千年後まで御機嫌よう   作:エクシーク

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第32話:焦燥 ー届かぬ祈りー

病室には、奇妙な匂いが満ちていた。

 

薬草の苦味。

煮詰めた根の青臭さ。

そして、鼻の奥にまとわりつく、何とも形容しがたい悪臭。

 

奇魂湯。

かつてナキアミが、ザムド化から戻り意識を失っていたアキユキへ飲ませた薬湯だった。

ヒルコを鎮める作用を持つが、その匂いはおよそ人が進んで口にするものではない。

そのはずだった。

 

「……ぷはっ」

 

ナキアミは、木椀を両手で持ったまま、一息にそれを飲み干した。

喉の奥を焼くような苦味が通り過ぎる。

胃の奥で熱が広がり、胸元に宿る胎動窟の鼓動が、かすかに落ち着きを取り戻していく。

 

悪臭も、苦味も、懐かしさすらあった。

ザンバニ号の医務室。

薬草を煎じる湯気。

意識を取り戻したアキユキが、顔をしかめながら飲んでいた姿。

 

だが、今はそんな記憶に浸っている余裕などない。

 

「……おかわり」

 

椀を差し出す。

目の前にいた女性が、ぽかんと口を開けた。

 

「えっ……?」

 

「おかわりだ」

 

「いや、あの……これで四杯目ですけど」

 

「問題ない」

 

ナキアミは即答した。

身体はまだ重い。

指先は痺れ、膝に力が入らない。

胸元に宿る胎動窟の幼い鼓動も、邪悪なる真正ヒルコ(アニマ=ノア)の侵食に怯えるように震えている。

 

だが、そんなことはどうでもよかった。

 

早く動けるようにならなければならない。

今すぐ立ち上がらなければならない。

アキユキのもとへ行かなければならない。

 

彼は行ってしまった。

 

「責任は負わなければならない」などと、勝手にすべてを背負った顔をして。

こちらの手をほどいて。

こちらの声を置き去りにして。

 

ナキアミは、椀を握る手に力を込めた。

 

「……本当に、あのバカは」

 

低く呟く。

あれは責任ではない。

ただの自罰だ。

 

負う必要のない罪まで背負い込み、自分だけで終わらせようとしている。

まるで、自分の命ひとつで帳尻が合うとでも思っているように。

それが、どうしようもなく腹立たしかった。

 

そして、その怒りの矛先はアキユキだけに向いているわけではない。

止められなかった自分にも向いていた。

目覚めたばかりで、まともに身体を動かせず、彼の袖すら掴み続けられなかった自分への苛立ち。

 

だからナキアミは、激臭のする薬湯を、意地のように飲み続けていた。

女性は困ったように眉を下げる。

 

「あの……さすがにこれ以上は、逆効果なんじゃないでしょうか。いくら薬って言っても、飲み過ぎは毒です」

 

「……む」

 

ナキアミは、ようやく自分の手元を見た。

空になった椀。

部屋に充満する奇魂湯の匂い。

困惑しきった女性の顔。

 

ようやく我に返る。

 

「……そうか。すまない。冷静さを欠いていた」

 

ナキアミは小さく頭を下げた。

女性は慌てて両手を振った。

 

「い、いえ! 謝られることじゃないです。ただ、その……先生も先生ですけど、あなたもかなり無茶をする人なんですね」

 

「先生?」

 

「あ、竹原先生です。ここでは、そう呼んでいる人が多いので」

 

その呼び方に、ナキアミは少しだけ目を細めた。

 

アキユキが医者。

そういえば、父親が医者をやっていたとか言っていたな。

―――なるほど。確かにそう言われれば納得だ。

 

「そういえば、まだ名を聞いていなかったな」

 

ナキアミが言うと、女性は少し姿勢を正した。

 

「あ、はい。ミノル……楪ミノルです。先生には、命を助けてもらいました」

 

年の頃は二十前後だろうか。

灰がかった黒い髪を肩のあたりでまとめている。

目は、深い赤。

 

その赤を見た瞬間、ナキアミの中で古い記憶が揺れた。

 

サンノオバの龍宮。

白い髪。

赤い瞳。

真正ヒルコを受け取り、世界中にザムドを生み出す種を撒いていた使い人たち。

 

シロザも、その一人だった。

彼らはサンノオバの意思を運ぶ者であり、同時に、祈りと罪の境目に立たされた者たちでもあった。

 

ミノルは白髪ではない。

だが、その赤い瞳と、どこか透けるような顔立ちには、彼らの面影がかすかに残っているように見えた。

 

(……名残、なのか)

 

