「神奈子様、諏訪子様」
「「はい」」
「私が言いたい事、分かります?」
「「はい」」
魔理沙の『能力』が暴走してから、約一時間ほど。
先程まで潰れたザクロのようになっていた露伴の腕には、包帯とお札を組み合わせたような奇妙なデザインの布がこれでもかと巻かれ。
そんな彼の前では、神奈子と諏訪子が正座をさせられていた───他でもない、早苗によって。
「私のことを大切に思っていただけているのは分かりますし、本当に嬉しいです。ですが、だからといって過保護になられるのは困ります」
「いや過保護ではないだろう過保護では」
「早苗に対して能力を使った奴がいるってなったら、否が応でも疑っちゃうよ。何かされたんじゃないかって」
『過保護』という単語が気に入らなかったのか、ムッとしたような顔で反論を並べ立てる二柱に、早苗は「そういうことだったのか」とでも言いたげにため息をついた。
「久しぶりに帰ってきたと思ったら、急に「大丈夫か」とか聞いてきたのはそれが理由だったんですね。で、その後私が最近会った人について聞いてきたのは、私に能力を使った相手を絞り込むためだったと」
「まあ、平たく言えばそうなりますね。で、私個人としても、露伴さんのことを聞いている内に、異変についても関わりがあるのではと疑いを持ちまして」
「全く!私は露伴先生に何もされていませんし、そもそもそんな悪い事をするような人じゃありません!ですよね!露伴先生!」
「ああ。……あとついでに言っておくが、今回は仕方ないとしても次からはペラペラと僕の能力を話すなよ」
「……それは、ごめんなさい」
露伴の眼光を喰らい、早苗は少しばかりしょぼくれた。とは言え、早苗が露伴の能力の全容を伝えていなければ余計拗れたような気がしないでもないので、露伴はそれ以上追求することはなかった。
「はあ……いや、ま、露伴君がそのような下賎な輩ではない……というか結構善よりの人間なのはさっきの一件で分かったがな?」
「そいつはどーも。ま、代わりに左腕はこんなんになったがな」
布まみれの左腕をぷらぷらと、見せつけるようにして振る露伴。その下に広がる凄惨な光景を思い出し、部屋の隅に座る魔理沙は俯いた。
「それは本当にごめんね。言うのが遅れちゃったけど、その布には
「ああただし、あまり動かしすぎると中の傷が広がって、布を巻いた意味がなくなる恐れがある。というわけで、少なくとも今日一日は絶対安静、歩くのも最小限に。その代わり、布が馴染めばこれからも問題なく動けるだろう」
「『これからも』だって?……なあ、ちょっと待てくれ。まさか、まさかとは思うんだが、「このダサい布を一生付けて過ごせ」なんてことは言わないだろうな」
「
つい先ほど、露伴は自分の左腕を巨大な魔力の渦にぶち込んだ。
魔理沙を救う為の行動だったとしても、それはいわば『腕を飛行機のエンジンに突っ込む』ような、あまりにも危険な行為。当然タダでは済まず、今の彼の左腕は筋繊維単位でズタズタに引き裂け、千切れてしまっていた……とは言え、それで済んだだけでも奇跡に等しいのだが。
「そこでその布……そうだな、適当に
「そーゆー訳だから、布を取りたければ永遠亭に行ってね。あ、それとも、他に何か治せる人で思い当たるのいたりする?」
「……いや」
思わせぶりな反応を疑問に思ったか、露伴の顔を覗き込んでくる諏訪子。その視線から逃れるように、彼は目を逸らした。
(……まあ、この腕を治せるであろうヤツはいるんだが……アイツに頼むくらいなら、この腕を切り落とした方がよっぽどマシだね)
「……なあ、露伴、私……」
先ほどまで黙りこくっていた魔理沙が、唐突に露伴に向かって声をかけた。「友人の腕が使い物にならなくなった」という事実、そしてそれが他でもない自分自身のせいという現実が、彼女を突き動かした……のだが。
「いい、それ以上言うな」
呆気なく許されてしまった。
「えっ、いや、あの……本当に……」
