伊庭庸二のこめかみから、一筋の汗が滴った。
それを皮切りに、顔中の毛穴という毛穴から塩分混じりの体液が噴き出してくる。
着替えたばかりのシャツが三〇秒も経たずに、雨に打たれた直後のようにずぶ濡れになった。
薄汚れた作業用ヘルメットの鍔を、厚手の手袋を着用した右手で掴んで被り直す。
目を細めながら、六月の空に浮かぶ太陽を見上げる。
梅雨時期の金沢とは思えないほどの快晴だ。雲一つない晴天に、年間降水量全国一位の威厳は全く感じられない。
体を蝕む慢性的な疲労感に辟易とする。騒音だらけの建築現場に一日中いると、頭がガンガンと痛んで仕方がない。
重たい資材を肩に預けながら持ち上げると、その他の派遣労働者と共に目的の場所へ運び出す。
重量に押し潰されそうになりながら、ふと意識が切り替わり、捨て去った過去が去来する。
かつての同級生達は、今も空調の効いた教室で講義を受けているのだろうか。それとも、かったるい講義など放り出してどこかに遊びに出かけているのか。
大学を中退して久しい伊庭には、知る由もなければ、知りたいとも思わない。赤の他人の生活に想いを馳せる余裕などない。こうして自らの時間と健康を切り売りして日銭を稼ぎ出すだけで精一杯なのだ。
幸いにも、インバウンドに力を入れるこの地で仕事に困る事はない。ホテルの建設が相次ぎ、現場は常に人手不足だ。世の学生やフリーターがやりたがらない仕事だけを選べば、伊庭のような社会不適合者でも何とか食い繋いでいける程度には。
体中の水分が枯渇しそうになるほど、資材置き場と工事現場を往復したところで、リーダー格の派遣会社の社員が休憩を申しつけてきた。
伊庭は首にかけたスポーツタオルで額を拭い、ヘルメットを脱ぐと、同じタオルで濡れた長髪を乱暴に拭いた。作業帽の影で見えにくくなっていた相貌が露わになる。
おそらく、初対面の人間が伊庭を二一歳と見抜く事は難しいだろう。落ち窪んだ目と、世捨て人を思わせる退廃的な表情が、彼を年齢以上に老けさせて見せているからだ。普段から十分な食事を摂れていないのか、頬も痩けている。
顔の造形も良くはない。誰が見ても平均以下だろう。先述のマイナス要素がなくなれば、多少はマシになるかもしれないが、それでも異性を惹きつける魅力が備わる事はないだろう。
伊庭を含む作業員達が、ぞろぞろと業務用の灰皿と簡素なパイプ椅子が並べられただけの休憩所に集まっていく。伊庭は、集団とは少し離れた場所に位置取ると、作業用ズボンのポケットから、汗でくしゃくしゃになったアメリカンスピリットのオーガニックミントの箱を取り出した。
濃い緑の箱から一本抜き取ると、口に咥えてライターで点火する。フィルター越しに息を吸い込むと、先端に酸素が供給されてすぐに火が着いた。喉の奥に煙とハーブの風味が広がる。
「――おっ、伊庭さんじゃないですか。今日こっち来てたんですね」わざわざ人混みから距離を取っていたにも関わらず、馴れ馴れしく話しかけてくる者がいた。
「…………」伊庭は無言で該当の人物を睨みつける。しかし、相手が意に介した様子は微塵もない。
確かここ数週間で良く現場に入るようになった少年だ。体は細身だが力もそこそこあり、スタミナもある。特別に鍛えているというよりは、若さからくる特権だろう。
目の前にいる少年からは、他の作業員達が漂わせている悲壮感など一切感じられない。毎日死んだ魚の目で肉体を酷使する伊庭達とは違い、その瞳は溢れんばかりの生気に満ちている。
見た目も小綺麗で、作業着からは柔軟剤の香りが漂い、黒髪のウルフヘアの下には切れ長の目を湛えた造形の良い顔立ちが覗く。
伊庭は根負けしたように溜息を吐くと、「……何の用だ、麓洞」と少年の名を呼んだ。
少年――麓洞梗弥は、人好きする爽やかな笑みを浮かべて、「ここ何日か顔合わせてなかったじゃないですか」と言った。「俺より先輩なんですから、挨拶しておこうと思いまして」
「俺に関わるなって言っただろ」と伊庭は目だけを動かして周囲を見やる。「……早く離れないと、お前も巻き込まれて――」
「おい麓洞! そいつといたら、お前にも伝染っちまうぞ!」
梗弥に聞かせるというよりは、その場にいる全員にわざと知らしめるかのように。
伊庭達とそれほど離れていない場所にいた強面の男が、大声で言った。
「そいつは疫病神だからなあ! この前も、米原が落ちてきた資材に潰されそうになったぞ!」
男の目には——いや、彼を含む現場作業員達の双眸には、侮蔑と若干の恐れが内包されている。
自分達とは違う『異物』と相対した際に向けられる視線。もはや伊庭にとっては日常と化した状況。
次に発せられる言葉は、聞かなくても分かる。「…………人殺し、ってか?」
「伊庭の野郎は人殺しなんだよ! 証拠がなくても! 直接手を下したっつう事実がなくても! そいつがいるだけで他人を不幸にする疫病神だって事に変わりはねえんだ!」
「ちょっ、谷屋さん……! いくら何でもそんな言い方……!」唯一、場の雰囲気に飲まれていない梗弥が口を挟もうとするが、もはやヒートアップした多数派の熱が冷める事はなかった。先ほどまで近くにいたはずのリーダー格の社員はいなくなっていた。
直後に、伊庭の側頭部に衝撃が走った。
一瞬遅れて視界が幾重にもブレる。「……ッ!」と思わず鈍痛のするこめかみを押さえる。手のひらにぬるりとした生暖かい感触が伝わる。見れば、自分の足許に、赤い液体の付着したコンクリ片が転がっていた。
「伊庭さんっ!?」
「……退がってろ、麓洞」
梗弥を片手で制すと、伊庭は落ち窪んだ瞳でギロリと横合いを睨みつける。視線の先にいたのは、今しがた自分に凶器を投げつけてきた金髪の男だった。
ヤンキーの表情が強張る。「何だよ疫病神! テメエが悪いんだろうが!」
「そうだな。確かに俺が悪い」
何が悪いのかも具体的に明示できない男の支離滅裂な理論に対し、伊庭は素直に肯定していた。
そして次の瞬間――梗弥の作業着の腰袋に収まっていたカッターナイフを奪い取ると、瞬時に刃を伸ばし、一切の躊躇なく金髪男へと投擲する。
矢のように放たれたナイフの先端が男の大腿部に突き刺さる。呻くのみだった先刻の伊庭と違い、甲高く情けない悲鳴が上がった。
「伊庭! この野郎!」
強面の男が口角から泡を飛ばしたが、伊庭は取り合わなかった。負傷してるとは思えないほどの俊敏さで金髪男へ詰め寄ると、安全靴の底で膝を蹴り抜いた。
駄目押しされた金髪男の喉から絶叫が迸る。
「俺が悪人で疫病神で人殺しだって分かってて先に手出したんだ。こうなる覚悟くらいできてるだろうな?」
答えを待たず襟首を掴み上げると、握った右拳を、顔面の中央へと突き込んだ。自分の骨が軋む音と、何かを砕いた音が同時に聞こえた。
そこからの展開は早かった。
梗弥の静止の声も聞かず、頭に血の上り切った男達が伊庭へと群がっていく。
澄み渡るような青空の下で、それとは正反対の粘質な感情が次々と混ざり合っていく。