数人が病院送りになるほどの怪我を負ったタイミングで、事態を見かねた現場監督が無理矢理その場を治めた。
さすがに、その場にいた誰もが警察沙汰にするのを憚ったので、諍いの件は内々に処理される事となった。
すっかり日も暮れた時間帯だが、立ち並ぶホテルや飲食店から発せられる明かりが、絶えず夜の街を照らし続けている。
伊庭は、打撲痕の残る左脚を引き摺りながら仙石通りを歩く。作業着は至るところが破れ、もはやボロ雑巾と化している。上から薄手の黒のジップパーカーを羽織っていなければ、露出狂として通報されていてもおかしくない有様だった。
しかし長髪はぐしゃぐしゃに乱れ、顔面は青痣だらけ。側から見ただけでは分からないが、奥歯も一本行方不明になっていた。口腔内に滲む鉄の味は、未だに消える様子はない。
とはいえ、あれだけの人数に囲まれて袋叩きに遭った上で、この程度の傷で済んだのは不幸中の幸いだっただろう。
——いや……。
伊庭は内心で直前の考えを否定する。
——あのお人好しが……。
事態が比較的すぐに収束したのは、騒動が起きてからすぐさま梗弥が現場監督を呼びに行ったからだ。彼の行動力がなければ、今ごろ伊庭は文字通り床の染みとなっていたかもしれない。
——あいつは、もうあの現場にはいられないだろうな。
余計な手出しをした者に対する報復を我慢できるほど、連中が人格者でない事を伊庭は知っている。人間という奴は、多数派に同調できない『異物』を排除するのに躊躇いを見せないものだ。
それが間違いだとは思わない。出る杭を打つ事が、コミュニティを円滑に回すための最良の手段なのだから。
だから、伊庭庸二は、これまでも、これからも、排除される側の存在であり続けるのだ。
色づけされたアスファルトを踏み締める度に、足裏から全身にかけて痛みが走る。体の不調に辟易としながら、路肩に座り込んだ。
煙草の箱を取り出し、赤く濡れそぼったフィルターを摘んだところで、「――あのっ、大丈夫でありますか?」と、どこか不自然な敬語が頭上から降り注いだ。
訝しみながら顔を上げると、心配そうにこちらを覗き込む少女と目が合った。
彼女が高校生だとすぐに分かったのは、この時間帯には不釣り合いな制服姿をしていたからだ。これまた六月の初夏には相応しくない長袖のセーラー服を着用しており、すらりと伸びた両脚は薄手の黒タイツで覆われている。足許は女学生らしいローファーではなく、革製のショートブーツで固められていた。
世間の常識とは少しばかり乖離した装い。だが、それ以上に目を惹く特徴がある。
それは、全ての色素が抜け落ち切ったような白い髪。
新雪を思わせる鮮やかな銀髪のサイドテールが夏の風に靡き、甘い香りを漂わせる。
着火するタイミングを逃した煙草を箱に押し込み直しながら、疑念の視線を少女へと向ける。「……お前には関係ねえよ。ガキはさっさと家に帰れ」とぶっきらぼうに言う。
これで怖気づいて、どこかへ行ってくれるのを期待したのだが、「見つけてしまったからには、無関係とは言えないであります!」と少女は予想に反して強情だった。その場に屈み込むと、伊庭の肩に手を回し始める。
「おい、何を……」
「病院に連れて行くであります」少女はきっぱりと言う。「どう見ても、そのままにしておいて良い怪我じゃないであります」
「こんなもん放っておいても勝手に治る」「駄目であります」「だから」「駄目」「…………」
銀髪の少女は、伊庭に肩を貸しながら立ち上がると、迷いのない足取りで歩き始めた。
すでに一人では思うように動けなくなっていた伊庭には、少女の介助を拒む気力さえ残されていない。少女に連れられるがまま歩みを進める。
「何だ、お前」と伊庭は視線を逸らしたまま訊ねる。「いつも、こんな事やってんのか」
「人助けは私の責務でありますので」
「責務ときたか」嘲笑するように鼻を鳴らす。「誰だか知らねえが、善人を演じるのが、そんなに気持ち良いかよ」
「気持ち良く……はないであります」皮肉のつもりだったが、存外、真面目な回答が返ってきた。
落ちた声のトーンに促されるように、伊庭は彼女の方を見やる。吐息が掛かりそうなほどの距離から覗く少女の横顔は、どこか美術品を連想させる端正さがあった。思わず見惚れてしまいそうになり、再び目を逸らした。「じゃあ、何でだよ」
「……そうしないと、私は世界に許してもらえないからであります」