己が喉をせり上がる罪悪感故か、あまりのあっさりとした返事に違和感を覚えた故なのか、なおも食い下がろうとする魔理沙。露伴は一度ため息をつくと、面倒くさそうに振り向いた。
「あのさ、僕は『それ以上言うな』って言ったんだぜ。というか大体、君に言いたいことなんざ山のようにあるに決まってるだろ。その上で、死にそーな顔してる君に免じてわざわざ言わないでおいてやってるんだ。まさか、その程度のことさえ読み取れないのか?」
「…………うん……」
「ったく……」(というか、それで言うなら目の前の神々やら天狗の方が嫌味の相手としてよほど適しているしな)
露伴も、やろうと思えば数時間は文句を言える。ただ、それは無駄な事でしかないのでやらないが。
「まあ魔理沙さん、元気出してください。言い方はアレですけど、露伴先生は「気にするな」って言ってくれてるんです、きっと」
「そうですよ。能力の暴走は自分でどうにかできる物でもないんですから、あまり気負わないでください」
「うん……そうだよな、ありがとう」
そう言って魔理沙の背中をさすり元気つける早苗と文のことを、いかにも何か言いたげな視線で見つめる露伴だったが……結局呆れたように姿勢を崩した。
「だが……参ったな。別に博麗霊夢を見つければ帰れるなんてことは端から考えちゃいなかったんだが、用事が増えたのは面倒だ」
露伴が何気なしにその名を口にした瞬間、部屋中に奇妙な空気が溢れ。それから程なく、部屋の中の大半が首を傾げた。
「博麗霊夢……
「だろうな」とでも言うように、露伴はため息をついた。
「君たち全員が忘れてる奴のことだよ」
「忘れてる?」
彼女らの疑問に対し、露伴はそれ以上口を開こうとすることはせず、代わりに魔理沙に目を向けた。すると自然、諏訪子達の目線もそちらに向く。
「……あ、私?」
程なくして、説明の役割を押し付けられたのだと気づいた魔理沙は、困り顔を浮かべつつもその期待に応える事にした。
「その、なんかすごく強くて有名な奴がいたらしいんだけど。そいつも能力の暴走が起きて、誰にも認識されなくなった、つーか忘れられた……みたいな話らしい」
先ほどより少しだけ調子を取り戻した彼女の説明に、神奈子達はゆっくりと頷く。
「ふーん……忘れられた、ね……」
「あやや、それは不思議ですねえ」
「ふむ……博麗と言うからには、『博麗神社』と関わりが?」
「ああ、そいつはそこに暮らしてたらしい。確か『博麗の巫女』、とか言ったか」
「博麗、博麗……あれ、そう言えば私、最初
それは、早苗達が幻想郷に来た頃の話。
当時、外の世界からやって来たばかりで信仰が足りていなかった彼女達は博麗神社に目をつけ、そこを乗っ取ることで博麗神社への信仰ごと自分たちの物にしようとしたことがあった。
結局は逆に乗り込んできた魔理沙や博麗霊夢との弾幕ごっこや話し合いを経て、そんな傲慢で物騒な案が採用されることはなかったのだが……そんな重要な事すら、今の彼女達は忘れかけていた。
「さあな、僕はその頃の話なんざ知らない。が、おそらく、博麗霊夢は君と一悶着あったんだろう」
「なるほど……あ、だからあの時逃げようとしてたんですねえ。博麗霊夢さんを一刻も早く見つけたかったから」
「どっかのマヌケな鴉のせいでそれすら遠のいたんだがな」
「そんな言わなくても良くないですか?」
「とりあえず、露伴の目的は分かった。だが、先ほども言った通り今日は絶対安静だ。探すのは明日以降にしてくれ」
「博麗神社に行くだけでもダメか?」
「行くだけでもダメだ」
「空を飛ぶのもか?」
「負担のかからない、歩きと変わらん速度ならな」
「いやそれ飛ぶ意味ねえじゃん……ん?待てよ?」
その時、魔理沙に電流走る。
(要は露伴はあんまり動いちゃダメなんだろ?一応空を飛んでの移動はアリらしいけど、もうそろ夜だし。夜の幻想郷でノロノロ飛んでたらそこらの妖怪にとって格好の餌だし。……ってことは、だ……もしかして……)
「もしかして露伴、
