一本の物差しが折れた。

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白鳥のいない絵の前で

「私はね、白鳥を殺したかったんですよ。」

 

そう言って笑う彼女の瞳は、どこか遠くの水面をなぞっていた。

 

スタジオには溶剤の甘い匂いが漂い、冬の光は窓枠で薄く砕けている。温水ラジエーターがときどき小さく金属音を鳴らす以外は、張り詰めた沈黙が部屋を支配する。

 

録音機の赤い点だけが、生き物のように瞬いていた。

 

 

 

 

——本日はご多忙のところ、お時間をいただきありがとうございます。

——早速ですが、先生は普段取材をお断りになると伺いました。理由を伺えますか。

 

「たしかに、取材はあまり受けませんね」

 

彼女は私を見る。その視線は、塗られたキャンバスの下地を透かして骨組みを探るようだ。

 

「そうですね。端的に。私を見て、どう思います?」

 

——大変お美しい、と。

 

「でしょうね」

 

彼女は小さく息を吐く。「だから、です」

 

彼女はしばしば、作品よりも容姿で語られる。作品が美を主題に据えるぶん、話はなおさら外見へ滑りやすい。

 

その筆致は視線を求めて止まないのに、鑑賞者の焦点は誰が描いたかへ戻る。その反動で、彼女は話さないことを選んだのだと思っていた。

 

——では、写真撮影もお断りに?

 

「ええ。作家写真は載せません。載せた瞬間、作品は説明になるから。私は説明を描いているわけではないんです」

 

——無署名の展示もありましたね。匿名性は戦略ですか。

 

「距離です。前置きに支配されない距離。私は作品の前に立ちたくない」

 

——とはいえ、作家の物語を求める声は根強い。市場もそれを好む。

 

「物語は必要かもしれません。ただ、あとからでいい。先に来ると、見る人のピントが固定されます。固定されたピントでは、見落としてしまうものがある」

 

——では、美しいと評されることの何がお嫌なのでしょうか。

 

「……」

 

——それはやはり、先生のモチーフである『みにくいアヒルの子』と関わりが?

 

「……無関係ではありません」

 

——先生といえば、『みにくいアヒルの子』を下敷きにした三部作が有名です。鳥小屋から逃げ出す『飛翔』、狩猟と冬を独りで耐える『翔貴』、池の鏡で白鳥に至る『貴胄』。

 

——やはり白鳥に救いを見ておられるのでしょうか。

 

 

ここで、彼女の視線に初めて温度が宿る。透きとおった瞳の奥に、かすかな揺らぎ。

 

ラジエーターが金属を鳴らし、静けさを一拍だけ切り裂いた。

 

時間は寸刻——それでも空気は別物になった。

 

 

「いいえ、逆です。白鳥はむしろ、救いに見せかけた罰です」

 

声はやわらかいのに、言葉は澄んだ刃のようだった。

 

 

「この童話からはたびたび『外見で判断しない』『自分の可能性を信じる』といった教訓が取り出されます。でも、アヒルの子を苦しめたのはそもそも美醜という物差しでした。白鳥になった彼は、自分の美しさを祝ってしまう。つまり、その物差しに回収されてしまうんです」

 

「さらにたちが悪いのは、この童話に対する『アヒルの子にはアヒルの子の美しさがあるはずだ』という類の批判です。どうして価値を、また美で測るのか」

 

 

「白鳥の美は、価値を測る物差しそのものさえ支配してしまったんです」

 

 

 

 

——では、先生にとっての救いとは?

 

「見方の改造です。形を美化するのではなく、物差しを一本折ること」

 

彼女はテーブルの縁を指で軽く叩く。乾いた音がひとつ跳ね、私の胸骨に届く。

 

「みにくいアヒルの子が勝ち取ったのは単なる美しさじゃない、物差しの支配権です。『外見で判断しない』『内面の美しさ』『誰にも美しさがある』という台詞でさえ、まだ美の物差しの外に出ない。だから私は、白鳥といっしょに、この物差しを殺したかった」

 

——そこまで思い詰めるきっかけは?

