往日の夕凪詠草   作:鏡之翡翠

5 / 10
4

「――なあ化け物」伊庭(いば)は流れるように口にすると、背後を振り返る。「お互い大変だよな」と何の感情も()もっていない声色で、それを出迎(でむか)える。「人間の世界には、はみ出し者に居場所なんてねえ。俺も、お前も――マトモな連中が楽しく生きるための仕組み(システム)には不要なんだ」

 藍鉄色(あいてついろ)天蓋(てんがい)の下で、伊庭と口裂け女の様相(ようそう)をした異形が向き合う。

 赤煉瓦(あかれんが)屋舎(おくしゃ)の正面玄関前――僅かな街灯(がいとう)の明かりに照らされ、口裂け女の輪郭(りんかく)闇夜(やみよ)に浮かび上がる。先ほど伊庭に負わされた顔面の裂傷(れっしょう)は、すでに塞がっており、()っすらとした痕跡(こんせき)が残るのみだ。

 伊庭は(さげす)むように鼻を鳴らし、「あそこで寝ていれば良かったのにな」と笑った。「そうすればこんなところで死なずに済んだのによ」

 大鉈(おおなた)を右手で構え、切先(きっさき)を異形に突きつけながら腰を落とす。

 口裂け女が喚叫(かんきょう)を撒き散らしながら、こちらへと一直線に突っ込んでくる。左右それぞれの五指から伸びる凶刃を(きら)めかせ、脆弱(ぜいじゃく)な人間の肉を斬り(きざ)まんと腕を振るう。

「――ッ!」心臓を鷲掴(わしづか)みする恐怖を強固な覚悟で(りっ)し、前へと踏み出す。右手の鉈を薙ぎ払い、右サイドから来た斬撃を迎撃。口裂け女の強烈極まる膂力(りょりょく)が叩き込まれ、一瞬にして、振るった腕ごと押し込まれる。直撃は免れたにも関わらず、筋繊維(きんせんい)をズタズタに引き裂かれるような激痛が走り抜けた。

 異形が強引に右腕を振り抜く。インパクトと同時に伊庭の体が縦方向に反転。天と地が入れ替わる感覚に(さいな)まれたのも(つか)()――攪拌(かくはん)される視界の端が、もう片方の腕から繰り出される爪撃(そうげき)軌跡(きせき)を捉えて慄然(りつぜん)とする。

「おおあああッ!」迫る死の(かげ)を振り払うように雄叫(おたけ)びを上げ、輪転(りんてん)の勢いを利用したオーバーヘッドキックを振り下ろす。金属製の先芯の入った安全靴の爪先が、今まさに振り抜かれんとしていた異形の前腕を直撃した。

 重力に引き()り込まれるように腕が直下(ちょっか)へと(いざな)われ、伊庭の肉体を細断(さいだん)するはずだった五指(ごし)(やいば)が、石造(いしづく)りの地面へと(えぐ)り込まれた。

「――――ッ!? ――――!!」口裂け女はすぐさま手を引き抜こうともがくが、割れた石の咬合力(こうごうりょく)がそれを許さない。

 その場に(くぎ)づけにされた異形を油断なく見据(みす)えながら、着地した伊庭は、「今だ――ッ!」と叫び放った。「やっちまえ!」

 その瞬間、伊庭の号令(ごうれい)呼応(こおう)するかのように直上から風切り音が駆け抜ける。

 交流館の屋上から跳躍(ちょうやく)した灰羽(はいばね)霧乃(きりの)が、弾丸と化して異形の元へと急降下(きゅうこうか)していく。(つばさ)が羽ばたかれると共に、無数の羽根(はね)弾幕(だんまく)射出(しゃしゅつ)され、無防備を(さら)す口裂け女の四肢(しし)と胴体を滅茶苦茶(めちゃくちゃ)に食い散らかす。

 口裂け女の肉体構造(こうぞう)が普通の人間と同じなのかは(さだ)かでないが、首筋や手首といった動脈(どうみゃく)が集中する箇所(かしょ)に、銃撃が的確に撃ち込まれ、(おびただ)しい量の血飛沫(ちしぶき)が上がる。