彼女の明晰な思考が導き出したその至極単純な結論に。
「まあ、そうなるか」
「うん」
二柱は、何でもないことのように頷いた。
実際、神奈子は露伴のことをもはや疑っておらず、『どうせならこのまま信仰してくれないかな』とすら思っており、諏訪子の方も未だ警戒しているが、かといって露伴を悪だと確信している訳ではないので、この状況は露伴の正体を見極めたい彼女にとって好ましい物であった。要は、二柱にとって都合が良かったのである。
……まあ、もっとも───
「
「声デカ」
それこそ、魔理沙が彼女の声量に驚くくらいには。
「待っ、待ってください!!いやだって、掃除とかまだ何も……!」
「別にそんな汚れてなかったと思うんだけど」
「でも、食材が足りるか分からないじゃないですか!」
「最悪買いに行けばいいだろう」
「お、お風呂とか……!」
「そこ気にするところ?」
「気にします!あっ、ていうか着替え!露伴先生の着替えが───」
「持って来てるぞ」
「何でですか!!」
「当たり前だろ」
進退窮まり、理不尽を理不尽で煮込んだような言いがかりを付けてしまう早苗。その常識にとらわれぬ文句に内心露伴も少し感心した。
「えー、露伴君が泊まるのそんな嫌?」
「いやっ、そういう訳じゃないですけど!急すぎます!もっと準備とか……」
早苗が息を切らす程に必死で露伴の宿泊を止めようとしている中。文はこっそり後ろに下がって、魔理沙の耳元に声を口を近づけた。
「……魔理沙さん、早苗さんは何であんなに嫌がってるんです?」
いきなり囁かれた事に少々驚きつつも、魔理沙は顎に手を当てた。
「あー……よく分かんねえけど、アレだろ。心の準備ができてなかったんだろ」
「心の準備ですか。でも別に、露伴さんのこと恐れてるとかそういう訳ではないんですよね」
「確かあいつ、露伴の漫画読んでたらしいんだよ。だから、露伴のファンなんじゃねえ?」
「あ、そういう……要はアレですか。露伴さんを迎える用意が出来てないと思ってるから嫌がってるんですか」
「多分な」
彼女達の推測は正しい。
今回の露伴の宿泊はあまりに急すぎた故、早苗は満足いく準備が出来ていなかった。彼女は本来、神社内を完璧に綺麗にした上で極上のもてなしをして、紅魔館から露伴を奪……ではなく、露伴に満足してもらおうとしていたのだ。
……しかし。
このままでは十分な成果を得られず、紅魔館に勝つ事は出来ない。もしかしたら次また機会があるかもしれないが、その頃には彼はもっと紅魔館に馴染み、より厳しい戦いになってしまう。
それを防ぎたい故、早苗は足掻いていたのだが……残念ながらそれを理解した魔理沙と文にはあまり関係ないことだったので、彼女らが手を貸す事はなく。
神奈子と諏訪子もなんとなくそのような気配を感じてはいたが、これ以外に特に良策がある訳でもないので早苗の意思を汲めず。
露伴に至っては心底どーでも良いし知った事じゃない上、そも早苗の気持ちに気付いていないので、特に何も言わず。
最終的には多数決により、早苗の敗北が決定した。
✒︎
「とりあえず、今日はこの部屋使ってください。布団とかはもう用意しましたので」
「ああ、助かる」
結局。
あれから時間が経って、太陽の代わりに月が輝きを放ち始めた頃。私は内心渋々で露伴先生を奥の空き部屋に案内していた。この部屋は確か『ノリで作ったは良いものの、特に使い道もない部屋』みたいな感じだったから、使い道が出来た事自体は喜ぶべき事なのかもしれない。
でも正直全然掃除しきれてないし、まず家具も置けてない。これじゃ紅魔館どころか、外の安めのホテルにすら勝てていない。だから嫌だったのに。料理もあまり豪華な物を出せなかったし、文さんと魔理沙さんに至っては……
「あいつはああ言ってたけど、私はまだ申し訳なく思ってるんだ。とりあえず私はアリスとかの所に行って、あいつの役に立つ魔法を探そうと思う」
「私も上司とかの面倒見ないといけないので、ここらで失礼します。本当は新聞のネタにしたかったんですけどねー」
