「――なあ化け物」伊庭は流れるように口にすると、背後を振り返る。「お互い大変だよな」と何の感情も籠もっていない声色で、それを出迎える。「人間の世界には、はみ出し者に居場所なんてねえ。俺も、お前も――マトモな連中が楽しく生きるための仕組みには不要なんだ」
藍鉄色の天蓋の下で、伊庭と口裂け女の様相をした異形が向き合う。
赤煉瓦の屋舎の正面玄関前――僅かな街灯の明かりに照らされ、口裂け女の輪郭が闇夜に浮かび上がる。先ほど伊庭に負わされた顔面の裂傷は、すでに塞がっており、薄っすらとした痕跡が残るのみだ。
伊庭は蔑むように鼻を鳴らし、「あそこで寝ていれば良かったのにな」と笑った。「そうすればこんなところで死なずに済んだのによ」
大鉈を右手で構え、切先を異形に突きつけながら腰を落とす。
口裂け女が喚叫を撒き散らしながら、こちらへと一直線に突っ込んでくる。左右それぞれの五指から伸びる凶刃を煌めかせ、脆弱な人間の肉を斬り刻まんと腕を振るう。
「――ッ!」心臓を鷲掴みする恐怖を強固な覚悟で律し、前へと踏み出す。右手の鉈を薙ぎ払い、右サイドから来た斬撃を迎撃。口裂け女の強烈極まる膂力が叩き込まれ、一瞬にして、振るった腕ごと押し込まれる。直撃は免れたにも関わらず、筋繊維をズタズタに引き裂かれるような激痛が走り抜けた。
異形が強引に右腕を振り抜く。インパクトと同時に伊庭の体が縦方向に反転。天と地が入れ替わる感覚に苛まれたのも束の間――攪拌される視界の端が、もう片方の腕から繰り出される爪撃の軌跡を捉えて慄然とする。
「おおあああッ!」迫る死の影を振り払うように雄叫びを上げ、輪転の勢いを利用したオーバーヘッドキックを振り下ろす。金属製の先芯の入った安全靴の爪先が、今まさに振り抜かれんとしていた異形の前腕を直撃した。
重力に引き摺り込まれるように腕が直下へと誘われ、伊庭の肉体を細断するはずだった五指の刃が、石造りの地面へと抉り込まれた。
「――――ッ!? ――――!!」口裂け女はすぐさま手を引き抜こうともがくが、割れた石の咬合力がそれを許さない。
その場に釘づけにされた異形を油断なく見据えながら、着地した伊庭は、「今だ――ッ!」と叫び放った。「やっちまえ!」
その瞬間、伊庭の号令に呼応するかのように直上から風切り音が駆け抜ける。
交流館の屋上から跳躍した灰羽霧乃が、弾丸と化して異形の元へと急降下していく。翼が羽ばたかれると共に、無数の羽根の弾幕が射出され、無防備を晒す口裂け女の四肢と胴体を滅茶苦茶に食い散らかす。
口裂け女の肉体構造が普通の人間と同じなのかは定かでないが、首筋や手首といった動脈が集中する箇所に、銃撃が的確に撃ち込まれ、夥しい量の血飛沫が上がる。
致命的な失血によって、よろめく異形。時を同じくして霧乃が肉薄。すれ違い様に純白の翼が一閃され、袈裟懸け状に刻まれた切創から、噴水よろしく血が湧き出した。
「上手くいったでありますね……!」荒い息を吐きながら、頬を紅潮させた霧乃がこちらを見やってくる。「お兄さんのおかげでありますよ」と声色は歓喜に満ちていた。
伊庭は罰が悪そうに目を逸らす。「……別に俺は何もしてねえよ」
「そんな事ないでありますよ! あなたが怪恨を足止めてしてくれたから私……が……――」
「あ?」
突如として歯切れ悪くなった霧乃の声に当てられて、伊庭は訝しげに目線を戻す。そして、「なッ……!?」と喉を詰まらせる。
ばっくりと割れた傷口から、粘液のような血液と臓物の破片を流しながらも、ふらふらと立ち上がる口裂け女。生物であれば明らかに致命傷となりうる有様になりながらも、女の足は未だ地を踏み締めたままだった。