千年も経てば、血も、役割も、信仰も薄れていく。

だが、完全に消えたわけではないのかもしれない。

ナキアミは胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。

 

「ミノル」

 

「はい」

 

「なぜ、ここにいる。奇魂湯の作り方を知っているのと、何か関係があるのだろう?」

 

ミノルは少しだけ目を伏せた。

それから、ぽつりぽつりと語り始めた。

 

聖地近郊の街で爆破事件に巻き込まれたこと。

人工ヒルコに侵され、ヒトガタへ変わってしまったこと。

自分の意識が暗い水底へ沈んでいく中で、かすかに誰かの声を聞いたこと。

そして、アキユキがワクチンを打ち、自分を人の姿へ戻してくれたこと。

 

「でも、完全に元通りってわけじゃなかったんです。人工ヒルコの残りが体の中にあって、それを少しずつ鎮めるために、先生がこの薬を飲ませてくれて」

 

ミノルは、苦笑した。

 

「最初は本当に無理でした。臭すぎて。飲むくらいならもう一回寝込んだほうがマシだと思ったくらいです」

 

「それは、まあ……分からなくはない」

 

ナキアミは真顔で頷いた。

 

「でも、飲まないと先生が怒るんです。怒るというより、呆れながらずっと待ってるんです。だから、そのうち慣れました。作り方も教わりました。先生、ずっとここにいるわけじゃなかったので」

 

アキユキが不在の間、自分で煎じて飲むために覚えたのだという。

ナキアミは静かに聞いていた。

 

鏡の世界で、アキユキから聞いていた。

アニマ=ノアが人工ヒルコを使い、かつてのサンノオバの使い人たちの行為を模倣するように、世界各地で惨劇を起こしていること。

 

その被害者の一人が、今目の前にいる。

そしてその少女には、もしかすると、かつての使い人たちの血の名残があるのかもしれない。

 

加害の記憶を宿す系譜が、今度は被害者としてここにいる。

あまりにも皮肉だった。

あまりにも、因果めいていた。

 

「……そうか」

 

ナキアミは、短く呟いた。

それ以上の言葉は出てこなかった。

ただ胸の奥で、古い痛みと新しい痛みが重なっていく。

 

そして、耐えきれなくなった。

 

「少し外を見る」

 

ナキアミは寝台から身体を起こした。

途端、視界が揺れる。

膝が笑い、胸元の白緑の鼓動が強く乱れた。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

ミノルが慌てて肩を支える。

 

「まだ無理です! 立つだけでも危ない状態なんですよ!」

 

「……外の様子を見るだけだ」

 

「それ、絶対に見るだけじゃない人の言い方です」

 

ナキアミは答えなかった。

寝台の縁に手をつき、強引に立ち上がろうとする。

 

身体が言うことを聞かない。

だが、そんなことは関係ない。

今こうしている間にも、アキユキは自分を犠牲にしようとしているかもしれない。

ナクセナザムドと戦い、勝てもしない戦いに身を投じているかもしれない。

 

「だが、じっとしているわけには……」

 

「だから駄目ですって!」

 

ミノルが必死に引き留める。

 

「先生みたいなこと言わないでください!」

 

その言葉に、ナキアミの動きが止まった。

 

「……何?」

 

「そうです。いつもそうなんです。自分がどれだけボロボロでも、すぐ他の人のところへ行こうとする。自分のことなんて後回しで、平気な顔して無茶ばかりするんです」

 

ミノルは、少し声を荒げていた。

 

「あなたも同じです。今にも倒れそうなのに、外を見るだけなんて言って、本当は先生を追いかけるつもりでしょう?」

 

ナキアミは黙った。

言い返せなかった。

そして、その沈黙の中で、胸の奥にあった怒りの正体が、ようやく形を取った。

 

自分は、アキユキに怒っていた。

勝手にすべてを背負い、こちらの言葉を聞かず、死にに行こうとする彼に。

だが、それだけではなかった。

 

今のアキユキは、かつての自分に似ている。

 

生きている理由も分からず。

自分が何者なのかも分からず。

それなのに、他人の痛みばかり見て、自分のことは顧みない。

誰かを救うことだけを理由にして、己の弱さや寂しさから目を逸らす。

 

意地ばかり張って。

可愛げなど欠片もなくて。

伊舟と何度も衝突していた、あの頃の自分。

 

「……そうか」

 

ナキアミは小さく息を吐いた。

 

「私は、腹を立てていたんだな」

 

「え?」

 

「勿論あいつに。だが、それだけじゃない」

 

ナキアミは、自分の手を見下ろした。

まだ震えている。

力が入らない。

それでも、指先には確かに現実の温度があった。

 