……とか何とか言って、足早に帰ってしまった。しかも理由がちゃんとあるのがなんかかえってムカつく。
とにかく、何もかもが上手くいかなくて散々な気分だ。唯一評価を巻き返せるとしたら、この後のお風呂だろう。最新設備が(神奈子様のおかげで)整ってるし広々としてるし、なんだったら露天風呂もあるしで、水準は高いはず。
「すいません、あまり準備が出来てなくて」
「構いやしないよ。そもそも、僕がここに泊まる予定なんてなかったんだからな」
鞄を下ろして荷物を出している露伴先生に、軽く探りを入れてみた。声色と表情からして、今の所特に気にしていなさそうではある。しかし、もしかしたら……いや、辞めよう。変に考えすぎると良くない。今はここの構造を伝える事に専念しよう。
「お風呂はこの通路を突き当たり右に。で、トイレはそちらの方にあります。寝る時はその襖の中に布団が───」
そうして色々と説明していると、ふと露伴先生の左腕が目に入った。
神布でぐるぐる巻きにされてて、お世辞にもオシャレとは言えない見た目。しかも、その下は現代医療でも治せないくらいにズタズタになっている。もし私の腕がそうなったら、きっと一週間は立ち直れない。だから、気になってしまった。そんな怪我を負いながら、どうして何でもないような顔をしていられるのか。
「露伴先生、腕はどうですか?」
「別に、何も問題ないよ」
「そうですか……その、なんとも思っていないんですか?」
「何だって?」
内心、しまったとは思った。けれど、ここで「何でもない」なんて言って誤魔化したら、それこそ変な意味で受け取られかねない。だから、そのまま突っ切るしかないと思って、口を閉じないことにした。
「露伴先生はただ『ネタ』を集めに来ただけですよね?なのに、体中傷だらけになって……特にその左腕なんか、神布を巻いていないと動かすことすら出来なくなってしまったっていうのに、どうしてそんな平然といられるんですか?」
私がそう言い切ると、露伴先生は黙ってこちらを向いた。その表情を見ていると、「何を言っているんだ」と言われているような気さえした。
「……早苗君、『面白い漫画』を描くためには何が必要だと思う?」
「え?……画力とか、構成とか?」
「違う、『リアリティ』だよ。『リアリティ』こそが作品に命を吹き込む。どんなに画力があろうが構成が上手かろうが、たった一つでも『リアリティ』のないセリフ、描写があれば全てが『嘘っぽくなる』。だから僕は『ネタ』を集めるんだ、『リアリティ』を出すためにな」
「……は、はあ」
一体、何の話をしているのだろう。私は確か、左腕がそうなったのにどうして平然としていられるのか、と聞いたのだが。
「君はさっき、『どうしてそんな平然としていられるのか』と聞いて来たな」
よかった、間違ってなかった。
「実のところ、僕は平然としているどころか、
「う、嬉しい?」
「吸血鬼との鬼ごっこも、箒に乗って空を飛ぶのも、神々や天狗と言葉を交わすのも、左腕に巻いたこのダサい布もだが……外の世界じゃあどれだけ歩き回ろうが絶対に見つからない極上の『ネタ』だ。それに、指が折れたりなんかはけっこーあるが、『左腕が千切れかける』なんてのも初めての経験だったしな」
「「初めての経験だった」って……どうしてそんな簡単に言えるんですか?左腕が千切れかけた時だって、とんでもなく痛かったんですよね?」
「そりゃあ痛かったさ。だが、その痛みや感触は外の世界じゃあ経験しにくい物だったし、悪いことばかりじゃあないぞ」
「いやいや、待ってください。つまりなんですか?ここでの経験も、その傷も、露伴先生にとっては漫画の『ネタ』になるから問題なしって事なんですか?例え、それで死にかけたとしても?」
「さっきからそう言ってるだろ。というか、死にかけたことくらいいくらでもある」
そこまで聞いて、いの一番に頭に思い浮かんだ言葉は「意味が分からない」だった。だっておかしいでしょ?