「何で……ッ!?」と伊庭は後ずさるが、すでに遅かった。強烈な遠心力を以て振るわれた五本の爪が、大鉈の刀身を捉えた。金属同士を打ち合わせたような甲高い悲鳴が響き渡り、伊庭の体躯が吹き飛ばされる。背中からアスファルトへ叩きつけられ、肺の中から根こそぎ空気が搾り出される。「ごっ、ほッ……!?」
苦しみに呻く暇さえなく、口裂け女は伊庭に覆い被さるようにしてマウントを取ってくる。ただでさえ鋭く裂けていた口許が、さらにブチブチと開口し、悍ましく外れた顎が近づいてくる。人間ではありえないほどの本数の歯を鈍く煌めかせて、奈落の底よりも暗い口内が迫り来る。
「――……づッ!!」全身の毛が逆立つ。ぞわぞわとした嫌悪感が背筋を舐め上げる。
女の口腔と肩口から滴り落ちた体液が頬に当たる度に、硫酸を塗りつけられたような激痛が走る。すぐに状況を打開しろと、脳の奥がけたたましい警笛を鳴らしてくる。
とっさに腰袋から抜き放ったカッターナイフで異形の首筋を斬りつけたが、安物の文具の先端は、薄皮一枚裂く事さえ叶わずに砕け折れた。
明らかに先刻よりも身体強度が上がっている。彼我の差は開いていく一方だった。伊庭は歯噛みして体を捩るが、人外の発する埒外の力が身動きを許容してくれない。加速度的に焦りが募っていく。
「お兄さん――ッ!」と霧乃が叫ぶが、「来るんじゃねえ!」と伊庭は声を張り上げて彼女を拒絶した。振り乱される口裂け女の髪越しに、失意に塗り潰された表情の少女と目が合う。
「俺はもう駄目だ」
「そんな事ッ……」と霧乃はかぶりを振る。「すぐに私が――」
「何度も化け物共とやり合ってきたからこそ分かる。俺の命はここまでだ。だから頼む、さっさと逃げろ。俺をこれ以上――疫病神の人殺しにさせないでくれ」
だらりと手足を投げ出して脱力する。抵抗力が弱まったのを好機と見たのか、女の口角が側頭部まで達しそうなほどに吊り上げられた。
「やれよ」と捨鉢に吐き捨てた。「俺じゃお前には勝てねえ。ならいっそ一思いに――」
「――違う。あんたがその怪恨に太刀打ちできないのは、正しく力を振るえていないからだ」
突如として頭上から聞こえてきた第三者の声に、思わず首が動く。
そして見つける。煉瓦造りの屋舎の向かいの道路から、泰然とした面持ちで歩いてくる人影を。
黒のスラックスに、袖捲りした白いワイシャツを着た少年だった。緩くウェーブのかかった茶髪を風に揺らめかせ、琥珀色をした切れ長の瞳が真っ直ぐと伊庭を射抜く。年相応の幼さはあれど、梗弥にも引けを取らないほどに端正な顔立ちだ。
悠然と歩を進める少年の相貌には、塵芥ほどの恐怖心も見受けられない。さながら、この光景が日常の延長線上にでもあるかのように、彼の挙動には一糸の乱れもない。
「泰牙!」と霧乃の声が響いた。「来てくれたのでありますね!」
「遅くなってすまない。こっちもこっちで少し手間取ってな」泰牙と呼ばれた少年は、低い声で謝罪した。それから伊庭の方を見やり、「良く持ち堪えてくれたな」と微笑と共に言った。「あんたがいなきゃ、霧乃が危なかった」
「……お前は……いや、お前達は――」
「潮野泰牙」と見目麗しい少年は端的に告げた。「俺も霧乃と同じ、怪恨と戦える力を持った――少しだけ世の理から外れた連中の一人さ」
いつの間にか、口裂け女の動きは止まっていた。映像を一時停止したかのように微動だにしない。
「……どういう事なんだよ」と伊庭は訊ねる。「俺が正しく力を振るえていないって」
「言葉通りの意味さ」泰牙は肩を竦めて言う。「今のあんたは制御のできない力を無闇に垂れ流しているだけだ。だから怪恨に目をつけられる。そのくせ奴らに立ち向かうための術は持っていない。こいつらにとっちゃあ恰好の獲物でしかない」
泰牙は少しだけ口の端を上げ、右袖から伸びる筋肉質な腕を虚空に翳した。
「良く見ておくんだ。これが俺達の異能の力の使い方だ」