「たぶん私は、昔の自分を見ているようで、腹が立っていたんだ」

 

ミノルは何も言わなかった。

 

ナキアミは、窓の外を見た。

遠く、聖地の方角の空が不気味に明滅している。

胸が締めつけられる。

 

アキユキ。

お前は、私に生きろと言いに来たのではなかったのか。

天女ではなく、ただ一人の人間として外へ迎えると言ったのではなかったのか。

それなのに、なぜ今度はお前が、自分を捨てようとしている。

 

「……本当にバカなやつだ」

 

ナキアミは、掠れた声で呟いた。

それは怒りだった。

だが、同時に祈りでもあった。

 

もう一度彼を叱りたい。

引っぱたいてでも止めたい。

名前を呼んで、こちらを見ろと言いたい。

 

だが、そのためにはまず、自分が立たなければならない。

 

ナキアミは一度、寝台へ腰を下ろした。

無理に立ち上がるのをやめる。

 

ミノルがほっと息を吐く。

 

「……分かってくれました?」

 

「少しだけな」

 

「少しだけですか」

 

「私はまだ、諦めてない」

 

ナキアミはミノルを見た。

 

「けど、今のまま飛び出しても、何もできそうにないな。悔しいが」

 

ミノルは、ようやく表情を緩めた。

 

「それなら、まず休んでください。奇魂湯は……ええと、少し時間を置いてからにしましょう」

 

「そうだな」

 

素直に頷いたものの、ナキアミの目はまだ聖地の空へ向いていた。

 

 

胸の奥で、白緑の鼓動が小さく脈打っている。

それは胎動窟(ナキアミ)の幼い意思だった。

千年の眠りの底で、自分と共に震えていたもの。

いまはナキアミの内側に宿り、外界の異変に怯えるように、時折かすかな波を立てている。

ナキアミはその鼓動に手を当て、静かに息を吐いた。

 

「大丈夫だ」

 

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

胎動窟へか。

自分へか。

それとも、遠くで戦うアキユキへか。

 

ミノルは薬棚の前で、次に飲ませる薬を整えていた。

奇魂湯の残り香はまだ濃く、部屋の空気を重たくしている。

だが、先ほどまで胸の奥を焦がしていた侵食の痛みは、幾分か和らいでいた。

 

少なくとも、呼吸はできる。

指先も、先ほどよりは動く。

膝に力を込めれば、立てないこともないだろう。

 

だが、走ることはできない。

戦うことなど、なおさら無理だ。

ナキアミは、その事実を認めるしかなかった。

 

(落ち着け……このまま飛び出しても、私にできることは何もない)

 

悔しい。

腹立たしい。

だが、否定できない。

 

アキユキを止めたいなら、まず自分が冷静でなければならない。

昔の自分のように、ただ意地だけで動いても、何も救えない。

 

そう思い、ようやく寝台へ身体を預けようとした――その瞬間だった。

窓の外が、白緑に染まった。

 

「――っ!?」

 

遅れて、空気が震えた。

建物の硝子が一斉に鳴り、棚の薬瓶が小さく跳ねる。

ミノルが驚いて振り返り、咄嗟に机の縁を掴んだ。

 

「な、何……!?」

 

ナキアミは息を呑んだ。

 

窓の向こう。

遠く聖地の方角から、眩い光が夜空を横切っていた。

それは稲妻ではない。

砲撃でもない。

 

ただ、膨大なプラーナの奔流だった。

世界そのものを覆い尽くそうとするほどの、異常な量。

空を裂き、雲を焼き、遠く離れたこの街にまで圧力として届くほどの光。

 

胸元の胎動窟(ナキアミ)の鼓動が、恐怖に震えた。

 

「……何だ、今のは」

 

ナキアミの声は、掠れていた。

考えるまでもない。

あれほどのプラーナを放てる存在など、この世界にはひとつしかない。

そして、その砲撃が放たれた先にいるのは――

 

「アキユキ……!」

 

ナキアミは寝台から身を起こした。

今度は迷わなかった。

 

「ミノル」

 

「は、はい!」

 

「無理を承知で頼む。聖地が見える場所まで連れて行ってほしい」

 

ミノルの顔に迷いが浮かぶ。

先ほどまでなら、きっと止めただろう。

だが、今の光を見てしまった以上、彼女もただ事ではないと理解していた。

 

「歩けますか?」

 

「……身体を支えてほしい」

 

「分かりました。でも、少しでも倒れそうなら戻ります。そこは譲りません」

 

「ああ。それでいい」

 

