日も沈み切った宵の頃に似つかわしくない制服姿の潮野泰牙は、値踏みするような、猜疑に満ちた視線を眼前の女性へと向ける。
古びた木造建築の室内には、湿った黴の匂いが立ち込めており、至るところから建材の軋む音が聞こえてくる。電気も碌に通っていないため、光源は各所に設置された蝋燭の焔だけだ。頼りげのない光がゆらゆらと揺れ、今にも掻き消えてしまいそうになっている。外から聞こえてくる、くぐもった雨音が、絶えず鼓膜を叩く。
泰牙ともう一人の女性――和泉家当主の和泉透子がいるのは、御影温泉の最奥に位置する滅恨士達の管轄地の一角だった。一般の宿泊客が立ち入る事を許されないそこは、霞沢家の所有する資料庫である。壁一面に備えつけられた本棚には、びっしりと和綴じの書籍が並び、古色を帯びた紙と墨の香りが、微かに漂動している。
普段から、ほとんど人の出入りのない倉庫には、彼ら以外の人の気配はない。雨音に溶ける二つの息遣いが、静かに木霊し続ける――。
相対する二人の間には、不動の沈黙だけが鎮座していた。
重苦しい空気が沼底のヘドロのごとく沈殿し、そこにいる者の足許を否応なく絡め取るようだった。
やがて、「――泰牙」と張り詰めた糸を断ち切るように、凛とした声が反響した。
そこに齢四〇を過ぎた人間の柔弱さは微塵も見受けられない。格式高い黒留袖の和服に、確かな芯を感じさせる面持ち。猛禽類を想起させる鋭利な眼光が、一寸の迷いもなく泰牙を突き刺してくる。
返す刀で睨みつける泰牙に、透子は、「なぜ、ここに呼ばれたか心当たりは?」と問うた。
「さあ?」と泰牙は白々しく首を振る。「もう、昔のようにお説教されるような歳でもないですから。最後にここで、おばさんに折檻されたのは中学に上がる前でしたっけ? 懐かしいですね。確か、あなたの旅館の窓をボール遊びの途中で割った時だ」
「良く分かっているじゃないか」対する透子は皮肉をたっぷり込めた様子で言う。「叱るためだよ。あなたをここに招いたのはね」
「…………へえ」
「もう一度訊く。心当たりは?」
透子の追い詰めるような気迫を正面から浴びせかけられても、泰牙は泰然とした佇まいを崩さない。
わざとらしく思案する素振りを見せてから、「霧乃の事でしょう?」と分かり切った事のように確認を取った。
「……まだ、あの子を手元に置いているようだね」
「何か問題が? 忘れているようなら教えておきますが、霧乃の立場は潮野家配下の非正規滅恨士です。それ以上でも、それ以下でもない。非正規の側が了承しさえすれば、霞沢の人間は自由に彼らを、自らの勢力に引き入れられる。俺は何も規律を乱した覚えはないですよ」
「――それは相手が本当に滅恨士であった場合に限られる」躊躇なく、断罪するように、はっきりと透子は告げる。「あの子の持つ異能の力が、滅恨士由来である証拠がどこにある?」
「何を言うかと思えば」と泰牙は嘲笑するかのごとく声を上げる。「霧乃が滅恨士じゃなければ、何だと言うのです? まさか彼女の正体が怪恨だとでも?」
「あなたこそ、自らに都合の良いように現実を捻じ曲げ、決定的な事実から目を逸らしているのでは?」
「結局、何が言いたいのですか?」
「第三の可能性」透子は言う。「あの子が滅恨士でも怪恨でもない――私達の常識の埒外から来た存在だという事。そもそも泰牙、聡明なあなたが思い至っていないはずがない。あなたは、それを理解した上で道化を演じている。――違う?」
「おばさんは、俺の事をずいぶんと過大評価しているようだ」
肩を竦める泰牙を、透子は懐疑の目で見つめる。
「この後に及んで白を切り通すのね」
「あなたの言っている事が全くの的外れなだけですよ」
「…………」透子は、しばし口を噤んだのち、「……そう」と短く嘆息した。「もう良いわ」と踵を返して、出口へと歩いていく。「時間を取らせたね。……ただ、最後に一つ」
「何です?」
「分家の次期当主として、滅恨士の伝統を引き継ぎ、守っていくのであれば――身の振り方は考えるべきよ。私達の役目は、本家に仕える事よ。その本懐をゆめゆめ忘れぬように――」
「肝に銘じておきます」
笑顔で返す泰牙に、透子は諦観の念を含ませた表情と共に俯いた。それ以上は何も言う事なく、足早に資料庫を出て行った。
透子が去って少し間を置いてから、泰牙の相貌から、張りつけたような笑みが剥がれ落ちた。眉間に刻まれた険は、彼の今の心情を克明に表していた。
「……何が分家の本懐だ。くそッたれ」と汚穢を吐き捨てるように呟く。「俺達に必要なのは――絶対的な力だろうが。本家の言いなりにならずとも、この地を守れるだけの揺るぎない力。それを手にする事こそが、俺達の――」
降りしきる雨は、未だ止む気配はない。