次に起こった事象は、月明かりに照らされて鮮明に網膜に焼きついてきた。少年の右手を中心に、光一つ反射しない漆黒の影が渦巻き始め、それが徐々に意味のある形を成していく。
「……槍、か……?」
虚空から顕現したのは、一. 五メートルほどの柄に三〇センチ程度の穂が接続された長柄武器。それは今しがた伊庭が口にした通り、刺突に特化した武具である槍だ。一点、本来のそれと異なる点があるとすれば、先端に取りつけられた穂先が黒曜石のごとき黒光りする素材で作られている事だ。
「――その原罪を以て、我の進むべき道を切り開け、善討槍」泰牙が槍を半身で構える。
少年を中心に発される言いようのない圧が空気を震わせる。それに当てられて、口裂け女の動きが明確に変わった。先ほどまで殺意の塊をぶつけていた伊庭の事など、眼中にもなくなったかのように、ゆらりと立ち上がる。
長い爪を携えた両腕を、体の正面で交差させて迎撃体勢を取る。
――化け物が……怯えてる……?
異形の雰囲気が明らかに違う。内側から迫り上がる暴力的な本能に従って暴れていた様は、完全に鳴りを潜め、その佇まいからは、自身の命を脅かし得る存在に向けての警戒が溢れていた。
「何だ。来ないのか?」と泰牙は挑発するように顎をしゃくった。「衝動任せの獣じゃなかったか」と槍を一回転させて勢いをつける。「なら――こっちから行かせてもらうぞ」
泰牙が仕掛ける。地面を蹴り抜き、僅かな逡巡さえもなく口裂け女へと突っ込んでいく。
黒曜石の刃が月明かりを反射して煌めき、驚異的な速度の刺突が繰り出される。
その一撃は、口裂け女の両腕の防御をも貫いて、鳩尾を的確に捉え切る。刺突が直撃した瞬間に、そこを起点にして眩い紫電が連続で瞬き、周囲一帯を埋め尽くす。
異形の胸に拳大の風穴が穿たれ、焼け爛れた傷口から焦げた臭いが撒き散らされる。しかし彼女は倒れない。踏み砕かんばかりに足裏が地面へ食い込んで、無理矢理自身を大地に縫い止める。断末魔のごとき金切り声を迸らせ、千切れかかった腕を振りかぶった。
泰牙は涼しい顔で身を屈めて薙ぎ払いを躱し、異形の土手っ腹に蹴りを突き込むと同時に槍を引き抜く。転瞬、目にも留まらぬ神速を以てして槍を輪転させる。
文字通り薄皮一枚でかろうじて繋がっていた異形の腕が、完全に寸断された。左右の前腕が放物線を描きながら宙を舞う。肘から先を失った口裂け女は、その光景を茫然と眺めていた。
「さあ、仕上げだ」泰牙の色素の薄い目線が、ゆらりと伊庭へ向いた。「立てるか?」
伊庭は答える事なく、腰を上げた。
制服姿の少年を睨めつけるが、当の本人は意に介した様子はない。「そう警戒しなくて良い。今日はあんたが滅恨士として生まれ変わる日だ」と言って、ある一点を指差す。人差し指の先にあったのは、伊庭の持つ大鉈だった。「なかなか良い得物を持っているな」
この光景を見せられた直後では馬鹿にされているようにしか受け取れなかったが、どうやら泰牙は本気らしい。
「それなら十分に怪恨と渡り合える。――覚悟を決めろ。そして、あんたがこの怪恨を滅するんだ」
「冗談だろ……!?」伊庭は苦笑いと共に首を横に振る。「俺のチンケな武器じゃ、化け物共には全く通用しなかった。俺はお前らとは違うんだよッ……!」
「言ったはずだ。あんたが怪恨にしてやられたのは、力の使い方を知らなかったからだ。専門家が確証を以て断言してやる。あんたには間違いなく素質がある。あんたが蔑むその得物は、あんたの心持ち次第で化け物を殺す手段に変わる」
有無を言わせぬ口調で断じる少年は、真っ直ぐと伊庭を見据えて告げる。
「イメージしろ。明確に頭に思い浮かべろ。怪恨から逃げ惑い、恐怖に慄く自分じゃなく――怪恨に立ち向かい、正面から斬り伏せる自分自身を」