自分の腕が千切れかけて、筆舌に尽くしがたい激痛も味わって、なんだったら死にかけたはずなのに「極上のネタ」「悪いことばかりじゃあない」って……とてもじゃないけど、常人の思考とは思えない。この幻想郷では常識に囚われてはいけないというのは知っているけれども、露伴先生は常識に囚われていないとかそういう次元をすでに超えている気がする。
「露伴先生、貴方は一体外の世界でどんな体験をして来たんですか……」
「まあ、色々とあったよ」
「色々って……」
どうせその『色々』とやらもロクな物ではないのだろうと、そう言おうとした時。
「ああ、いたいた。露伴君、出たぞ」
廊下の突き当たりから、風呂上がりの神奈子様が現れた。いつもの服と違う静かな寝巻きと、少し湿った艶のある髪、首にかかった白いタオルに、微かに香る藤の花の香りが、普段からある神奈子様の色気を倍増させていた。
……私が見ても見惚れちゃうんだから、もしかして今の神奈子様って男性から見たらとても魅力的なのかな……。
「どうした早苗、そんなジロジロと。この寝巻きが気になるか?」
「ああ、いえ、別に」
「そうか」
とはいえ、この
「さて……何か、風呂場とかで使わない方が良いものとかあるなら、事前に教えてくれると助かるんだが」
「いや、特には。歯ブラシも貴方の分を用意してあるし、基本自由に使ってくれていい。後、左腕についても特に気にしなくて良いぞ。シャワーや湯船程度なんて事はない」
「そうかい」
その言葉を返すと、露伴先生は風呂場の方へとさっさと歩いて行ってしまった。やっぱり先生も疲れてたのかな。
「……さて、早苗?」
そうして二人きりになったタイミングで、神奈子様の声色が変わった。例えるなら、子供の頭を撫でる母親のような温かみのある声。
「はい?」
「何か、
自分の表情が、氷のようにガッチリと固まったのが分かった。次に、どうも私は隠し事をするのが下手になってしまったらしいと感じた。
……確かに、私には相談したいことがある。そしてそれは、私が幻想郷に来た頃からずっと思っていながら、向き合うことから逃げ続けてきたことだ。
「……………」
分かってる。どれだけ速く走って逃げようとも、忌まわしい過去は死神のように静かに、冷酷に手を伸ばして来る。そしていずれはその手に肩を掴まれ、引きずられて……二度と未来に向かえなくなる。だからこそ、どこかで過去から逃げるのをやめて向き合わなければならない。そんなことは分かってる。
そして、今がその『向き合う時』なのも分かってる……分かってる、けど。
「その、実は最近ちょっと寒いから、新しい上着を買いたいなって」
今更逃げる足を止めるなんて、臆病な私には……初めから、無理な話だった。
「……そうか。確かに、最近は冷えて来たからな。今度人里に行って、良さそうなのを見繕おうか。予定は空いているか?」
「ええ、いつでも」
「分かった。じゃあ明日の……そうだな、昼頃にしよう。寒いから上着を買いに行くというのに、寒い朝に出て行くのもおかしいからな」
「分かりました。じゃあそれまでに、私も神社の掃除とか済ませておかないとですね」
「ああ、頼むよ」
神奈子様は微笑むと、私の横を通り過ぎて廊下の奥へと消えて行った。けれど、私の胸の痛みは消えてはくれなかった。
……最後に見せてくれた、あの微笑み。あれはきっと、私を憐んでいたのだと思う。だって、本来神奈子様はあんな寂しそうに笑うお方ではないのだから。
「…………………!」
私は居ても立っても居られなくなって、とにかく自分の部屋に走った。そして扉を押し除けるように開けると、自分の上着、そしていつも掃除に使う箒を持って外へと飛び出した。
とにかく現実から逃れたかった。境内を少しでも綺麗にして、私はここの生活に馴染めているのだと、今のままでもいいのだと信じたかった。
「はあ……はあ……」
息を切らしながら、私は鳥居の前に立つ。掃除するような場所はまだないなんてことは分かっているが、そんなのはどうでも良かった。上着を身に纏って、石畳を箒で掃く。それをするだけでもある程度は楽になるだろう、そう思った。
……だけど、結局私が箒を使う事にはならなかった。その理由は簡単で。
「済マヌガ、マダ参拝ハデキルカ」
「……え?」
いきなり鳥居の下に、『何か』が現れたから。
身長は私と同じくらいで、黒いコートで全身を覆っている。フードを深く被っている上、さらに黒い仮面までつけていたので、顔が分からないどころか、人間なのか妖怪なのか、はたまたそれ以外なのかさえ判別が付かない。加えて、その声はどこか無機質で、例えるならボイスチェンジャーを使っている様だった。
(い、いつから……?全然、気が付かなかった……)
さらに不気味なのは、その『何か』は音もなく現れたという事。階段を登る音も、空を切る音も聞こえなかったというのに、唐突に鳥居の下に立っていた。確かに今の私はあまり外に意識を向けていなかったけれど、それでも流石に何も感じないというのは考えにくいように思えた。
「出来ヌノカ」
「あ、いえいえ!そんなことはありません!ただその、こんな夜遅くに参拝に来られる方は少なかったので」
「ソウカ」
『何か』は私の前を通り過ぎると、賽銭箱の前で立ち止まった。しかし、それは礼をするわけでもなければ手を合わせるでもなく、賽銭を入れようともしなかった。ただ、どこかをじっと見つめるだけ。そして……
「……存外、シブトイラシイナ。
ボソボソと、そんなことを口走った。
(漫画家……?それって、まさか?)
