「私はね、白鳥を殺したかったんですよ。」
そう言って笑う彼女の瞳は、どこか遠くの水面をなぞっていた。
スタジオには溶剤の甘い匂いが漂い、冬の光は窓枠で薄く砕けている。温水ラジエーターがときどき小さく金属音を鳴らす以外は、張り詰めた沈黙が部屋を支配する。
録音機の赤い点だけが、生き物のように瞬いていた。
◇
——本日はご多忙のところ、お時間をいただきありがとうございます。
——早速ですが、先生は普段取材をお断りになると伺いました。理由を伺えますか。
「たしかに、取材はあまり受けませんね」
彼女は私を見る。その視線は、塗られたキャンバスの下地を透かして骨組みを探るようだ。
「そうですね。端的に。私を見て、どう思います?」
——大変お美しい、と。
「でしょうね」
彼女は小さく息を吐く。「だから、です」
彼女はしばしば、作品よりも容姿で語られる。作品が美を主題に据えるぶん、話はなおさら外見へ滑りやすい。
その筆致は視線を求めて止まないのに、鑑賞者の焦点は誰が描いたかへ戻る。その反動で、彼女は話さないことを選んだのだと思っていた。
——では、写真撮影もお断りに?
「ええ。作家写真は載せません。載せた瞬間、作品は説明になるから。私は説明を描いているわけではないんです」
——無署名の展示もありましたね。匿名性は戦略ですか。
「距離です。前置きに支配されない距離。私は作品の前に立ちたくない」
——とはいえ、作家の物語を求める声は根強い。市場もそれを好む。
「物語は必要かもしれません。ただ、あとからでいい。先に来ると、見る人のピントが固定されます。固定されたピントでは、見落としてしまうものがある」
——では、美しいと評されることの何がお嫌なのでしょうか。
「……」
——それはやはり、先生のモチーフである『みにくいアヒルの子』と関わりが?
「……無関係ではありません」
——先生といえば、『みにくいアヒルの子』を下敷きにした三部作が有名です。鳥小屋から逃げ出す『飛翔』、狩猟と冬を独りで耐える『翔貴』、池の鏡で白鳥に至る『貴胄』。
——やはり白鳥に救いを見ておられるのでしょうか。
ここで、彼女の視線に初めて温度が宿る。透きとおった瞳の奥に、かすかな揺らぎ。
ラジエーターが金属を鳴らし、静けさを一拍だけ切り裂いた。
時間は寸刻——それでも空気は別物になった。
「いいえ、逆です。白鳥はむしろ、救いに見せかけた罰です」
声はやわらかいのに、言葉は澄んだ刃のようだった。
「この童話からはたびたび『外見で判断しない』『自分の可能性を信じる』といった教訓が取り出されます。でも、アヒルの子を苦しめたのはそもそも美醜という物差しでした。白鳥になった彼は、自分の美しさを祝ってしまう。つまり、その物差しに回収されてしまうんです」
「さらにたちが悪いのは、この童話に対する『アヒルの子にはアヒルの子の美しさがあるはずだ』という類の批判です。どうして価値を、また美で測るのか」
「白鳥の美は、価値を測る物差しそのものさえ支配してしまったんです」
◇
——では、先生にとっての救いとは?
「見方の改造です。形を美化するのではなく、物差しを一本折ること」
彼女はテーブルの縁を指で軽く叩く。乾いた音がひとつ跳ね、私の胸骨に届く。
「みにくいアヒルの子が勝ち取ったのは単なる美しさじゃない、物差しの支配権です。『外見で判断しない』『内面の美しさ』『誰にも美しさがある』という台詞でさえ、まだ美の物差しの外に出ない。だから私は、白鳥といっしょに、この物差しを殺したかった」
——そこまで思い詰めるきっかけは?