「こいつを……」伊庭は、苦悶に呻き続ける異形を見やる。「斬り伏せる、自分……」
「そうだ。泡沫の幻想に、確かな輪郭を与えるんだ。それを武器を通して出力しろ。鈍を必殺の業物に変えろ」
伊庭はゆっくりと瞼を閉じた。
視界が黒く染まり、遠くにあった街の喧騒がはっきりと耳に入り込んでくる。
――これも……邪魔だ。
手にした大鉈に神経を注いでいく。晦冥の海の中で、ぼんやりと鉈の輪郭が浮かび上がり、それが確かな形を為していく。続いて、鼓膜を不規則に震わせていた物音も徐々に遠ざかっていく。
今、伊庭の感覚の中にあるのは大鉈の柄の感触だけ――。
――正直、あいつの言う力ってのが何なのかは分からねえ……。
先刻、初めて目にした事象。
子供騙しのCGやFXの類などではなく、正真正銘、現実世界に投影された超常現象。
常識に照らし合わせれば、それらは到底簡単に受け入れられるものではない。
だが――伊庭庸二は知っている。
この世界には、既知の物差しでは測る事のできない法則が存在する事を。
そして、嫌というほどに思い知らされてきた。
その数式から生み出された何かによって、自分の人生は根底から混ぜ返され、原型も留める事なく滅茶苦茶にされてしまう事を――。
――ずっと考えてきた。望んでいた。
――もし……俺の手でこいつらをぶち殺せるのなら……。
頼んでもいないにも関わらず、自らの人生に付随し続けてきた、ある種の負債。どれだけ足掻き、もがこうとも、それは伊庭の足首を執拗に掴んで離さなかった。
太陽が遠ざかり、地の底に引き摺り込まれていく自身を俯瞰しているだけの日々。
仮に――その負の連鎖を自らの意思で断ち切る事ができるのならば。
――俺は……俺の人生の道を自分自身で敷いていけるんじゃないかって……。
大鉈を振り上げる。傷ついた神経と筋繊維が軋みを上げ、体の芯にまで痛みが突き抜ける。脳裏を掠めた不純物となる思考の全てを脳内物質が捩じ伏せ、根こそぎ意識の彼方へと追いやる。
「おおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――ッッッ!!」
喉の筋肉を引き千切らんばかりの咆哮を轟かせ、直前に作り上げたイメージを脳内に克明に焼きつけたまま、両腕で携えた刃物を縦一文字に振り下ろす。
先ほどまでの鈍加減とは一転――それは確かな手応えと共に異形の脳天へと沈み込んだ。
皮を引き裂き、肉を抉り潰し、骨を叩き割り。臓物を粉砕する——。
あらゆる不快な感触が武器を通して手に伝わり、自身が成した事実をダイレクトに意識させる。
これが殺すという事。
自らの手で命を奪い去るという事。
これまで――この異形達によって伊庭がされ続けてきた事。
「全部ッ……全部全部全部!! 今度はテメエらが味わう番だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――ッッッ!!」
腕に力を込め直し、勢いのままに鉈を振り切った。切先が石造りの床材に突き刺さる。
粘質な体液が糸を引きながら、口裂け女の体躯が左右対称に等分され、ゆっくりと崩れ落ちる。どちゃりと果実が潰れるような水っぽい音がした。
鼓膜の奥で鳴り響いていた喧騒は、いつの間にか、水を打ったように静まり返っていた。
初夏の生温い風が吹きすさぶ音と、伊庭の荒い息遣いだけが空間を満たす。
「おめでとう」不意に肩を叩かれる。振り返ると満足げな表情の泰牙がこちらを見ていた。「これで、今日からあんたも滅恨士の一員だ」
「……こいつらは――一体何なんだ……? どうして俺達を殺そうとする……!?」
