ヤニで黄ばんだカーテンの隙間から西陽が差し込んできて、瞼の裏側から目を焦がす。思わず目を細めながら、右手で顔を覆う。
伊庭は黴臭いタオルケットを毟り取ると、部屋中に充満する熱気と湿気に顔をしかめた。
起き上がってカーテンを開けると、夕方の陽射しが雲間から降り注いでいる。時計を確認すると、すでに午後五時を回っていた。
橙色の空の半分ほどは、厚ぼったい鉛色の雲に覆われつつあり、雨が近い事を予期させる。肌に纏わりつくような湿度も、これのせいだろう。
辺りを見回す。五畳一間の和室は閑散としていて、まともな調度品一つない。安物の布団と、仕事道具や着替えを入れる衣装ケースがあるくらいだ。脱ぎ散らかした作業服の側にあったアメリカンスピリットの箱を見つけると、まだ怠さの抜けない緩慢な動きで手を伸ばす。
その時、枕許から着信音が鳴った。舌を打ちながら視線を変えると、充電器に挿しっぱなしの携帯電話が小気味良く振動しながら音を響かせていた。
折り畳み式のそれを手に取って開くと、発信者は昨夜連絡先を交換したばかりの少年だった。スピーカー部を耳の横に持ってくると、『伊庭さん、これから時間はあるか』という問いが投げかけられた。『頼みたい事があるんだ』
「頼みたい事……?」
『何だ? もしかして寝起きか?』
伊庭の気怠げな声色は、顔が見えなくとも、簡単に状態を伝えてしまうらしい。「うるせえよ」とガムでも吐き捨てるように言う。「昨日あんな事があったんだ。まともに寝れるかよ」ただのその場凌ぎの嘘だった。
「まあ良い」と電話越しの泰牙も深入りはせず、「霧乃を迎えに行ってやってほしいんだ」と言った。「学校の住所は今から送るから――」
「おいおい、冗談だろ」
『何がだ?』
「お前も、あいつも高校生だろうが。小学校入ったばっかりのガキじゃねえんだ。送迎なんて……」
『確かにそうかもしれないが』泰牙は特に気を悪くした様子もない。『霧乃も、何なら伊庭さんも――日が落ちてから自由に動き回れる身の上じゃない。そうだろ?』
「…………」
確かに、泰牙の言う通り、日没までもう時間がない。
そして伊庭は実体験に基づいて知っている。
夜は――奴らの時間だ。人間社会の裏側に潜む異形達が表に出てきて、我がもの顔で闊歩し始める。眠らない繁華街であれば、遭遇する確率は大幅に低くなるが、当然昨夜のようなパターンだってある。
泰牙の言葉を思い出す。
――「今のあんたは制御のできない力を無闇に垂れ流しているだけだ。だから怪恨に目をつけられる」
怪恨――伊庭の人生を狂わせ続けてきた元凶。それは、異能の力に誘引されるようにして集まってくる。言うまでもなく、この法則はあの少女にも当てはまるのだろう。
『本当は俺が行ってやりたいんだけどな』
「何か用事でもあんのかよ」
『霞沢の人間はそれなりに忙しいのさ。分家とはいえ、次期当主ともなればなおさらな』
伊庭がこれ以上何か言おうとするよりも早く、会話は打ち切られる。スピーカーの向こうにいる少年は、『それじゃあ、住所はメールで送っておく。霧乃の事、頼んだ』とだけ言い残してから通話を切った。
すぐさまメールが送られてくる。住所と学校名、そして地図の画像が添付されていた。
伊庭は所在なさげに頭を掻くと、大きな溜息を吐いてから重い腰を上げた。