「標本室です」
意外な答えに、ペン先が空白の上で止まった。
「子どものころ、博物館の小さな標本室が好きでした。ガラスの箱の中、白鳥は細い針金で脚を通され、学名の札で固定されている。誰が見ても美しい白に見える角度で。……帰り道、川面には札も針金もない、ただの風紋だけが揺れていた。あれを描きたいと思った。白鳥を描くかわりに、白鳥を留めている仕組みを外したかったんです」
——札や針金を外すことが創作の中心に。
「ええ。三部作は、その実験です。『飛翔』は、鳥の絵に見えて鳥を描いていません。泥の跳ね、逃げる足の蒸気、追う影だけ。だれも救われていない構図のまま」
「『翔貴』は、白に近い灰だけで世界を詰まらせ、雪の重さで構図ごと沈める。亜鉛華とチタン白を重ねて、祝福の言葉が届かない厚みを作った」
「『貴胄』は、池の鏡——映ることそのものの暴力です。鏡はやさしく見えて、輪郭を固定する道具ですから。ハイライトを一本ずらすだけで、自己像が監視に変わることを、絵肌で示したかった」
◇
——次に向かう場所は。
「抜標」
彼女はスッと立ち上がり、奥の布をするりと外す。キャンバスの上には薄い灰と青が幾層にも重なり、極細の傷がところどころを走っている。
「標本から標を抜く。白鳥はいない。残すのは、札を外した跡、針金の影、ガラスの反射の歪み——物差しが支配を失った場所です。見えているのは、外したあとの風景」
——……静かですね。
「そう。静けさは音楽です。美しさの言い換えじゃない」
画面の端、釘頭の隙間から、鉛筆の淡い曲線がうっすら覗いている。
「下地には一度だけ、白鳥の輪郭を引いてあります。誰かに見せるためではなく、私がそこに囚われていないかを確かめるために」
——出さないと決めるのは、もったいなくは。
「苦しいから価値がある。『見せれば褒められるかもしれないもの』を、見せない訓練です。物語が私を使って形を取り戻そうとしたら、筆でその手をそっと外す」
——それでも読者や観客は救いを求めます。
「求めればいい。ただ、供給はしない。かわりに、見る手つきを渡す」
彼女はグラスの氷を指で転がす。ころり、と澄んだ音が一つ。私の録音機にも、冬の空気にも、同じ波形が刻まれる。
「いまの音。美しいと言えば一瞬で消費できる。でも、なんの音かを探す時間は、消費ではなく観察になる。美しい/美しくないの二分法に取り込まれる前の世界。救いがあるとしたら、そこです」
◇
——最後に。先生はいまでも白鳥を殺したいですか。
短い沈黙ののち、彼女はゆっくり首を振った。
「もう、白鳥を殺す必要はない。終わらせたいのは、白鳥の形に世界を合わせてしまう私の視線。それを解体するために、私は描く」
——終わるではなく終わらせる、のですね。
「はい。習慣は自然死しません。手をかけてほどく必要がある」
——解体、とは。
「ほどいて、別の結び方を覚えることです。『価値=美』という結びを解き、『価値=機能』『価値=関係』『価値=時間』……好きに結び直せるように。あなたが口にした美しいという習慣の言葉も、ほどけば、糸はただの糸になります。絡まっていたものは、ほどいた手で結び直せる」
彼女は筆を水に浸し、布で一度だけ水を払った。画面に触れる。細い白が一筋、淡い層の上に置かれ、すぐ周囲へほどけていく。羽でも光でもない、札の跡のような白。
「見出しは、どうせ美少女画家で踊るでしょう。でも、あなたの文で一本でも誰かの物差しが折れるなら、この話は無駄じゃない」
彼女は筆を洗う。その水の中で、白が静かに溶けた。私はメモ帳の端に走らせた線を見つめ、ペンを持ち直す。最初の一行から美しいを外し、代わりにこう書く。
白鳥のいない絵の前で、一本の物差しが折れた。