構、別途「お願いします!」と遠出するときなどに頭を下げたりすることがあるので、まあどうしたものかと。
ただ行先や関連施設がおおむね囲碁に関係しているのは、本当に大丈夫か心配になる。
彼女のあかりは「楽しそうなヒカルのこと間近で見られるなら全然!」と笑っているが、それを踏まえてもいつ飽きられるのかと冷や冷やしていた。
「でも何で囲碁なんて……、お義父さんの碁盤をもらったからってもう辞めると思ってたのに」
当然、色々と彼女も相談先をつのった。
夫は「好きにやらせてあげなさい」「社会の壁を知るのはもうちょっと後でも良いと思う」と言って、息子の育て方については放置まではいかないものの、あまり頼りにならない。
父は父でヒカルには甘いので、こればかりはと義父にも相談した。あちらはあちらでもともと碁に関してはそれなりに強いらしいと聞いていたし、ヒカルが碁に目覚めたきっかけも義父との関係だと睨んでいたのもあり、いろいろ話したりはしたのだ。
『美津子さん、アンタにわからないところはワシにもわからんよ』
そう笑われてしまったので、まあ、本当どうしたものかという感想ではあったのだが。
それでもヒカルの碁の腕などを聞いたりしていると、どうやらプロを目指すというのがけっこう現実的なことを見据えての話らしいというのを知らされたり。
一、二度、義実家の方にヒカルが友達を連れて遊びに来たとき(?)、一緒にいた友達がなんでも碁のプロのお子さんで、しかも将来有望視されてる子だとかなんとか。……実態としては「塔矢プロの子に勝った」というヒカルの物言いを信じられないと言った祖父に対して、証拠として連れてきたというのが実際のところだが、さておき。
その子と打って普通に勝ったり、あまつさえ指導している時もあるなど聞いて、ちょっと何言ってるかわからなかったし。
『その、そんなに有名なんですか? アキラくんって子の親御さんは』
『有名も有名じゃ! 何というかの、アンタ……、アレだアレ、野球で言うと時速150キロ越えの球を多数の変化球で投げられる上、打てばほぼ必ずホームランをこなす様な漫画みたいな野球選手。それを囲碁に置き換えた感じじゃ。オリンピックで百メートル走りとやり投げの両方で金メダル争いしてるようなもんじゃな』
『オリンピック……?』
『複数回MVP受賞とか前例がないレベルで強いようなプロじゃ。素人目のワシも知っとるくらいだし、なんならN○Kの講座番組にもたまに出ておるぞ?』
『へぇ~~~~?』
説明されてもいまいちわからなかったが、それでも何かとんでもないことが自分の知らない形で起こっているのかもと。それだけは少しだけ察し始めたあたりで、ヒカルのあの発言だ。
小学生もそろそろ終わり際というところで、いつものように遊びにくるあかりと、それを出迎えるヒカル。ちょうど家には夫と美津子の双方がいるタイミングで、それは起こった。
思えば「今日もお招きいただきありがとうございます!」とかガチガチになりながらあかりが言ったあたりで「おや?」と何かデジャブのようなものを感じたし、お菓子とかも作って持ってきたのを見て「積極的ねぇ」くらいに思ってはいたのだが、果たして。
『えっと……、ヒカルくんをください! あ、じゃなかった、私をもらってください!』
『落ち着け何か全体的におかしなことになってっから……。あ、でもそういう話だから』
面食らったのも無理はない。
居間であかりの持ってきた自家製蒸しケーキみたいなものを食べながら、話があると言われて何かしらと顔を合わせた結果のこれである。
聞けば何やら、将来囲碁のプロになりたいという前提があるとかで。
それを起点にあかりとの関係をどうするかと話し合ったら、なんだかんだプロポーズのような形になって今に至ると。
うん、ちょっと何言ってるか分からない。
美津子のそんな心境など軽く無視して、ヒカルはヒカルでまた妙に大人びたような雰囲気のまま話し出す。
『あー、いや、あかりが俺のこと好きだーってのはなんとなくわかってたけど、どれくらい好きかって話を突き詰めていったらまあ、なんだかこのまま放置して俺がプロ行くと高校大学と告白されてもロクに付き合わなくて、一回ためしに付き合ってみたけど趣味が合わなくて結局まともに付き合えないし、そのまま院に行った方がコネ的に良いってサークルの先輩から色々そっちに言われた通り進学したは良いものの不況とかとタイミングがかち合っちまって就職難民になっちまって、何かの拍子がないとちょっと面倒なことになったりするんじゃないかなーって』
『何でそうやけに具体的なのよ……?』
ヒカルの隣に座っていたあかりも「えっなにその残酷物語?」みたいなことを言ってヒカルの手を軽く引っ張ってる。……緊張してるのか、恋人にぎりでぎゅっとにぎっているのが愛らしくも見えるが、なんとなくデジャブを覚える美津子。
嗚呼これ、自分の結婚挨拶の時のだと。そのデジャブの正体に気づくと同時に、ヒカルとあかりが年齢不相応にかなり真剣に考えた上で顔合わせに来たのだと察してしまった。