この時点で、何かとてつもなく嫌な予感がした。目の前に立つこの『何か』が、もしかしたら今回の『異変』ととても深い関わりを持っているのではないかと、そう思った。
「あの、すみません」
最低限の距離をとりながら、私は『何か』に声をかける事にした。このまま放置するのは危険だという直感が、私をそうさせた。
「ドウシタ、祈ッテイル者ニ声ヲカケルトハ」
その言葉を聞いた時、「どの口が?」と思った。どこからどう見ても祈ってなどいなかったというのに。
「少し気になることがありまして。漫画家とは、誰のことですか?」
「……シマッタナ。ツイウッカリ、心ノ声ヲ漏ラシテシマッタ」
『何か』はそう呟くと、ゆっくりと私の方に振り向いた。
「マア良イ、問題ハ無イ」
「質問に答えてください、漫画家とは誰のことですか?貴方はその人に何の用事があるのですか?」
「ソンナ事ハドウデモイイ。ドウデモイイノダ、東風谷早苗ヨ」
……こいつ、私の名を知っているのか。
まあ幻想郷の住人であれば知らない奴の方が少ないだろうから、これ自体は驚くことでもないのだけど。
「我ハドチラカト言エバ、
「何ですって?」
「貴様ハ今、
「……!」
「顔ガ強張ッタナ。内心、分カッテイルノダロウ?コレ以上、過去カラ逃ゲラレナイトイウ事ハ」
……一体なんなんだ、こいつは。いきなり現れたかと思ったら、私の心中を言い当てるなんて。
こいつを見ていると、何故かさとりさんの前に立っているかの様な感覚になる。心の中の台本を覗かれて、私の先の行動一つ一つに先回りされるあの時の感覚に。
「幻想郷ノ時ノ流レハ複雑ダ。コチラノ『一分』ガ外デハ『一年』ニナル事モアレバ、外ノ『二秒』ガ幻想郷デノ『二年』ニナル事スラアル。ツマリ、貴様ガコウシテ我ト話シテイル間ニ、貴様ノ両親が何ラカノ要因デ死ンデイル可能性モアル。要ハ、『タイムリミット』ガアルノダ」
「……………………」
「シカシ、貴様ハマダ両親トノ再会ヲ躊躇ッテイル。両親ニ何モ言ワズ出テ来タ故ニ、今更何ト言エバイイノカ分カラナイノダロウ」
……うるさい。そんなことずっと、ずっとずっと前から分かっている。分かっている上で、考えない様にして来たのに。
「ダガ、
うるさい、うるさいうるさい。
「デアレバ、ソウダナ……アア、分カッタ。貴様ガ真ニ恐レテイルノハ───」
「うるさい!!」
考えるより先に、口が動いた。我慢の限界だったのもあるけど、それ以上にこいつにあの言葉の続きを言わせるのが、恐ろしかった。あのまま喋らせていたら、多分私は……
「ククッ……カッカッカッ……」
「何がおかしいんですか!?とにかく、今日はもうお引き取りください!!これ以上何か変な事を言う様なら……!!」
『何か』が漏らした笑い声に無性に腹が立った私は、鳥居の外を指差して怒鳴った。しかし、それに『何か』が驚くことはなく。
「何、ソウ焦ルナ。言ワレズトモ、モウココヲ去ル。ダガ、ソノ前ニ……
「───は?」
むしろ、返ってきた言葉に私が眉を顰めた瞬間……賽銭箱の前に立っていた筈のそいつが、一瞬にして私の目の前にまで近づいてきた。
「なっ!?」
「貴様ノ起コス『奇跡』ナラ、ソノ苦シミスラ容易ク取リ除ケル。ダガ……悲シキカナ、貴様ノ『
そして、伸ばした腕程の距離もない先にある、黒い仮面と目が合った瞬間……今までの人生の中で最も大きな警報が、頭の中で鳴った。
「開海『モーゼの───!!」
箒を投げ捨てると同時に、私はこれまでやってきたどんな弾幕ごっこよりも遥かに速く、スペルカードを発動した。いつもなら遊びの範疇だが、今回は違う。全身全霊の一撃で、この『何か』……いや、化け物を跡形もなく消し飛ばす───!!