 致命的な失血によって、よろめく異形。時を同じくして霧乃が肉薄(にくはく)。すれ違い様に純白の翼が一閃(いっせん)され、袈裟懸(けさが)(じょう)に刻まれた切創(せっそう)から、噴水(ふんすい)よろしく血が湧き出した。

「上手くいったでありますね……!」荒い息を吐きながら、頬を紅潮(こうちょう)させた霧乃がこちらを見やってくる。「お兄さんのおかげでありますよ」と声色は歓喜(かんき)に満ちていた。

 伊庭は(ばつ)が悪そうに目を()らす。「……別に俺は何もしてねえよ」

「そんな事ないでありますよ! あなたが怪恨(かいこん)を足止めてしてくれたから私……が……――」

「あ?」

 突如として歯切(はぎ)れ悪くなった霧乃(きりの)の声に当てられて、伊庭は(いぶか)しげに目線を戻す。そして、「なッ……!?」と(のど)を詰まらせる。

 ばっくりと割れた傷口から、粘液(ねんえき)のような血液と臓物(ぞうもつ)破片(はへん)を流しながらも、ふらふらと立ち上がる口裂け女。生物であれば明らかに致命傷となりうる有様になりながらも、女の足は未だ地を踏み締めたままだった。

「何で……ッ!?」と伊庭は後ずさるが、すでに遅かった。強烈な遠心力を(もっ)て振るわれた五本の爪が、大鉈の刀身を捉えた。金属同士を打ち合わせたような甲高い悲鳴が響き渡り、伊庭の体躯が吹き飛ばされる。背中からアスファルトへ叩きつけられ、肺の中から根こそぎ空気が(しぼ)り出される。「ごっ、ほッ……!?」

 苦しみに(うめ)(いとま)さえなく、口裂け女は伊庭に覆い被さるようにしてマウントを取ってくる。ただでさえ鋭く裂けていた口許が、さらにブチブチと開口し、(おぞ)ましく外れた(あぎと)が近づいてくる。人間ではありえないほどの本数の歯を(にぶ)く煌めかせて、奈落(ならく)の底よりも暗い口内が迫り来る。

「――……づッ!!」全身の毛が逆立つ。ぞわぞわとした嫌悪感が背筋を舐め上げる。

 女の口腔(こうくう)と肩口から(したた)り落ちた体液が(ほお)に当たる度に、硫酸(りゅうさん)を塗りつけられたような激痛が走る。すぐに状況を打開しろと、脳の奥がけたたましい警笛(けいてき)を鳴らしてくる。

 とっさに腰袋から抜き放ったカッターナイフで異形の首筋を斬りつけたが、安物の文具の先端は、薄皮一枚裂く事さえ叶わずに砕け折れた。

 明らかに先刻(せんこく)よりも身体強度が上がっている。彼我(ひが)の差は開いていく一方だった。伊庭は歯噛みして体を(よじ)るが、人外の発する埒外(らちがい)の力が身動きを許容(きょよう)してくれない。加速度的に(あせ)りが(つの)っていく。

「お兄さん――ッ!」と霧乃が叫ぶが、「来るんじゃねえ!」と伊庭は声を張り上げて彼女を拒絶(きょぜつ)した。振り乱される口裂け女の髪越しに、失意に塗り潰された表情の少女と目が合う。

「俺はもう駄目だ」

「そんな事ッ……」と霧乃はかぶりを振る。「すぐに私が――」

「何度も化け物共とやり合ってきたからこそ分かる。俺の命はここまでだ。だから頼む、さっさと逃げろ。俺をこれ以上――疫病神の人殺しにさせないでくれ」

 だらりと手足を投げ出して脱力する。抵抗力(ていこうりょく)が弱まったのを好機(こうき)と見たのか、女の口角(こうかく)側頭部(そくとうぶ)まで達しそうなほどに()り上げられた。

「やれよ」と捨鉢(すてばち)に吐き捨てた。「俺じゃお前には勝てねえ。ならいっそ一思いに――」

 

 

「――違う。あんたがその怪恨(かいこん)に太刀打ちできないのは、正しく力を振るえていないからだ」

 

 