『とりあえず藤崎家にもまあ、近いうちお伺いには行くんだけど……、あっそれまでに電話であっちの親御さんとかに相談なしな! ちょっとこういうのは違うだろって思うから、まだ』
『ま、まだってヒカルあなた何言ってるのよ?』
『俺とあかりは本気だけど、どこまで本気で取り合ってくれるかってハナシ。いやほら、プロにさえなっちまえば後はなんとかなるって思ってるけれど、基本的に今の段階で稼ぐ能力とかないから無責任なこと言ってるしうちでもじーちゃんでさえ正確に俺の棋力、あー、実力とか測れてないから? 色々言ったところで何ってんだって感じだろ?』
それはそう、と。思わず隣の夫と顔を見合わせて首肯してしまった美津子に、だからさ、とヒカルは言った。
『だから最終的には大ごとになっても、つーかそれも違うか? まあ、話は両家において大きくはならざるを得ないんだけど。それはそうとして、最初くらいはしっかり顔合わせくらいはそういう形でしときたいっつーか』
『…………言うからにはちゃんと、これからどうするかは考えてるんでしょうね』
『当たり前。ま、ないとは思うけどダメな場合のキャリア設計的にも、少なくとも最低ラインとして中学時点で挑戦しとかないと、どうしようもないってハナシ』
そして語られた中長期を想定したあかりとの将来設計について────どのあたりの段階でどの程度勉強しておけば偏差値的にどのラインを狙えるのか、その結果どういった企業に入社するのか(コネ自体はあるから囲碁関係の会社へツナギは作れるなど含めて)。それらを前提としたときに、少なくとも中学1、2年でプロ試験を受けるようなことをはじめておく必要があるだろうと、それくらいしておかないと隙間や猶予が出来ないだろうという話である。
『仮に大検(※今でいう高等学校卒業程度認定試験)受けるって話になっても、ちゃんと一旦止めることは出来るの? あなた』
『スパっと辞める! とは言わないけど、それでもあかりの人生には責任持つって言ったしさ』
『あなた……、言うようになったわねヒカル』
『どういう意味?』
……ヒカルとしては当然のように息子や娘とまた会いたいという意志もあるわけで、実際どうなるかはわからないのだが、それでも努力することに別段、違和感は感じないのだが。
それゆえに彼の発言は「今の囲碁界のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今の囲碁界のままではいけない」くらいのトートロジー的に当たり前という発言であるのだが。果たしてそれを受けた方に、彼の声音がどう聞こえるかという話である。
その場合の勉強はどうするのかと問えば、ヒカルの隣のあかりが「べ、勉強は私が!」と胸を張って言って来たり。ヒカルが碁を彼女に教えるように、彼女もヒカルに勉強は教えると、そういうことらしい。
『その……、私にとってヒカルくんは、かけがえがない人です。ヒカルくん以外には絶対、ヒカルくんの代わりなんて出来ません。私、まだまだ子供だし、背はヒカルよりまだ大きいけど、それだって抜かされちゃうと思うけど────』
このあたりで「実際抜かすけど、身長はお前の願望もだいぶ入ってね?」と苦笑いされるが、思いの丈を乗せて発される言葉の勢いのせいもあり、あかりは気づかない。……実際、お姫様抱っことかに年甲斐もなくあこがれちゃうアラサー女子になったりするあかりなのだった。
『────それでもずっとヒカルくんのそばで、ヒカルくんのことを見たいです! 見ていきます! ヒカルくんの赤ちゃん産んで、一緒に孫も見守って、囲碁だってちゃんとやるし……、洗濯物たたむの下手だとか、アイロンがけ下手っぴだとか、味付け濃いのが好きすぎてちょっと健康心配とか、ヒカルくんの他のダメなところ全部、引き受けます!』
『えっ?』
『だからどうか、私にヒカルくんをください! これからも末永く、お付き合いさせてください!』
『おいおい話が最初に戻ってるって……』
いやもらいに行くの俺の方だからお前のこと、とツッコミを入れるヒカルに、照れながらあうあう言ってるあかり。今どき漫画でも見るか見ないかというレベルの誇張された照れ具合だが、それくらい頭いっぱいいっぱいになるほど自分の息子を好いてくれているという姿に、何とも言えない感情が去来する美津子であった。
眩しいものを見たような……、それでいて段々と自分の手から離れていく姿を見ているようで。
「あっ、並べるの手伝います! 流石に」
「ありがとうね、あかりちゃん。……これからもよろしくね?」
「はい!」
笑顔を浮かべる、このままいけばおそらく義娘になりそうな愛らしい少女。
小さいころから知っているからこそ、照れる彼女の様子にむずがゆさも感じる美津子である。
思えば幼稚園の頃から気が付くとヒカルの後をついて回っていたなと。そしてこんな愛らしい子が、ずっとヒカルのことを好きでい続けてくれているという状況が、やっぱり不思議で。