 

「標本室です」

 

意外な答えに、ペン先が空白の上で止まった。

 

「子どものころ、博物館の小さな標本室が好きでした。ガラスの箱の中、白鳥は細い針金で脚を通され、学名の札で固定されている。誰が見ても美しい白に見える角度で。……帰り道、川面には札も針金もない、ただの風紋だけが揺れていた。あれを描きたいと思った。白鳥を描くかわりに、白鳥を留めている仕組みを外したかったんです」

 

——札や針金を外すことが創作の中心に。

 

「ええ。三部作は、その実験です。『飛翔』は、鳥の絵に見えて鳥を描いていません。泥の跳ね、逃げる足の蒸気、追う影だけ。だれも救われていない構図のまま」

 

「『翔貴』は、白に近い灰だけで世界を詰まらせ、雪の重さで構図ごと沈める。亜鉛華とチタン白を重ねて、祝福の言葉が届かない厚みを作った」

 

「『貴胄』は、池の鏡——映ることそのものの暴力です。鏡はやさしく見えて、輪郭を固定する道具ですから。ハイライトを一本ずらすだけで、自己像が監視に変わることを、絵肌で示したかった」

 

 

 

 

——次に向かう場所は。

 

 

「抜標」

 

 

彼女はスッと立ち上がり、奥の布をするりと外す。キャンバスの上には薄い灰と青が幾層にも重なり、極細の傷がところどころを走っている。

 

「標本から標を抜く。白鳥はいない。残すのは、札を外した跡、針金の影、ガラスの反射の歪み——物差しが支配を失った場所です。見えているのは、外したあとの風景」

 

——……静かですね。

 

「そう。静けさは音楽です。美しさの言い換えじゃない」

 

画面の端、釘頭の隙間から、鉛筆の淡い曲線がうっすら覗いている。

 

「下地には一度だけ、白鳥の輪郭を引いてあります。誰かに見せるためではなく、私がそこに囚われていないかを確かめるために」

 

——出さないと決めるのは、もったいなくは。

 

「苦しいから価値がある。『見せれば褒められるかもしれないもの』を、見せない訓練です。物語が私を使って形を取り戻そうとしたら、筆でその手をそっと外す」

 

——それでも読者や観客は救いを求めます。

 

「求めればいい。ただ、供給はしない。かわりに、見る手つきを渡す」

 

彼女はグラスの氷を指で転がす。ころり、と澄んだ音が一つ。私の録音機にも、冬の空気にも、同じ波形が刻まれる。

 

「いまの音。美しいと言えば一瞬で消費できる。でも、なんの音かを探す時間は、消費ではなく観察になる。美しい/美しくないの二分法に取り込まれる前の世界。救いがあるとしたら、そこです」

 

 

 

 

——最後に。先生はいまでも白鳥を殺したいですか。

 

短い沈黙ののち、彼女はゆっくり首を振った。

 

「もう、白鳥を殺す必要はない。終わらせたいのは、白鳥の形に世界を合わせてしまう私の視線。それを解体するために、私は描く」

 

——終わるではなく終わらせる、のですね。

 

「はい。習慣は自然死しません。手をかけてほどく必要がある」

 

——解体、とは。

 

「ほどいて、別の結び方を覚えることです。『価値=美』という結びを解き、『価値=機能』『価値=関係』『価値=時間』……好きに結び直せるように。あなたが口にした美しいという習慣の言葉も、ほどけば、糸はただの糸になります。絡まっていたものは、ほどいた手で結び直せる」

 

彼女は筆を水に浸し、布で一度だけ水を払った。画面に触れる。細い白が一筋、淡い層の上に置かれ、すぐ周囲へほどけていく。羽でも光でもない、札の跡のような白。

 

「見出しは、どうせ美少女画家で踊るでしょう。でも、あなたの文で一本でも誰かの物差しが折れるなら、この話は無駄じゃない」

 

彼女は筆を洗う。その水の中で、白が静かに溶けた。私はメモ帳の端に走らせた線を見つめ、ペンを持ち直す。最初の一行から美しいを外し、代わりにこう書く。

 

 

 

白鳥のいない絵の前で、一本の物差しが折れた。


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