 突如として頭上から聞こえてきた第三者の声に、思わず首が動く。

 そして見つける。煉瓦(れんが)造りの屋舎(おくしゃ)の向かいの道路から、泰然(たいぜん)とした面持ちで歩いてくる人影を。

 黒のスラックスに、袖捲(そでまく)りした白いワイシャツを着た少年だった。緩くウェーブのかかった茶髪を風に揺らめかせ、琥珀色(こはくいろ)をした切れ長の瞳が真っ直ぐと伊庭を射抜(いぬ)く。年相応の幼さはあれど、梗弥(きょうや)にも引けを取らないほどに端正(たんせい)な顔立ちだ。

 悠然(ゆうぜん)()を進める少年の相貌(そうぼう)には、塵芥(ちりあくた)ほどの恐怖心も見受けられない。さながら、この光景が日常の延長線上にでもあるかのように、彼の挙動(きょどう)には一糸(いっし)の乱れもない。

泰牙(たいが)!」と霧乃の声が響いた。「来てくれたのでありますね!」

「遅くなってすまない。こっちもこっちで少し手間取ってな」泰牙と呼ばれた少年は、低い声で謝罪した。それから伊庭の方を見やり、「良く持ち堪えてくれたな」と微笑(びしょう)と共に言った。「あんたがいなきゃ、霧乃が危なかった」

「……お前は……いや、お前達は――」

潮野(しおの)泰牙(たいが)」と見目麗(みめうるわ)しい少年は端的(たんてき)に告げた。「俺も霧乃(きりの)と同じ、怪恨(かいこん)と戦える力を持った――少しだけ世の(ことわり)から外れた連中の一人さ」

 いつの間にか、口裂け女の動きは止まっていた。映像を一時停止したかのように微動(びどう)だにしない。

「……どういう事なんだよ」と伊庭は(たず)ねる。「俺が正しく力を振るえていないって」

「言葉通りの意味さ」泰牙は肩を(すく)めて言う。「今のあんたは制御のできない力を無闇(むやみ)()れ流しているだけだ。だから怪恨に目をつけられる。そのくせ奴らに立ち向かうための(すべ)は持っていない。こいつらにとっちゃあ恰好(かっこう)の獲物でしかない」

 泰牙は少しだけ口の端を上げ、右(そで)から伸びる筋肉質な腕を虚空(こくう)(かざ)した。

「良く見ておくんだ。これが俺達の異能の力の使い方だ」

 次に起こった事象は、月明かりに照らされて鮮明に網膜(もうまく)に焼きついてきた。少年の右手を中心に、光一つ反射しない漆黒(しっこく)の影が渦巻(うずま)き始め、それが徐々に意味のある形を()していく。

「……(やり)、か……?」

 虚空から顕現(けんげん)したのは、一. 五メートルほどの(つか)に三〇センチ程度の()が接続された長柄武器(ながえぶき)。それは今しがた伊庭が口にした通り、刺突(しとつ)に特化した武具である槍だ。一点、本来のそれと異なる点があるとすれば、先端に取りつけられた穂先(ほさき)黒曜石(こくようせき)のごとき黒光りする素材で作られている事だ。

「――その原罪(げんざい)(もっ)て、我の進むべき道を切り開け、善討槍(ぜんとうそう)」泰牙が槍を半身で構える。

 少年を中心に発される言いようのない(プレッシャー)が空気を震わせる。それに当てられて、口裂け女の動きが明確に変わった。先ほどまで殺意の(かたまり)をぶつけていた伊庭の事など、眼中(がんちゅう)にもなくなったかのように、ゆらりと立ち上がる。

 長い爪を携えた両腕を、体の正面で交差させて迎撃(げいげき)体勢(たいせい)を取る。

 ――化け物が……(おび)えてる……?

 異形の雰囲気が明らかに違う。内側から()り上がる暴力的な本能に従って暴れていた(さま)は、完全に()りを(ひそ)め、その(たたず)まいからは、自身の命を脅かし得る存在に向けての警戒が溢れていた。

「何だ。来ないのか?」と泰牙は挑発するように(あご)をしゃくった。「衝動任せの獣じゃなかったか」と槍を一回転させて勢いをつける。「なら――こっちから行かせてもらうぞ」