恋心なんて美津子もわからないわけではないが、それにここまで真正面から答えようと考える息子も、やっぱり不思議で。
「どうしてこうなっちゃったのかしらねぇ……」
ただ、何も言わずとも椅子を並べたりテーブルを台ふきで拭いたりしている姿を見て。それでもぬぐえない不安感とどう向き合うか、美津子は美津子なりに答えが見つかっていなかった。
少なくとも自分の夫と藤崎さんの旦那さんとが「中学一年は勉強して活動実績を出しなさい」と言ったこともあってセーブがかかっているだろうけど。もし来年から動き出したら果たして自分のこの胸にある恐ろしさはどうなってしまうのやら。
親としてはこれでいけないと思いつつも、それでも笑いあう子供たちの姿に、美津子はまだ覚悟を決めきれないでいた。
※
一方、ヒカルとあかりはといえば。
「ヒカルは、パソコン持たないでよね。絶対」
「な、何で……?」
昼食を終えた後にヒカルの部屋で夏休みの宿題をする二人。それなりに量が出されたこともあり、碁盤のかわりに部屋の中央にちゃぶ台を置いて、二人対面な形で色々と作業してるのだが、そのときにふと「そういえば」とあかりが言ったのだ。
困惑するヒカルであったが、あかりの側としては理由は明確。
「いや、アキラの家で打ってるときは別に何も言わないのに、何でいきなり……?」
「だってヒカル、打てるってなったらずっとsaiって人のこと探して打とうとしそうだし」
「…………」
えっ? と聞き返したヒカルに、あかりはなんてことのないように「違う?」と微笑む。
今のヒカルのことなら何でもわかっちゃうんだから、と言いながら、ヒカルのほっぺをつんつんつついて得意げだ。
「わかるもん。
「ま、まあ、否定はしねーけど、でもずっとって訳じゃねーからな? 上手く言えねーけど」
ごまかすわけではない本心だが、あかりがどういう意図から聞いて来ているのかがわからないため、思わず尻込みするヒカルだ。
……かつての未来においても一度かなり大きな夫婦喧嘩をした時も終始あかりが何を意図しているかわからず、一時避難とばかりにアキラの家に転がり込んで一日中碁を打ち、「あらまあ……」とあちらの妻に怒られて説教されたこともあるヒカルである。
少なくとも今より子供だった当時のヒカル(※成人済、2子あり)よりは間違いなく老獪となったヒカルだが、だからこそいっそあかりのピュアさのようなものを読みづらいときがあるのだった。
もっとも、対するあかりもそこまで深刻ではないらしい。
「なんだろうねーヒカルって。昔のヒカルだったら違うけど、今のヒカルだったらね。それこそ私がプロになれるくらい碁が強かったら、ずっと夢中になってくれるかなーって思ったこともあるんだけど」
「それも良し悪しっぽいってのはなんか思うんだけどなあ……」
実際、人づてに四六時中バチバチするからそこまで良くないと聞いたことがあるからこそ、奈瀬の「誰か丁度良い感じの相手紹介して!」というリクエストに対して悩まされた経験のあるヒカルゆえのコメントである。
「でもなんだかんだ、今のままの私を大事にしてくれるのはわかってるから。だから私もヒカルに、囲碁と一緒に他の人生も楽しんでもらいたいと、もっと別な楽しみも一緒に味わってほしいと、そう思うのでーす」
「……おぅ」
ここで「囲碁以外にも」とか「囲碁をいったん辞めて」と言い出さないあたり、あかりのヒカルへの理解度が高いと言える。伊達や酔狂でずっと見てると言ってる訳ではないのだと思い知ったヒカルだ。
ただ、なんとなくあかりのその笑顔を見てぞわっとした寒気が走った気がしたが、きっと気のせいである。たぶん、きっと。
「で、パソコン買ったらそれも全部囲碁一色になっちゃうから、それは止めて欲しいと」
「私も寂しいけど、まあ、私はヒカルのこと見られたら幸せだから。……でも、ヒカルの赤ちゃん産んだ後とか、赤ちゃんが育っていったあと、進路とか、子育てとか、それでも少しも気にかけないでずっと打ってたりしたら、ちょっとね。子育ては大変だけど、ヒカルと私の赤ちゃんなんだし……、赤ちゃん、うふふ……、ふふ…………!」
「だから気が早いってのっ!」
実際、あかりの指摘に少しぐさりと古傷をえぐられるヒカルではあったが。
それ以上に、なんだか流し目な笑みを浮かべる雰囲気が怪しくなり始めたあかりを前に、ヒカルは関係詰めるの早すぎたかなと、少しだけ後悔をした。
……
遅ればせながら、アンケありがとうございました
②ヒカル・ストーカー対策に追われ同居する を先行で制作していきます・・・
番外編第三弾、どちらを先に読みたいかアンケート (期限:12/10ごろ迄))
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①緒方・ヒカルとの本因坊戦前夜のあれそれ
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②ヒカル・ストーカー対策に追われ同居する