一瞬だった。
ほんの僅かな意識の空白を縫うようにして、異形が飛びかかってきた。長い四肢をしならせ、人間離れした歩幅で一気に肉薄してくる。鋭利な刃と化した二爪が振りかぶられると共に、その尋常ならざる速度によって、輪郭が幾重にもブレる。
「危ねえッ!」という伊庭の警告を待たずして、霧乃が動き出す。「見えておりますッ!」と軽快な体運びで横合いに飛び、直後に彼女が一瞬前までいた座標を斬撃が駆け抜けた。
ワンピース姿の口裂け女もどきの体勢が崩れる。その隙を逃さず、霧乃は身を翻すと、振り返りざまに後ろ回し蹴りを放つ。ショートブーツの踵部分が、口裂け女の左脇腹に減り込む。
そのまま弾き飛ばすように脚を振り抜き、異形を後方へと退かせた。
たたらを踏む口裂け女を冷静な眼光で見据えつつ、霧乃は追撃を重ねる。
彼女の背から伸びる翼が大きく羽ばたいたかと思うと、周囲を埋め尽くすほどの突風が吹き荒れる。
うねる大気の奔流に頬を叩かれながら、伊庭は信じられないものを見るような目を少女へと向けた。
――あの羽根に空気を混ぜっ返すほどの大きさがある訳じゃねえ……!
――いったい何がッ……!?
この世ならざる現象を顕現させる少女が、舞い踊るように翼を振るう。霧乃を起点に閃光弾を思わせる爆光が瞬き、無数の煌めく羽根が銃弾のように射出された。
純白の弾丸がまとめて殺到し、着弾すると同時に、口裂け女の体躯を一切の容赦なく貫いていく。
切り裂かれた皮膚から毒々しい色の血液が噴出し、言語の体を成さぬ悲鳴が上がる。
女の体を貫通した羽根が地面の床材を抉り飛ばし、土煙が舞い上がって周囲を包み込んだ。
「これでっ……!」と霧乃が粉塵の帷の向こうを睨む。
しかし、「――まだだッ!」という伊庭の一喝が、少女の意識を殴りつける。「まだ終わってねえ!」
ズオアッ! と煙霧のカーテンを斬り裂き、交差された爪撃が一気呵成に迫り来る。凶刃が必殺の軌跡を宙空に刻み込み、大気を裁断する悍ましい音が鼓膜を震わせる。
「くそッたれが!」毒づき、伊庭は駆け出す。脳の奥から、けたたましく警笛が鳴るが、そんな事はお構いなしに霧乃の元へと一直線に馳せ参じる。
棒立ち状態の少女を前蹴りで突き飛ばし、彼女の前で壁になるように立ち塞がる。「おおああ――ッ!」と手にした大鉈を振り回し、押し寄せる連撃を迎え撃つ。下から掬い上げるような逆袈裟の一撃が、左から迫る爪を弾き飛ばし、返す刀で放った横薙ぎが、逆サイドからの攻撃を叩き落とす。
「……――ッ!」激甚なインパクトと共に、上腕二頭筋がビリビリと痛む。得物を経由してもなお、尋常でない衝撃の余韻が骨と神経を締め上げてくる。
伊庭は砕けんばかりに歯を食い縛り、気合いだけで前へと踏み込んだ。アスファルトを踏み砕きながら接近してくる口裂け女が、濁った咆哮を迸らせながら再度両腕を振り翳す。
――二度も同じ手が通じるかよッ!
先手必勝。
伊庭は上体を倒しながら、口裂け女の懐へと滑り込む。奴の十指が振り下ろされるのを待たずして、全体重を乗せた渾身の一撃をぶち込む。大鉈の鈍の刀身が、異形の土手っ腹の肉を喰い裂き、鮮血と臓物の花を咲かせた。
汚穢のような体液を全身に浴びながら、伊庭は自身の腰袋から安物のプラスドライバーを抜き放った。逆手で持ったそれを一寸の逡巡もなく、口裂け女の鳩尾へと突き入れた。十字上の先端が筋繊維を突き破り、その下にある骨格へと噛みついた。
「――――――――――――――――――――!!」苦痛に耐えかねたのか、口裂け女の喉から、天を突き上げんばかりの金切り声が溢れる。
耳を穿つような高音に顔をしかめながらも、伊庭は手を緩めなかった。
くず折れていく女の顔面めがけて、大鉈を叩き下ろす。果実を高所から叩きつけたような水っぽい音がしたかと思えば、直後に女の相貌が真っ二つにかち割れた。ひしゃげた顔から鉈を引き抜き、勢いそのまま蹴り飛ばす。
糸の切れた操り人形のごとく傾いでいく体を見ても、伊庭の顔色が晴れる様子はない。
へたり込む霧乃の二の腕を掴み上げ、「ボサっとしてんじゃねえ!」と立ち上がらせる。「ずらかるぞ! 死なねえ奴の相手してる暇はねえんだ!」
霧乃の手を引きながら、仙石通りに面している、いしかわ四高記念公園の雑木林へ転がり込む。
――障害物を使って撒くしかない!
――人通りのあるとこに出られればこっちの勝ちだ!
木々の隙間を疾走していく。僅かな間を置いて、後方から草木を掻き分ける音が聞こえてきて、首筋が粟立つ。これの正体が、公園で散歩でもしている年寄りだったらどれだけ良かったか。もちろん音の正体は改めて確認するまでもなく、こちらを猛追してくる口裂け女だ。
「くそッ」と吐き捨てる。「回復が早い……いつもの奴らとは違うって訳か……!」
「いつもの……?」と疑問を呈したのは、並走している霧乃だ。「そんなに何度も怪恨に襲われているのでありますか……?」と訊ねてくる。
「……ああそうだよ、くそッたれ」忌々しげに肯定する。「昔っからそうだ。俺に集まってくるのは、あの化け物共ばかりだ。……誰も俺の言う事なんか信じなかった。頭のイカれた気狂いだって嗤われて……そんで俺を蔑んだ連中は、全員あの連中に殺された」
「……それは……」
霧乃の言葉に被せるようにして、伊庭は続きを口にする。「俺の周りにいる奴らは、必ず不幸に見舞われる。死っつう人生最大の不幸がな。死体が綺麗に残れば、まだマシな方だ。たいていは原型さえも保っていないか、最悪それさえも見つからなくなっちまう」
雑木林を抜けて広場に出る。月明かりが、赤みがかった床材を照らす。視界いっぱいに飛び込んできたのは、赤煉瓦造りの建物。旧第四高等中学校の本館を利用して建てられた石川四高記念文化交流館だ。
伊庭は辺りを見回しながら舌を打つ。ここもまだ異形のテリトリーだ。見渡せる範囲に他の人間はいない。
すぐに口裂け女はここを突き止めるだろう。次の動きを決めなければならない。
「……あの」と横合いから声がかかる。不安げに、こちらを覗き込む霧乃は、「僭越ながら……私から提案があるのであります」と恐る恐る言った。緊張と恐怖に起因するのかは分からないが、どこか言葉が硬い。
「…………」伊庭は少しの間思案してから、「言ってみろ」と返した。「どの道、この怪我じゃ逃げ切れねえんだ。お前の考えに乗ってやるよ」