 泰牙が仕掛ける。地面を蹴り抜き、僅かな逡巡(しゅんじゅん)さえもなく口裂け女へと突っ込んでいく。

 黒曜石の刃が月明かりを反射して煌めき、驚異的な速度の刺突(しとつ)が繰り出される。

 その一撃は、口裂け女の両腕の防御をも貫いて、鳩尾(みぞおち)を的確に捉え切る。刺突が直撃した瞬間に、そこを起点にして(まばゆ)紫電(しでん)が連続で(またた)き、周囲一帯を埋め尽くす。

 異形の胸に拳大(こぶしだい)風穴(かざあな)穿(うが)たれ、焼け(ただ)れた傷口から()げた臭いが()()らされる。しかし彼女は倒れない。踏み砕かんばかりに足裏(あしうら)が地面へ食い込んで、無理矢理自身を大地に()い止める。断末魔(だんまつま)のごとき金切り声を(ほとばし)らせ、千切れかかった腕を振りかぶった。

 泰牙(たいが)(すず)しい顔で身を(かが)めて()ぎ払いを(かわ)し、異形の土手(どて)(ぱら)に蹴りを突き込むと同時に槍を引き抜く。転瞬(てんしゅん)、目にも留まらぬ神速を以てして槍を輪転(りんてん)させる。

 文字通り薄皮(うすかわ)一枚でかろうじて繋がっていた異形の腕が、完全に寸断(すんだん)された。左右の前腕が放物線を描きながら(ちゅう)を舞う。(ひじ)から先を失った口裂け女は、その光景を茫然(ぼうぜん)(なが)めていた。

「さあ、仕上げだ」泰牙の色素の薄い目線が、ゆらりと伊庭へ向いた。「立てるか?」

 伊庭は答える事なく、腰を上げた。

 制服姿の少年を()めつけるが、当の本人は意に介した様子はない。「そう警戒しなくて良い。今日はあんたが滅恨士(めっこんし)として生まれ変わる日だ」と言って、ある一点を指差す。人差し指の先にあったのは、伊庭の持つ大鉈(おおなた)だった。「なかなか良い得物(えもの)を持っているな」

 この光景を見せられた直後では馬鹿にされているようにしか受け取れなかったが、どうやら泰牙は本気らしい。

「それなら十分(じゅうぶん)怪恨(かいこん)と渡り合える。――覚悟を決めろ。そして、()()()()()()()()()()()()()()

「冗談だろ……!?」伊庭は苦笑いと共に首を横に振る。「俺のチンケな武器じゃ、化け物共(こいつら)には全く通用しなかった。俺はお前らとは違うんだよッ……!」

「言ったはずだ。あんたが怪恨にしてやられたのは、力の使い方を知らなかったからだ。専門家が確証(かくしょう)(もっ)断言(だんげん)してやる。あんたには間違いなく素質(そしつ)がある。あんたが(さげす)むその得物は、あんたの心持ち次第で化け物を殺す手段に変わる」

 有無(うむ)を言わせぬ口調で断じる少年は、真っ直ぐと伊庭を見据えて()げる。

「イメージしろ。明確に頭に思い浮かべろ。怪恨から逃げ(まど)い、恐怖に(おのの)く自分じゃなく――怪恨に立ち向かい、正面から斬り伏せる自分自身を」

「こいつを……」伊庭は、苦悶(くもん)(うめ)き続ける異形を見やる。「斬り伏せる、自分……」

「そうだ。泡沫(うたかた)幻想(げんそう)に、確かな輪郭(りんかく)を与えるんだ。それを武器を通して出力しろ。(なまくら)を必殺の業物(わざもの)に変えろ」

 伊庭はゆっくりと(まぶた)を閉じた。

 視界が黒く()まり、遠くにあった街の喧騒(けんそう)がはっきりと耳に入り込んでくる。

 ――これも……邪魔だ。

 手にした大鉈に神経を(そそ)いでいく。晦冥(かいめい)の海の中で、ぼんやりと鉈の輪郭が浮かび上がり、それが確かな形を()していく。続いて、鼓膜(こまく)不規則(ふきそく)に震わせていた物音も徐々(じょじょ)に遠ざかっていく。

 今、伊庭の感覚の中にあるのは大鉈の柄の感触(かんしょく)だけ――。

 ――正直、あいつの言う(チカラ)ってのが何なのかは分からねえ……。

 先刻、初めて目にした事象(じしょう)