「現世に跋扈する怨恨によって生み出される怪異――それが怪恨だ。成仏できずにこの世に留まった霊魂が、その内部から湧き上がる、あるいは外部から注ぎ込まれた怨嗟の感情によって、人に仇なす異形へと変貌する。そいつらを討滅し、人々を守る使命を授かったのが、俺達滅恨士と呼ばれる人間だ」
泰牙は、「見てみろ」と親指の先端で一点を示した。その先には真っ二つになった肉塊が転がっている。両断されてなお、それぞれの手足は小刻みに痙攣していた。「――あんたがやった」
「…………」
「この怪恨を野放しにしていれば、いずれ何人もの人命が失われただろうな。――だから、誇って良い。この瞬間あんたは救ったんだよ、顔も名前も知らない人々の命をな」
「……!」
未練がましく震えていた異形の四肢はすぐに動かなくなり、先ほどまで伊庭にとって絶対的な恐怖として君臨していたはずの化け物は、完全に物言わぬ骸と化した。
やがてその亡骸は、蛍の光を思わせる淡い灯りに包まれていき、角砂糖を崩したように無数の粒子となって解け消えていく。
撒き散らされた血も内臓も肉片も、全てが最初から存在しなかったかのように、六月の夜空に溶けて混ざり合っていった。
「泰牙。そろそろ離れないと不味いです。人が集まってきてしまうであります」霧乃がこちらに駆け寄ってきながら、心配そうに言った。彼女の肩から生えていた翼は跡形もなく、なくなっていた。
泰牙の方も、「そうだな」と賛同し、放心したままの伊庭の腕を掴んで引っ張った。よくよく見れば、彼が持っていた長槍も、いつの間にか消えてしまっている。
この場で凶器を手にしているのは、伊庭だけとなっていた。罰が悪くなって、半ば押し込むようにして大鉈をデイパックに詰め込んだ。
「さあ、逃げるぞ。走れるか?」
泰牙に先導されるようにして、三人で走り出す。
アメリカ楓通りを抜け、百万石通りに出ると、さっきまでの非日常が噓だったかのように、平穏な光景が広がっていた。少し遠目に視認できる21世紀美術館や、周辺の建物からは、人工的な明かりが洩れ、まばらではあるが観光客や地元の人間が歩いている。
ここまで来れば大丈夫と踏んだのか、おもむろに泰牙が立ち止まる。それに倣うようにして少女が止まり、伊庭もワンテンポ遅れて、忙しなく動かしていた脚を制止させた。
「さて、落ち着いたところであんたに訊きたい事がある」と泰牙が話を切り出した。「あんたの名前は? 俺は名乗ったが、まだそっちの事は紹介してもらってないぞ」
「俺は……」と伊庭は言い淀む。彼らに危機を救ってもらった事は疑うまい事実だ。だが、この少年達が伊庭にとって未知の存在である事もまた確かだ。
素直に答えるべきなのか逡巡していると、泰牙の方は、「何だ? 教えてくれないのか?」といたずらっぽく口許を緩めた。「俺達はあんたの命の恩人だろ?」
彼の表情から本気で言っている訳でないのは分かるが、実際にその通りなので罰が悪い。
伊庭は観念したように後頭部を掻く。「伊庭……伊庭、庸二だ」
「良い名前だ」
別にお世辞にも褒められるような名前でもなければ、特段珍しい名前でもないのだが、そこは突っ込まないでおいた。
「改めて――俺は潮野泰牙。一三〇〇年前より怪恨退治を生業とする滅恨士の一族、霞沢家分家が一つ――潮野家の末裔だ」泰牙が右手を差し出してくる。握手を求められているのだと少し遅れて気づく。
「……俺は滅恨士って奴が何なのか、怪恨って奴が何なのかも良く知らない」伊庭は少年の手を握り返す前に言葉を投げかけた。「だから、俺からも一つ訊かせてくれ。お前達に着いていけば……殺せるのか? その怪恨って化け物共を」
「保証しよう」泰牙は迷わず答えた。「まあ、どれだけ殺れるのかは伊庭――あんた次第だがな」
「上等だ」そこで、ようやく伊庭は右手を差し出し返した。
二人の手が握り交わされる。
どちらの手も初夏の熱気に当てられて、じんわりと汗ばんでいた。