はず、だったのに。
「がっ!?」
私が言い切るよりも速く、化け物の右腕が私の喉を握りしめた。首の骨が折れそうになるほどの怪力が、難なく私の体を宙に浮かせる。
「がっ、あ……!」
「故ニ、我ガ貴様ノ『能力』ヲ『進化』サセテヤロウ」
「こっ……のぉ……!!」
現時点で出せる限りの弾幕を生成し、惜しむ事なく化け物に浴びせ掛ける。余波により立ち上った土埃が辺りを包み込むが、まだ足りない。こんな物では死んだとは思えない。力の限りの弾幕を、時間にして約六秒程叩き込んだ。
……しかし、それでも私の喉を絞める力は全く弱まらなかった。それも当然、土埃から出て来た化物には
「無駄ダ、既ニ対策ハシテアル」
「くっ……う……」
体をばたつかせて、化け物を何度も足で蹴り飛ばす。首を絞めている右腕を何度も殴る。しかしどちらも、大木に打撃を加えるのと同じ様に、全くの手応えを感じられなかった。
(意、識……が……)
視界の端が黒く染まり始め、四肢に力が入らなくなる。この場を切り抜けるために脳をフル回転させなくてはならないのに、酸素が足りず何も考えられない。
「精々楽シマセテモラウゾ、東風谷早苗」
「……………ぁ………」
それから、程なくして。
私の意識は、途絶えた。
✒︎
「露伴君。準備は良いか?」
「ああ、出来てるよ」
明朝、午前六時五十分。
露伴はあらかたの支度を整え、神奈子と諏訪子と共に鳥居の下に立っていた。
「ところで、早苗君はいないのか?」
辺りを見回した彼の質問に、諏訪子は困ったように首を振った。
「あー、それがね……寝ぼけてたのかな、「まだ学校の時間じゃない」とか言って起きてこなくてさ。声も元気なさげだったから、とりあえず寝かせようかなって」
「そうか……にしても、朝起きた時は随分と土砂降りだった様な気がするが……運良く、止んでくれたな」
「いや?私が止めただけだが?」
「何?」
さも当たり前の様にそんなことを言われたので、露伴は思わず神奈子の方を見た。
「あれ、露伴君知らないっけ。神奈子って風雨とかを操るのは造作もないんだよ」
「……ということは、あれか。農業関係の神だったりすんのか?」
「そこノータイムで答え出せるのすごいね。そうだよ、神奈子って農業の神様でもあるんだ」
「まあな」
「フゥン……」
友好的な態度な上妙に現代的だから忘れそうになるが、彼女らは立派な神。二柱とも、雄大な自然を操る畏怖すべき存在なのである。
露伴はそれを一応心の端っこに刻んではいるが、こうも自然に天候操作をされると、やはり驚きが勝つ所はある。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだ。露伴君、本当に永遠亭でなく博麗神社に行くんだな?」
「ああ。いい加減、区切りをつけておきたい」
どこか疲れた様子で、露伴は神奈子の確認に頷いた。
というのも。そもそもの話、露伴は先日の時点で博麗神社に辿り着けたはずだった。それなのに、どっかの過保護な神々と冤罪ふっかけ鴉天狗、ついでに魔理沙の能力の暴走のせいで丸一日足止めを食らっている。
そんな彼からすれば、こんな用事とっとと終わらせて、一刻も早く外の世界に帰ることに専念したいのだ。
「平等にして公平、厳粛にして神聖なじゃんけんの結果、君を博麗神社まで運ぶのは私の役割となった。という訳で、君には二つの選択肢がある」
神奈子が指を鳴らすと、彼女の背後から黒く長い六角形の柱が姿を現した。
「私の手にぶら下がって行くか、このオンバシラに乗って行くか、どちらが良い?」
「……………」
露伴はもう一度、オンバシラと呼ばれた黒柱に目を向けた。
前方にしめ縄がついた、六角形の柱。材質は分からないが見るからに硬そうで、とても人が乗る様な想定はされていなさそうである。もしこれに座って空を飛ぼう物ならば、露伴の腰は粉々に破壊されてしまうことであろう。一応、オンバシラに立って乗れば<ドラゴンボール>に出てくる<桃白白>の気分を味わえそうではあるが、それは魔理沙の箒に乗っている時に既にやったため、そこまで惹かれなかった。
「神奈子さん、頼めるか」
故に、露伴は即決で神奈子に運んでもらう事にした。