 子供(だま)しのCGやFXの(たぐい)などではなく、正真正銘(しょうしんしょうめい)、現実世界に投影(とうえい)された超常現象。

 常識に照らし合わせれば、それらは到底(とうてい)簡単に受け入れられるものではない。

 だが――伊庭(いば)庸二(ようじ)は知っている。

 この世界には、既知(きち)の物差しでは(はか)る事のできない法則が存在する事を。

 そして、嫌というほどに思い知らされてきた。

 その数式から生み出された()()によって、自分の人生は根底(こんてい)から混ぜ返され、原型も留める事なく滅茶苦茶にされてしまう事を――。

 ――ずっと考えてきた。望んでいた。

 ――もし……俺の手でこいつらをぶち殺せるのなら……。

 頼んでもいないにも関わらず、自らの人生に付随(ふずい)し続けてきた、ある種の負債(ふさい)。どれだけ足掻(あが)き、もがこうとも、それは伊庭の足首を執拗(しつよう)に掴んで離さなかった。

 太陽が遠ざかり、地の底に引き()り込まれていく自身を俯瞰(ふかん)しているだけの日々。

 仮に――その負の連鎖(れんさ)を自らの意思で断ち切る事ができるのならば。

 

 

 ――俺は……俺の人生の(レール)を自分自身で()いていけるんじゃないかって……。

 

 

 大鉈(おおなた)を振り上げる。傷ついた神経と筋繊維(きんせんい)(きし)みを上げ、体の(しん)にまで痛みが突き抜ける。脳裏(のうり)(かす)めた不純物(ふじゅんぶつ)となる思考の全てを脳内物質(エンドルフィン)()じ伏せ、根こそぎ意識の彼方(かなた)へと追いやる。

「おおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――ッッッ!!」

 喉の筋肉を引き千切らんばかりの咆哮(ほうこう)(とどろ)かせ、直前に作り上げたイメージを脳内に克明(こくめい)に焼きつけたまま、両腕で携えた刃物を縦一文字に振り下ろす。

 先ほどまでの(なまくら)加減とは一転――それは確かな手応えと共に異形の脳天(のうてん)へと沈み込んだ。

 皮を引き裂き、肉を(えぐ)り潰し、骨を叩き割り。臓物(ぞうもつ)粉砕(ふんさい)する——。

 あらゆる不快(ふかい)な感触が武器を通して手に伝わり、自身が成した事実をダイレクトに意識させる。

 これが殺すという事。

 自らの手で命を奪い去るという事。

 これまで――この異形達によって伊庭がされ続けてきた事。

「全部ッ……全部全部全部!! 今度はテメエらが味わう番だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――ッッッ!!」

 腕に力を込め直し、勢いのままに鉈を振り切った。切先(きっさき)が石造りの床材に突き刺さる。

 粘質(ねんしつ)な体液が糸を引きながら、口裂け女の体躯(たいく)が左右対称に等分され、ゆっくりと崩れ落ちる。どちゃりと果実(かじつ)が潰れるような水っぽい音がした。

 鼓膜(こまく)の奥で鳴り響いていた喧騒(けんそう)は、いつの間にか、水を打ったように静まり返っていた。

 初夏(しょか)生温(なまぬる)い風が吹きすさぶ音と、伊庭(いば)(あら)い息遣いだけが空間を満たす。

「おめでとう」不意に肩を叩かれる。振り返ると満足げな表情の泰牙がこちらを見ていた。「これで、今日からあんたも滅恨士(俺達)の一員だ」

「……こいつらは――一体何なんだ……? どうして俺達を殺そうとする……!?」

「現世に跋扈(ばっこ)する怨恨(えんこん)によって生み出される怪異――それが怪恨だ。成仏できずにこの世に(とど)まった霊魂(れいこん)が、その内部から湧き上がる、あるいは外部から注ぎ込まれた怨嗟(えんさ)の感情によって、人に(あだ)なす異形へと変貌(へんぼう)する。そいつらを討滅(とうめつ)し、人々を守る使命を(さず)かったのが、俺達滅恨士と呼ばれる人間だ」

 泰牙は、「見てみろ」と親指の先端で一点を示した。その先には真っ二つになった肉塊(にくかい)が転がっている。両断されてなお、それぞれの手足は小刻みに痙攣(けいれん)していた。「――あんたがやった」