ミノルは外套を取り、ナキアミの肩へ掛けた。

そして彼女の腕を自分の肩に回し、慎重に立たせる。

 

足裏に床の感触が戻る。

膝が震える。

視界がわずかに歪む。

 

だが、倒れはしない。

ナキアミは唇を噛み、ミノルに支えられながら部屋を出た。

 

外の空気は冷たかった。

街は騒然としていた。

人々が家の外へ出て、聖地の方角を見上げている。

 

子どもを抱いた母親。

杖をついた老人。

仕事着のまま立ち尽くす男たち。

皆が同じ空を見ていた。

 

先ほどの光の残滓が、まだ雲の裏に滲んでいる。

白緑のはずのそれが、どこか毒々しい色に見えるのは、混じっている怨嗟のせいだろう。

 

「こっちです。少し高い場所があります」

 

ミノルに導かれ、ナキアミは坂道を上った。

ほんの短い距離のはずなのに、息が上がる。

肩で呼吸しながら、それでも足を止めなかった。

 

やがて、街の外れにある見晴らし台へ辿り着いた。

そこからは、遠く聖地の方角が見えた。

ミノルは息を呑む。

 

「……嘘」

 

彼女の目には、ただ黒く沈んだ地平と、その上に浮かぶ巨大な何かが見えているだけかもしれない。

だが、ナキアミの目には、もっとはっきり見えていた。

 

―――聖地は、死んでいた。

 

湖は黒く濁り、かつて胎動窟を囲んでいた灯火はほとんど消えている。

巡礼者たちの住居は崩れ、祈りの旗は焼け落ち、岸辺の木々は枯れた骨のように立ち尽くしていた。

 

胎動窟は、なお形だけは残っている。

しかし、その内部に満ちていた命の気配はもうない。

自分が千年かけて抱きしめ、ようやく連れて出たあの幼い鼓動の片割れは、今は空洞となった殻の向こうで、何も答えていなかった。

 

ナキアミは言葉を失った。

 

アキユキに抱えられて胎動窟を離脱したとき、彼女はほとんど意識がなかった。

だから、これが初めてだった。

 

―――有史以来、世界の根幹として君臨してきた聖地がここまで蹂躙された姿を見るのは。

 

胸の奥が痛む。

胎動窟(ナキアミ)の鼓動が、小さく泣くように震えた。

 

「……すまないな」

 

思わず呟いた。

誰に対してなのかは分からない。

そのとき、ミノルが空を指差した。

 

「ナキアミさん……あれ……聖地の上に、何か浮かんでませんか?」

 

ナキアミは顔を上げた。

そこに、白い巨体があった。

 

遠く離れていても分かる。

百メートルを超える、異様なほど巨大なザムド。

六本の腕。

六枚の翼。

額に宿る、血のような赤いヒルコ。

 

ナクセナザムド。

 

それは聖地の上空で、ただ浮かんでいた。

動かない。

追っている様子もない。

戦っている様子もない。

ただ、月明かりの下に、終末を告げる堕天使のように静止している。

 

ナキアミの喉が詰まった。

 

先ほどのプラーナの奔流。

あれは間違いなく、戦闘の中で放たれたものだった。

アキユキはナクセナザムドのもとへ向かった。

その彼が今、見えない。

ナクセナザムドだけが、何をするでもなく浮かんでいる。

 

つまり。

 

「……敗れた、のか」

 

口にした瞬間、身体から力が抜けそうになった。

ミノルが慌てて支える。

 

「ナキアミさん!」

 

だが、ナキアミは彼女の声に答えられなかった。

 

視線は、ただ空の白い怪物へ固定されている。

その周囲に、アキユキの蒼白い光は見えない。

あの一等星のような輝きが、どこにもない。

 

胸の奥で、何かが冷たく沈んでいく。

 

「……そんな」

 

ナキアミの唇が震えた。

 

あり得ないと思いたかった。

アキユキは千年を生きたザムドだ。

真なるザムドに至り、魂の導き手となった者だ。

ヒルケン皇帝に立ち向かい、運命さえ乗り越えてみせた存在だ。

 

―――だが本当は解っていた。

この結末を辿ってしまうのは。

ただ信じたくなかっただけだったのだ。

 

彼は万全ではなかった。

プラーナを喰われていた。

心も折れかけていた。

それでも、自分を置いて行った。

 

責任を負うと告げて。

死ぬつもりの目で。

 

ナキアミの指が、ミノルの肩口を強く掴んだ。

 

「……アキユキ」

 

名前を呼んでも、届かない。

遠すぎる。

遅すぎる。

 

それでも、呼ばずにはいられなかった。

 

 

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