「まあ、だろうな。むしろここでオンバシラに乗るとか言われたらどうしようかと思っていた」
もし冗談を真面目に受け取られたらどうしようか、などという心配をしていた神奈子だったが、それが杞憂だということが分かると、安堵した様に露伴に手を差し伸べた。
「では、私の手をしっかり握ってくれ。神の手を握って飛べる機会なんて、これが最初で最後だぞ」
「ああ。昨日露天風呂に入れなかったし、せいぜい楽しませてもらうとするよ」
「ん?ああ、アレそうだったんだ。神奈子が急に蛇持って来たから何かと思ったけど」
実は先日、露伴はとある事情で露天風呂に入れず、小さな個人用の風呂に入らなければならなくなったのだが……それはまた、別の機会に。
「では、飛ぶぞ……よっ!」
人間であれば、せいぜい軽いジャンプしか出来ないような浅い踏み込み。しかしながら神である神奈子であれば、その程度の踏み込みでも露伴ごと天高く飛翔することが出来るのである。
そして、神奈子が跳んだと同時に……彼女らの姿は、天高く消えていった。
「おー……結構高く飛んだね、ありゃ。神奈子も気合い入ってたのかな……まあいいや、私はもう一眠りでもしようか、な……」
そしてその様子を見届けた諏訪子は、早めに神社の中に戻ろうとして……ふと、
(あれは確か……早苗がよく使ってた奴だ。けど、なんでここに?あの子、こんな乱暴な扱いするような子じゃないと思うんだけどな)
首を捻りながらも諏訪子は箒に近づき、手に取ろうとした瞬間……伸ばした手の上に、
「……?」
二粒、三粒。腕に落ちてくる水滴はどんどんとその数を増し……やがて、一寸先も見えないような大雨が諏訪子を、そして幻想郷を覆った。
(……どういう事?神奈子……いや、違うな。神奈子の雨はこんな荒々しくない。というか、そもそも雨はさっき神奈子が止めた。だったら、一体……?)
突如降り出した、規格外のゲリラ豪雨。その正体について思索を続けて行く中で、諏訪子の脳裏に何故か先日の一件がよぎった。
(……あれ、なんで今能力の暴走の事を───)
『諏訪子様!』
背後から、唐突に声がした。太陽のような、明るく元気な声。この大雨の中ではどれだけ大きな声であろうとかき消されて当然であるはずなのだが、その声は不思議な事に諏訪子の鼓膜を揺らした。
同時に、諏訪子にはその声に聞き覚えがあった。今朝も聞いたのだから、尚更間違える事などない。赤ん坊だった頃から聞いてきた、彼女の声だ。
(……………)
そして、更に不思議な事に、彼女には奇妙な確信があった。
神としての力か、はたまた幻想郷で過ごしてきた経験故なのか、それともただの勘なのかは分からなかったけれども……とにかく、彼女は確信していた。
「……どうしたの、早苗?」
『諏訪子様、おはようございます!』
今日はきっと、幻想郷に来てから一番大変な日になるだろう、と。
✒︎
魔法の森で。
「……雨、強いわね」
「おーおー、すげえな。なあアリス、これ今までで一番じゃね?」
「さあね、私は……待って、『アレ』は何?」
紅魔館で。
「……お嬢様?どうされたのですか、こんな早い時間に起きてくるなんて」
「咲夜、美鈴とフランを連れて大図書館に来い」
「……はい?」
「最悪な運命が『視えた』」
太陽の畑で。
「……ふう、紅茶の一つも落ち着いて飲めやしないなんて、本当に幻想郷は飽きないわね。さて……岸辺露伴、貴方はどうやって『アレ』に立ち向かうのかしら?」
妖怪の山で。
「いやいやいやいや、洒落になりませんってこれ!動ける天狗は私について来てください!とにかく『アレ』をどうにかしないと、妖怪の山その物が消し飛ぶかもしれません!!」
あるいは、上空で。
「何だ!?一体何が起きてる!?」
「これは……?神奈子さん、さっき雨を止めたんじゃなかったのか?」
「そうだ、さっき私は雨を止めた!なのに何故、こんな……!?」
「……オイ、オイオイオイオイッ!冗談だろッ」
「どうした露伴君!何かあったか!?」
「
「はっ?守矢神社を見ろって、一体何……が……」
彼、そして彼女らは見た。
妖怪の山に位置する、守矢神社。そこで……
なんか……すごい事になって来たな