「…………」

「この怪恨を野放しにしていれば、いずれ何人もの人命が失われただろうな。――だから、(ほこ)って良い。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……!」

 未練(みれん)がましく震えていた異形の四肢(しし)はすぐに動かなくなり、先ほどまで伊庭にとって絶対的な恐怖として君臨(くんりん)していたはずの化け物は、完全に物言わぬ(むくろ)と化した。

 やがてその亡骸(なきがら)は、(ほたる)の光を思わせる(あわ)(あか)りに包まれていき、角砂糖(かくざとう)(くず)したように無数の粒子(りゅうし)となって解け消えていく。

 撒き散らされた血も内臓も肉片(にくへん)も、全てが最初から存在しなかったかのように、六月の夜空に溶けて混ざり合っていった。

泰牙(たいが)。そろそろ離れないと不味(まず)いです。人が集まってきてしまうであります」霧乃(きりの)がこちらに()け寄ってきながら、心配そうに言った。彼女の肩から生えていた翼は跡形(あとかた)もなく、なくなっていた。

 泰牙の方も、「そうだな」と賛同し、放心したままの伊庭の腕を掴んで引っ張った。よくよく見れば、彼が持っていた長槍(ちょうそう)も、いつの間にか消えてしまっている。

 この場で凶器(きょうき)を手にしているのは、伊庭だけとなっていた。(ばつ)が悪くなって、半ば押し込むようにして大鉈をデイパックに詰め込んだ。

「さあ、逃げるぞ。走れるか?」

 泰牙に先導されるようにして、三人で走り出す。

 アメリカ楓通(かえでどお)りを抜け、百万石(ひゃくまんごく)通りに出ると、さっきまでの非日常が噓だったかのように、平穏な光景が広がっていた。少し遠目(とおめ)に視認できる21世紀(せいき)美術館(びじゅつかん)や、周辺の建物からは、人工的な明かりが()れ、まばらではあるが観光客や地元の人間が歩いている。

 ここまで来れば大丈夫と踏んだのか、おもむろに泰牙が立ち止まる。それに(なら)うようにして少女が止まり、伊庭もワンテンポ遅れて、(せわ)しなく動かしていた脚を制止させた。

「さて、落ち着いたところであんたに()きたい事がある」と泰牙が話を切り出した。「あんたの名前は? 俺は名乗ったが、まだそっちの事は紹介してもらってないぞ」

「俺は……」と伊庭は言い淀む。彼らに危機を救ってもらった事は疑うまい事実だ。だが、この少年達が伊庭にとって未知の存在である事もまた確かだ。

 素直に答えるべきなのか逡巡(しゅんじゅん)していると、泰牙の方は、「何だ? 教えてくれないのか?」といたずらっぽく口許(くちもと)(ゆる)めた。「俺達はあんたの命の恩人(おんじん)だろ?」

 彼の表情から本気で言っている訳でないのは分かるが、実際にその通りなので罰が悪い。

 伊庭は観念(かんねん)したように後頭部を()く。「伊庭(いば)……伊庭、庸二(ようじ)だ」

「良い名前だ」

 別にお世辞にも()められるような名前でもなければ、特段(めずら)しい名前でもないのだが、そこは突っ込まないでおいた。

「改めて――俺は潮野(しおの)泰牙(たいが)。一三〇〇年前より怪恨退治を生業(なりわい)とする滅恨士(めっこんし)の一族、霞沢(かすみざわ)()分家が一つ――潮野家の末裔(まつえい)だ」泰牙が右手を差し出してくる。握手を求められているのだと少し遅れて気づく。

「……俺は滅恨士って奴が何なのか、怪恨って奴が何なのかも良く知らない」伊庭は少年の手を握り返す前に言葉を投げかけた。「だから、俺からも一つ訊かせてくれ。お前達に着いていけば……殺せるのか? その怪恨って化け物共を」

「保証しよう」泰牙は迷わず答えた。「まあ、どれだけ()れるのかは伊庭――あんた次第だがな」

「上等だ」そこで、ようやく伊庭は右手を差し出し返した。

 二人の手が握り交わされる。

 どちらの手も初夏の熱気に当てられて、じんわりと汗ばんでいた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。