「はあ?」抽象的な言い回しに、眉を顰める。少女の真意を問い詰めようと口を開こうとした瞬間――。
――……おいおい。
――嘘だろ。
――こんなところで……。
伊庭の脊髄に、液体窒素を流し込まれたかのような悪寒が走る。とっさに首だけを動かして周囲を見回し、自らが見逃した異変に遅まきながら気づく。
――来やがった。
――奴らが。
歩道に面したところに佇立する雑居ビル群。そして車道の向こう岸には、青々とした植え込みと街路樹が並ぶ。何の変哲もない普段通りの景色――だが、そこには本来あるべき要素が、決定的に抜け落ちていた。
人がいない。
歩道を行く群衆も、車道を駆ける自動車も――その全てが最初から存在などしていなかったかのように、綺麗さっぱり姿を消してしまっていた。
日は落ちているとはいえ、深夜にはまだ程遠い。観光地として賑わうこの地が、こんなに早く閑散とするはずがないのだ。
「……おい」と声を押し殺しながら、傍らの少女へ呼びかける。「俺を置いて、さっさと逃げろ」
「いえ、逃げません。――逃げる訳には、いかないであります」しかし少女は引き下がらない。「怪恨を滅するのは滅恨士の使命でありますので」
「かい、こん……?」
ザリ、と地面を躙る音がした。
人の気配が丸ごと消え失せた世界で、一人佇むシルエットがあった。
それは異様としか形容のしようがない容貌をしていた。異常に長い手脚と、刃物のように伸びた爪。眼球が見えないほど真っ黒に抉れた目許と、完全に外れた顎の関節によって、口裂け女のごとく開かれた口。ボサボサで不衛生な黒の長髪を揺らし、女性のように見えるそれは、軽く首を傾げて伊庭と少女の方を見やった。
髪を糸の代わりに束ねて作ったような不気味なワンピースを身に纏ったそれは、明らかにこの世の存在ではなかった。街中に、人間とは隔絶した存在が当然とばかりに存在する様は、不快極まるコントラストを生み出している。
伊庭は少女から離れると、ゆっくりと背中に背負ったデイパックに手を伸ばす。僅かにファスナーの開いた取出し口から覗いていた、木製の柄を掴む。鞘から太刀を引き抜くかのように、勢い良く抜刀する。
「……お前が何を知っているかは関係ねえ」伊庭が抜き放ったのは、持ち手に三尺ほどの片刃の刀身が接続された凶器だった。
大鉈――本来の用途は枝打ちや雑草の切断であって、武器として使うものではない。
だが、伊庭はそれを長年使い慣れた得物かのように迷いなく構える。
「良いか!? あの化け物の狙いは俺だ!」と叫ぶ。「俺は疫病神なんだよ! 俺が生きてるだけで化け物共が集まってくる! 俺が生きてるだけで周りの奴らが死んでいく! もう良い加減ウンザリなんだよ! 頼むから――ここから逃げてくれよッ!!」
伊庭の決死の懇願を遮るように、少女が前へと躍り出た。「まさか、こんなところで同胞に会えるとは思っていなかったでありますよ」
「何だと……?」
少女の意味深な言葉に、伊庭は眉根を寄せる。
白髪の少女は、こちらに背中を見せたまま、「――世に蔓延する怨嗟の感情が集まり、輪郭を与えられ、形を成した存在。それが『怪恨』であります」と言った。「そして――私達は生まれ持った異能の力を振るい、世に徒なす異形を討ち倒す役目を仰せつかった存在。一三〇〇年前より、この地に根を張り、怪恨と対峙してきた一族――それが霞沢家であります」
「はッ! 何だよ、それ!」伊庭は失笑気味に笑いながら、「じゃあ何か!? お前がそのナントカ家の人間だってのか!?」
「いえ、私は霞沢とは何の血の繋がりもありません」と少女は、首を横に振った。「私は灰羽霧乃」と自らの名を口にする。「霞沢分家、潮野家に仕える非正規滅恨士であります」
霧乃と名乗った少女は、静かに左腕を持ち上げると、ほっそりとしたそれを地面と平行に掲げる。
何をする気だと疑問に思ったのも束の間――。
霧乃の左肩――肩甲骨の辺りから、突如として異音が鳴った。塩ビ管を叩き折ったような音が幾度となく重なり、制服の生地が内側から隆起する。
「なッ……!?」
呆気に捉われる伊庭を置き去りにして、現実離れした光景はさらにフレーム数を増していく。
制服を下から突き破り、弾けるように純白の骨格と羽毛が姿を現す。
それは紛れもなく翼だった。
有翼動物を思わせる巨大な羽根――それが可憐な少女から生えている光景は、とある一つの存在を連想させた。伊庭の口許が無意識に一つの名詞を紡ぎ出す。「――……天使……?」と――。